頭に血が上りすぎて、何かが壊れてしまった。自分がどうやってここまでやってきたのかは覚えていない。アビドス高等学校の一件で訪れたこのビルの前に私は再び立っている。
今度はネジが外れてヒューズの飛んだ、アドレナリンが出たままの脳みそで私は黒服が座っている部屋に乗り込み彼と対峙する。
「クックック……先生、お久しぶりですね。おやおや、お怪我をされているようではありませんか。いけませんね。そんなにボロボロの服装でここまでいらっしゃったのですか? 生徒や住民たちも流石に心配するのでは?」
ぐいと黒服の前に、私は血まみれの手を突き出した
「あなたのせい?」
黒服は黙った。空気が、ピンと張り詰める。
「あなたのせいなら私は……あなたを……」
「そうです。暴力に頼ればよろしい。あなたがいつも生徒たちをそう導いているように。」
「質問に答えて」
「……いいえ。あれは私の配下ではありません。息のかかった組織でもありません。キヴォトスに一体いくつの悪質な組織があるのかは知りませんが、少なくとも我々の差し金などではありませんね。」
私は踵を返した。クックック、といういつもの、気味の悪い笑いが聞こえてきたがどうだってよかった。それだけわかればどうだってよかったのだ。
「先生、いつぞやしたご提案を——。」
しかし、私はその部屋を結果的に去ることが出来なかった。
床がなくなったような感じがした、目の前で視界がぐらつき、動機がして息が切れ、息が出来なくなる、そして体が震えて汗が出て、そして背後にアレが迫ってきた。
そう、あの時感じた『恐怖』——それが、すごい勢いで私に迫ってくる、私は必死に逃れようとして、できなくて、左足と右足を足を絡ませて床に転がった、痛かったりしたけれどもうそれどころじゃなかった、
「嘘……こんな、所で……!」
私は必死にもがき、黒服の前から逃れ隠れようとした、こんなところを見せるわけには弱みを握られるわけにはいかない
「先生?」
しかし、黒服は私の傍に居た、そして私の肩に手を載せる、
「来るな!」
思わず怒鳴ってしまった、黒服の手が驚愕? 的な何かとともに離れていった、黒服の感情らしきものがなんだったか確かめる余裕なんてない。私は息ができないまま床に倒れ『恐怖』が背中に覆いかぶさり私を襲おうとするのを感じる、怖気の走るその『死ぬんだ』とささやきかけてくるような、ただ空間を占めている死神に襲われているような感覚に私は錯乱し、うずくまって、訳が分からないままに叫んだ、おそらく無意識で
「来るなッ……来るなッ、やめて……やめ……、こわい、こわい、こわい、」
いつだって、子供のころから、怖いとずっと言っていた気がする。ふと気づくと、やわらかい何らかの場所の上だった。私は薬のことを思い出した。
震える手で薬をポケットから取り出す、しかし必死にそれを飲み込まんとしても銀紙が邪魔して開けられない、水も爆発で無くしてしまった、もう終わりだ、私は……!
「先生——失礼しますよ——、」
ふと、手から銀紙入りの薬がとりあげられ、目の前で開けられた、なんだと思っていると黒服に持ち上げられて姿勢を正された。そして口に薬をねじ込まれる、薬はとても苦くて——背中を支えられたと思ったら、水の入った紙コップが口に当てられていた。
藁にもすがるような思いでそれを飲み込む。ゲホつきながらも、それは喉を通って確実に体に入っていく。黒服に何か言葉を言いたかったが、礼を言うことはできなかった。まだしばらくは、『恐怖』がいて、それからも私はおびえ続けていたからだ。
「……。」
ソファでうなだれ、髪に手をつっこんでいた。息を吸ってはく。恐怖は次第に引いていき、どこかへ行ってしまった。ああ、まだ生きている。どうやらまだ、生きている。
情けなくて泣きたい気持ちと泣いてはいけないという気持ちと疲れ果てたという気持ちと焼け付きそうな胃の不快感と薬の副作用による眠気がないまぜになっている。黒服は黙って私を見下ろしているようだった。
「……全部、忘れてくれないかな」
……痛いほどの沈黙
「生徒たちに、こんな所、見せられない……自分が馬鹿なことをしてるのは分ってる、だけど」
私は黒服をすがるように見上げた。きっと無様で、滑稽な顔をしていると思う。
「絶対に生徒たちのせいじゃないし、そういうことは、言いたくないんだ……」
黒服は何も言わない。何を考えてるかわからない顔でこちらを見ている。顔と呼べるのかも私には何もわからないが。
「死が、」
乾いた笑い。私は気づいたら笑っていた
「死が、鎌を持ったボロボロの死神みたいな姿でやってくるなんて嘘だよ。それは空間を占めているだけだったり、ただ座ってこちらを見て笑っている青少年だったりするんだから。一つだけ言えるのはアイツらは拒否すればするほどものすごい勢いで近づいてくるってことだけ。そして受け入れようとすると何処かへ行ってしまうんだ。はは、ははは……」
しゃっくりみたいな笑いが止まらなくなる。私は笑ったまま、ふと思い立った。顔を覆って、この両目をつぶしてしまおうと思ったのだ。もう、何も見えなくなれば、怖くもなくなるんじゃないか。そうやって両手を顔に当てたが、しかしそれは叶わなかった。
黒服が私の両手首をつかんで止めさせたからだった。どうしてそんなことをするのかわからないままの私に彼は、彼にしては珍しく——怒りを押し殺したような声だった。
「我々は 慈善事業をしているわけではありません」
……そっか。とかなんとか言った気がする。何の対価が必要なのだろう。終わっちゃたのかなあ、私の先生としての、生徒たちとの、時間……。
黒服は私の両手首を離すと、驚いたことに私の隣に座った。なんだよとか思っているとまた息が荒くなってきた、ああ、また来るのか、そう思った時。
黒服が私の肩に手を置いた。そして私を彼の方にもたれかけさせてくる、どうしてという前に目を手で隠された。人肌より少し暖かい肌だった。
「違うんだ」
絞り出すような自分の声に、
何が違うんだよ、と矛盾する脳の声を聞く。ふとそのせいで何かが決壊しかけて、必死に取り繕う。
「生徒たちのせいとか、仕事のせいじゃ、なくて、その、あの」
「……深呼吸でもなさったらどうですか」
ぶっきらぼうな言い方だった。この謎の男はこんな喋り方するやつだったっけ……と思いながらそれでもなんだか肌が暖かくて、気づいたら笑いは止まっていた。視界はふさがれていたが、暖かな黒服の片腕の中に居るとなんとなく安心感があった。認めたくないこともあった。恐怖が、次第に遠ざかっていくような気がしていたからだ。変だと思う。決して安心できない場所なのに安心してしまいそうになる。随分と得られていなかった安堵がやってくることに期待しそうになる。そんなことは断固として認めたくない。だけど、ここは暖かい。
「……どうして……?」
黒服は答えなかった。