残響   作:tokiya_Raum


原作:東方Project
タグ:R-15
不老不死の藤原妹紅は、死ねない苦しみの中で生を持て余し、因縁の蓬莱山輝夜との果て無き殺し合いを繰り返す。
孤独な竹林での日々、友である慧音との静かな語らいを重ねながら、妹紅は自身の存在と永遠に終わらぬ時間に問いを投げかける。

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残響

 竹林がその深奥へ行くほどに、道なき道が交錯し、わずかな風の通りすらも拒むように生い茂っていた。迷いの竹林と呼ばれる所以は、その名の通り一度踏み込めば容易には抜け出せないほど複雑に入り組んだ地形にある。人里からそう遠くない場所であるにもかかわらず、この竹林を訪れる者は限られていた。

 

 もっとも、そこを住処とし、我が物顔で暮らしている人物がいる。藤原妹紅。不老不死という、人間とはかけ離れた宿命を背負った少女——いや、すでに少女と呼ぶのもどうかと思えるほど長い時を生き続けている存在だ。

 

 妹紅は竹林の中にぽつんと建てられた小さな小屋を拠点にしていた。そこには簡素な調理場と、いくつかの座席用の丸太。通称“焼き鳥屋”。店と呼ぶにはあまりにも質素なそれを、妹紅は気まぐれに開いては、道に迷い込んだ人間や妖怪を相手に焼き鳥を売り、時には出口まで案内することもある。竹林に近づけば煙のにおいがするため、それを頼りに辿り着く客もいた。

 

 人里の屋台ほどには賑わいを見せないが、それでも迷いの竹林を訪れた人や物好きな妖怪が立ち寄ることで、それなりの収入を得ているらしい。とはいえ、妹紅本人は不老不死の身であるがゆえに、あまり金銭にも生活にも執着がない様子だった。

 

 その日の昼下がり、妹紅は小屋の外で炭火を起こし、ゆるゆると火加減を調整していた。日はちょうど真上に昇り、竹の隙間から細い光が差し込んでくる。竹林特有の涼やかな風が通り抜け、軽く汗ばんだ額をさっと撫でていった。

 

「さて、今日も客は……あまり来ないかもね。」

 

 妹紅はそう呟きながら、火の具合を確かめるために炭の上に数本の串を置いた。じゅう、と脂が落ちる音が心地よい。今にも香ばしい匂いがあたりに漂いそうだった。

 不老不死になって以来、彼女にとっての食事は趣味に近いものでしかない。飢えることもなければ、栄養を摂らずに倒れることもない。血色や体調といった指標ももはや無意味だった。だが、人間だった頃の名残か、あるいは完全に忘れることのできない生きた感触のためか、こうして何かを食べたり調理したりすることは嫌いではない。むしろ妹紅は、焼き鳥を炙る火の色や香り、そしてそれを求めてくる客とのやり取りが、退屈な無限の日々の中での数少ない楽しみでもあった。

 

 もっとも、いざ客が来ると、妹紅はあまり愛想が良いわけでもない。荒っぽく見える態度や言動には、時折り育ちの良さを感じさせる妙な端正さが混ざる。そこがまた、彼女の不思議な魅力でもあるのだろう。

 

 炭火の熱が程よくなった頃、どうやら何者かが竹林をうろついている気配があった。竹を踏み分ける音がかすかに聞こえる。妹紅は耳を澄ましながら、来訪者を見極めようとする。

 

「お客さんか、あるいは迷っただけか……ま、どっちでもいいか。声くらいかけてやるか。」

 

 そう独り言を漏らしつつ、彼女は立ち上がって竹林の小道へ目をやった。すると、案の定、ふらふらと心細そうに歩く人間の男性が見えた。どうやら顔に見覚えがある。人里で何度か見かけたことがある人物だった。

 

「おい、そっち行き止まりだよ。曲がり角をまっすぐ進んだら、店があるから寄っていけば?」

 

 竹林特有の入り組んだ地形に慣れていないらしい彼は、妹紅の声に驚いたように足を止めた。それから慌てて小屋のほうへやって来る。妙に怯えた様子で、背後に何かの気配を感じると言いかける。

 

「た、助かりました! 竹林に入ったまではいいんですが、道がわからなくなって……。あ、あの、何か焼いてますか? いい匂いが……」

 

「焼き鳥だよ。腹減ってるなら食ってけば? ただし、ちゃんと金は払えよ。」

 

「あ、もちろん! ここって、噂に聞く……その……モ、モコウさんの店でしょうか?」

 

「“さん”付けはいらない。妹紅でいいよ。ほら、座って。」

 

 客人は緊張しながらも、店先の丸太に腰かけた。妹紅は無造作に転がっている竹筒の容器から湯飲みと急須を取り出し、客にお茶を注ぐ。おかしなことに、湯が常にちょうどいい温度で用意されているのだが、そのあたりは妹紅の細かな気配りが行き届いているようだった。

 

「へえ、ありがとう……。助かります。」

 

「礼はいい。金を払うなら、鳥も追加で焼いてやる。……ところで、あんた、竹林に何しに来たんだ?」

 

「実は、永遠亭に行きたいと思ったんです。診療所を営んでるって聞いたものですから……だけど、迷いすぎて……。」

 

