無個性と呼ばれた提督   作:HYDRATION

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ならないか……。
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第三十七話

 ──試合は、まだ残っていた。

 

 僕が場外に運ばれたあとも、体育祭は続いていく。当然だ。世界は、僕が負けたくらいで足を止めてはくれない。

 

 準決勝、緑谷くんと轟くんの試合は、語り草になるほどの死闘だった。互いの全部をぶつけ合い、氷が爆ぜ、炎が渦を巻いて、観客席が何度も総立ちになった。身を削ってでも相手の全力を引きずり出そうとする緑谷くんと、抱えたものを吐き出すように炎を解き放つ轟くん。その光景を、僕は治療を終えた身体で、観客席の隅から見ていた。

 

 すごい、と素直に思った。同時に、胸のどこかがちりちりと痛んだ。あの高みで殴り合える二人と、そこへ手が届かなかった僕。その差を、目の前で見せつけられている気がして。

 

 そして、決勝の後の表彰式。

 

 金メダルを首にかけられた爆豪くんは──猿轡を噛まされ、拘束具で全身をぐるぐるに縛られたまま、台の上で暴れていた。轟くんとの決勝を不完全燃焼のまま制したことに、我慢がならなかったんだろう。拘束の下から、くぐもった咆哮を上げ続けている。正々堂々じゃなきゃ意味がない、とでも言うように。

 

 ──ああ、この人は。

 

 勝っても、あんな顔をするのか。

 

 全国の頂点に立って、金メダルをかけられてなお、納得のいかない勝ち方を拒み続ける。その姿を見ていたら、なぜだか、胸のつかえが少しだけ下りた。

 

 僕があれほどの策を尽くしても届かなかった相手は、頂点に立ってなお満たされない、そういう底なしの人間だった。そんな相手に、僕は読み合いで最後まで食らいついた。届かなかったのは事実だ。でも──挑んだ相手の格を、こうして突きつけられると、あの一敗が、みっともないだけの負けじゃなかったと、ようやく少しだけ、思えてくる。

 

 拘束されたまま吼え続ける優勝者を、僕は最後まで、目を逸らさずに見ていた。

 

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 

 夜の十時を回っても、リビングの灯りは点いたままだった。

 

 ダイニングテーブルの上には、今日の試合を書き起こしたノート。僕の記憶と、吹雪の報告と、加賀さんの観測記録。それを突き合わせて作った戦闘経過が、開始から場外まで、秒単位で並んでいる。

 

 リカバリーガール先生のおかげで、身体はもうほとんど痛まない。痛まないから、余計に頭ばかりが回る。

 

「もう一度だけ、頼めるかな。第二の策の起爆タイミング。あそこがもう少し早ければ──」

 

「結論は変わりません」

 

 加賀さんの声は、静かだった。

 

「起爆を早めれば、彼は爆風の外です。遅らせれば、白線を跨ぐ前に体勢を立て直します。あの瞬間のあれが最適でした。……三度検証して、三度同じ結論です。策に、瑕疵はありません」

 

「でも、負けた」

 

「はい。負けました」

 

 加賀さんは、そこを取り繕わなかった。この人はいつもそうだ。

 

「同じ答えを、四度は申し上げません。今夜はもう、お休みください」

 

 一礼して、加賀さんはリビングを出て、自分の部屋へ引き取っていった。入れ替わりに球磨さんが顔を出して、盆に載ったおにぎりをテーブルの端に置いていく。

 

「……根を詰めすぎクマ」

 

 それだけ言って、返事も待たずに戸が閉まった。

 

 僕はノートに目を戻した。

 

 策に瑕疵はない。直せる場所が、ない。

 

 それは、救いじゃなかった。むしろ逆だ。直せる欠陥があるなら、直せば次は勝てる。でも欠陥がないなら──全部正しくやって負けたのなら、次も、その次も、同じように負ける。

 

 負けたら。

 

 負けたら、どうなる? 

 

 その先を考えようとすると、いつも思考が黒く塗り潰れる。今日、リングの上で胸に居座っていた、あの冷たい何かと同じ色に。

 

 おにぎりには、手をつけられなかった。

 

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 

 眠るのを諦めて、僕はバルコニーに出た。

 

 最上階から見下ろす夜の街は、静かだった。眠らない道路の灯りと、遠くにぽつぽつと残る窓の光。初夏とはいえ、夜風はまだ少し冷たくて、火照った頭に心地よかった。手すりに肘をつくと、遠くの空がうっすら橙に滲んでいる。海の見えない街の夜だ。

 

「──眠れんか」

 

 振り返ると、長門さんが立っていた。この人も寝つけなかったのか、あるいは僕が起き出したのに気づいたのか。咎めるでもなく、僕の隣まで来て、同じように街の灯りを見下ろす。

 

「……ごめん、すぐ戻るよ」

 

「また言ったな」

 

