空が夕闇に変わる頃   作:琥珀777

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第三章 【思索】

 

 

「雪音!3番テーブルに生2つお願い」

 

「りょーかーい!」

 

「雪音ちゃーん、パスタ上がるよー」

 

「ラジャー!」

 

「あっ、雪音!お冷も一緒にお願いね!」

 

「あいさー!」

 

 

本日、土曜日、午後20時30分 ─。

イタリアン酒場【TATSU】は、いつもに増して大盛況である。

 

「お姉さんごめーん!酒こぼしちゃったから、おしぼりちょうだい」

 

「今お持ちしまーす!」手に取ったおしぼりを、春香に奪い取られた。

 

「あたし持ってくから、アンタ追加の酒お願い」

 

「あいよ!」一見、仕事を押し付けられたように見えるが、これは春香の優しさだ。戻ってきた春香はオエッと吐く真似をする。「また触られた?」

 

「二の腕ね。ホント最悪あのじじい、テーブル行く度触りがって」

 

「ゴメン。次わたし行くから」

 

「いーわよ。アンタすぐ固まるし。あたしは慣れてるから」

 

「いや、でも・・・」

 

「おーい、アヒージョ上がるよー」

 

「はーい!」春香とハモった。

 

 

慌ただしい時間が過ぎ、ラストーオーダーの提供を終えて一息ついたところで、わたしと春香は目を合わせた。またか、とうんざりする。

 

うんざりの対象は、先程お酒をこぼしておしぼりを要求したじじ・・・中年のおじさまだ。

毎週土曜日にお友達らしき人物とやってきては、ワインを飲むだけ飲んで閉店間際に寝るという、ここ最近現れた要注意人物である。そのお友達は寝ているおじさんを置いて帰ってしまうため、まったくタチが悪い。

 

それに加え、テーブルに何かを運ぶ度、お礼ついでに必ず肩か腕を触ってくる。春香は影でセクハラじじいと呼んでいるが、最近はわたしも移ってきた。

 

「さて、起こすか」

 

「わたしも行くよ」

 

「いーわよ、2人で行ったら調子に乗りそうだしあのじじい」

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫、慣れてるから」事ある度に春香は言うが、慣れてるというのは昔、水商売をしていたことがあるらしく、その時に"ボディタッチ"の免疫が出来ているらしい。「起きなかったら水ぶっかけるわ」

 

「やめとけ」

 

 

営業モードの春香が声をかけると、テーブルに突っ伏していたおじさんは顔を上げた。

 

「お客様、そろそろ閉店になります」

 

おじさんは寝ぼけた表情で周りを見回した。「あれぇ?まだ飲んでる人いるじゃんか」

 

「もうラストオーダー終わってるんですよ。お会計の方させて頂いてもよろしいでしょうか?」

 

そこでおじさんが、春香の腕を掴んだ。「あと一杯!一杯だけ!頼むよ〜」このやりとりも何度目か。春香は表情を変えず笑っているが、その笑顔が怖い。

 

「申し訳ありません、閉店になりますので。只今お会計の方お持ちしますね」

 

すでに用意していた伝票を春香が取りに来る。人間の顔って、ここまで変われるものなのか。「目据わってる。ご苦労様、はい伝票」

 

「セクハラクソじじい」新たに、クソが加わった。春香が伝票を持っていくと、おじさんはしぶしぶと財布を取り出した。「お客様、あと50円足りません」

 

「あ〜、50円ね、50円」ズボンからジャラジャラと小銭を取り出し、テーブルの上に広げると、数枚が転がり床に落ちた。

春香が一瞬、舌打ちの口になったけど、おじさんは気づいていない。

 

「拾いますので、そのままで」春香がしゃがんで小銭を拾っていると、おじさんは上から覗き込むように春香を見た。正確には、春香の胸元を、だ。

 

あのクソエロジジイ。春香じゃないが、水をぶっかけてやりたい。

会計を済ませたおじさんを、春香はやや強引に店のドアまで連れて行く。

 

「ありがとうございました〜、お気をつけて」

 

「はいは〜い、また来るね」おじさんは最後に春香の肩にシッカリと手を置き、千鳥足で帰って行った。

 

深々と下げた頭を戻した春香は、すぐ変身を解いた。「2度と来るなっつの」

 

「春香、もう少しシャツ締めたら。あの人、上からずっと見てたよ」

 

「知ってる。でもイヤ。このクソ暑い店内で、死ぬわ」

 

確かに、と納得。店内の空調は適温に設定されているけど、常に動き回っているわたし達にとって、適温という概念はない。

 

 

 

「ゴメンね、押し付けちゃって」

 

「ん?あのじさまの事?」

 

今度はじさまか。「うん、わたしも免疫つけないと」

 

「何言ってんの。あーゆーのに免疫つける必要なんてないのよ。自分は客だと思って何処までもつけあがるんだから。ったく、女に触りたいなら違う店行けっての」

 

この女の凄いところは、正論を述べるがそれを押し通さないところだ。裏ではボロクソ言ってるけど、どんなお客さんにも嫌な顔ひとつせず、何があっても冷静に対応出来る。

こういうのを、客商売の鑑って言うんだろうな。

 