「ああ、永遠亭か。ならここから案内できるけど、今日はもう診療やってるかわかんないよ? それでもいいなら、食べ終わってから連れてってやる。」

 

 そう言いつつ、妹紅は串を数本、絶妙な火加減で炙りはじめる。その動作には迷いがなく、一見ぶっきらぼうに見えるが、焼き鳥の焼き具合は実に丁寧だった。時折パチパチと脂が弾ける音がし、香ばしい煙が空気を彩る。

 

「ずいぶん手際がいいんですね……。うわ、めちゃくちゃうまそうだ。」

 

「慣れてるからね。ま、焼き鳥屋も暇つぶしみたいなもんさ。」

 

 妹紅が自嘲気味に言うと、客は不思議そうに首をかしげた。竹林で焼き鳥屋なんて、風変わりな仕事だと思うのも無理はない。ましてやこの場所で、ひとりで生活をしているとは想像もしなかっただろう。

 

「……けど、こんな竹林の中で暮らして、怖くはないんですか? 妖怪も出るとか……。」

 

「あたしは別に平気だ。妖怪に襲われても、どうせ死なないし。」

 

「し、死なない……?」

 

「なんでもない。……ほら、焼けたよ。あんまり詮索すんな。」

 

 妹紅は素早く話題を打ち切り、出来立ての焼き鳥を客の前に置いた。湯飲みの横に皿を置き、ほんのりと炭の香りが広がる。客人はそれを見て、先ほどの妹紅の言葉に引っかかりを覚えながらも、とりあえず腹が減っていたので黙々と食べ始めた。

 

 やがて串が数本、あっという間に胃袋に収まる頃には、客は大いに満足した表情になった。そしてすっかり元気を取り戻し、妹紅に再度頭を下げる。

 

「いやあ、助かりました。本当に美味しかったです。……あ、これ代金。」

 

「受け取るよ。じゃ、すぐに案内してやるから少し待ってろ。」

 

 妹紅は受け取った小銭を木箱に投げ込み、適当に蓋をしてから腰に手を当てた。いつもなら「客に出会ったついでに儲けも出たし、良かった良かった」となる程度の話。だが、その日は少しだけ違った。妹紅自身も理由はわからないが、なんとなく心がざわつくような、そんな感覚を抱えていたのだ。

 

 客に話しかけようとして、結局やめた。かわりに火の始末に集中する。炭をいくつか突き崩し、火力を落としていく。少し先の案内が終わるまでは、店を放置することになるだろう。妹紅は焼き鳥屋の小屋に掛けてある“営業中”の札をひっくり返し、“準備中”に変えた。

 

「何だか、変に落ち着かない……。」

 

 そう呟く声は、竹林の騒めきにすぐかき消された。しかし妹紅は胸の奥で、ある種の違和感を覚え続けていた。まるで、自分がここに居続けることが不自然になり始めているような、そんな漠然とした不安。そしてそれは、彼女が長年抱き、あえて見ないようにしていた“ある願い”に繋がるものであるとも気づき始めていた。

 

 ともあれ、案内を申し出た手前、早速客を永遠亭へ連れていかなければならない。妹紅は客を促し、竹林の迷路を進み始める。道標の少ない竹林の中では、地形を把握していない者にとっては恐ろしく複雑な迷路に思えるだろう。けれど妹紅にとっては慣れた道だ。一度たりとも迷ったことなどない。仮に迷ったところで、死ぬわけではないのだが。

 

「それにしても……あんた、一人で竹林に入るなんて物好きだね。どこで永遠亭の噂を聞いたんだ?」

 

「ええと……人里で見かけた張り紙というか、そういう話を聞いて。なにか風邪気味だったんで、一度診てもらおうと思ったんですよ。永遠亭って診療所だって……。」

 

「まあ、たしかにそうなんだけど。あんまり深入りすると、冗談抜きで迷子になって帰れなくなるよ?」

 

「そこを……こうして案内してもらえるなら助かります。あ、それから……さっき妹紅さん、なんだか死なないとか言ってましたよね? あれって冗談で……」

 

「しつこい。」

 

 妹紅は振り向きもせず、客の質問をばっさり切り捨てた。声のトーンは低く、微かな殺気すら感じさせる。つい先ほどまで焼き鳥屋で見せていた気のいい雰囲気が嘘のようだ。客人もそれを敏感に感じ取ってか、「すみません」と呟くにとどまり、それ以上は何も言わなくなった。

 

 陽がやや傾きかけた竹林の道を、二人は黙々と歩く。客人は足元の枝や落ち葉を踏むたびに、びくりと身を強張らせていたが、妹紅はどこ吹く風だった。むしろ彼女は内心、自分の中に渦巻く言いようのないもどかしさを持て余していた。

 

(ずっとこうして、竹林で過ごして……たまに客が来たら案内して……焼き鳥売って……。不老不死である限り、こんな暮らしが何百年でも続くかもしれない。いや、正確には何千年か。……冗談じゃない。)

 

 自分で望んだ不老不死ではない。かつて、蓬莱の薬を口にしたのは復讐心と怒り、そして行き場のない絶望があったからだ。その結果、永遠に等しい時間を背負うことになった。時間の感覚は既に曖昧。季節が変わり、人間が生まれ死んでいく様を見ても、どこか他人事だった。

