夕方。シャーレで残業をするために帰路についていると、傍に見慣れたゲヘナ学園の車が停車した。
立ち止まると窓が下りてきて、ヒナの顔が見えた。アコが運転しているようだが、アコはこちらを見てくれなくて様子がわからない。
「ヒナ、どうしたの? アコと二人?」
「乗って、先生。」
「え、えと……」
「早く」
有無を言わさない口調。怖かったけれど、私はヒナとアコの気遣いだと思い車に乗り込ませてもらった。
ヒナは、しばらく固く口を引き結び、開かなかった。アコはシャーレまでの道を流しながら遠くを見ているようで、信号で止まっても振り返りもしなかった。
「あ、あの……ヒナたちも……怒ってる……?」
ふ、とヒナがため息をついた。
「……色々なことがあった……今も、いろいろなことが起きてる」
「……そうだね」
「聞きたいことがあるの。……いま、先生が一番したいことって何?」
「……一番したいこと……?」
「教えて。」
「う、うーん……一番したいことか……そう、そうだね」
私は背後に流れ去っていく街を眺める。外は夜になると寒くなる。
あの子は元気でやっているだろうか。彼は今どうしているだろうか。今夜もキヴォトスの空を見ているのだろうか。
「本当のことを話してほしい……かな」
「……私だって、話してほしいよ。」
「え?」
「私たちも先生に本当のことを話してほしいって、思ってるよ。それができないことは知っているから……だから、私たちは今ここにいる。」
ふと心が柔らかくなった気がした。凝り固まっていた筋肉を弛緩させ、私は二人に感謝の意を伝えた。
「まとまり、ないけど……」
「いい。なんでも聞かせて。なんでも話して。」
私はあの日のことを回想した。本当にいろいろなことがあった。
話したいことも話せないことも、聞いてほしいことも山ほどあった。
「青春は青春の中に居る時は見えないものだ。だから大人になって青春を見ると「いいな」って思う。そして、そう心の底から思える年になってしまったということに悲しくなる。青い頃は、けがの治りも早かった 何もかも受け止めて自分なりに消化できてしまえた。心が柔らかかったから。だけど私はもう『青く』ない……あれは決して『夜』から出てこない……青い頃なら、恋だったらできたかもしれない。だけど愛は……わからない。ある意味で、あれを信用しているけれど、信頼はできない。だけど私にはきっと必要。それがすごく苦しい。この気持ちをどこに持っていったらいいのかわからない……。」
「……話してくれてありがとう、先生」
「聞かせてすまない、ヒナも……アコも……気を使わせちゃったね。」
ヒナは言った
「『泥より出でて泥に染まらず』なんて 無理なんだよ 先生」
「……?」
「昔のことわざ。蓮は泥水の中からまっすぐ伸びて、きれいな花を咲かせる。あの花は、泥から出てきても泥に染まっていない。だから神聖とされる。だけど、私たちには汚れないまま清く正しく生きるなんて、できない。そんなことは無理なんだよ。時には汚れることだってしなきゃいけない。もしかしたら、泥の中から出てくるものこそ美しかったりするのかもしれない。」
ヒナはシャーレの前で私を下ろしてくれた。彼女は去り際に言った
「先生、何かあったらなんでも相談して。みんな先生が大好きなの……それをどうか忘れないで。」
彼女たちが乗る車を見送りながら、私は涼しく、冷たい夜風に吹かれていた。
生徒たちの声が消えない。けれども先生という存在である私は、消えない声を聞くために居る。
聞えないけれど消えない、その声を聞くために。
じき、冬が来る。春が来る前に決着をつけようと決めた。