「それに、アンタはすぐ顔と態度に出るから。あとでフォローするほうがめんどいのよ」まあ、こーゆー奴だから、本人には言ってやらないが。

 

「また来るよねぇ、絶対」

 

「来るわよ、アンタが居る限り」

 

「・・・わたしが?なんで?」

 

「なんでって、アンタのこと気に入ってるからに決まってるじゃない」

 

自分で自分があんぐりとしているのがわかる。「はあ?意味がわかんないんだけど」

 

「最初来た時から、アンタの事ずっと目で追っかけてたのよ。気づいてないかもしれないけど」

 

気づくわけがない。というか、忙しすぎてそんな余裕はない。「いやいやいや・・・やめてほしいんですけど」

 

「ほんと腹立つわ。なんでアンタなんだろ。あたしを差し置いて」

 

「そこかい」

 

「とにかく、気をつけたほうがいいわよ。あーゆうタイプは徐々にエスカレートしてくから。上手くかわせないなら距離を取ったほうがいいわ」

 

この説得力は、培ってきた物なのか ──。なんにせよ、悪寒が走った。

 

 

 

 

 

 

「よっしゃー!今週も乗り切ったわ!飲みに行っけるぅ〜」

 

本日、日曜日、午後22時45分。

最後のお客さんが帰った直後である。

 

「お疲れ様〜、今日は暇で助かったね」

 

「そーゆう事、店長が言っていいんですか」

 

「忙しいの嫌いだもん」店長はいつもの定位置に向かい、タバコに火をつけた。

 

「今日は雨だから、いつもより人通りも少ないですもんね」

 

「雨も嫌だなあ」

 

「毎回の事ですが、言わなきゃ気が済まないので言いますが、これからも言いますが、店内は禁煙です」

 

店長はわたしを無視して次のタバコを待機させている。まあ、確かに、わたし達ですら死にかけているこの暑さの中、常に厨房で調理し続けているんだから、大変だなとは思うけど。

 

「雪音、ボケッとしてないで早くホール片付けて。こっちもう終わるわよ」

 

「あ、うん・・・って、えっ!?もう洗い物終わったの!?」

 

「彼氏が待ってるか・ら」

 

たぶん、漫画だったら語尾にハートが付いている。「麦男(むぎお)くんね」呆れながら、ホールの掃除に取り掛かる。

 

「あんまり待たせちゃ悪いでしょ」

 

「そうかな、急がなくても逃げないと思うけど」

 

「俺も会いに行こうかなあ、麦子ちゃんに」店長が反応した。

 

「あ、行っちゃいます!?もちろん、店長の奢りですよね?」

 

「だから、奢らなかった事ないでしょ」

 

「いえ〜〜い」

 

「なんか、この会話一昨日も聞いたような気がするんですけど」

 

「明日休みだし、飲みに行かないなんて非常識だと思わない?ね?てんちょ〜」また、ハートが付いた。

 

「だとすると、世の中の半分の人は非常識になるんじゃ。てか、休みとか関係なしにしょっちゅう飲んでますよね、お2人」

 

「どうでもいいけど雪音、アンタも行くでしょ?今日は」"今日は"にとても圧を感じるのは、気のせいじゃないはず。

 

「行こうよ雪音ちゃん、明日定休日だよ。帰りは2人とも僕がちゃ〜んとタクシーで送ってあげるから」

 

「通り道ですけどね。どっちも」店長は毎日30分程かけて徒歩通勤をしているが、帰りは基本タクシーだ。というのも、毎日のように飲み歩いてるから。飲食店の知り合いが多く、これまで連れて行かれた店は軽く10を超えている。広く浅くがモットーらしいけど、最近はただのアル中にしか見えなくなってきた。

 

 

「ねえ〜ん、行こーよ行こーよ〜ん」

 

「・・・可愛こぶる相手間違ってない?」

 

「春香、さ〜み〜し〜い〜」

 

「やめてくれ、耳がおかしくなる」

 

「俺も、さ〜み〜し〜い〜」

 

2人を冷ややかに見た。アル中コンビめ。「てか、行かないって一言も言ってないですけど!」

 

「あそ、じゃあさっさと片付けて行きましょ。待っててね〜、あたしの愛しき麦男〜」

 

毎度思うが、コイツの本性を客に見せたい。

 

 

 

 

餃子が食べたいという春香の要望で、わたし達は深夜までやっている餃子の専門店にやってきた。ここも店長の知り合いがやっているお店で、日頃からよくお世話になっている。

カウンターだけの小ぢんまりとしたお店だが、餃子の味は最強レベルだ。

 

 

「お疲れ様ー!」乾杯するなり、春香はジョッキのビールを半分まで飲み干した。その時間、わずか数秒。

 

「ぷはー!生き返った!」

 

「愛しの麦男くん、もっと大事にしなくていいの」

 

「いいの、麦男はいっぱいいるから」

 

「相変わらず、いい飲みっぷりだね春香ちゃんは」カウンター越しに笑っているのは、店長の江口 凌(えぐち りょう)さん。いつ会っても温厚で、ザ・マイペースといった感じだ。店長とは古い付き合いらしいが、類は友を呼ぶというのはこういう事か?