 

 案内の道中、妹紅はふと立ち止まった。少し先に、竹林の奥へ向かう分かれ道がある。右に行けば永遠亭、左に行けば人里方面だ。もちろん、永遠亭に行くなら右を進むのだが、妹紅は一拍の間を置いて考えるように視線をさまよわせた

 

  永遠亭へ向かう分かれ道で、妹紅は迷うことなく右の道を選んだ。客人を案内するために、まっすぐ進むだけだ。しかし、その背中にうかがえる微かな逡巡を、案内される側の客人が察することはない。妹紅がただ黙って竹林を切り進む姿は、普段通りの冷淡さにも見えるが、どこか重苦しい雰囲気をまとっていた。

 

 迷いの竹林をひたすら歩いた末、やがて広がる開けた空間。そこに、和風の大きな邸宅然とした建物が姿を現す。永遠亭だ。ここは月の姫・蓬莱山輝夜と、その従者の八意永琳たちが住まう診療所として知られている。

 

「ここが……永遠亭、ですか?」

 

 客人は一見して普通の屋敷に見える構えを前に、どこか警戒するように立ち止まった。妹紅はそんな彼の背を、わずかに苛立った調子で押すように促す。

 

「そうだよ。さっさと診察を受けてこい。風邪気味なんだろ?」

 

「は、はい……! あ、案内、本当にありがとうございました。竹林で迷ったときはどうしようかと……」

 

「はいはい、礼はいい。それよりさっさと中に入って、永琳のとこに行きな。あたしは待っててやるけど、送迎役じゃないんだからね。」

 

 妹紅が玄関脇に腰を下ろすと、客人は何度も頭を下げながら屋内へと姿を消した。診療所らしく、奥には少しバタバタとした気配がある。ときどき聞こえてくるのは、鈴仙の柔らかな案内の声。妹紅はそれに耳を傾けるでもなく、竹林に背を向けてただぼんやりと座っていた。

 

 ややあって、八意永琳がひょっこりと玄関先に現れる。落ち着いた足取りと穏やかな微笑みは相変わらずだった。

 

「まあ、珍しいわね。あなたがこんなところで待っているなんて。何かあったの?」

 

「客の案内だよ。風邪ひいたとか何とか……あんたのとこに来たいってさ。」

 

「なるほど。お疲れさま。診療なら喜んで引き受けるわ。あなたは帰らなくていいの?」

 

「まあ、案内を最後までやってやるって約束したから。終わるまで待つだけだし。」

 

 妹紅のそっけない返答に、永琳はくすりと笑う。竹林の迷い人を助けたり、焼き鳥をふるまったりと、妹紅が何だかんだで世話焼きな面を見せることに、永琳は昔から興味をそそられていた。

 

「ふふ、そう。じゃあ、終わるまでもう少し待っていてちょうだい。鈴仙が診てくれるから、あなたが相手をする必要はないわよ。」

 

「別に構わない。あたしは暇だから。」

 

 まるで何でもない話のように妹紅は返す。永琳が踵を返して奥へ入っていったあとも、妹紅は特に動く気配を見せなかった。

 小一時間ほどして、診療を終えたらしい客人が姿を現す。顔には少し安堵の色が浮かんでいる。永琳や鈴仙の手際の良い治療に感銘を受けたのかもしれない。

 

「いやあ、助かりました……。もしよければ、人里への道も教えていただけますか?」

 

「わかった。案内するから、ついてきな。帰りはさっきより迷わないはずだよ。」

 

 そう言いながら、妹紅は再び歩き出した。客人が後ろをついてくる。こちらも山場なく済んだためか、今度は迷いの少ない道のりだ。竹林を抜ければすぐに人里だということを軽く示し、妹紅は途中で「後は道なりに進めば着くだろ」と言って先に引き上げる。客人も丁重に礼を述べ、ひとり人里へと向かった。

 この程度のやり取りは、妹紅にとって日常茶飯事の一幕である。迷い込んだ人間や妖怪の案内を引き受けることは多いし、焼き鳥を食べさせてやることもよくある。だからこそ、彼女は特に感慨もなく淡々とその場を後にした。

 

(さて、面倒な仕事も終わったし……久々に慧音のとこでも寄るか。)

 

 妹紅が竹林を出て、人里方面へ歩を進めようとしたその時。竹の葉を踏み分ける音が背後から近づいてきた。振り返ると、見慣れた銀髪の女性が立っている。上白沢慧音。半人半獣の存在として人里を守護し、寺子屋を開いている、妹紅にとって数少ない友人のひとりだ。当然ながら、彼女は人里で生活している。

 

「やあ、妹紅。人里に向かうのか?」

 

「慧音か。こんなところで何してる?」

 

「買い出しに行こうと思ってたんだが、妹紅を見かけたから声をかけようか迷っていたところさ。悪かったかな?」

 

「別に。せっかくだし一緒に行くか?」

 

「そうしてくれ。ひとりより助かる。」

 

 そう言って並んで歩き始める二人。竹林の出口はもう近い。空はすでに西に傾き始めており、陽光は柔らかい橙色に染まりつつある。慧音は足元の道を確かめながら、ちらりと妹紅の様子をうかがった。

