(11) なみだ
夏はあっという間に過ぎてしまった。年月、毎日、時間。若さ、年齢、すべて矢のように過ぎていく。
セミナーのユウカたちがが気を使って、アイスを持ってきてくれたりもした。そういうのも食べたりもしたかったのだけれど、うだうだとしている暇もなく、気づいたら薄いジャンパーを羽織っている。
まあ、大人の夏休みなんてそんなものかもしれない。
相変わらず、私の手から零れ落ちて行ってしまう声も勿論ある。それでも生きていくしかないから生きている。
『恐怖』は以前ほどは何度も強くやってくるようなことはなくなったような気がする。わからない。毎日それなりに必死だったからかもしれない。相変わらず受診はしているけれど薬は変わらない。ドクターが何を考えているのかは謎だが、それでも落ち着いているならいいのかもしれないと考えた。少なくとも私は心構えや、事前に感づいて予防するできる症状だ。つまり無理しすぎければよい。それが難しい時もあるが、そういう時はあいつの所に行く。
その朝。私が外回りのためシャーレの外へ出ると落ち始めたばかりのいくつかの落ち葉を足に絡ませながら、近くの学園の初等部の生徒たちが集団登校していた。騒ぎながら楽し気にこちらへ駆け、歩いてきて、最近買ったシャンプーの話とか石鹸の話とか、そういうことで笑い合っている。生徒たちが楽しく生活し、ちゃんと暮らしてくれている。私は幸せをかみしめる。
「あ、シャーレの先生だ!」
「せんせー!」
「おはようございまーす!」
「はい、みんなおはよう。」
生徒たちがみんなして足を止めて、私にいたずらをこころみたり、一生懸命話をしようとしてくれたり、構って攻撃をする。やれやれと思いながら結局一人一人とハイタッチをした。
うれしそうな生徒たちは口々に私にいろいろなことを聞いたり話してくれる。私は楽しくそれを聞きながら、なんでもない平和な話をした。
ふと、今、必死に学業へ復帰をしている彼女の姿が重なった。瞬間、心に刺すような痛みがあった。黒服のことを思い出した。
胸が苦しくなった。目が曇る。
「先生、どうしたの?」
「どっか痛いの?!」
え、と驚いて我に返ると、生徒たちが心底びっくりしたという顔で私を見ている。
「泣いてるの、先生?」
そう教えられ、私は慌てて目に触れた。水の感触。あわてて言った。
「あいたた……そうなんだ、なんか目にゴミが入っちゃったみたいで、いててて。ちょっと水道で目を洗ってくるよ。みんな、気を付けてね。じゃあまたね!」
生徒たちが心配そうにしているのが見えた。何をしているんだろうと思いながら私はシャーレに戻る。ふと鏡を見た。すごく疲れた顔をした、湿った感じの男がいた。
流石にショックを受けた。おかしいな、朝にも鏡を見たはずなのに……しばらく鏡の前から動けなくなるが、重い脚を動かして今日の外回りに向かった。
こんな顔じゃみんなに心配をかける。そう思い、無理やり口角を上げる。
今日はミレニアムサイエンススクールのあたりに用事があった。世間話をしながら最近のキヴォトスやスクールのみんなの様子をそれとなく聞く。
今日はセミナーのユウカが居たので、話を聞きながらついでに色々とお説教もされてしまった。
「みんな元気そうでよかったよ。心配はいらなさそうだね。」
「まあ、いろいろありますけどね。コーヒーをどうぞ、先生。」
ユウカが淹れてくれたコーヒーを啜りながらつぶやく
「ありがとう。ふう……ユウカのコーヒーはほっとする味だなあ……。」
まあ不思議なことに、私はワーカーホリックなところもあるから、幸せであればあるほどすり減りもしてしまうのだけれど。
『どれくらい働けば癒されるのでしょうね』
そう、黒服がいつか言ったセリフを思い出す。やなやつ。でも確かにそうだ。どれだけ働けば私は許されるのだろう。
許される? 誰に?