 

「春香ちゃんはビールのために働いてるからね」うちの店長は、わたしと同じくらいのペースでちびちびとビールを飲んでいる。

 

「というか、生きている?」わたしの訂正に店長は深く頷いた。

 

「凌さん、おかわり」

 

「はやっ!」春香以外の3人でハモった。

 

「だって、店長の奢りだもの。遠慮しないで飲みましょ」

 

「・・・それって普通、俺が言うことじゃ?」

 

「そう思います」

 

凌さんは笑いながら2杯目の彼氏を春香に渡した。「達はいいなあ、可愛い子2人に囲まれて」

 

「それって、今の状況?だとしたらちょっと怖いかも。いろんな意味で・・・」わたし達に挟まれて座っている店長は心なしか肩が寄っている。

 

「今もだけど、仕事でもさ。やっぱり女の子が居ると華やかだよね。俺のとこはたまに甥っ子が手伝いにくるくらいだから、羨ましいよ」

 

 

「凌さんの甥っ子って何歳!?」食い付いたのは春香だ。

 

「大学生だよ。21になったかな?」

 

「学生かあ・・・お金は無いわね」

 

「そこかい」

 

「でもね、凄くかっこいいよ。叔父の贔屓目無しに見ても、美男子だと思うけどなあ」

 

「顔が良くてもねえ・・・いや、顔は大事よ、ある程度。でも1番は」

 

「金ね」春香の代弁をした。

 

「もち!それプラス、あたしと同じくらいのお酒が飲める人」

 

わたしと店長は目を合わせた。「なによ、2人とも何か言いたそうね」

 

「いや?ただ、30年後も独身の春香が見えただけ」

 

「そうだね。春香ちゃんと同じくらい飲める人って、男でもそういないと思う」

 

それを肯定するように春香はゴクゴクとビールを流し込む。「前の彼氏なんてビール1杯で酔う奴だったから、ホントつまんなかったわ。無理やり飲ませたらすぐ潰れるし」

 

「うわー・・・可哀想に」

 

「でしょ!?」

 

「いや、春香じゃなくて」

 

「まあ確かに、酒好きな人にとっては一緒に飲める人が理想だよね」凌さんは、大人の対応だ。

 

「アル中にはアル中が理想ってことですね」隣をチラリと見た。そういう意味では、この2人、お似合いなんじゃ。

 

店長越しに春香と目が合う。「なによ」

 

「いえ別に」

 

「アンタは?どーゆう人が理想?」

 

「・・・え゛」ここでわたしに来るか。

 

「タイプよタイプ。あるでしょ一応」

 

「確かに、雪音ちゃんのそういうの聞いたことないかも」と、店長。

 

「タイプ・・・かあ・・・」みんな、わたしに注目している。

 

「タイプは無いっていうのは無しよ」

 

「うっ」先手を打たれた。しかし、そう言われても──「考えたことないからわかんない」

 

「なんかあるでしょうよ!優しいとか、背が高いとか、なんでも!」

 

「・・・・・・んぅ?」

 

「ダメだこりゃ」春香は呆れたようにビールを呷った。

 

「雪音ちゃん、今までどんな人と付き合ったの?」

 

凌さんに聞かれ、即答した。「付き合ったことないです」

 

「ブハァッ」春香の口から放たれたビールが、隣の店長を襲う。わたしはギリギリセーフだ。「はあ!?嘘でしょ!?」

 

「本当ですけど。そんな驚くことかな?」答えは、3人の顔を見てわかった。

 

「珍しいね、雪音ちゃんの歳で誰とも付き合ったことないなんて」店長は被害を受けた顔をおしぼりで拭いている。

 

 

「信っじられない!アンタ、24年間どうやって生きてきたわけ!?」

 

「普通に生きてきました」

 

「凌さん、テレビ局に連絡して!取材くるわよ!」

 

「そこまで言うか」

 

「今まで、好きな人とかいなかったの?」

 

凌さんに聞かれ、わたしは考えた。好きな人って、異性としての話だよね。これまでの記憶を呼び起こす──「うん、いなかったですね」

 

春香は口を押さえ、大袈裟に驚いて見せた。「怖い!怖いわ!天然記念物がここにいる!」

 

「なんとでも言ってくれ。凌さん、わたし次レモンサワーください」

 

「その前に、はいどうぞ」ここで、焼き上がった餃子が登場した。しっかりめに焼いた皮と、見るからに具沢山な丸っとしたフォルムがたまらない。

 

「いっただきまーす」一口で行く。そして、その熱さを残りのビールで流し込む。「今日も最高に美味いです!」

 

凌さんは笑いながらレモンサワーをわたしの前に置いた。「雪音ちゃんは飲みっぷりより食いっぷりだね」

 

「ていうか、彼氏が欲しいって思ったことないわけ?」

 