 

「妹紅、ここしばらく少しやつれてないか? 具合はどうなんだ。」

 

「……あたしが具合悪くなるわけない。おまえも知ってるだろ、不老不死だって。」

 

「不老不死でも安心はできないだろう。死なないからって、まともな食事もとらずに過ごしているように見えるし、心まで荒んでしまわないか心配になる。」

 

 妹紅は鼻を鳴らすように顔をそらした。慧音の口調は穏やかだが、やはり遠慮のない物言いをする。

 

「余計なお世話だ。あたしは死にもしないし、身体を壊すこともない。ほっとけよ。」

 

「そうか。……でも、死なないといっても不調にならないとは限らないぞ。おまえは昔から無理をしてばかりだからな。」

 

 妹紅は答えずに足を速める。慧音も黙って隣を歩き、やがて竹林を抜けると、人里の風景が開けた。夕陽に照らされた家並みと田畑、行き交う人々の姿を横目に、妹紅はさほど興味があるようには見えない。それでも、ここで暮らす者たちの温もりが伝わってくるのは確かだ。

 

「ここまで来たら、おまえはどうする? まだどこか寄るのか?」

 

「んー、そりゃ食材の買い出しもあるし……。でも、まずはおまえの寺子屋でも行ってやるか。ちょっと顔を出すくらいならいい。」

 

「そうしてくれると助かる。ちょうど夕飯の準備でもしようと思ってたから、妹紅も手伝ってくれるなら心強い。」

 

 慧音はそう言って、やや強引に妹紅を寺子屋へ誘導する。建物の中はすでに子供たちの姿もなく、静まり返っていた。慧音は勝手口から台所へ入り、火を起こし始める。妹紅も半ば呆れつつ腕まくりをし、手伝う構えを見せた。

 

「さて、何を作るんだ?」

 

「簡単な煮物とか味噌汁とか、あと少し副菜をね。妹紅、包丁捌きは得意だろ? あそこの野菜を切ってくれ。」

 

「わかったよ。ほら、洗った食材置いといてくれ。」

 

 こうして手際よく野菜を刻む妹紅と、味付けを調整する慧音。湯気が立ち上る鍋からは香ばしい出汁の香りが漂う。しばらく経つと、あっという間に夕食の支度が整い、二人は揃って食卓へ向かった。

 

「いただきます。」

 

「食べてくれ、妹紅。……あまり無理しなくていいからな。」

 

 妹紅は箸を持つと、黙々と食事を進める。不老不死なので本来は栄養やカロリーは大して必要ないが、それでも温かい家庭料理を口にすると、かすかな安堵が生まれる。慧音はそれを見つめながら、少し気まずそうに口を開いた。

 

「妹紅。おまえ……最近、妙な文献を読んでるって噂を聞いたぞ。竹林で何か試そうとしているとも。」

 

「……また噂かよ。別に何もしてないさ。おまえこそ、人里の噂好きに影響されてんじゃないのか?」

 

「いや、気になったから一応確認しているだけだ。おまえが不老不死なのはわかってるが、それでもさらに何かを探している気がする。」

 

 妹紅は箸を止めたまま、言葉を失う。実際、彼女は“死ぬ方法”を探しているのだが、それを打ち明けられるはずもない。少しうつむいて、できるだけ素っ気なく返答する。

 

「別に、何も探しちゃいない。あたしは竹林で焼き鳥屋をやって、時々客を案内して、それだけだよ。」

 

「……そうか。まあ、おまえがそう言うなら深くは追及しない。けれど、何か本当に困ったことがあるなら、言ってくれ。人里で暮らす私が力になれることも、少しはあると思うから。」

 

「余計なお世話だって言ったろ。……でも、まあ、そこまで言うなら気が向いたら頼るかもな。」

 

 そう言うわりには、妹紅の声色からは頼る気配が感じられない。慧音もそれ以上踏み込むべきか迷ったようだが、結局は追及をやめる。食事が終わるまで、二人は当たり障りのない話を交わし、最後に茶をすすって一息ついた。

 

「もう夜も更けるな。妹紅、泊まっていくか? 別に構わないぞ。」

 

「いや、帰るよ。竹林で誰かに襲われたって死ぬわけじゃないし、わざわざ世話になる必要もない。」

 

「そうか。……なら、気をつけて戻れよ。もし何かあったら呼んでくれ。おまえがどうなっても放ってはおけないからな。」

 

「わかったよ。ありがとな、慧音。」

 

 妹紅は素っ気なく礼を述べ、寺子屋を出る。深い夜の帳が下り、人里の灯りがまばらになってきた道を抜ければ、再び竹林へ入ることになる。そこに待ち受けるものは、だいたい想像がついていた。

 

 案の定、竹林の入口あたりに、漆黒の髪が月光を受けて薄く輝く人影が立っている。蓬莱山輝夜。彼女がまるで待ち伏せしていたかのように笑みを浮かべ、妹紅に近づく。

 

「まあ、こんな時間に帰ってくるなんて珍しいわね、妹紅。ちょっと退屈してたところだから、来てくれて嬉しいわ。」

 

「おまえ……いつまであたしにつきまとう気だ?」

 