「え?」

 

「謝った。今日、二度目だ」

 

 長門さんは、街の灯りを見下ろしたまま言った。

 

「試合の直後だ。提督は吹雪に、開口一番『ごめん』と言った。……誰に、何を詫びた」

 

 心臓が、嫌な跳ね方をした。

 

「……覚えて、ないよ。勝手に出たんだ」

 

「勝手に出る言葉ほど、正直なものはない」

 

 沈黙が落ちた。遠い車の音だけが、微かに続く。長門さんは急かさなかった。ただ待っていた。

 

 だから、だと思う。口が、ほどけたのは。

 

「……負けちゃいけなかったんだ、僕は」

 

 声が、自分でも驚くほど硬かった。

 

「無個性はさ。失敗しちゃいけないんだよ。一度でも転んだら、それまで積み上げてきたものが全部、『ほら見ろ、やっぱり』の一言で消える。だから完璧じゃなきゃいけない。ずっとそう思って生きてきた。……分かってたんだ、本当は。四歳で無個性だと分かった日から、僕は最初から負けてる側の人間だって。だからせめて、あれ以上は一度も負けちゃいけなかった。今日、全国の前で、考えられる全部を出して、完膚なきまでに負けた。だから──君たちに、謝ったんだと思う。君たちの提督でいる資格を、落としたって」

 

 言い終えてから、ひどいことを言っている、と思った。でも止まらなかった。十五年間、誰にも言わずに抱えてきた理屈が、一度口を離れたら戻らなかった。

 

 長門さんは、すぐには答えなかった。

 

 やがて、街の灯りに目を落としたまま、静かに口を開いた。

 

「……一つ、昔話をしよう」

 

 低い声が、夜気に溶ける。

 

「私は戦艦長門。生まれた時、世界に七隻しかない大口径砲搭載戦艦の、その一番艦だった。国民は私の名を知り、子供らは私の絵を描いた。艦隊の象徴として、決戦の先頭に立つ──それが、私に与えられた役目だった」

 

「……うん」

 

「だが、私が夢見た決戦は、ついに来なかった。時代は大艦巨砲から航空機へと移り、私は長く後方で待たされ続けた。僚艦が一隻、また一隻と還らなくなるのを、聞き続けた。……戦火を交えたことが、なかったわけではない。一度だけ、大きな海戦で、私はこの主砲を敵の艦隊へ向けて撃った」

 

 思わず、僕は顔を上げた。じゃあ、と言いかけた僕を、長門さんの声が静かに押し留める。

 

「だがそれは、私が生涯をかけて待った艦隊決戦の、その姿ではなかった。混戦の中でただ砲を吼えさせただけ。これぞ長門が沈めたと胸を張れる戦果すら、私には残らなかった。そうして──戦は、負けて終わった」

 

 長門さんの声は、揺れなかった。揺れないことが、かえって重かった。

 

「その後、私は戦利品として異国へ曳かれた。遠い環礁で、新型爆弾の実験に供されるためだ。……的だな。海に浮かべられ、原子の火がどれほどの威力かを、人に教えるための的だ」

 

 息が、止まった。

 

 知識としては、知っていた。歴史の教科書の、たった数行。でも、それを本人の声で聞くのは、まるで違った。

 

「一度目の閃光に、私は耐えた。二度目にも、すぐには沈まなかった」

 

 長門さんの口の端が、微かに動いた。笑ったのかもしれない。

 

「あの爆発を受けてなお沈まなかったのだ。戦艦としての頑強さは、証してみせたと言っていい。……誉れと呼ぶ者もいよう。実際、間違ってはおらん」

 

 その声から、ふと、温度が引いた。

 

「だが提督。私はな──あの時ですら、その頑強さを、自分の意思では何一つ使えなかったのだ」

 

「……え」

 

「考えてもみろ。私は世界最強の一角と謳われる砲を積み、あの原爆に二度耐えるほどの装甲を持っていた。それほどの力がありながら──守りたいと、この身を賭してでも守りたいと、心から願える相手を、私はついに一度も持てなかった。国のため、と言葉にするのは容易い。だがそれは、あまりに大きすぎて、顔がない。私が本当に欲しかったのは、この砲を『あの人のために撃つのだ』と思える、たった一人の相手だ。……最後は的として据えられ、耐えたその頑強ささえ、誰かのためではなく、実験のためのただの数字として消費された。力は、あった。ありすぎるほどに。だが私は、それを自分の意思で、守りたい誰かのために振るう機会を、生涯ただの一度も与えられなかった」

 

 長門さんは、そこで初めて僕を見た。

 

「これが、私の生涯だ。力がなくて敗れたのではない。力を、意味あることに使えぬまま終わった。……力そのものが虚しいと、私は知っている。使い道を持たぬ力ほど、寒々しいものはない」

 

 言葉が、出なかった。

 