「まだ続くか!」思わず突っ込んでしまった。せっかく餃子に助けられたと思ったのに。

 

「だって、思春期の頃なんてまわりに彼氏いたでしょ?いいなあとか思わなかったの?」

 

春香の言うことはもっともかもしれないが、正直わたしにはどうでもいい事だった。それより、他に気にかける事があったから。

公園での出来事以来、"奴ら"はちょいちょいわたしの前に現れた。どう見ても人間ではない、不気味な生き物。相変わらずわたしにしか見えず、わたしはそれを如何に避けて通るかに青春を費やした──といっても過言ではない。

 

「あんまり、思わなかったかな」正直に述べた。

 

「あー、アンタ、もしかしてあれか」

 

「なに」

 

「同性愛者」

 

「ブッホァッ」わたしの代わりに、店長が放出した。持ち前の反射神経で餃子を避難させる。

 

「今の流れで、そこに行き着く?」

 

「や、なんとなく。別に偏見はないのよ?あたしの兄貴もゲイだしね」

 

それが、1番驚きなのだが・・・。「同性愛者ではないけ・・・」言いかけて、詰まった。待てよ、果たして本当にそう言えるのか?異性を好きになった事がない、わたしが。

 

 

「えっ、雪音ちゃんまさか、本当に?」

 

店長の問いに、答えることが出来ない。自分に対して、こんなに疑問を抱いたのは初めてだ。

 

「ッ・・・アハハハ」春香が突然、声を上げた。「アンタ、なに真剣に悩んでんの?ウケるんだけど!アハハハハ」

 

「ええ・・・?」自分の顔が引きつってるのがわかる。

 

「自分が同性愛者かもって考えたんでしょ。違うわよ、間違いなく」

 

「だ、だよね!」

 

「身近にいるからわかるわ。アンタはノーマルよ。てか、それも自分でわかんないとか、マジで天然記念物ね・・・引くわ」春香は本気で引いていたけど、わたしは内心ホッとした。何を考えてんだ、わたしは。

「男の経験がないからそーなんのよ」トドメを刺すのも忘れない女だ。

 

「じゃあ、最初の男として俺なんかどう?絶賛フリーだよ」

 

「結構です」

 

「最初が肝心なのに、さすがにそれは雪音が可哀想だわ」

 

「・・・凌ちゃん、俺の心が折れる前にビールおかわり」

 

凌さんは肩を揺らして笑っている。「まあ今時、経験ない子も珍しくないよ。それだけみんな自立してるってことだし。この先、良い人と出会えればいいね」

 

「凌さんが仏様に見える」

 

「あ、じゃあアンタも今度合コンに来る?」

 

「結構です」

 

堅物女、という言葉は聞こえないふりをした。俺も行きたい、という言葉も。

 

 

 

 

 

お開きになったのは、1時を過ぎた頃だった。

火がついた春香はあれから濃い目のハイボールを数杯やっつけ(数えてたけど途中で止めた)、2軒目に行くと騒ぎ出したので店長と2人で無理矢理タクシーに乗せた。

 

車内でも飲み足りないを連呼していたけど、おそらく明日は覚えていない。あたし昨日どうやって帰ったっけ?と連絡がくるはず。まあ、お決まりのパターンだ。

 

帰宅したその足で、浴室へ向かった。水に近い温度のシャワーを浴びて、酔いを醒ます。

夜通し観ようと思っていた海外ドラマは、お預けだな。

 

帰宅からベッドに入るまでの時間、およそ30分。目を閉じれば、一瞬で寝てしまいそうだ。

重い瞼と闘いながら携帯をチェックする。

 

「あ・・・」数件の新着メールの中に、オネエという文字を発見した。

 

【こんばんは。起きてるかしら?】受信時間は22時31分─。飲みに行ったから、携帯をチェックしていなかった。今の時刻は2時過ぎ。さすがにこの時間に返すのは失礼だよね。まあ、明日起きたら返せばいいか。

 

もうこれ以上は、頭が回らない──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わかってる。さっきからずっと、電話が鳴っているのは。わかってるんだけど、出たくない。

もう少し、寝させてくれ。

 

── 音が鳴り止む。ごめんなさい。おやすみ。

 

── アヒルが鳴き出す。不愉快だ。なんでこの着信音にしたんだ、わたし。

もういいって、鳴き止んでくれ。

 

今度は一向に鳴り止まない。「ああもうっ!」寝返りを打って枕元の携帯を探した。

あれ、無い。音を頼りに床に落ちている携帯に手を伸ばす。

 

画面の文字は、春香。やっぱりか。

 

「もしもし」

 

「・・・まだ寝てたわけ?もう昼だけど」

 

「えっ」時計を確認すると、11時58分─。「寝過ぎた・・・春香が何回も電話よこさなきゃ、あと2時間は寝てたけど」

 

「は?今初めてしたんだけど」

 

「えっ、そーなの?」じゃあ、最初の着信は誰だろう。

 

「あたし昨日何時に帰った?まったく記憶がないんだけど」

 

「・・・知ってる。タクシーに乗ったのが1時過ぎだったかな。2軒目行くって騒ぎ出すから店長と止めるの大変だった」大変を強調しておく。

 

