生徒、山のような仕事、それからやっぱり生徒のこと。手からこぼれていくもの、救えなかった人、助けを求める声。恐怖と永遠に解決しない哀しみに、ぎちぎちのスケジュール、インスタント食品、やめられないコーヒーとエナジードリンクに、焼け付きそうな胃酸の分泌と、チカチカする視界。
最近忙しさは前にもまして増していて、私はその夜もシャーレのオフィスで残業を続けていた。
ああ、やってもやっても終わらない。早くシャワーを浴びて眠りたい。朝が来なければいいのに。そんなことを考える。
朝になるのが怖かった。仕事も、生徒のこともある。また1日が始まるのが怖かった。
もはや、自分が壊れかけていることを私は……自覚できていなかった。
だから、それが襲ってきたのは必然だったかもしれなかった。
「……ッ!?」
突然。オフィスで襲撃を受けたのかと思い身構えた、視界が揺れて、地面が無くなったと思った。足の感覚がない、制御できない、しかし痛みはない、アロナを守ろうとして、それから声が出ないことに気づく、息もうまくできなかった、地面はなくなっていないが身体が制御不能になっている、神経ガスか何かかと混乱する中、頭の冷静なところが考えた。『ついに身体にガタが来たんじゃないか——?』
いつか頭を殴られた時のようだ、とにかくアロナに—— この思考の間2秒や3秒くらいだろうか。それは、突然やってきた。
背中、後ろの方に何かいる……!! 本当に『恐怖』としか形容できないけれど、何かいる!!
それは、『迫りくる恐怖』。
『恐怖』に私は体が、特に右手がガタガタ震えだすのを感じた。それに対して抵抗することが何もできない、動けない—— 怖い、怖いのが、何かが空間を占めている、空間を占めているそれが背中に多いかぶさってくる、恐怖が、体を支配して侵食を始める——私は椅子から落ちた。そして背中を丸めて何かから自分を守るように床にうずくまっていた。
こわい、こわい、こわい、こわい、こわい……! アロナが何か叫んでいた、私はわけがわからないまま、死を覚悟した。
死ぬんだと、思った。
生徒たちの笑顔がフラッシュバックした。みんな、ごめん……と涙がこぼれて……ああ、久々に涙が出たとか考えた。
……何分経ったのだろう。
気づいたら『恐怖』は消えていた。
まるで波が引くような感覚だった。私は気づくと汗だくで、涙を流しながらオフィスの床に転がっていた。息が荒くて、心臓が激しく鼓動を打っていた。シャーレのオフィスの床はなくなっていなかった。攻撃を受けた様子どころか、部屋に何もおかしなことはなかった。アロナの心配する声を聞きながら、私は床に座り込み茫然とする。まだ少し震える両手を見ながら、死ぬっていうのはあんな感じなんだろうかとか混乱しながら考えた。
『先生、大丈夫ですか、先生!?』
私は端末の中のアロナに見られないように涙を拭いて、無理やりに笑いながらふらふら立ち上がった。
アロナに心配をかけたくない。アロナを悲しませたくない。
「ごめん……椅子から落ちちゃった……。」
『先生、よかった……突然顔色が悪くなって椅子から落ちちゃって、ずっと、怖い怖いって言ってました、周囲を索敵したのですがシャーレの付近には何も敵とか驚異の反応はなくて……何度もスキャンして、先生の周りにバリアを張ろうとも思ったのですが、でも』
「……そう、なの……?」
じゃあ、さっきのはいったい……何だったんだ……。
「ご、ごめん……アロナ、心配をかけたね……」
『い、いえ……ただ……先生、ひどい顔色です……最近思うんですが、健康診断とか、受けたほうがいいかもって……」
「あはは、春の健康診断、こないだ受けたばかりだよ?」
『それでも! それでももう一度……! それか、少しでもお休みを取るとか……! さっきの先生の様子は尋常じゃありませんでした』
「尋常じゃなかったって、そんな大げさな……どういう風に……? そんなにおかしかったかい」
「……最近の先生は、身体よりも心に問題がある気がします……傍でずっと見ているからわかるんです……僭越ながら申し上げたいことがあるのですが……」
「……うん……」
「先生は、心療内科か精神科を受診するべきかもしれません。……実は最近の先生の様子と類似するものをずっと検索していたのですが……いいえ……見ていて、わかります。」
——心療内科、精神科。
そう、わかったよ……。アロナにうわの空で返事をしながら、その言葉の半分を私は受け止められずにいた。だが、アロナは冗談でそんなことをいう子じゃない。それは痛いほど知っている。それに私も大人だからアロナの説明も理解できる。しかしそれを受け止められるかは別の問題で……。それでもアロナは本当に心配そうだった。カヨコにも心配をかけてしまっている。アロナを、みんなを安心させるには……そう、時に辛い選択を選ぶことも必要なのかもしれない。