「そんなの当然、永遠に決まってるじゃない。不老不死同士、ずっと遊びましょうよ。」

 

 輝夜の視線は悪戯っぽく、そしてどこか狂気を帯びている。妹紅は溜め息をつきながら、掌に炎を灯した。

 

「遊びなんて言うな。あたしにとっちゃ迷惑なんだ。……でも、どうせしつこいんだろう?」

 

「ええ。あなたが飽きるまで殺し合いましょう?」

 

 どこまでも噛み合わない二人は、夜の竹林に火花を散らす。妹紅の炎が宵闇を照らし、輝夜がそれを軽やかにかわして斬りつける。互いに致命傷を負っても数分もすれば再生してしまう不老不死同士の戦いは、決着のつかない戯れに等しかった。

 

 やがて双方が息を切らし、火の手が一旦収まると、輝夜は未練がましい笑みを残して竹林の深奥へ消えていく。妹紅は地面に焦げ跡が残るのを見つめながら、冷え切った目で夜空を仰いだ。

 

(結局、同じことの繰り返し。おまえも死なないし、あたしも死ねない。こんな茶番をいつまでやるんだ……。)

 

 慧音がどんなに「頼ってくれ」と言おうと、妹紅が求める唯一の解決策は“不老不死からの解放”だ。輝夜がどんなに「永遠に遊びましょう」と誘おうと、妹紅はそんなものを求めていない。

 それでも夜は更け、新しい朝は巡ってくる。妹紅は孤独と虚無を抱えたまま、小屋へと戻っていく。次に目を覚ませば、また竹林で客を案内し、焼き鳥を売り、気まぐれに人里へ行くのだろう。

 だが、その胸の奥で絶えず燻り続ける“死への執着”は、少しずつ輪郭を帯び始めていた。それがやがて、破滅を引き寄せる火種になるとも知らずに——。

 

 朝の竹林は澄んだ空気に包まれている。夜の名残でまだ地面に点々と残る焦げ跡が、夜半に行われた危険なやり取りを物語っていたが、今や一面に広がる緑の竹が、その痛々しさを覆い隠すかのように静かに揺れている。

 その竹林の一角にある小屋の前で、藤原妹紅が炭火を起こしていた。朝日を細く切り裂くように降り注ぐ光のもとで、いつものように焼き鳥屋の準備をしている。

 妹紅は不老不死ゆえに、食事や睡眠をあまり必要としない。しかし、何もせずに時を過ごすほど忍耐強い性格ではなかった。退屈や虚無感に押しつぶされないようにするために始めたのが、この焼き鳥屋だった。

 炭火の温度を確かめながら、妹紅は夜の出来事を思い返す。昨日も月の姫——蓬莱山輝夜——が現れ、いつものように妹紅を挑発した。結局、激しい火や刃の応酬があったものの、どちらも死なないまま終わる。その繰り返しに妹紅は辟易している。

 

「まったく……あの姫は暇人もいいところだ。昨夜も寝不足だよ。」

 

 ぼやき半分に呟きながら、串に通した鳥肉を火にかざす。脂がじゅわりと垂れ、炭火の上で弾ける。香ばしい煙がゆるやかに立ち上っていった。妹紅は手慣れた様子で串を回し、火加減を調整する。

 

(けど、あたしも似たようなものかもな。焼き鳥なんて意味があるのか分からないが、やることがなければ退屈でおかしくなるだろうし。)

 

 自嘲気味にそう考えつつ、竹林の様子を一瞥する。朝方は人里から竹林に踏み入る者はさほど多くないが、まれに迷い込む人間や物好きな妖怪が現れる。妹紅はそうした迷い人に食事を提供し、ついでに出口まで案内することもあるのだ。

 やがて、かすかな足音が聴こえた。誰かが竹林を歩いてくる気配だ。妹紅は串を持ったまま耳を澄ませる。足音は遠慮がちで、しかも人間のものに近い。警戒するほどでもないだろう。竹をかき分けて姿を現したのは、数日前に迷い込んできた青年だった。

 

「お、おはようございます! 妹紅さん、覚えていますか? こないだ、竹林で道に迷っていたところを助けてもらった者です。」

 

 青年は伏し目がちに頭を下げる。確か、風邪気味で永遠亭に行きたいと言っていた客だ。妹紅は愛想がいいわけではないが、煙たがる様子もなく、軽く片手を挙げて応じる。

 

「おまえか。風邪はもう治ったのか?」

 

「はい、おかげさまで。あのあと永遠亭で診てもらって、すっかり良くなりました。お礼を言いたくて、竹林に来たんですけど……また迷ってしまいまして。」

 

 青年は苦笑しながら、小走りで小屋の前へ近づく。妹紅は相変わらず火をいじりながら、ちらりと青年を見やった。

 

「そりゃあ、おまえが方向音痴なんだろ。よくここまで辿り着いたね。ま、たまたま煙のにおいでもしたのか?」

 

「はい。なんとか鳥の焼ける匂いを追いかけたら、妹紅さんの小屋に着きました。あの……ちょうど朝ご飯も食べていなかったので、焼き鳥を頂いてもいいでしょうか?」

 

「構わないよ。座ってな。」

 

