無個性と呼ばれた提督   作:HYDRATION

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第五話

 翌日の放課後、納屋の卓袱台を挟んで、僕と吹雪は向かい合っていた。

 いつもならノートと鉛筆だけが置かれている卓袱台の上には、銀行の通帳と、これから向かう隣町までの路線図。やけに生活感のあるその光景が、僕たちの日常が昨日までとは全く違うものになったのだと、静かに告げていた。

 

 目的は、吹雪の服の購入。

 そして、これからの生活に必要な、様々な備品の調達だ。

 

 通帳を開く。そこには、親から定期的に振り込まれる、決して少なくない金額が記されていた。それを見るたび、胸が少しだけ軋む。

 これは、僕への最後の愛情なのだろうか。それとも、もう関わりたくないという意思表示としての、手切れ金なのだろうか。

 ……考えないようにしよう。今は、吹雪のために使ってあげるんだ。

 

「大丈夫、お金ならちゃんとあるから。君が、この時代で普通に、安心して暮らせるようになるのが一番だからね」

 自分に言い聞かせるように、僕は言った。吹雪は少し驚いたように目を丸くして、それから、とても嬉しそうに微笑んだ。

 

 僕たちは、電車を乗り継いで隣町へ向かった。

 窓の外を流れる景色を、吹雪は食い入るように見つめていた。車、ビル、信号機。彼女のいた時代には存在しなかったものたちが、当たり前のようにそこにある。

「すごい、ですね……。これが、今の……」

「うん。僕たちの、今の時代だよ」

 そう答える僕の声は、少しだけ弾んでいたかもしれない。誰かと一緒に電車に乗ることなんて、いつぶりだろうか。

 

 駅前の商店街は、平日の午後でもそこそこの賑わいを見せていた。

 僕たちは、その中の一軒の、若い女の子向けの服を多く扱う店に、少し緊張しながら足を踏み入れた。色とりどりの服が並んでいるが、僕にはどれも同じように見えてしまう。

 

「さて……こうして来たはいいものの、僕、女の子の服なんて全然分からなくて……」

 僕が途方に暮れていると、吹雪がおずおずと、店の奥に飾られていたマネキンを指差した。

 

「し、司令官……あの服、すごく……可愛いです」

 

 彼女の視線の先には、紺色に白い水玉模様の、ふわりとしたワンピースと、その上に羽織られた白に近い灰色のパーカーがあった。それは、戦闘服であるセーラー服とは全く違う、柔らかくて、優しげな雰囲気の服だった。

 

「……うん、すごくいいと思う。試着、してみる?」

「は、はい!」

 

 吹雪は店員さんから服を受け取ると、少し緊張した面持ちで試着室に入っていく。

 しばらくして、カーテンが静かに開かれた。

 

「ど、どう……でしょうか……?」

 

 そこにいたのは、僕の知っている”駆逐艦・吹雪”ではなかった。

 水玉のワンピースとパーカーを身にまとった彼女は、どこにでもいる、ごく普通の、お洒落に少しだけ興味がある、年頃の女の子だった。恥ずかしそうに頬を染め、僕の反応を窺っている。その姿に、僕の心臓が大きく脈打った。

 

「……すごく、似合ってるよ」

 

 僕がそう言うと、彼女の表情がぱあっと明るくなった。その笑顔が見れただけで、この服の値段なんて、どうでもいいと思えた。

 

 僕たちは衣料品店を出て、商店街にある大きめのスーパーマーケットと、その隣のホームセンターに向かった。

 

「まず、布団がないと君が風邪をひいちゃうから……一式そろえようか」

「は、はい! ありがとうございます!」

「それから、食器。マグカップと平皿をもう一つずつ。あとは……」

 カートを押しながら、僕たちはこれから始まる二人の生活を想像して、必要なものをリストアップしていく。カセットコンロのガスボンベ、簡単な調理ができる小さな鍋、調味料、それに長持ちするレトルト食品や乾麺。

 一つ一つの品物をカゴに入れていく作業は、まるでままごとのようでもあり、それでいて、僕が誰かのために責任を持って行動している、という確かな実感があった。吹雪も、初めて見る商品ばかりで、目を輝かせながらカートの後ろをついてくる。

 

 たくさんの荷物を両手に抱えて店の外へ出た、その時だった。

 商店街の広場に設置された大型ビジョンに、臨時ニュースのテロップが流れていた。

 