「全然覚えてないわ・・・あと、おでこが若干腫れてるんだけど、あたし転んだりした?」

 

「えっ!・・・いや、あー・・・だいぶ酔ってたし、トイレに行く時にでもぶつけたんじゃない?」ごめん、春香。本当はタクシーに押し込んだ時、思いきりぶつけたんだけど。言わぬが花だ。

 

「他には?何かやらかしてない?」

 

春香がこんなふうに聞いてくるのは、珍しい。それだけ飲んだという自覚があるんだろう。

 

「や、とくには。タクシーの中で店長のことビシバシ叩いて、窓から天然記念物って騒いでたくらい?」

 

「あちゃー・・・店長にメールしとかないと」

 

春香が外に向かって何度も天然記念物を連呼するから、タクシーのおじさんがキョロキョロしていたのを思い出して笑みが出た。

 

「じゃあわたしは、2度寝に入るから」

 

「また寝るわけ!?夜寝れなくなるわよ」

 

「それが狙い。今日は海外ドラマナイトだから」

 

「あそ、アタシも昼酒するわ、休みだし」

 

「まだ飲むか!二日酔いじゃないの?」

 

「なんで?寝たらリセットでしょ普通」

 

絶対、普通ではない。恐るべし、大原 春香。

 

 

 

電話を終えて2度寝の姿勢に入り、あっ、と思い出した。着信履歴を確認する。

1番上に春香の名前があり、その下に不在を示す赤い文字で、「オネエ・・・・・・えっ!」

思わず飛び起きた。

最初の電話は、あの人だったのか。そういえば、昨日メールが来てたんだ。起きたら返そうと思って、すっかり忘れていた。

 

しばらく、考えた。電話が来たから、電話で返すべきか──。でも、なぜか気が重い。

あの夜の事は、出来るだけ考えないようにしていた。"この類"の事は、脳が勝手にそうなってしまうんだ。

 

とりあえず、メールの画面を開く。おはようございま──と打ちかけて、削除する。

こんにちは。すみません、昨日は飲んでいてメールに気づきませんでした。今日起きたら返そうと思ってたんですが、今まで寝てい──メールの画面を終了し、勢いに任せて電話をかけた。

 

コールが1回、2回 ──「もしもし雪音ちゃん?」

 

「あ、もしもし」声が小さくなる。

 

「良かった、無事だったのね!」

 

「・・・無事?ですか?」

 

「メールも返ってこないし、寝てるのかなと思って待ってたんだけど一向に連絡来ないから、もしかしたら食べられちゃったのかもって心配してたのよ」

 

「食べられる・・・えっ、わたしが!?」

 

「そうよ、あんな事があったばかりだし、嫌な方にばっか考えちゃったわ」

 

あんな事を思い出して、少し身震いする。

 

「だから言っただろう、考えすぎだって」電話の先から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 

「瀬野さんですか?」

 

「え?ああ、そうよ。うるさいわね!聞こえてるじゃない!」微かだが、いらっしゃいませという声が聞こえた。お店にいるんだろうか。「でも良かった、安心したわ。ところで雪音ちゃん、今って何してる?お昼休みかしら?」

 

「あっ、いえ、今日は休みで家にいました」今まで寝てたとは言うまい。

 

「あら、そうなの。んー、じゃあちょっと出てこれる?」

 

「・・・えっ!今からですか?」

 

「うん、予定があるなら別日でもいいわよ」

 

予定があるなら、2度寝をしようとはしない。「何も、ないです」

 

「あら良かった。じゃあ、どうしようかしらねえ」

 

「あの、ちょっと待ってもらってもいいですか?寝起・・・何も準備してなくて」

 

「もちろんよ、急でごめんなさいね。場所はメ ールするから、そこに来てくれるかしら」

 

「わかりました」

 

 

 

電話を終えた後、しばらくボーッとしていた。

さっきまで2度寝する気満々だったのに、いつの間にかこんな事になってしまった。

 

こうしちゃいられない。まずはベットからの脱出だ。洗面所に行き、顔を洗い、歯を磨く。化粧をするか迷ったけど、一応人と会うということでいつも通りの5分で済ます。髪はショートボブだから、ミストで濡らして少し乾かせばオーケー(わたしは)。

 

服は考えるほど持っていないので、クローゼット内の目についた白いTシャツに着替え、下はデニム。鏡を見て、ふと思った。わたし、中学生から服装に変化ないかも。

 

支度が終わり、メールを確認する。指定された場所は、わたしの職場の近所にあるカフェ。幸いにも地下鉄の近くだ。

今から出ますとだけ返信して家を出た。

 

家から最寄りの地下鉄までは徒歩3分。うまく行けば、10分で行ける。早足で駅を目指し、階段を駆け下りる。

そして──膝から崩れ落ちそうになった。

 

「マジか・・・」改札前に駅員さんが立ち、運転見合わせの説明をしている。どうやら、車両事故らしい。こんな時に──。

 

こうなると、しばらくは動かない。となると、選択肢は1つ。わたしは階段を駆け上り、走った。体力には自信があるが、よりよってこの超晴天。こんなに太陽を恨んだことはない。

 

当たり前だが、店に着く頃には全身汗だくになっていた。入る前にハンカチで顔を拭く。化粧もへったくれもない。せめてパウダーだけでも持ってくれば良かった。

 

呼吸を整え、無駄に緊張しながらドアを開けた。

最初に気づいたのは、わたしだった。というか、すぐ気づいた。4人掛けの椅子に座っている2人は、なぜか異様に目立つ。──デカいからか?