「その私が、今ここにいる。二度目の生で、あなたの艦隊の一番艦として立っている。今の私は、この砲を誰に向けるかを、自分で選べる。あなたのために撃てる。あなたが守ろうとするものを、共に守れる。……それが、どれほどのことか」

 

 そこで長門さんは、ふと言葉を切った。夜風に、その頬がわずかに強張ったように見えた。照れ、を武人の矜持で押し隠したような、不器用な間だった。

 

「……力を持て余して果てた私には、痛いほど、分かるのだ」

 

 遮る隙もなかった。

 

「提督。あなたは先ほど、無個性の自分には力がないと言ったな。力がなければ、我らの隣に立つ資格もないと」

 

 長門さんの目が、まっすぐ僕を射抜いた。

 

「逆だ。私は、力なら腐るほど持っていた。持っていて、なお空しかった。──あなたは、その空しさを埋める側の人間だ。吹雪が、加賀が、球磨が、そして私が、この力を『この人のために振るいたい』と、心から思える。その相手であることが、あなたの値打ちだ。それは勝ち負けで増えも減りもせん。今日の一敗ごときで、失われるようなものでは断じてない」

 

「……っ」

 

「あなたが落としたと思い込んでいる『資格』とやらは、最初から勝ち星で出来てなどいないのだ」

 

 その時だった。バルコニーの窓が、小さく音を立てて開いた。

 

 吹雪だった。眠れなかったんだろう。肩に薄手のカーディガンを羽織って、少し気まずそうに、それでもまっすぐこっちへ歩いてくる。話は、聞こえていたらしい。

 

 彼女は僕の前まで来ると、いつもの、あの真っ直ぐな目で言った。

 

「司令官が負けても、私の司令官です」

 

 それだけだった。

 

 理屈も、慰めもない、それだけの言葉だった。

 

 目の奥が、急に熱くなった。

 

 まずい、と思った時にはもう遅かった。十五年間、失敗できないと張り詰めてきた何かが、音を立てて緩んでいく。視界が滲んで、眼下の街の灯りがぐにゃりと歪んだ。

 

「……悔しい」

 

 初めて、その言葉が声になった。ごめん、じゃなく。

 

「悔しい……っ、悔しいなあ……! あと、一枚だったんだ……あと一枚で、届いたんだ……!」

 

 嗚咽が混じって、あとはもう言葉にならなかった。冷たい何かが溶けた場所から、本物の悔しさが、遅れてどっと溢れてきた。

 

 四歳のあの日、僕は泣かなかった。悔しくもなかった。あれは敗北ですらなかったんだ。戦ってすら、いなかったんだから。

 

 今日は違う。僕は戦った。だから、悔しい。

 

 悔しさがこんなに熱いものだなんて、十五年間、知らずにいた。

 

 吹雪は何も言わずに隣に立っていた。長門さんの大きな手が、一度だけ、ぎこちなく僕の頭を撫でた。厳しい言葉を並べておいて、こういう時の手つきは、驚くほど不器用で優しい。

 

「泣け。誰も見ておらん」

 

 そう言った長門さんの声も、いつもの武人めいた響きより、少しだけ柔らかかった。

 

 夜風が、しばらく僕の代わりに喋っていた。

 

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 

 その夜、私は初めて、司令官の涙を見た。

 

 皆が寝静まった後。私はそっと寝室を抜け出して、もう一度リビングへ来ていた。灯りの消えた部屋で、窓の外の街明かりだけが、床にうっすらと落ちている。眠れなかった。胸の奥に灯った小さな温もりが、私を眠らせてくれなかった。

 

 司令官が負けて、司令官が泣いて──それでも私の中の何かは、少しも揺らがなかった。

 

 勝ったから仕えているんじゃない。強いから隣にいるんじゃない。それなら私は、どうしてこんなにも、あの背中を信じていられるんだろう。

 

 初めて建造されたあの日から、ずっとそうだった。あの人の声が届くと、胸の奥が凪ぐ。砲声の中でも、爆炎の中でも、今夜のあの静かな夜風の中でも、あの人の言葉だけは真っ直ぐ、私の芯まで届く。

 

 理由は分からない。

 

 ただ──魂の芯のところで、私はあの人を知っている。そんな気がするのだ。ずっとずっと昔から。私が私になる、もっと前から。

 

 ……変なことを、考えてしまった。

 

 窓辺に立って、私は夜の街を見下ろす。さっきまで司令官と長門さんが並んでいた、その同じ手すりに、そっと手を添えて。

 

 あの人は、何度でも立ち上がる。今夜、それを知った。

 

 なら私は、何度でもその隣を歩こう。

 

 理由なんて、いつか分かればいい。

 

 明日はきっと、いい朝になる。司令官の頬から、あの強張りが消えているといい。そう願いながら、私は静かに窓の鍵を確かめて、自分の部屋へと戻った。

 

 




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