その日、シャーレにやってきたその生徒を見て私は胸が苦しくなった。彼女とはアポイントメントも連絡も事前に何もとっていなかった。しかし随分と遠い地区の学園から来たことはボロボロになった靴の汚れを見てすぐに分かった。きっと、苦労してここまでやってきたのだろう。隠しきれない硝煙の香りがしていた。目は暗かったが、ほんの少しの希望がその目にはあって、しかしそれは暗い期待だった。ヘルメットを引きずって硝煙の臭いも新しい銃を持ち、お世辞にもきちんと手入れされているとは思えない制服を着て彼女は細くて折れそうになりながら立っていた。一度か二度、言葉を交わしたことがあったことは覚えていた。しかしその時の彼女はこんなに壊れかけていただろうか。明らかに『裏社会の人材』として利用されている様子がある。悪い連中とかかわるようになってしまったのか。いったい何があったんだ。
「……わたし、先生が好き」
生徒はそう言うと、私が何か言う前に腰のあたりに縋りついてきていた。彼女の意思がボケた私の頭脳にそうして初めて伝わってきた。手が震えた。小鳥のように震える少女の体、魂、言葉の重みがのしかかる。きっと勇気を振り絞って言っただろう。そっと抱きしめ返してやりたかった。ありがとう。私も君をきっと、大切に思っているよと言ってやりたかった。だからもう安心していいんだよ。安心して勉強をしていいんだよ。学校に行っていいんだよ。そう言ってやりたかった。しかし、それはできないのだ。なぜなら私は『シャーレの先生』であり、みんなの先生なのだから。誰も特別扱いすることはできない。たとえ傷ついた魂を癒すことを天が許してたって私の魂がそれを許さないだろう。たとえ、泥の中からはい出そうとしている彼女の梯子を外すことになってもそれはできない。してはいけない。
私は彼女の方にそっと片手を置き、彼女を優しく自分から引き離した。彼女は可哀そうなくらい泣いていた。その涙をぬぐってあげる勇気は、その時の私にはなかった。
「どうして……? 私が……私が……可愛くないから……? トクベツじゃないから……?」
「そうじゃない……すまない。だけど、私は生徒みんなのことを大切に思ってるよ。だから」
「……やっぱり……大人なんて嘘ばっかりなんだ……先生の馬鹿!!」
彼女は走り去っていってしまった。その背中を私は追いかけることが出来なかった。
身体が硬直して、そしてどっと疲労感が襲ってきた。
追いかけるべきではなかったのかもしれないと、自分を納得させた。
彼女と初めて顔を合わせた、あの日の帰り道のことを思い出す。
『先生、また来てくれる……?』
ああ、きっと行くよ。
私はあの時もそう答えたと思う。彼女の涙が私の手にこぼれていた。私は……私は、叫びだしたい気持ちだった。今日は何もしたくない、そういう気持ちになりただ床を見つめる。しかし仕事がある。今日も明日も明後日も、その先も、そのずっと先もそのずっとずっと先も、ずっと私は彼女に寄り添うことはできない。誰も特別扱いしない。できない。
「先生……」
ふと顔を上げると、カヨコが、鬼方カヨコがそこに居た。ああ、そうか。今日は便利屋の仕事、じゃなくて……当番で来てくれたのか。悪いことをしたとか、そういうことをごちゃごちゃ考えた。言葉が出なかった。今日に限って頭が回らない。
「先生、すごい顔色だよ」
「……うん、大丈夫だよ。当番ありがとうね。」
「そう……うん、ごめん、聞えちゃったんだ……わざとじゃないよ……あの子は、最近裏社会の人間とつるんでいた子だね」
「そっか……詳しいんだね。」
「……まあ、ね……。」
それからカヨコは、いつも通りシャーレの掃除などをしていってくれた。二人とも余計なことは何も言わなかった。走り去っていった彼女の話題も出さなかった。カヨコは聡い子だ、私が仕事に集中できていないことも、時折ドアの方を振り返ったりするなどの行動をしてしまうことも、おそらく見抜かれていたのだと今は思う。しかしカヨコはそれを指摘したりはしなかった。ただただ、静かに私を観察していたカヨコは、夕方になってシャーレオフィスを去る際に怒るでもなく叱るでもなく、そろりと口を開けた。
「先生、思うんだけどさ」
「うん?」
「心って、一度ぐちゃぐちゃになったら戻らないんだよ」
カヨコは夕日に照らされてオレンジ色染まっていた。それは私も同じだった。シャーレの窓からは、空がよく見える。
「先生は生徒たちのことを考えてあげるのに、先生のことを考えてくれる人は誰もいないの?」
「先生は平気だよ、みんながいるから」
「……そういう意味じゃないよ。わかるでしょ。」
私は何も言い返すことが出来なかった。
「先生が自分を大切にできないのなら 先生が生徒を大切にすることもできないよ」
厳しい激励の言葉だと受け止める。そうだなあ、と思った。何か言い返すべきだったのだろうが、頭が回転しなくなってしまった。フリーズした脳の中で今朝のあの子が走り去る足音だけが耳にいつまでも響いている気がした。カヨコが黙って去って行ってしまってから、私はシャーレオフィスのいつもの事務イスに座り、手から滑り落ちていくものについてずっと考えていた。