——風が、吹かない。
目覚めた瞬間、ウィンはその異変に気づいた。空の色は霞がかかったように曖昧で、地面に生える草はどこか灰色じみている。まるで生気を吸い取られたかのように、すべての色彩が鈍い。
「ここ……どこ?」
誰に問うでもない独り言は、耳に届く前に吸い込まれて消える。風の気配がまったくない。風の霊使いである彼女にとって、それは世界から拒絶されているような感覚だった。
ウィンは小さく息を吐き、進む。
彼女の足元に広がるのは、かつて精霊たちと遊んだ草原によく似た風景。しかし、その記憶と決定的に違うのは——静寂。
鳥のさえずりも、草のさざめきも、仲間たちの笑い声もない。無音の中、足音すら地に吸われているように感じられる。
「おーい! アウスー! ヒータ! エリアー!」
ウィンの叫びも、むなしく霧の中に消える。
そのとき、霧の向こうに人影が浮かび上がる。
「ウィン……」
それは、彼女自身だった。けれど、少しだけ違う。
笑顔ではなく、怯えた目をしている。
髪は乱れ、ボロボロのローブを纏っている。
「……あたし?」
鏡像のウィンが、一歩ずつこちらへと近づいてくる。足取りは重く、引きずるようだ。
「みんな、いなくなっちゃったよ……ね?」
その声は、震えていた。まるで、心の底に沈んだ記憶が言葉を借りて浮かび上がったかのように。
「きっと……ウィンなんか、最初からいらなかったんだ」
「違うよ!」
ウィンは首を振った。だが、心の奥がチクリと痛む。思い出してしまった。過去に何度も見捨てられる夢を見たことを。みんなが、自分の名前を呼ばずに背を向けていく夢。
——心が、風を失ってしまう夢。
「……わたしは、怖いの……」
鏡像のウィンが呟いた瞬間、大地が揺れた。
空から黒い羽のような影が降り注ぎ、地面が崩れ落ちる。そこに広がっていたのは、無限に続く虚無の空間だった。
「いや……いやだっ!」
ウィンは走った。けれど足元の草は次々と枯れ、逃げ場を失っていく。鏡像のウィンが手を伸ばしてくる。
「一人じゃ、もう立っていられないよ……」
——それでも。
「違う! あたしには……風が、あるもん!」
胸の奥で、風の気配が揺れた。微かに、確かに。
「ずっと一緒だった! いつも、そばにいた!」
霧の中で、ウィンが叫んだ瞬間、背後から烈風が吹き荒れた。その風は迷宮の霧を切り裂き、鏡像のウィンを後退させる。
そして——空が割れる。
突風とともに舞い降りてきたのは、風の契約精霊【ランリュウ】。
銀白の体に翠の紋様を纏い、四肢に風を纏った龍は、ウィンの心の中心に降り立った。
「……あなたが、あたしの……?」
ランリュウは静かに頷き、その瞳は確かにウィンの心を映していた。迷いも、恐怖も、弱さも。すべてを見たうえで、共にあろうとする眼差しだった。
「うん。……あたし、ちゃんと向き合う。怖いけど、それでも……!」
その言葉と共に、ランリュウが咆哮する。
風が再び、ウィンのもとに戻ってきた。