隣の席に1人で座っている若い女性も、携帯をいじりながらチラチラと見ている。

 

店員のいらっしゃいませと共に、2人がこちらに気づいた。ペコリと頭を下げる。オネエに手招きされ、席へと向かう。

 

「あらちょっと!汗だくじゃない!外そんなに暑かった?」

 

「いえ、地下鉄が止まってて、走って来たので」まだ身体が火照っている。

 

「フルマラソンでもしてきたみたいだな」瀬野さんは若干引いている。

 

「走ってくることないのに。とりあえず座って、何か飲み物頼みましょ」オネエが自分の隣の椅子を引いてくれたので、そこに座る。

 

 

「お休みの日に呼び出してごめんなさいね」

 

「いえ、わたしこそすみません。昨日遅くまで飲んでて、メールに気づかなくて」

 

「いいのよ、あたしの取り越し苦労だったみたいね」

 

「それで、さっそく本題に入るが・・・」

 

「ちょっと!さっそくすぎるわよ!こんなに汗だくになって走って来てくれたんだから、もうちょっと休ませてあげましょ」瀬野さんは無表情で黙り込んだ。

 

「あの、わたしは大丈夫です」

 

「ごめんなさいね、せっかち太郎で。飲み物は何がいい?」

 

「あ、アイスコーヒーで」オネエが店員さんを呼んで注文している間も、瀬野さんは静かにコーヒーをすすっていた。

 

「それにしても」と言いかけて、オネエは腕時計を見た。「ずいぶん早いわね。あそこからここまで走って来たんでしょ?」前回送ってもらったから、家は知られている。

 

「はい、体力には自信があるんで」

 

「そんなレベルの話じゃないと思うけど。陸上部?」

 

「帰宅部です。足は速かったけど、走るのは別に好きじゃないんで」

 

少し間があった。「ふふ、スカウトされたんじゃない?」

 

「あー・・・ありましたね。1個上の先輩がしつこくて、一時期不登校になりかけました」

 

オネエはハハッと笑った。横顔を見て思った。なんというか、綺麗に笑う人だ。

 

「あなた、やっぱり面白いわ」──やっぱり?「面白いけど・・・アンタはなんでさっきから何も喋んないのよ!」オネエがテーブルをペシッと叩いた。

 

「お前が休ませろって言ったんだろ。その割によく喋ってたけどな」

 

「コミュニケーションでしょ!会話よ会話!アンタは極端すぎるのよ!」

 

「じゃあ、なんの話をすればいい」

 

「会議じゃないんだから、議題を決めて話せって?まったく、今時AIのほうがアンタより愛想あるわよ」

 

「ぷっ」抑えきれず、噴き出してしまった。「ごめんなさい、でも面白すぎて・・・アハハハ」

 

「笑われてるぞ、お前」

 

「アンタもでしょ!」

 

この2人のやり取りを見てると、無性に笑えてくる。やっぱり好きだ、この空気感。

 

 

「あなた、笑顔が素敵だから、もっと笑ったほうがいいわよ」

 

「・・・え」そんなこと、生まれて初めて言われた。そう言われると、笑えなくなるあまのじゃくだ。顔が引きつる。

 

今度はオネエが笑い出した。「あなた、ホント可愛いわね」

 

「セクハラか?」

 

「なんでよ!」

 

──さっきまでの緊張が、徐々に和らいでいくのを感じた。

 

到着したアイスコーヒーに手をつけるのを待って、瀬野さんが切り出した。

 

「中条、この前以来、見てないか?」

 

ああ、中条ってわたしだった。なんの事かは、わかる。「はい、見てないです」

 

「そうか」オネエと目を合わせる。「最近は俺らも見かけないな。夏場は活発になりがちなんだが」

 

「そうね、この前の一つ目も久しぶりに見たもの」

 

「1番最初に見たのはいつだ?」

 

「えっと、小学生の時です。小学1年生」

 

「場所は?」

 

「その時住んでた近所の公園です」

 

「見た目は」

 

あの時の記憶は、今でも鮮明に覚えている。それほど、わたしの中で大きな出来事だった。「子供で・・・背が小さくて、耳が生えてて、赤い着物を着てました」

 

オネエと瀬野さんがまた目を合わせる。「化け猫の一種ね」

 

「そうだな」

 

「雪音ちゃん、その時誰か一緒にいた?」

 

「・・・母親です。その時はまだ子供だったから、何がなんだかわからなくて、普通にお母さんに説明してましたね」今思えば、バカだったなと、笑えてくる。

 

