キヴォトスに雨がざぁざぁ降っている。私はいつものソファの上で、黒服の腕の中、とろとろと目をとざしかけていた。
薬の副作用だ。この薬を飲むと、とても眠くなる。
「あの子に聞かれてしまった、好きな人がいるのかって……」
本当に情けないよ。と私は『恐怖』が海の波のように引くのを待つ。
「きっと、恋を……してるわけじゃない……愛している……わけでもない……」
「では、友情とでも……? お戯れを。先生は私の敵で、私は先生の」
「私はあなた以外にこんなことさせませんよ……誰にでもさせるわけないでしょ」
黒服の背をさすってくれる手が一瞬ためらった、そんな感じがした。
あなたもためらうのか、そんなことを言おうとして——やっぱりやめた。
「……やめないで……きっと雨の音で、まぎれる」
「雨のせいですか」
「そう……全部 雨のせい……」
「ずるい方です……」
そうさ。あの子の所属していた組織が私の眠っているうちに、一夜にして壊滅したりしたのも、そう、きっと、雨のせい。
「先生 ピエロは誰かを笑わせますが そのピエロは誰が癒すんでしょうね」黒服がささやく「手から零れ落ちていくものすべてを救い取ることはできませんよ」
「私……私は……」
黒服の声が耳にしみこむ。いまは考えるより、ただ感じたかった。
雨はすぐに上がった。青空が広がっている。キヴォトスの空は青くて、きれいだ。
私は窓辺にゆき、黒服がいつも背を向けている窓の外に目を向けた。
ふと、カヨコに言われた言葉を思い出した。
『それ、おかしくない? 先生は生徒たちのことを考えてあげるのに 先生のことを考えてくれる人は 誰もいないの』
……ごめんね……カヨコには、いつも 気を使わせてばかりだね……先生の、私の記憶の中でさえ。
「生徒にね、言われちゃった。先生が自分を大切にできないのなら先生が生徒を大切にすることもできないって……そうだなあって思って」
私は水滴から黒服に目を移し、自嘲する。
「何か言い返すべきだったんだろうけど わからなくなってしまった」
私は自分の手を見つめる。震えているのは薬の副作用か、はたまた日々の激務のせいか。
私の……最初の……最初の気持ちって 何だっけ……。
『私は生徒のことを見守っていきたいんです。私は先生で、そして、青春は生徒たちのものなのだから』
身体が勝手にぶるぶる震えだした。先ほど薬を飲んだばかりなのに、強大な『恐怖』の気配がしていた。
こういうとき、私は少しだけ、生きることを時々やめたくなる。
「ごめん、最近は……減ってきたんだ。以前よりは大分症状が良いんだ。……ははは……やっぱり、やっぱり私、あなたをぶっ叩くべきなのかもしれない」
「そうなされたらどうですか」
「できません……まだ……寒いから……」
黒服は私の傍にやってくる。
「暖めて……もう少しだけ……」
もう少しだけ騙していて……騙されていたい……、そう頼む前に彼は私をその腕に包んでいた。
題名のない優しさと信じたい嘘だけがそこにある。
きっと思いやりとかそういうものじゃない。ただの打算にまみれた大人の取引か何かだ。
だけれど今は信じたい嘘を私は信じていたい。黒服の腕の中はあたたかい。
それはそれとして、はりたおしてやりたい。相反する二つの感情がごちゃまぜになる。
けれどこれを青春というには苦すぎるし……何より遅すぎた。
それから、また少し時間がたって、私はようやく黒服の部屋を出られるようになった。
「ああ、世間は夏休み、ですか」
「そう……夏休み。夏でも先生はね、いろいろやることがあるんだ」
「クックック……まあ、せいぜい水難事故にはお気をつけなさいませ」
「私を誰だと思ってるの?」
「では、水泳がお得意でなのですね」
「……最近泳いでないからなあ……」
……じゃあ。
……ええ。
私は黒服の部屋を出る。どこか、後ろ髪を引かれる思いがした。
……バタン。