ばかばかしい、甘ったれた感傷を私は振り払う。私の頭の中を支配する、やなやつ。不気味なやつ。
だけど、今は何故か心が痛い。だめ、今度こそ終わりになってしまう気がする。私は先生なのに、なのに。
いや、そんなことは考えない方がいい。そうだろう、今考えるべきこととそうでないことは分けなくちゃ。
ふと、また一人で考えすぎたなあと思い顔を上げる。
ユウカがじっと私の顔を見つめていることに気づいた。なんだかすごく、驚いたという顔をしている。驚愕が混ざっているような表情だ。
「ん? どうしたの、ユウカ」
「い、いえ……先生、ちょっとコーヒー飲みすぎなんじゃないですか」
「え、そう? これがないと辛くてねえ」
「うん……消費量が多いのよ……しばらくコーヒー禁止です!」
「ええー!?」
「カフェインの取りすぎは体に悪いんですよ。しばらくはミルクだけ、とかにしてください、それか白湯。持ち運べるから昼間なら、白湯がいいですね、いまお湯を沸かしてじゃなかった入れてきますから!」
バタバタと行ってしまうユウカは、不思議と今日は落ち着きがなかった。私のコーヒーとともに彼女は給湯室に行ってしまった。
「ああ~私のコーヒー……うーん……」
ユウカに何かしてしまったのだろうか。何か彼女が傷つくようなことを言ってしまっただろうか。しょぼくれていると、ふと音もなく彼女が現れた。
「エイミ、こんにちは。久しぶりだね。」
「こんにちは先生。来てたんだ」
「うん。お邪魔してるよ。調子はどう?」
「問題ないよ。先生は調子悪そうだね」
「えっ、そうかな……?」
「そうだよ」
私がドキッとしていると、ふと、エイミが、私がすわっていたシンプルな事務椅子の隣にあった椅子に座った。
「あのさ先生、何かあったら相談して。これでも口は堅いつもりだから」
なんだか、異様な雰囲気だ。最近どこもかしこもそうだ、何かがあったのだろうか。
「あ、う、うん? ありがとう。大丈夫、私は問題ないよ」
問題ばかりだけれど、それを生徒や何かのせいにしたりするほど私は終わっていない。私はまだ動ける。
けれど、エイミやユウカの心遣いは正直ありがたいと思う。私は幸せ者だ。
ふと、エイミが口を開く。
「……先生はさ、」
「うん?」
「……先生は悲しくなったりしないの? つらくなったりしないの」
少し考えて答える。
「……そうだね。……先生は長生きしてるから……もう一生分くらいの悲しいものを見たんだ。だから……平気。」
「そっか……」
何か納得したような顔をする。エイミの表情は、今でもあまり読めない。
「どうしたんだい、突然」
「先生が心配なんだよ。言っておくけど、みんなそうだよ。」
「ええ? どうしてそんな、私は健康だよ?」
「じゃあ……どうして泣いてるの」
え、また? ふと顔を触ると、涙がこぼれているらしかった、ドライアイだろうか。
「……気づかなかった……」
エイミがティッシュを無言で私の前に置いてくれる。
「ごめん、ありがとう。なんだか……馬鹿みたいだね、なんでもないのに泣くなんて」
彼女は何も言わない。ただ黙って、私の隣に座っている。
「エイミ……怒ってる……?」
「……怒ってる。みんな怒ってる。先生がそんなになるまで誰にも相談してくれなかったことに、みんな怒ってる。キヴォトス中の子が、たぶんみんな怒ってる。厳しいことを言うようだけど、自分を癒せるのは自分だけだよ、先生」
耳の痛くなる言葉だった。
「……エイミは……やっぱり冷静だね……」
物音がした。ユウカが立っていた。白湯が入っているらしきカップを持って、なぜか涙目だった。
生徒が泣いてる。私は、胸をかきむしりたくなるような気持になりながらユウカに近づく。
「ユウカ! どうしたの、何かあったの」
「違うの……違うんです……」
「怪我でもした? もしかして火傷したとか、」
「違うの……違う……先生が泣いてるの見たら……私も悲しくなっちゃって……」
そのままユウカは泣き出してしまった。
エイミが白湯をユウカの手から受け取り、机に置いてくれた。
比喩的な意味で、頭を殴られたような感じがした。私は生徒たちの前で何をしてるんだろう。
大切な生徒を泣かせたり、不安にさせるなんて。
「……先生のせいだ」
ユウカははっと顔を上げた
「そんなことない、そんなことないです!」
「いや、先生のせいだよ。まったく大人になると大切なことを忘れてしまう……ごめん。」
私はユウカの頭に手を置いた。以前なら絶対にしなかった、であろうことをあえてした。
「青春は、学校は、生徒たちのためにあるんだよ、ユウカ。だから先生は、生徒にそんな顔をさせちゃいけないんだ」
「先生……」
「泣かないで……ね……先生もう、元気だから。エイミもすまなかった。心配をかけて。」
私は微笑んで見せる。不器用で歪んだ笑みでもいいと思う。エイミとユウカは何も言わなかった。