 妹紅が無造作に指し示す丸太の椅子に、青年は遠慮がちに腰を下ろす。竹林のひんやりとした朝の空気の中、炭火の熱気がほんのりと心地良さをもたらしている。青年はしきりに「妹紅さんには本当に助けてもらってばかりですみません」と恐縮していた。

 妹紅はやや面倒くさそうな素振りを見せつつも、焼き具合を調整して絶妙なタイミングで串を渡す。脂の乗った鶏肉が香ばしく、朝から食欲をそそる匂いだ。

 

「ほら、できたよ。熱いから気をつけろ。代金は木箱に入れといて。別にいらないならいらないけど、お礼だなんだと言うなら金で払ってくれればいい。」

 

「あ、もちろんです! 妹紅さんに何かお返しがしたくて来たようなものなので……その、ありがとうございます!」

 

 青年はぺこぺこと頭を下げ、がっつくように焼き鳥にかぶりついた。舌鼓を打つ声があたりに響く。

 妹紅は興味なさそうに見えるが、どこかほっとしたような表情を浮かべることもなく、串の火加減を見直す。しばらくして青年が満足げに串を置き、代金を箱にそっと入れると、何やら言い淀むように口を開いた。

 

「本当に、美味しかったです……。あ、それから、妹紅さんのことを色々調べてみたら、もともと藤原家の出なんですか? 由緒正しい家系らしい、と噂で聞いたことがあって……」

 

 その問いを聞いた瞬間、妹紅の表情が一瞬強張る。青年には悪気がないのは見てとれるが、妹紅自身はあまり触れられたくない話題だ。そもそも不老不死となった今、藤原家の過去など何の意味もないと考えている。

 しかし青年は何も知らず、ただ素朴な疑問を投げかけただけなのだろう。妹紅はほんの一拍迷ってから、短く言い放った。

 

「……昔の話だ。今さら関係ない。」

 

「そ、そうですよね。すみません、変なことを聞いて……!」

 

 青年は焦ったように頭を下げ、「じゃあ、お礼も済んだので……妹紅さん、ありがとうございました!」と慌てて竹林の出口へ向かおうとする。妹紅は浅く息を吐き出し、彼の背中に向かって一言だけアドバイスを送った。

 

「まっすぐ進めば人里のほうに出る。迷わないようにな。」

 

「はい、ありがとうございます! 失礼します!」

 

 青年が去っていく気配を感じながら、妹紅は炭火をいじる手を止め、しばし無言で立ち尽くした。かすかに胸の奥が疼くのは、過去へのわだかまりが原因だ。

 

(父と輝夜の因縁なんて、もうどうでもいいことだ……そう思いたいのに。)

 

 そう心の中で呟いてから、妹紅は小屋の奥に積んである書物の山へ目を向けた。そこには不老不死をどうにかする方法、あるいはそれに近い手がかりが見つかりそうな古文書の切れ端がある。妹紅はそれを調べながら、幾度となく絶望を味わってきた。だが、それでも諦められない。

 

妹紅が生まれるよりも前、妹紅の父は貴族の身分でありながら、世に名を轟かせるほどの高位ではなかった。それでも藤原家の名を大切にし、家筋や誇りを重んじていたという。

 その父が耳にしたのが、絶世の美女と謳われた、蓬莱山輝夜の噂だった。竹取物語のように竹から現れたのかどうかは定かでないが、とにかく幻の姫がいるらしい。そして彼女に求婚するならば、難題をクリアしなければならない——父はそれを聞き、色めき立った。

 しかし、その“無理難題”は噂どおり簡単なものではなかった。伝説の宝やこの世に存在しない貴重品を揃えるなど、到底実現不可能な条件が課されたのだ。その上、父は途中で姫の戯れにも似た要求に振り回され、しまいには挑戦を失敗してしまう。それだけでも貴族仲間に嘲笑されるには十分だったが、さらに姫が遠回しに彼をなじったことで、一層の恥をかかされてしまった。

 

(あたしが直接見たわけじゃないが……それ以来、父は家に閉じこもり、笑うこともめっきり少なくなったって聞いている。)

 

 妹紅は幼い頃の記憶を、断片的に思い返す。父は「あの女に関わるな」と言い残して早々に衰弱し、ほどなくして病で他界した。死の床でこそ何も言わなかったが、周囲には“一族の恥”が広まっており、妹紅自身も噂の尾ひれに戸惑いを隠せなかったという。

 だからこそ、妹紅は輝夜への怒りを抱えながら育ち、蓬莱の薬を飲むという大きな過ちへと繋がってしまった。父がやりたくても叶わなかった復讐を、自分が果たすのだ——そんな思いだけで衝動的に行動した結果が、今の自分だと分かっていても、もう後戻りはできない。

 

「輝夜を殺す。父の無念を晴らす。それがあたしのすべてだった……。でも結局、あいつも不死身なんて、ふざけた話だよ。」

 

 焼き鳥屋の小屋から少し離れた場所にある雑然とした書物の山を前に、妹紅は夜に燃やす予定だった枝を折る手を止め、誰に聞かせるでもない独白を吐く。

 実際のところ、妹紅はかつて輝夜を何度も襲い、殺したと思ったこともある。しかし輝夜はすぐに再生し、笑いながら妹紅を見下す。「そんなに私を恨んでいるなんて、面白いわね」とばかりに、まるで子供の遊びのように妹紅との殺し合いを続けてきたのだ。

