青春は生徒たちのために   作:金ミ槌本Serif

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前編:希望の欠片と言いながら
(1) 前兆


 結果的にはしごを外したのは私だった。

 

 心を病む時『ああ、いま病んでいるんだな』といった兆候を感じることはあまりないように思う。風邪のようにわかりやすく熱が出るとか鼻水が出るとか、怪我をした時のように目に見えて血が出るということがないからだ。

 心、精神は厄介な器官だ。一度壊れた心は完全には治らない。悲しいことだけがいつまでも忘れられない。

 たとえば、私の目の前にメモ用に使っているコピー用紙がある。これをぐしゃりと手で潰すと丸くなる。ではこのコピー用紙を元に戻すために広げてみる。コピー用紙は広がるが、コピー用紙はしわくちゃだ。それが心を病むということ。一度しわくちゃになったコピー用紙は手で伸ばしたってアイロンをかけたって完全に元に戻ることはない。傷は一生残り続ける。いくら元に戻そうとしても完全には元には戻れない。

 

 時々、スプーンを持つ手が震えることがあった。きっと疲れているんだなと、私はそれをあまり重大に捉えていなかった。

 なにせいつだって体はずっと重いし、何日も眠れないことなどざらにあったからだ。きっと忙しいせいだ。そんなふうにいつも軽く考えていた。軽くとらえていた。

 今日も今日とてカップ麺を啜り、コーヒーやエナジードリンクを飲み、仕事をつづける。外も走り回るし、書類仕事だってある。ある時は生徒を叱り、ある時は褒め、笑い合う。ある時は共に協力して敵を退け状況を打破したりもする。これが生徒のせいだとか、そういうことを言う気は決してない。生徒にも誰にも責任はない。誰も悪くない。そう思っていたし、今でもそう思う。あれは、確かに私の問題なのだった。

 

 精神が戦闘指揮で興奮しすぎて比較的早く眠れる日があってもちゃんと眠ることが出来なかった日もあった。朝早く起きすぎてそのまま眠れずにベッドの中で過ごしたり、逆に休日は10時間以上眠ったり、気を張りすぎて食欲がなくなり冷たいものばかり食べたり。体だけではなく、正直神経が参ることだってあった。生徒の心のケアについても常に考えている。生徒たちが不安そうにしていたり悲しんでいたりすると、それだけで私は心が潰されるような気持ちになった。長い目で見守っていく必要がある事案ももちろんある、毎日何か起きて油断できない。休まる暇はない。

 それでも私は幸せだった。生徒たちを見守ることが好きだ。生徒を信じている。生徒にも私を信じてくれている子がいる。信じてもらえなくてもいい、みんなを見守れるなら。それだけでいい。先生とはそういうものだから。

 

 

 春になったら桜が咲いて

 梅雨はみんな憂鬱そうな顔を並べて

 夏はプールではしゃいで海で花火をして

 秋はドングリを探しながら歩いて

 冬は校庭で雪合戦をする

 そんな青春が少しまぶしい

 

 青春は生徒たちのためにある。私にできるのは、その手伝いだけ。

 先生にできることは、生徒を見守って、手伝って。大人にできるのは責任を取ることだけ。

 そして、進むべき道を決めるのは生徒自身だ。

 

 いつのまにかまた桜が散ろうとしていた。

 その頃の私に、桜を見るような気持ちの余裕はなかった。

 

 パソコンのキーボードを叩こうとするたびに手が、がたがたと震えるようになったのはいつからだろう。

 連絡用スマホに着信が入っていないか、不安になって何度も確認するようになったのはいつからだろう。

 背後から誰かに見られているような気がするようになって、何度も出入り口の方を振り返るようになったのはいつからだろう。

 『もしかしたら私の悪い噂をされているんじゃないか』 と根拠もなく考えるようになったのはいつからだろう。

 移動する時、人混みに紛れるのがどうしても苦しくなるようになったのはいつからだろう。

 誰もいない物陰に黒い人影のようなものを見て、恐怖感を覚えるようになったのはいつからだろう。

 目に入るものの情報の処理が追い付かず、情報量に貫かれるような感覚を覚え、目を抑えてしまうようになってしまったのはいつからだろう。

 

 いつから始まったのかなんて、覚えていない。

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