小宮山家の朝は早い。
早いというのはヨウの独断的な評価ではなく、
あくまで若者世代の平均的な起床時間と比べて、である。
階下をパタパタ走り回る音で目が覚めて、
ベッドサイドに置いてある時計に視線を移す度に枕に顔を埋めたくなる。
「五時って……、おかしいだろ」
働き者の愛妻も結婚して二年間はここまで早起きではなかった。
何故彼女が新聞配達でもする気か!と突っ込みたくなる程に早起きになったかと言えば……。
「おとーさんっ!!あさがきたよっ!!」
勢いよく寝室の扉が開けられたかと思うが否や、
小さくて柔らかい生き物が可愛らしい声と共にベッドに丸まる自分の上に飛び乗った。
「ゆう、頼むからもう少し寝かせて……」
自分の会社はフレックスだから七時に起きれば十分間に合うと、
この小さな我が子に説明しても理解できないだろうことは分かるから、
ヨウは不毛な日課となりつつあるやり取りを今朝もまた繰り返す。
そんな大人の我儘をゆうが許してくれなくても、だ。
「だぁめ~っ!!おとーさんっおーきーてー!!」
グイグイ毛布を引っ張るゆうに今日も負けて、
ヨウはわかったわかったと上に乗ったゆうを支えて起き上がった。
「きゃあーっ♪おこちるーっ!」
ベッドボードに背を預け満面の笑みで肩によじ登って来たゆうの身体を持ち上げると、
小さな手足を伸ばした身体が、ゆう曰く『ジャンボジェット』の態勢で停止するのがおかしい。
支える手が絶対に落とさないことを分かっていても、
落ちちゃう!とはしゃぐのがゆうのお気に入りらしい。
最初は「ジャンボジェットをしろって、なんだ?」と
ゆうのリクエストの意味が分からずに首を傾げていたけれど、最近ではゆうの意向を汲み取って、
少々早過ぎる朝のひと時をこうやってじゃれ合って過ごすようになった。
「ゆう、少し重くなったね。お母さんと一緒にご飯をいっぱい食べてるせいかな」
きゃらきゃら笑う我が子に言うと、小型のジャンボジェットはピタリと止まり、
大きな瞳を見開いてヨウを見た。
晴菜がこっそり教えてくれたゆうのコンプレックスは、
同年代の子ども達の中で一番小柄なことらしい。
幼いながらも男としてのプライドを持っているゆうにとって、
女の子よりも小さいことは気の強い彼の矜持を揺るがしかねない一大事なのだろう。
晴菜が作るボリュームのある食事と、牛乳を毎日欠かさないのはそんな彼の努力の証だ。
「ほんと?ゆうおもい?」
「ああ、先週よりも重くなった。少しずつ、大きくなっているんだね」
そう告げるとゆうは目をキラキラさせて手足をばたつかせた。
嬉しくて堪らない。
そんな様子の彼を見て、こんなにも愛おしいと思える存在をくれた妻に感謝する。
「ゆう、お母さんにお父さんは起きたって知らせなくていいの?」
いつもならジャンボジェットに満足すると、階下で朝食の準備にいそしむ晴菜に、
父親が起きたことを伝えに行くのだが、
今日は大きくなったと言われたことが嬉しかったのだろう、
母に報告に行くのをすっかり忘れていたらしい。
あ!という顔の我が子を床に下ろし、行っておいでと頭を撫でる。
しかし、ゆうが駆けだすより一足早く、晴菜がドアから入ってきた。
「ヨウ、もう朝だよ~っ」
「大丈夫、今朝もゆうがしっかり起こしてくれたよ」
ね?と我が子を見ると、ゆうは少しだけ得意そうに頷いた。
「おとーさんっ、ジャンボジェットでゆう、おもくなったねって!!」
母親の足もとに纏わりつきながら、
大きくなったと指摘された喜びを懸命に母に伝えようとしている息子を抱き上げて、
晴菜はその柔らかな頬にキスをした。
我が子に何度もキスをする晴菜を見ていると、バラ色の日々という言葉が頭に浮かぶ。
彼女といると幸せとはこういうことなのだと実感できる。
「よかったね、ゆうっ!あとで体重計に乗ってみようっ!
さっ、ヨウも起きて、ご飯にしようっ」
ゆうを抱いたまま部屋を後にしようとする晴菜を呼び止めて、
傍らに近付いてその腰を引き寄せた。
じっと見つめると顔色が面白い程に変化する晴菜の耳元に口を寄せた。
まるで、子どもに聞かせない為の、二人だけの睦事のように。
「オレには、無いの?」
「えっ?」
顔を戻して向き合うと、案の定顔を真っ赤にした晴菜が目を瞬かせた。
瞳が投げる問いには答えず、ヨウは晴菜の腕に収まって、
母親と同じく大きな目をパシパシさせているゆうに告げた。
「ゆう、先に下に行って、みんなのご飯をよそっておいてくれる?できるかな?」
「うんっできるっ!!」
「お母さんとゆうは山盛りで、
お父さんはお茶碗の葉っぱの絵が隠れる所までで、頼んだよ」
「わーいっっ!!!」
そこは「はーい!」だろうと思いながら、
手伝いを頼まれた事を喜ぶゆうに笑みが零れる。
母親の腕からすり抜けて階下へ走るゆうの背を見送って、
ヨウは晴菜に視線を戻した。
「ゆうがあんなに素直に育ったのは、アンタの影響かな」
子育てに正解はないけれど、生き生きと笑顔を振り撒く我が子を見れば、
彼の周りを取り巻く世界がバラ色なことだけは分かるから、
この愛情深い愛妻にヨウは心からの感謝を思う。
「アンタはゆうにとって最高の母親だろうね。
本当にゆうが、我が子ながら羨ましいよ」
そう言ってヨウは晴菜と身体を更に密着させた。
グッと腰を抱く腕に力を込めると晴菜の顔が少しだけ近付く。
見上げてくる目元が染まり焦る口元が自分の名を紡ぐ声が心地良くて、
口唇に触れそうな距離まで顔を寄せた。
「ううっっ!うらやましいって?!」
晴菜が上擦った声でそれでも疑問を口に乗せる。
彼女が口を開く度に熱い吐息を口唇に感じる。
「そのままの意味だよ。
オレがアンタから貰うのにどれだけの時間と苦労をかけたか分からない物を、
子どもってだけであの子は一瞬で貰える。
父親にとって、愛しい我が子は時に脅威の存在でもあるって知ってた?」
口唇には触れず晴菜がゆうにしたように、柔らかな頬にキスをすると。
晴菜は一瞬目を瞠り……。
「えとっっ?う……ん?、……あああっ!!もしかしてヨウっ!!