 何度繰り返しても決着はつかない。そんな茶番に嫌気がさした妹紅は、やがて「殺すのが無理なら、自分が死ねばいい」という歪んだ結論に到達してしまった。

 

 竹林を後にした妹紅は、ひとまず人里へと足を向けた。特に目的があるわけではないが、時々人里に出て、寺子屋の上白沢慧音に顔を出すのがこの頃の習慣だった。

 人里には平和な空気が満ちている。夕方を迎える前、農作業を終えた者たちが行き交い、子供が走り回る。それらを横目に、妹紅は寺子屋の勝手口へ回る。運がいいことに、ちょうど慧音が鍋の蓋を開けて何かを味見しているところだった。

 

「おまえか、妹紅。いらっしゃい。腹は減ってるか?」

 

「食べなくても死なないけど、まあ少しなら食ってやるよ。」

 

 妹紅は少々ぶっきらぼうに言いつつも、断りもせずに台所の手伝いをする。慣れた手つきで野菜を刻んだり、火加減を見たりするうちに、簡単な夕食があっという間に完成した。

 そして、二人は茶をすすりながら、他愛もない話題を交わす。妹紅が焼き鳥屋の小屋で起きた出来事や、迷い人のエピソードを語り、慧音は寺子屋の子供たちの話を楽しそうに話す。けれど、話題が深まるほど、妹紅の中で言い知れぬ葛藤が増していくのも事実だ。

 

「妹紅、疲れた顔をしているな。……何かあったのか?」

 

「別に。夜に輝夜が来て、少しやり合ったくらいだよ。いつものことだろ?」

 

「たしかに、いつものことかもしれないが……おまえが本当にそれでいいのか、ちょっと心配だ。」

 

 慧音は静かな口調ながらも、妹紅を見つめる目は真剣だ。妹紅は茶碗を置き、わずかに視線を逸らす。

 

「心配されるほどのことでもない。あたしは不老不死で死なないし、何度燃やされようが焼かれようが、平気なんだ。……父の仇も取れないし、すっかり開き直ってるよ。」

 

「本当にそうか? もしおまえが違う想いを抱えているなら、私はいつでも話を聞く用意があるんだが。」

 

「……余計なお世話だよ。」

 

 妹紅は吐き捨てるように言い放つが、その声にはどこか揺らぎが混じっている。慧音は言及こそしないが、妹紅が何か大きな秘密を抱えていることを察していた。だが、どう切り込んでも妹紅の心の扉は堅牢に閉ざされている。

 食後、妹紅がそそくさと立ち上がると、慧音は「もう少しゆっくりしていったらどうだ?」と声をかけるが、妹紅は首を振って断る。

 

「悪いが、あたしはもう戻る。竹林の様子を見ておかないと落ち着かない。」

 

「わかった。気をつけてな。……もしおまえが、本当に困ったときは、私も黙って見ているつもりはないから。」

 

「心配性め。……じゃあな。」

 

 妹紅は背を向けて歩き出す。慧音が最後まで見送ろうとする気配を感じながらも、振り返ろうとはしない。人里の喧噪を抜け、夕暮れの茜色に染まる空を見上げると、竹林の緑が鈍色に変わりつつあった。

 

竹林の入口に足を踏み入れた途端、夜の気配が妹紅を包み込む。まだ宵の口とはいえ、竹が生い茂る奥は薄暗く、人里のような温もりは感じられない。妹紅は慣れた道を進みながら、無性に父の面影を思い出していた。

 

(父は何度も輝夜の課した無理難題に挑もうとしたらしい。だが、あいつに振り回されて結局失敗して……家を笑い者にされた。)

 

 かぐや姫の物語さながらの“宝探し”や“伝説の品”を揃える仕事は、到底実現できるものではなかった。あれは輝夜の悪戯だったのか、あるいは本気で不可能を承知で課していたのか。今となっては分からない。

 ともあれ、父は恥をかかされ、自尊心を砕かれたまま早逝してしまった。妹紅が憎んでも憎みきれないほどの相手が、蓬莱山輝夜——しかも彼女もまた不死身だという。これほどに皮肉な話はない。

 

「だったらあたしはどうすりゃいい。あいつを殺すことができないなら、あたしが死ぬしかないのか?」

 

 竹の根を踏みしめるたび、妹紅の頭には同じ問いが渦巻く。すでに答えは出ていた。無益な殺し合いを繰り返すより、自分が蓬莱の薬の力を破る方法を探し、それが叶わないなら永遠に輝夜に踊らされ続ける地獄だ。

 このまま生きることこそが、妹紅にとって最大の苦痛だった。かつては“父の敵を取る”と口にしていたが、今やその執着すら朽ちつつあり、代わりに“死”への思いが肥大化している。

 やがて、小屋の明かりが見えてきた。妹紅は人気のない焼き鳥屋の軒先に腰を下ろし、夜風に身を晒す。いつものように輝夜が来るかもしれない。もし襲われて大火傷を負っても、どうせ再生する。その不毛さを噛みしめるほどに、妹紅の心は焦りと絶望に染まっていく。

 

