青春は生徒たちのために   作:金ミ槌本Serif

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(9) 悪者

 長い長い時間が過ぎた気がする。

 それから、私はチクタクと動く時計の音で目を開けた。黒服の部屋に時計はなかった気がする。

 七時という時計の時刻が目に入った。ああ、ここシャーレか。……確認した。シャーレだ。

 むくりと起き上がる。なんだか、深い眠りだった。とてもつもなく久しぶりに深く眠れた気がする。

 ジャケットの上、椅子にかけられている。ネクタイ、ジャケットの上。ベルト、同上。シッテムの箱、机の上。

 何をされた形跡もない。なんというか、平穏無事だ。

「……ふん……いくじな……いくじ……。」

 呟きながらうつむく。

 膝を抱えたくなったけれど、まずはシャワーを浴びて、そっぽをむいて怒っているアロナに謝ることにした。

 

 

 ここ最近、朝はいつも一番にトリニティ内の診療・入院施設へ面会に向かう。 

 彼女は、個室のベッドの上でぼんやりと花瓶と、窓の外のほうを見つめていた。

 私は持ってきた果物のゼリーが入ったかごを片手に挨拶をした。

「起きられたんだね、よかった。」

果物ゼリーの入ったかごをサイドテーブルに置いていると、彼女は張り詰めたものがはじけたように、しゃくりあげて泣き出す。

「袖で擦ったら目が傷ついてしまうよ。」

私は持っていたハンカチで彼女の涙をぬぐった。

 

 彼女が落ち着くまで、少しかかった。私はずっと椅子に座ってティッシュを片付けたりした。もう私にはそれくらいしかできない。

「先生、ごめんなさい」

 だしぬけにつぶやいた声に、いいんだよとか返す。

「私こそ……君のことちゃんと見ていなかった。すまなかった。」

「ううん、もういいの……先生はみんなを助けてあげて……。私、しばらくはここにいなくちゃいけないの……そう聞いたから……。」

「……そっか。でも、いつでも頼って。私は先生だから。」

夕立が降りそうな天気だった。やれやれ、夏が近い。

「ねえ、先生には、いるの……?」

「……えっ?」

「好きな人とかいるの……かなって」

私は少し考えて、緊張した口元を緩ませた。

「……そうだね。でも、恋をしてるわけじゃない」

「……?」

「愛することもできるかわからない。もはや友情なのかすら判別できない……そういう奴ならいるね。」

「……そうなんだ……」

「よくバームクーヘン持って会いに行くんだけどね」

「……バームクーヘン?」

 怪訝そうな顔をする彼女に私はニッコリする

「そう。先生は性格が悪いから、だから、これはきっといやがらせ。すっごくいやそうな顔をするから、いつも持って行ってその顔を見るのが、そう、きっと楽しみなんだね。」

「……なにそれ 変なの」

 彼女は笑った。初めて見る笑顔だった。

「そう。先生は変な人なんだ。でもそれでいい。それがいい。」

「その人は、先生にとってきっと大切な人なんだね」

「……そうかもしれないね……ある意味では信用できるよ。信頼はしてないし、分かり合える気は しないけど……」

 少しずつ、何かがほどかれていく音がする。

 彼女はティッシュ箱を握りしめながら言った

「先生、私、また頑張れるかな」

「もちろん」

「とっても不安なの」

「じゃあ、先生がついてるよ。いつでも見守ってるから」

「……どうして……? どうしてそんなに優しいの、私、先生の前で——。」

「先生はみんなを見守るのが好きなんだ」

……そっか。と彼女はひとりごちた。そしてうん、とうなずいた。その時私は理解する。

 

 彼女はもう私のことを見ていない。それでいい。きみはこれから自分の未来を自分で決めて、自分で見つめて歩いていかなければいけないのだから。それでいい、そうあるべきなのだから。

 

「また顔を見に来てもいいかな」

「うん……待ってる」

「ありがとう。」

 私は笑顔で手を振りながら、病室のスライドドアを閉めた。

 ひとつ、何かを繋ぎ留められただろうか。

 ふと一息つく。雨が降る前に例の店に行こうと思った。

 

 

 黒服の居るところへ、私は向かっていた。今日はチョコ味のバームクーヘンを持って。

 相変わらずとても不服そうな顔で毎回デスクに乗ったそれを見る。そういう顔を見るのが癖になっている。

「先生……あなたにそれを押し付けられるたびに……私がどんな顔をして部下たちに渡しているのか……ご想像いただけますか?」

「知ってる。 だからいやがらせ」

「……勘弁してください」

「今日はちゃんと小分けになってるやつ買ってきた」

「……」

「こっちのほうが容量少ないけど分けやすいよ」

「先生、あなたは少し無邪気がすぎる……」

 無邪気ねえ。そう考えながら私はでかい机をぐるりと回りこみ、座っている黒服の前にやってきた。

 叫びだしたい気持ちがあった。ずっと会いたかったとか言いたかった。だけど、私の体は棒みたいにつっぱっている。

 怪訝そうな黒服の前で、だしぬけに出てきた言葉はどうしようもないものだった。

「……いくじなし」

「は」

「いくじなし……悪者……」

私は黒服の方に手を伸ばす。断固として認めたくないという気持ちが警鐘を鳴らしていたがどうだったよかった。 

「……背中、あたためて……お願い……」

 すがるような声が出てしまった。

 黒服は少し面食らっていたような気がする。しかし私の手を取り言った

「……知りませんよ……」

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