(8)罠
トリニティ内の診療・入院施設に今日も面会に向かった。
彼女は個室のベッドに眠っている。起きると興奮やせん妄があり、安定しないため鎮静剤を投与されていると説明をされた。
身体に未だ残る痛々しい傷跡が生々しかった。私は彼女が眠るベッドの傍の椅子に座り、届きもしないことをば投げかける。
「きみは、私にいっぱ言いたいことがあったんだよね」
寂しい、何もない個室の彼女が見られそうなところに花を活けて、置いた。彼女が何色の花が好きなのかも私は知らない。
私は、何を見逃していたのかな。
トリニティを去る際、アロナの声が届いた。とても言いづらそうで、しかし私をおもんばかってくれているのか、無理やり明るさを伴っっていた。
「先生、今日は夏祭りの日です! 来賓として招かれてましたよね、あの地区で、」
「ああ……そうだったね……忘れてた。今夜だね、行くよ行くよ。教えてくれてありがとう。」
アロナは何も返事をしなかった。あの地区での付き合いのことを私もアロナも忘れるはずがない。
最近、すぐわかる嘘ばかりついている。
それから、私が思い出せること。
その夜遅く。私が千鳥足で黒服のオフィスに入ると、彼は珍しく席を立っており窓の外の景色を見下ろしていた。
私はバームクーヘンの入った箱を黒服に投げつけようとしていたが、黒服が振り向いたのでやめた。こいつは何だか知らないが気味の悪い笑いをしなくなった。
それが無性に気に入らない。いっそ笑ってくれるのなら、どれだけ気が楽になるだろう。
「先生、いやがらせですか」
「おしゅきでしょ? バームクーヘン」
ドスンとまた乱暴に気の毒なバームクーヘンを黒服の机に置いた。
「今日は抹茶味!」
「だいぶ酔っていますね。」
「誰が酔っ払いですか! 先生はそんな無様なことはしません!」
「シャーレにお戻りなさい、先生。この部屋に吐いたりする前に。お出口はあちらです。」
私の目が据わっているのが窓ガラスか何かに反射して見えたなあーとか、あの時は酔っぱらった頭で考えた。
ああ、そんなことばかり覚えている。
「……そうやってずーっといってりゃいいじゃないれすか!」
「先生」
「そうやってずーっと、野暮なこといって、やぼやぼやぼやぼと」
「先生」
「やぼ仲間とみんなで、やぼやぼして、どうせ私のことなんか……私のことなんか!」
「先生。いい加減にしないと叱りますよ。」
私は流石に黙ったと思う。目に、涙が溜まっていくのを感じて黒服の言葉を聞きながら袖口で涙をぬぐう。子供のような、間抜けなことをしたと、ひどく後悔した。
どうして何度もここにきてしまうのかなんて知っている。
それでも、断固として認めたくないことがあって、その気持ちに苦しめられている。
「何か嫌なことがあったのでしょう」黒服はにこりともしない「ストレスが顔に出ています」
私は今日夏祭りの来賓として参加した際のことをふと思い出した。そこで酔いは結構醒めたと思う。
それほどまでに嫌な記憶だった。
「じゃあ……帰るんで……。迷惑かけてすまなかった……、」
ふいと背中を黒服に向けたが、急に肩をつかまれ引き留められた。圧を感じた。何の圧だかわからない、一歩も動けなかった。
それか——期待するようになってしまったか。
「何をされたんですか。」
言うまで絶対に帰さない。そんな意志のこもった声色だった。いつものようにクックック……とか気味悪く笑ってほしかった。
あの時のように相対できればよかった。これからも、これまでも。しかしそうならなかった、そうはならなかったのだ。
「別に……よくあることだよ……ちょっとセクハラされただけっていうか……あ、生徒たちのせいとか、生徒たちからじゃないよ?!」
「……余計にたちが悪い……」
「そう……そうかな、そうか……でも祭りなんてみんなお酒が入るから……そういうものですよ、私みたいなのなんて、きっと誰にも」
半笑いで振り返った。見たこともないくらい恐ろしい無表情があった。
「あの、」
黒服に両手首をつかまれる、私は流石に困惑した
「そうやって 誰にでも気を許すのですか、あなたは」
「え……い、いたいよ、や、やだ」
「あなたは、そうやって己をゴミのように扱って、誰にでも触らせる」
「そんな……そんなわけないだろ‼」
バシンと黒服の手を振り払う。あぁ、やってしまったと思った。なぜか心が痛んだ。ずごく痛かった。