「そりゃそうよね。明らかに普通じゃない子が見えたら、説明したくもなるわよ」

 

誰かに共感されることなんて初めてで、その優しい言い方に胸が締め付けられた。

 

「そいつを見たのはそれが最後か?」

 

「あ、いえ、そのあと2回、同じ公園で見ました。どっちも逃げられたけど・・・」

 

「逃げられた?」瀬野さんは怪訝な顔をしている。

 

「その子、一緒に遊んでた友達を怪我させたんです。だから見つけた時、思わず追いかけて捕まえて。問い詰めたら、その子の爪が伸びて・・・」

 

「怪我はしなかったの?」

 

「襲いかかってきたけど、ギリギリのところで避けました」思い出すと、今でも悔やまれる。

 

「勇敢というか・・・怖いもの知らずね」

 

「その時は無我夢中で、身体が勝手に動いてました」

 

 

「それ以降は、見てないんだな」

 

「・・・見てないというか、見ないようにしてました。その公園には近づかないようにしてたので」

 

「そうか。まあ、子供の化け猫で助かったな」

 

「え、大人もいるんですか?」

 

瀬野さんが頷く。「子供はそこまで攻撃的ではないが、大人の化け猫は凶暴だ。ターゲットを定めて、攻撃してくる」

 

確かに、あの子もわたしが腕を掴まなければ、そのまま逃げていたはずだ。

 

「あの、聞いてもいいですか」2人がわたしを見る。「わたしが今まで見てきたモノは・・・何なんでしょう」

 

またまた、2人が顔を合わせる。瀬野さんはコーヒーを口に運び、オネエに任せたようだ。

 

「妖怪?」オネエがサラッと言う。なぜに疑問系。「って言うと、ちょっとふざけた感じになっちゃうけど、妖怪は妖怪ね」

 

「妖・・・怪・・・」

 

「何だと思ってたの?」

 

「それがわからず、早(はや)24年・・・」

 

オネエはテーブルに肘を付き、手に顎を乗せた。「まあ、あたしも全部受け売りなんだけどねえ。何かって言われたら妖怪よね」

 

「はあ・・・」妖怪と聞いて頭に浮かぶのは──「座敷童子」

 

「ああ、あたしの家に居るわよ。今度見に来る?」

 

あんぐりとしているのが自分でわかる。そんな、今度飲みに行く?みたいなノリで言うか。

 

「居るんですか?家に、座敷童子が・・・」

 

「ええ、悪さはしないから大丈夫よ」そんな笑顔で言われても。

 

「妖怪の中にも、人間を襲わない奴もいるからな。見極めは難しいが。俺たちが始末するのは、人間に害を与える奴だけだ」

 

「この前のようにね」

 

その始末する所を実際には見ていないが、気づいたら跡形もなく消えていた。オネエが言ったのは、「ナイフで突き刺す・・・」

 

「そうよ。ここじゃ出せないけど、今も持ってるわ。瀬野もね」

 

「ナイフで刺すとどうなるんですか?」

 

「消滅するわ。姿は残らないの」──納得。

 

「刺すと言っても、何処でもいいわけじゃない。確実に急所を突かなければならないんだ。大体は心臓にあるんだが、この前の一つ目は」

 

「目・・・」わたしが言い、瀬野さんが頷く。

 

「そうだ。妖怪によって、急所が異なる」

 

「なるほど・・・」

 

 

「それでね雪音ちゃん、あなたにお願いがあるの」

 

「はい」

 

「この先、妖怪を見かけたら、あたし達に連絡してほしいの。それがどんな奴でもよ」わたしが返事をする前に、オネエが続けた。「それとね、あなたにも奴らを始末する術を覚えてほしい」

 

「それは、どういう・・・」

 

オネエは瀬野さんと目を合わせると、ズボンのポケットから小さな紙袋を取り出し、わたしの前に置いた。

 

「中だけ覗いて」言われた通りにする。中に入っていたのは、銀細工で出来た、小さな折りたたみ式のナイフだった。

 

「これって・・・」

 

「俺たちが持っているのと同じ物だ。折りたたみで小ぶりだが、女には扱いやすいだろう」

 

「もちろん、これの出番がないに越した事はないのよ。でも、またこの前のような事がないとは言い切れないでしょう?だから、護身のためにも持っておいてほしいの」

 

しばらく袋の中身に見惚れていた。今すぐ手に取って確認したい衝動に駆られる。「凄く、細いですね」

 

「そうね、あなたの手には馴染むと思うわ」

 

「綺麗・・・」

 

「ほら言ったでしょ、瀬野」オネエは笑っている。逆に、瀬野さんは眉をひそめている。「いやね、ナイフなんか渡したらビビって返されるぞって瀬野は言うんだけど、あたしは喜ぶだろうと思ってたのよ」

 

わたし、喜んでるんだろうか。確かに、このドキドキは嫌な感じじゃない。

 

「まあとにかく、常に持ち歩くようにしとけ」

 

このサイズなら問題なさそうだ。「わかりました。ただ、コレをわたしが・・・」自分がこのナイフを手に持ち、何かを突き刺すなんて想像も出来ない。

 

