消毒液の匂いが、ぼんやりとしていた意識を現実へと引き戻す。
ゆっくりと目を開けると、そこは見慣れない、真っ白な天井だった。身体を起こそうとしたが、鉛のように重くてうまくいかない。
「おや、目が覚めたかい。まったく、とんでもない無茶をする子だねぇ」
声のした方へ視線を向けると、小柄な老婆──雄英高校が誇る治癒のプロヒーロー、『リカバリーガール』が、呆れたように腰に手を当てていた。
「試験は……僕は……」
「ああ、時間内にきっかり終わってるよ。あんたは個性のキャパオーバーさ。私の個性でどうにかなるもんじゃないからね、ただ寝かせておいただけだよ。それにしても、あんな凄まじいのは初めて見たね。一体どんな個性なんだい?」
その言葉に、僕は無理な召喚の代償を実感する。脳を焼くような激痛と、全身から力が抜けていく感覚。そして、最後に見た最強の戦艦の姿を思い出す。
「あの……僕と一緒にいたはずの、黒髪の……」
「ああ、あの娘かい。あんたが担ぎ込まれた後、保健室の前で腕組みして、仁王みたいにずっと立ってたよ。さっき、あんたの意識が戻るのが分かったのか、どこかへ行っちまったけどね。……本当に、不思議な子だ」
リカバリーガールから解放され、まだ少しふらつく足で保健室を出ると、廊下の壁に寄りかかって、一人の少女が僕を待っていた。
腰まで届く艶やかな黒髪に、真紅の瞳。僕が最後に呼び出した、戦艦・長門だった。彼女は僕の顔をじろりと見ると、「……帰るぞ、提督」とだけ言って、さっさと歩き始めた。僕は慌ててその後を追った。
◇ ◇ ◇
「……提督」
帰り道、沈黙を破ったのは長門だった。
「……何かな」
「今回の建造、無茶が過ぎる。本来の手順を踏まなかったこと、私は見過ごせんぞ」
その口調は厳しかったが、不思議と責められている感じはしなかった。
「……うん。ごめん」
「ふん。……だが、提督の判断力は信じている。あの状況で私を呼んだ、その決断は間違っていなかった。ただ、これからは、提督自身の身も案じてもらわねば困る」
その言葉は、僕の胸にすとんと落ちた。厳しいけれど、どこまでも泰然としていて、揺るぎない信頼を感じさせる。これが、長門という艦娘なんだ。
納屋にたどり着くと、待ち構えていた吹雪と加賀さんが、僕の姿を見て駆け寄ってきた。
「司令官! ご無事で……!」
半泣きの吹雪に、僕は「ただいま」とだけ返し、静かに微笑んだ。加賀さんも、安堵の表情を浮かべている。
そして、二人の視線は、僕の後ろに立つ長門へと注がれた。
「一航戦、加賀です。あなたが、提督が呼び出した新しい……」
「特型駆逐艦、吹雪です! ご一緒できて光栄です!」
二人の挨拶に、長門は「うむ。私が長門だ。貴様らが、この鎮守府の先任か。よろしく頼む」と、堂々と応えた。その風格に、吹雪がごくりと喉を鳴らすのが分かった。
◇ ◇ ◇
一週間後。
僕たちの元に、雄英高校からの、一通の分厚い封筒が届いた。
三人に見守られながら、僕はそれを卓袱台の上で開ける。中から金属製の小さなディスクが転がり落ちた。スイッチが入ると、光が放たれ、一人の男の立体映像が浮かび上がった。
『私が来たーッ! ホログラムでね!』
「オールマイト……!」
『碧海少年! 君の筆記成績は見事だった! そして実技! ヴィランポイントは22ポイント! レスキューポイントは30ポイント! 合計52ポイントで見事合格だ! 特に、あの状況で他者を救った君のレスキューポイントは、なかなかの評価だったぞ! さあ、少年! 胸を張っていい! ここが、君のヒーローアカデミアだ!』
オールマイトの言葉に、吹雪が「やりましたね、司令官!」と涙ながらに歓声を上げる。加賀さんも、静かに「当然の結果よ」と、その口元に誇らしげな笑みを浮かべていた。
僕は、同封されていた合格通知を、強く握りしめる。
「……うん。でも、本当の戦いは、ここからだ」
すると、それまで黙って腕を組んでいた長門が、ふっと笑みをこぼした。
「ふむ。合計52ポイントか。……まあ、悪くない結果だな」
彼女は僕の隣に立つと、その手を僕の肩に、ぽん、と置いた。
「提督の戦いは始まったばかりだ。雄英という場所で、提督は多くを学ぶだろう。そして私も、提督と共に戦うために力を尽くそう」
その声には、厳しさの中に、確かな温かさがあった。
「わ、私、お祝いに何か買ってきます!」
吹雪が嬉しそうに納屋を飛び出していく。しばらくして、彼女は近くの商店で買ってきたらしい、棒付きのアイスクリームを手に戻ってきた。
「司令官、どうぞ! 加賀さんも、長門さんも!」
僕たちがそれぞれアイスを受け取り、食べ始める。僕がふと隣を見ると、長門が、その凛々しい表情を少しも崩さずに、静かにアイスを口に運んでいた。
でも、その瞬間。
彼女の真紅の瞳が、ほんの一瞬だけ、きらりと、嬉しそうに輝いたような気がした。
僕は、その横顔から目を離せないまま、これから始まる新しい日々に、胸を躍らせていた。
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