『恐怖』が、背中からまた忍び寄って来てからだが勝手に震えだす。今回ばかりは薬が間に合うようにすると銀紙をやぶろうとしたが、さっと薬を奪われてしまった。
「これはアルコールを摂取した後には飲んではいけない薬です、肝臓に負担がかかります、説明書きにそう書いてあったはずでしょう」
「あ……でも……これがないと……私……」
私は、薬がないだめなんだ。そんなことを言ってしまいそうになって、おかしくなりそうになった。
叫びだしそうになった。只管に、悲しい気持ちになった。
ぶるぶる震えている私を見て、彼は何を思ったんだろう。
ふいに、黒服に抱き寄せられた。
それから抱きしめられた。
背中に、自分より暖かな手の感触を感じた。
それは私の背中を優しくさすり始めた。
一切、ためらいがなかった。
「あ……だめだよ……」
抵抗しようとしたが力ではかなわないらしく、私は真っ白になりかける頭の中でひっしに言葉での抵抗を試みようとする、アロナを頼ることも一瞬考えたがとでもじゃないが、そんなことできなかった。
心が張り裂けそうだったが断固として認めたくない、認めてはいけない、
「だめ、そんなことしないで……そんなことをされたら……」
「何もなかったことにしてさしあげられるのも今夜までです先生。ですから」
「いやだ……」
「困らせないでください」
「裏切り、だ……こんなの……生徒への裏切りだ……」
ククッ、と、いつか聴いた笑い声が、少し諦めを含んだ笑い声が耳元で聞えた。
「そうですよ。私は悪い人なんです。先生の敵です。」
「……そう……」そうか……理解した。私は腕をだらりと垂らす。そして去っていこうとする『恐怖』を恨んだ。
おまえは、そうやって私を苦しめていたんだな。
「そうだった」
それでも。
「それでも認めたくないんだ、認めたくないんだよ」
大人は、ときどき、理由がないと何もできない生命体になる。しかし黒服の腕の中は暖かく、落ち着く香りがする。
「これは罠だ」
「罠でいい、そう思います」
「罠……だから悪い人……ってことか……」
罠なら仕方ない。私は罠にかけられてしまったんだ。私は黒服の背中に、そっと手を回した。
そのまま、完全に『恐怖』が去っていくまで少し時間を要した。どういう原理なのかわからないが、一応問うてみる。
「ねえ、これはあなたのせいなの」
「……さあ」
かわされてしまった。すっとぼけたとも言う。まあ、そうだとしたら大したマッチポンプだよな。それも意味のないマッチポンプだ。意味のないマッチポンプって何が目的でやるんだろ。
ふっと、体が離れた。寂しさを感じてしまう己が憎たらしく感じたが、スマートに部屋の隅で我々を待っているあのソファにエスコートされる。
座りながら、私はまた背中や腕をさすられる。もういい治ったんだ、もういいんだと言いたかったが、謎の力に抗えない。こうして背中をさすられたり甘やかされることに、謎の中毒症状を感じている。抗えない。
「あなたに、あなたにこうされると……どうしてだろう、アイツがどこかに行くんだ……空間から剝がれていく……」
「そうですか。……失礼しますよ。」
そっと、まぶたに手を当てられて反射的に目を閉じた。なんだか体が重くなって、私は黒服に身を預けてしまった。
「お疲れのようです」
「……そうみたいだ」
今更ながら——今日祭りでされたような事への怒りや抵抗感は不思議となかった。
ふと、昔のことを思い出した。悪夢としか言えない経験。それは、ぐちゃぐちゃになった紙のように戻らぬ、いつかの心の傷。
冬の日にベランダに放り出されて鍵を閉められたこととか。
食事をいつも自分で作らなければいけなかったこととか。
みんなが持っているゲームやおもちゃを買ってもらえなかったこととか。
お小遣いや本を買うお金を貰おうとするたびに嫌味を言われたこととか。
他者との距離感を間違えて苦しい思いをしたこととか。
大人が誰も助けてくれなかったこととか。
今でも生徒が喜んだことや反応があったことは覚えておいて、かならずメモをとる。そうしなければわからないことがある。
他人との距離感がわからなくなるから。
それでもいい。あの頃よりは ずっとずっとしあわせだから。
「私は悪人なので、先生の悪夢でも盗んでゆくことにしましょうか……」
黒服のひざに頭を載せると、とても落ち着いた。……悪いね。とかそういうことを夢ううつつの中で言った気がする。
断固として認めたくない想いの断固の部分は、結局あっさりと瓦解してしまった。