「……朝、か」
制服に袖を通して納屋を出る。まだ春の空気は冷たくて、頬に触れる風が少しだけ痛い。母屋の前を抜け、町の中学校へ向かう。引っ越してきたばかりで、知っている顔もない。教室でも誰かに話しかけられることはなく、僕も話すことを求めなかった。机に座り、ノートを開き、教科書を読むふりをして窓の外を見る。外では体育の準備をする上級生の声が聞こえていたけれど、それもどこか遠い出来事のようだった。
昼休みになっても僕は席を立たず、頬杖を突き、ぼんやりと天井のシミを眺めていた。誰かの笑い声が背中越しに響いても、どこか別の世界の音のようで、耳の奥に届いてこなかった。
妖精たちのことを話すつもりはなかった。話せば、またおかしいと思われるだけだと分かっていたから。誰に何かを言われるでもなく、ただ静かな時間だけが流れていた。
そんな毎日が永遠に続くとは思っていなかったけれど、それでも変化を望んでいたわけじゃない。期待することをやめて、ただ流れのままに過ごすことが、僕なりの生き方になっていたのだ。
放課後納屋に戻ると、妖精たちは静かに僕を迎えてくれた。まるで今日という日を特別に待っていたかのように、優雅に舞っていた。
彼女たちの動きは、どこかそわそわして見えた。
落ち着かない様子で空中を行き来しながら、ちらちらと僕を見てくる。
明らかに、何かを期待しているようだった。
僕は制服のまま
すると、頭の中に何かが浮かんでくる。
僕はその何かを形にしようと、白紙のページを一枚めくる。
自然と手が動き、鉛筆が何かの構造図のような線を引いていく。
書き終わったそれは、船の形をしていた。
けれど、それが何なのかはわからない。
「……
ふと、口をついて出たその名前に、僕自身が驚いた。
なぜその名前を知っているのか、自分でも説明がつかない。
でも、確かに“吹雪”という響きが、今のこの絵にふさわしいと、そう思えた。夢の中で誰かがその名前を呼んでいたような、曖昧な記憶が胸の奥にふと浮かんだ。
「うわっ!?」
その瞬間、
光の中にかすかに見えた、ノートの上へふわりと舞い降りる妖精たちの姿。彼女たちは線の上をなぞるように舞い、まるで筆のように空中へと光を描いていく。
その光が次第に広がり、空間に穏やかな風と粒子を満たしていく。
そのときだった。
左手に握っていた欠片が淡く光を帯びた。
だんだんと熱を帯びていき、まるで応えるように震えていた。
妖精たちはそれを中心に集まり、光の流れは一気に加速する。
光の粒が舞い、まるで海の中にいるかのような静寂が納屋を包み込んだ。
僕はその場から一歩も動けず、ただ息を殺して見守っていた。
心臓の鼓動が耳の奥でひときわ強く響いていた。
浮かび上がった光の線は、徐々に少女の姿をかたちづくっていった。
白いセーラー服に紺色のスカートという制服姿。
背筋を伸ばした立ち姿に、真面目さと一生懸命さが自然とにじみ出ていた。どんな困難も越えていこうとする、強い光がその目に宿っていた。
彼女は、まっすぐ僕を見る。
僕は……動けなかった。
何もかもが異常すぎた。納屋の中に現れた光の粒子、妖精たちの舞い、そして──目の前の少女。
まるで、僕が描いた線に命が宿ったような存在が、実体を持ってそこに立っている。
現実にしては幻めいていて、幻にしては重すぎた。
身体の感覚が鈍くなっているのに、心臓だけが激しく脈打っていた。
これは夢じゃない、現実なんだ──そうわかっているのに、理解が追いつかない。
どうして。どうして僕の目の前に、いきなり少女が現れる? 名前も知らない。どこから来たのかも、なぜここにいるのかも……。
常識はとうに崩れていた。それでも、彼女は微笑んでいる。まるで初めからここにいることが当然だったかのように。
怖い。けれど、怖くない。
恐怖心が湧かないことに、逆に怖さを覚えるほどだった。
僕は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
「吹雪型駆逐艦一番艦、吹雪ですっ! 精一杯がんばりますので、どうぞよろしくお願いします、司令官っ!」
澄んでいて、けれど芯のある響き。
柔らかさと力強さが同居するその声に、胸がきゅっと締め付けられた。
目の前の存在が、常識を軽々と超えていた。
でも、それでも──なぜか、怖くはなかった。
白い肌。艶やかな黒髪に、セーラー服。薄い影が灯籠のように揺れ、その瞳はまっすぐと僕を見ている。
「ふぶ、き……?」
「はい。駆逐艦吹雪、ただいま着任しました!」
「え、え?」
わけが分からない。 目の前に突然と表れた少女の名乗りが、いまだに飲み込めずにいる。
「司令官、どうかしましたか?」
「……その、司令官というのも気になるけど、君は一体誰で、どこから来たの?」
僕は何とか疑問をぶつけた。そして、少女は「ああ……そうか、記憶が」と呟き、納得がいったように話し始めた。
「私は“
その響きは、どこか遠い昔話のようだった。
「……かんむす? しんかい……?」
「深海棲艦──海に沈んだ艦船たちの怨念が形を得た存在。怒りと憎しみに満ち、海を奪い返そうとする“呪い”そのもの。あらゆる航路を封鎖し、艦船を沈め、補給線を断ち、国は孤立していきました。人類は団結し反撃をしましたが、深海棲艦にその攻撃は通じず、窮地に追いやられました。しかし、そこで現れたのが“提督”です」
淡々と語られる言葉の一つひとつが、現実感を持たず、まるで紙芝居の一幕のように僕の耳を通り過ぎていく。
「妖精を見ることができる、提督適正を持った人のことをそう呼びます。提督によって、私たち艦娘は深海棲艦に対抗する唯一の手段として造られました。私たち艦娘は、さらに遠い昔、海で戦った艦の魂を実体化した存在です。たとえば私は、大日本帝国海軍所属、吹雪型駆逐艦の一番艦である吹雪の魂を受け継いでいます」
「でも……そんな話、僕は見たことも聞いたこともない」
「ええ、そのはずです。艦娘も、深海棲艦も、提督も。人類の記憶からは、抹消された存在ですから──」
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