満月の光が静かにゆらめく波に映る。穏やかな地中海。海辺に面した街は1日の終わりをまどろむかのように、淡い彩りで満ちている。港の一角、明かりの灯る宿舎。まな板を叩く包丁の音が響く。
重巡洋艦の艦娘、ザラは宿舎のキッチンで下拵えの真っ最中であった。刻んだニンニク、程よくカットされたトマト、トマトペーストの瓶、キッチン台に材料が次々と並んでいく。こうして材料が揃う光景はちょっとした壮観だと、ザラは思う。腕を振るおうと俄然意欲が湧いてくるのだ。
オリーブオイルと刻んだニンニクを少し厚めのフライパンに投入。火を入れる。熱しられたフライパンから、次第にニンニクの香ばしい匂いが立ってくる。すると陽気な声がキッチン内に響く。
「うーん。いい匂い」
ザラは横目に様子を見る。フワフワとした癖っ毛の髪を揺らせ、おっとりとした雰囲気が漂う。同じ重巡洋艦の艦娘、ポーラであった。ポーラはキッチンに立つザラの姿を窺う素振りながらも、その態度は何やら落ち着きがない。
「Bravo Bravo. 一流シェフも顔負けの手つき」
ポーラの手がキッチン台に置かれた赤ワインのボトルへそろりと向かう。その動きを見逃すはずがない。
「こらっ! 」
ザラはポーラの掌をはたいた。
「いたっ! 」
「それは料理用。ちょっと我慢して」
「うー……」
ポーラが手をさすりながら後退りする。
ザラはカットしたトマトとトマトペーストをフライパンに加えた。ジュッという音と共に、トマトの赤い色合いが広がる。焦げ付いては台無しだ。木べらで混ぜつつ、確認する。
「わーお、こっちも美味しそう」
ポーラの声に、ザラは再び彼女に気を取られる。ポーラはキッチン台に置かれた大皿を見つめていた。大皿にはひと口サイズのミートボールと、程よい大きさに切ったサルシッチャがあった。一度火を通し、こんがりと焼き目が付いている。先程作り置きしておいたものだ。肉の芳ばしい香りが立っている。
「つまみ食いしないでね」
「もう、ザラ姉さまったら。ポーラ、そんなに食い意地張ってるように見えますか? 」
「ごめんごめん、つい」
ザラは手を伸ばして大皿を掴む。そしてミートボールとサルシッチャを、トマトソースの中に放り込んだ。ソースと軽く馴染ませたところで、ザラはキッチン台に置かれた赤ワインのボトルへと手にかける。
「ここで赤ワインよ」
「待ってました」
ポーラが目を輝かせ迫る。その手には、ダイニングに置いてあったはずのワイングラス。ザラは呆れて、ため息を漏らす。いつの間に持ってきたのであろう。
「グラスはしまって。呑むんじゃなくてソースに加えるの。はい、赤ワイン少々」
照りを放つトマトソースに赤ワインを注いだ。そしてキッチン台に置かれた容器から、指先で砂糖をひとつまみ取る。
「仕上げに砂糖をひとつまみ」
「へー、トマトのソースに甘いお砂糖入れちゃうの」
ポーラが意外そうな表情を浮かべた。
「これがソースの味を引き立てるのよ」
トマトソースに振りかけられた砂糖は、あっという間に溶けて消えた。
「隠し味だから甘すぎて台無しに、なんてことにはならないわ。やり過ぎは禁物、ほどほどが一番。何事にもおいてね」
ポーラへの戒めを含んでいたのだが、彼女には届いていない様子であった。グゥーと、お腹の鳴る音がキッチンに響く。ポーラが照れ臭そうに頬をかきながら訊ねる。
「えへへ、あとどれくらい? 」
「少し煮込むだけだから。ダイニングに行ってお皿用意して」
「はーい」
ポーラの姿がダイニングの方へと消えた。
ザラは気を取り直して最後の仕上げに取り掛かった。トマトソースを煮込む合間に、パスタを準備するのだ。キッチン台へ大鍋を持ち込んだ。大鍋にたっぷりの水を汲み、塩を小匙で入れる。火にかけると、ゆっくりと攪拌させる。沸騰するまで時間がかかりそうだ。ひと息ついたその瞬間、ある違和感に気が付いた。ザラはキッチン台を見渡す。先程まであった、料理用の赤ワインが見当たらない。ザラは思わず声を上げる。
「もーっ、駄目って言ったのに」
「呑み意地は人一倍ね」
ザラはダイニングへ赴くなり、ポーラに皮肉を浴びせた。
ポーラはダイニングでグラスを片手に寛いでいた。ポーラの目の前のテーブルには、料理用の赤ワインが置かれている。残りはボトルの底に僅かしか無い。
「Aperitivo. お料理を引き立てる秘訣です」
人差し指を立て、得意げに話すポーラはやや頬が赤い。
「食前酒で満足しきったら元も子もないでしょ。お皿出して、パスタが冷めちゃう」
ザラの手にしているフライパンには、先程煮込んでいたトマトソースと茹で上がったスパゲッティを和えたパスタ。白い湯気が立ち、トマトソースの濃厚な香りが漂う。ザラの頼みを受け、ポーラが2人分のお皿をザラの方へ寄せた。ザラはパスタを皿によそいながら、テーブルの上を窺う。ダイニングテーブルには料理用の赤ワインと、それとは別に食事のお供にする赤ワインがあった。ポーラはこのワインには手を付けていないらしい。コルクは抜かれた形跡がなく、無事であった。全く行儀が良いのか悪いのか。