シャワーを浴びて寝る支度をする頃には、足の感覚がないほど疲れていた。今日は流石にベッドで眠ろうと思った。
寝る前に私は個人用のパソコンから心療内科・精神科の医院にメールを送った。キヴォトスの端の方にそういうことに都合のいい医院があることは、仕事中に聞いたことがあった。どうか秘密厳守でお願いしますと祈るように書いた。
その夜、夢を見た。昔の夢。
私は真冬の夜のベランダで一人薄着で凍えていた。雪が降っていた。
ああ、あのころの夢か。そう思っているうちに目が覚めた。
ひどくのどが渇いていて、酷い気分だ——。
予約が取れ、初診の日が来た。私は目立たない服装で深く帽子をかぶり、生徒たちには誰にも会わないようにしながら、キヴォトスの中でも地の果てのようなその土地にやって来た。
医院は小さく見た目は暗かったがそんなえり好みはしていられなかった。医院の中は清潔で、数名の患者が待合室でうつむきながら座っていた。誰も私のことなど気にしていないのだ。ここに来る人たちは皆自分のことで精いっぱいなのだ。それは好都合だったけれど、好都合だと思ってしまう自分の考えが少しさもしく思える。
問診表を書くと、普通の内科とは少し違った部屋に通される。ドクターは、私にやわらかな座りやすい椅子に掛けるように指示してくれた。ドクターとパソコン以外には看護師も誰もいない奇妙な部屋だった。
「こんにちは先生。メールをありがとうございます。秘密は必ず守りますので、ご安心ください。少しお話を伺ってもいいですか?」
精神科ってこんな感じなんだ。正直居心地が悪い、帰りたくて仕方がなかったが、我慢をしてドクターと話をすることにした。
「なるほど……怖かったんですか、背中の方が」
「はい……なんというか……怖いとしか今は形容できません……あるいは……死神が来た、みたいな……」
「そのあとは何度かそういうことはありましたか?」
「……その、あれから何度かやってきて……だけど防犯システムとかにも何も痕跡はなくて……ほとほと参っていて……」
ドクターはずっと、1時間くらいだろうか。私の話を相槌を打ちながら聞く。
私が説明したいことを全て説明し終えると、ドクターは言った。
「先生、ドクターストップです。」
は、はあ? 私は頭を抱えた。動揺のあまり覚えていないが無理ですよ、そんなことは……仕事を休むなんて……、とかなんとか口走ったような気がする。
「私はキヴォトスの、連邦生徒会の、シャーレの……」
ドクターは必死に何か言う私を私を黙って観察していた。私が冷静になり口ごもったころ、ドクターはだしぬけに1種類だけ薬を処方すると言った。
「先生のおっしゃる『恐怖』については、まだしばらく通って頂いて、様子を見させてください。しかし病名が無ければお薬を処方できませんので、一応つけさせていただきます。頓服でお薬を1種類処方します。『恐怖感』等の症状が出た際に1錠飲んでください。強いお薬ですから、1日1回にしてください。どうしてもという時、もう1回で、2回まで飲んで良いです。しばらくそれで様子を見ましょう。難しいでしょうが、なるべくストレスから遠ざかってください。1週間分お出ししておきますので、また来てください。では……あまり無理をなさらないでください。なるべくストレスから遠ざかってください。お大事にどうぞ。」
私はぼんやりと部屋を辞した。院内薬局でもらった薬は銀紙みたいなものに1錠ずつ包まれていて小さくて頼りなくて、変な感じだった。こんなのが効くのかな……と思いながら清算をし、表に出て、束になっている薬からひとつもぎとってポケットに突っ込んだ。最近妙にのどが渇くので水も突っ込んでいるから、最近小さい鞄を持ち歩いている。
物陰でスリープにしていたシッテムの箱を起動した。
「アロナ、すまなかったね」
『先生、どうでしたか……?』
「うん、先生に様子を見てって言われただけだよ。もう、何も心配ないからね。」
アロナに笑って、Vサインをして見せる。アロナはやはり心配そうで、私はすぐに心がしぼみそうになるが落ち込んでいる暇などない。時間休みを取った分、やることも行くべきところも山ほどあるのだから。休んだ分今日も夜まできっと働かなければならないけれどそれでも、それでも……。
『先生!』
アロナのコールに、3秒ほど気づかなかった。ぼうっとしてしまっていたらしい。
『先生、呼び出しです! XX地区で戦闘が発生! 建物内で一人の生徒が大量の爆弾を持って立てこもっていて、自決すると宣言しています! シャーレにも要請が』
最後まで聞く前に私は走り出していた。ヴァルキューレ警察学校の部隊がもう包囲しているらしいが、走りながらアロナの説明を聞き、立てこもっているとされる生徒の画像を見た。
息が止まるかと思った。