「さっきも言ったけど、それを使う事がないのが1番なのよ。基本的に、奴らの始末はあたし達がするから」オネエはふうと息を吐いた。「ただ、そうもいかない場合もあるでしょう。その時はあなた自身を守るためにも、やってもらうしかないわ」

 

話が現実味を帯びていき、心の中で不安が広がる。喜んでる場合じゃない。今までのように、避けては通れないんだ。

 

ふと、頭に乗る何か。オネエの手だった。

 

「大丈夫よ。あたし達が守るから」

 

「セクハラか?」

 

「やめてちょうだい!」

 

 

「前に言ってたな、奴らが人間を襲うところを見た事がないと」

 

「・・・はい。子供の時、友達に怪我をさせた以外はないです」

 

「気持ちはわかる。自分に疑問を持っただろう。誰も理解してくれない。だったら、見ないフリをするのが1番だと」

 

瀬野さんの言葉は、わたしそのものだった。わたしはそうやって生きてきた。そうするのが1番だと思った。

 

「だが、実際に人に危害を加えている奴が存在する。それは、奴らが見える俺達にしか防げない。そう思わないか?」

 

それはまるで、子供を諭すかのような言い方だった。わたしは怒られた子供のように、顔を上げられなかった。

 

「・・・なんで、わたし達にしか見えないんですしょう」

 

「そうね、それは、あたしにも答える事が出来ないわ。ある人が言うには、"キミ達は特別な力を持って生まれてきた"って」

 

「特別な、力・・・」一体、何が特別なんだろうか。こんな特別なら、わたしは要らない、そう思った。

 

「雪音ちゃん、お仕事はいつも何時に終わるの?」

 

「えっ?と、11時前後です」

 

「・・・夜の?」

 

「はい、飲食店で働いてるので」

 

「あら、そうなのね。お休みは?」

 

「今日・・・月曜日だけです」

 

「なるほど。瀬野、財前(ざいぜん)さんはいつ戻るっけ?」

 

「明日の夜って言ってなかったか」

 

「ちょうどいいわね・・・雪音ちゃん、明日の仕事終わり、予定ある?」

 

「ないです」即答すぎるのもどうかと思ったが、事実だ。

 

「ちょっと付き合ってくれるかしら?会わせたい人がいるんだけど」

 

「・・・え、いや、でも、終わるのだいぶ遅いんですけど」

 

「それは問題ないの、あの人、時間は関係ないから。もちろん、帰りはちゃんと送ってくわよ」

 

帰りの事より、時間は関係ないのほうが気になったが、あえて聞かない事にした。「わかりました。何処に行けばいいですか?」

 

「迎えに行くから、お店の住所メールしといて」

 

「・・・や、場所言って貰えれば、わたし行きますよ」

 

「めっ!そんな遅い時間に女の子が1人で歩いちゃいけません!」

 

── めっ!って。わたしは赤ん坊か。「いや、さすがに申し訳ないし、遠いならタクシーで行くので大丈夫です」

 

オネエは呆れ顔でため息を吐いた。「しっかり者も困りもんね。お兄さんの言う事は黙って聞きなさい」

 

「お姉さんだろ」

 

「お黙りっ!」

 

「中条、どうせ行くんだから黙って聞いとけ。明日の11過ぎだな。俺もそのくらいに向かう」

 

 

「じゃあ、財前さんとこで落ち合いましょう」

 

「了解」

 

「あの、その財前さんって」

 

オネエはニコッと笑った。「会ってからのお楽しみ」

 

「はあ・・・」

 

 

それ以上は何も聞けず、その場はお開きとなった。自分のコーヒー代を払おうとすると、オネエにまた、めっ!と怒られた。お兄さんには甘えなさいと。瀬野さんのツッコミが入ると思ったけど、そこは何も言わず、自分も便乗していた。

 

店を出て別れたあと、少し歩いてから振り返ると、オネエもこちらを振り向いた。

笑顔で手を振られ、わたしも振り返す。遠目で見ても、やっぱり2人は目立つ。本人達は気づいていないようだが、すれ違いざまの人がみんな振り返って見ている。──やっぱり、デカいからか?

 

 

家に帰って、すぐに袋からナイフを取り出した。意味もなく、宙にかざす。銀細工で出来た持ち手の部分には植物のような模様が彫られている。長さは10センチ程で、確かに手に馴染む。扱いには十分に気をつけなさいと言うオネエの言葉を思い出しながら、慎重に刃を開く。

カチッと音がして、しっかりと固定された。

持ち手と同じように、刃も細い。幅は1センチくらいだろうか。瀬野さんが見た目より遥かに丈夫だと言っていたけど、なんとなくそれがわかった。

 

目を閉じ、これで何かを突き刺す自分の姿をイメージする。

けどやっぱり、どうしても、その場面を思い浮かべることが出来ない。

 

「ふう・・・」説明を受けた通りに、ロックを解除するボタンを押して、刃を収める。

 

この先、コレを使う時が本当に来るんだろうか──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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