ザラがパスタを盛り付けていると、ポーラが赤ワインのボトルに手を掛けた。軽やかな手捌きでコルクを開け、ザラのグラスにワインを注ぐ。
「シェフ、お疲れさまでございました」
「Grazie」
それぞれ食事の支度を終え、ダイニングテーブルに落ち着いた。ポーラがグラスを少し上げる。
「ではでは。日々の健康に」
続けてザラもグラスを上げる。
「では、記念日のお祝いに」
その途端、ポーラがキョトンとした表情でザラを見返した。
「え、きねんび? 」
「まさか忘れてたの」
ザラは溜息をついた。
「ポーラ、今日はあなたの記念日でしょ」
大昔のことである。戦乱の時代、この辺りの海は砲雷が轟き、血と重油が海面を染める、凄惨な戦場と化していた。敵は深海棲艦、ではなく人間同士。武装した艦船は相手方の陣営の艦船を沈めようと、海を行き交い、戦闘を繰り広げた。大方の艦船は戦闘の最中で海の藻屑と化した。また沈没を免れた艦船も月日が流れ朽ちて、処分という形で海へ沈められる運命を辿った。今は無き艦船の魂が人間の形に宿した、それが私たち艦娘だ。艦娘の記念日というのは、専らかつての、艦船の進水日を指す。
ポーラはパスタを絡め取ろうと、フォークをクルクルと踊らせている。
「あれ、そうでしたっけ? ポーラ、すっかり忘れてました」
ポーラは忘れていた事を特段気にする様子もなく、パスタを口に運んで満足げに顔をほころばせる。
「Ottimo! 」
ザラもパスタを食べてみる。濃厚なトマトソースに、重厚な肉の味が滲む。いつもと変わらず美味しい。
食事が進んだところで、ポーラが先ほどの話題を持ち出した。
「ザラ姉さまは自分の記念日、覚えているんですか? 」
「まあね」
「さすが記憶力抜群ですね」
「記憶、ね……」
今の私たちにも、かつての艦船の記憶がある。でもそれは朧げで、記憶と呼べるほど明確では無い。例えるなら、以前にも同じ光景を見たような、という感覚に近い。
ふと、ザラは窓の外に視線を向けた。闇夜の黒々とした地中海が見える。穏やかな潮騒が響く、悠然たる海。彼方には船の灯りが見える。何処へ行く船だろう。行き先に見当がつかない。しかしながら夜の海を眺めていると、何だか焦燥感に似た、言い表し難い気分が襲ってくる。心の中で暗い気持ちがヌッと頭をもたげてくる、そんな心地がするのだ。
「ねえ。私たちって、どうして生まれ変わったんだと思う? 」
そうポツリと問うた瞬間、ザラは我に返った。窓から視線を逸らす。唐突になんて陰気な問いをしてしまったのであろう。せっかくの雰囲気を台無しにしたのではと思い至り、ザラは身をすくめる。
「ごめん、何でもないや」
ポーラはザラの弁解に構わず、思案げに首をかしげる。
「うーん、深く考えたことなかったなぁ」
やがてポーラは弄ぶかのようにグラスを回して、ワインを揺らし始めた。
「ザラ姉さまの問いに、ポーラ、上手く答えることが出来ないかもしれません。でもただ言えることは、今のポーラはポーラです。それに、この身体に落ち着いたおかげで、色んなことが味わえるようになったと思っています」
そしてグラスを口に近づけると、ワインをひと口飲んだ。
「美味しい料理に、素敵なワイン、そして……」
グラスをテーブルに置いたポーラは、屈託のない笑顔を浮かべて、ザラを見つめた。
「ザラ姉さまと一緒に過ごせる。こんなに嬉しいことありません」
彼女の眼差しに、ザラはくすぐったい心地を抱いた。面と向かって嬉しいと言われ、照れ臭くなってしまったらしい。思わずワインに口をつける。芳醇な赤ワインの香りが口いっぱいに広がる。やがて芯から身体が暖かくなる心地がした。過去に囚われ未来を憂うあまり、今を見失いかけていたのかもしれない。ザラはポーラを見つめ返した。
「ポーラ、ありがとう。私もポーラと一緒にいるこの瞬間が、とても好き」
するとポーラが何か思い出した様子で、アッと声を上げた。
「そうでした。記念日ということは……」
「ということは? 」
ポーラは席を立つと、ダイニングから出て行った。やがて彼女は鼻歌混じりでダイニングへと戻ってきた。片手に2人分の新しいグラスを持っている。
「お祝い事にはこれが欠かせません」
そしてもう片手にはスプマンテのボトル。
「いつの間に」
「こういう時のために買い置きしておいたのです。さあ、ザラ姉さま空けちゃいましょう。お祝い事万歳! 」
「記念日もポーラにとっては呑む方便に過ぎないと」
「やだなあ、ザラ姉さまと一緒だから空けるんですよ」
「もう、調子いいんだから」
夜の帳が下りる港。港の宿舎からは和気藹々と語らう声が満ち溢れる。