ゆうみたいにっっ、ききき、キスされたかったっ、とかっっ?!!」
まさかヨウがっ!!でもっ!キャャアアーッ!!っと叫び照れる晴菜に、
ヨウは頬を引き攣らせた。
「……アンタ今、オレのこと可愛いとか思わなかった?」
「うんっ!!ヨウにもゆうみたいに子どもみたいなとこあるんだねっ!!
こーゆうヨウも新鮮でいいねっ!!」
無垢な晴菜の発言に、ヨウのこめかみがピシリと軋んだ。
何歳になっても妻の前では夫は甘えたがりの駄々っ子だ。
一瞬で妻から母親へとその顔を一転させることに、
全く不満が無いわけではない。
だからたまには子どもの目を盗んでそっと、
妻との甘いひと時を過ごしたかっただけなのに、
ゆうと同じ括りにされては意味がない。
腕の中、嬉しそうに笑う顔をブニっと摘み、ヨウは不敵に微笑み返した。
「今日はゆうをあまり長い時間昼寝させないで、
できれば沢山外遊びをさせておいて。
明日の朝、ゆうだけ先に起きるなんて可哀想だ」
「ゆうだけって、なんで?ゆうは体力があるし、どんなにいっぱい遊んでも、
多分明日の朝もわたしと一緒に、また五時には起きると思うよ??」
しれっと言い切る晴菜の言葉には、
ゆうの一番近くにいる人間だからこその説得力がある。
身体は小柄でも秘めたパワーは母親譲りということだろう。
ゆうの体力の前で大人の狡さは通用しないのならば、正攻法でいくしかない。
「さすがアンタの子だね……。じゃあ、ゆうには後でオレから言っておくよ」
「ヨウがゆうに?なんて??」
その質問には答えずに、鈍い妻の返答にめげることなく、
ヨウは腰から太腿にかけて描く流線的な曲線を優しく撫でた。
わあ!と色気の無い悲鳴を上げた妻に苦笑して、
口唇に深いキスを仕掛けながら、ヨウははっきり宣言した。
「今日は仕事、早めに切り上げて帰るから。明日は早起きできないと思ってて」
その囁きに真っ赤になって口をパクパクする晴菜に、ヨウは満足げな笑みを浮かべ、
ゆうを見てくると一階のキッチンに下りて行った。
「ゆう、ご飯はよそえた?」
三人分のご飯茶椀を並べ終え、自分の真っ白いピカピカのご飯の上に、
黄色いのりたまをちゃっかりかけて。
父と母の登場を待っていたゆうは、えへへと照れ臭そうに笑った。
「ああ、上手によそえたね。ありがとう、ゆう」
父親譲りの黒髪に手を置くと、恥ずかしそうに身を捩る様が可愛い。
髪を梳く大きな手に気持ち良さそうに身を任せる姿が、
夜の時間の終わりに見せる妻の無防備で幼い表情と重なって、
この人懐こさは母親譲りだなと苦笑する。
この愛しい存在から一時母親を奪ってしまうのは忍びないけれど……
「ゆう、明日はお父さんと一緒に起きようか」
「おとーさんと?おかーさんは?」
お日さまの日差しに抱かれゆうがゆっくり目を開けて、おかーさんと声を出せば、
パタパタと慌てた風に母がその傍らに来てくれる。
それが明日は、おとーさんになる?
ゆうは不思議そうな顔をしてヨウを見た。
疑問と不安を滲ませたゆうの前にしゃがみ込み、
目線を同じ高さに据えてヨウは優しく答える。
「お母さんは明日、お寝坊の日なんだよ」
お寝坊の日。
そう聞いてゆうはなるほどと納得する。
ゆうが誰より愛してやまない母が、
時々寝坊することは過去にもあった経験として理解していたからだ。
いつも早起きの母親も、「おそうじ」や「おせんたく」、
「ゆうしょくのしたく」に「あいろんがけ」などで疲れた時は、
ゆうが呼んでも来れないので、その代りに父親が来てくれる。
母が来てくれないのは寂しいけれど、ゆうは大きくて優しくて、
母と同じ温もりをくれる父親も大好きだったから。
「あしたは、おとーさんとおきる」
たくましい我が子の決意に、ヨウはさすがアンタの子だね、と心の中でそっと笑った。