『──本日未明、近所の沖合で、原因不明の濃い霧が発生し、操業中だった漁船一隻との通信が途絶しました。現在、海上保安庁が巡視船による捜索を行っていますが、現場の霧は”個性”によるものとの見方も出ており、状況によっては近隣のヒーロー事務所に応援が要請される可能性も示唆されています──』

 

 空気が、一瞬にして変わった。

 道行く人々は「怖いねえ」「海難事故かしら」と話しながら通り過ぎていく。でも、僕たちにとって、そのニュースは全く違う意味を持っていた。

 

「司令官、今の……霧……」

 吹雪の声が、隣で硬くなる。

「うん……」

 この前、彼女が呟いていた”波の音の変化”。あの漠然とした不安が、現実の”事件”という輪郭を帯びて、僕たちの目の前に突き付けられていた。

 

 商店街の喧騒が、急に遠い世界の音のように聞こえる。

 僕たちは、顔を見合わせたまま、しばらく言葉を失った。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 帰り道、僕たちは公園のベンチに並んで腰掛けていた。手には、さっき買ったばかりの服や生活用品が入った紙袋。でも、僕たちの心は、重い沈黙に支配されていた。

 

「……やっぱり、始まってるんだね」

 僕が言うと、吹雪は静かに頷いた。

「はい。おそらく、あれは深海棲艦の仕業です。私たちが、何とかしないと……」

 

 このままじゃいけない。僕たちにしか、できないことがある。

 その思いが、胸の奥で確かな形になっていく。でも、それと同時に、これから始まるであろう戦いへの恐怖が、ずしりと身体にのしかかってくるようだった。

 

 重い空気を振り払うように、僕はわざと明るい声を出した。

「……と、とりあえず、今日はもう帰ろうか。せっかく街まで来たんだし、もう一つ、解決しなきゃいけない問題があるんだ」

「問題、ですか?」

 きょとんとする吹雪に、僕はなんて切り出せばいいか、少し言葉に詰まった。お風呂のことは、特に女の子にとってはデリケートな問題だろう。でも、このままにはしておけない。意を決して、僕は口を開いた。

「お風呂、どうしようかなって……。僕一人の時は、夜中にこっそり母屋のを使わせてもらってたんだけど、さすがに二人で、毎日となると……」

 

 僕の言葉に、吹雪ははっとした顔で自分の状況を理解したようだった。

「そ、そうですよね……! すみません、私、自分のことばかりで……」

「ううん、君は気にしなくていいよ。それで、いい場所があるんだ」

 

 僕は、帰り道で見つけた、一本寂れた路地の奥にある建物を指差した。

 古びた煙突が空に伸び、入り口には”ゆ”と書かれた暖簾がかかっている。昔ながらの銭湯だった。

 

 初めて入る銭湯に、吹雪は興味津々といった様子で、でも少しだけ不安そうに僕の後ろをついてくる。番台のおばあさんに二人分のお金を払い、「じゃあ、また後で」と暖簾をくぐって別れる。たったそれだけのことが、なんだか変な感じだった。

 

 熱いお湯に浸かると、凝り固まっていた心と身体が、ゆっくりとほぐれていくようだった。

 風呂から上がると、吹雪はもう待合室の長椅子に座っていた。頬をほんのり赤く染めて、少しぼーっとしている。

「どうだった?」

「はい……! すごく、気持ちよかったです。これが、銭湯……」

 僕は、年季の入った冷蔵庫から瓶のコーヒー牛乳を二本取り出し、一本を彼女に渡した。

「わ、ありがとうございます」

 二人で並んで、腰に手を当ててコーヒー牛乳を飲む。さっきまでの緊張が嘘のように、穏やかな時間が流れていた。

 

 納屋に帰ると、もうあたりは暗くなっていた。

 吹雪は、買ってきたばかりのワンピースを、ハンガーにかけて大事そうに眺めている。

「この服……明日も、着ていていいのでしょうか? 納屋で過ごすだけなのに、なんだかもったいないような……」

「ううん、そんなことないよ。いつでも君の好きな時に着ていいんだ。それに、また今度、休みの日にどこかへ出かける時に着ていけばいいしね」

「! はいっ!」

 

 僕たちの、奇妙で、そして新しい日常が、こうして本当に始まった。

 でも、その日常のすぐそばには、静かな海の向こうから、確実に”敵”が近づいてきている。僕と彼女だけが、そのことに気づいていた。




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