(もし本当に、あの古文書にある“魂の主軸を崩す術”ってやつが効果を発揮するなら……あたしは、いくらでも試す。成功すれば晴れて死ねる。失敗したって、何度も苦しむだけさ。)

 

 決して軽い覚悟ではない。妹紅にとっては最終手段とも言えるものだ。それを実行すれば、慧音に泣かれるかもしれないし、輝夜は面白がって一層邪魔をしてくるかもしれない。それでも、妹紅はこの呪われた不老不死を続けるくらいなら、どんな痛みでも受け入れる気でいた。

 

「父よ、あたしはもう……あんたの敵討ちより、自分の死に執着してる。親不孝かもしれないが、それが今のあたしの精一杯だ。」

 

 孤独な夜風が吹き抜け、竹の葉をさらさらと揺らす。遠くでフクロウの声が響き、まるで暗闇が深まっていくのを告げているようだった。妹紅は火の用意もせず、ただそこに座り込んだまま夜空を見つめる。星は遠く瞬き、月が雲間から覗く。その月の光を受けると、妹紅はふと舌打ちをする。

 

「……また来るのか、輝夜。おまえと会いたくないが、どうせ来るんだろう。」

 

 輝夜は、かぐや姫を思わせる不死の姫。妹紅がいくら恨んでも届かない。殺し合いは永遠に終わらない。

 そうして、妹紅が自分なりの終わりを探す日々はまだ続いていく。だが、これ以上の苦痛に耐えられないと悟ったとき、彼女はきっとあの危険な術を試すだろう。誰に止められても聞く耳を持たない――そんな深い決意を胸に、妹紅は静かに息を吐いた。

 

  妹紅は竹林の小屋からさらに奥へと分け入った。地形を熟知しているとはいえ、細く入り組んだ道を縫うように進んでいく。行き着いたのは、ほとんど人の手が届かない荒れた空間。枯れ竹や雑木が散乱し、足元にわずかに踏みしめた痕跡があるだけ。

 そこで妹紅は肩に下げていた袋を置き、中から巻物や怪しげな道具の数々を取り出した。どこかの寺社で見かけるような呪符に似た紙切れや、自ら書き加えた覚書の類もある。彼女はそれらを地面に並べ、深く息を吐いた。

 

「まずは……試しに、これを使うしかない。さっさと片をつけないと、こんなもんまで慧音に見られたら面倒だからな……」

 

 巻物には、不老不死の原理を逆手に取るような“術”が記されていた。魂を己の肉体からわずかに引き離し、不死の再生を遅らせる——妹紅はそこに活路を見出していた。

 もっとも、この術は本来、完全に確立されたものではない。危険性が高い上に効果も不確実。下手をすれば心身に激痛をもたらすだけで、実際に死をもたらすかどうかもわからない。

 それでも妹紅は迷わなかった。失敗したらしたで、どうせ自分は死なない。死ねないからこそ、何度でも挑める——そんな逆説めいた決意だ。

 

 竹林の地面に五芒星じみた紋様を描き、そこに呪符を配置する。妹紅は腰を下ろして、集中するように目を閉じた。何か小さな囁きのような声が、風に混じって聞こえた気がする。

 一瞬後、妹紅の背筋をぞくりとする痛みが駆け抜けた。心臓がぎゅっと掴まれるような圧迫感。額には冷たい汗が滲む。

 

「くっ……これが“魂を引きはがす”感覚か……? 思ったよりキツいな……」

 

 短い時間にしては尋常でない疲労感が全身を襲う。妹紅はそれでも術式をやめようとしない。舌を噛みしめ、ただひたすら耐え続ける。そのうちに、彼女の周囲をゆらゆらと揺らめくような空気の層が生まれた。

 しかし、何かの限界点に達したのか、妹紅は「ちっ」と小さく舌打ちをして呪符を掴んだ。強引に破り捨てるようにして術を中断する。

 

「ああ……痛ってぇ……! でも、まだ“完全に”崩す感覚じゃない。ほんの少し、再生の力が鈍ったくらいか……」

 

 膝についた泥をはたいて立ち上がろうとしたとき、妹紅は自分の膝に走る激痛を感じた。見れば、いつの間にか竹の切り株で切ったらしい傷口から血が流れている。普段ならすぐにふさがってしまう軽傷だが、今回はやけに痛みが長引く。

 その一方で、完全に治癒が止まったわけでもなかった。少しずつではあるが、流れ出た血が収まり、ゆっくりと肉がふさがり始める様子がわかる。再生能力は“遅くなっている”が、消え去ったわけではない。

 

「ほんの少しだけど……確かに不死が揺らぎ始めてる。けどこれじゃ、まだ死ねる域には遠いな。」

 

 妹紅はそんな不十分な結果に舌打ちしつつも、わずかに手応えを感じていた。肉体の再生が遅れれば、より致命的なダメージを負ったときに“死”へ近づくはずだ。次はもっと強烈な負傷を負えばいい——そう考え、妹紅の視線は自然と竹林の薄暗がりへと向いた。

 

 妹紅は竹林で徘徊する弱めの妖怪を探し、あえて接触を図った。通常なら、そういった妖怪が彼女に挑むのは命知らずにも程があるが、妹紅自身が相手を刺激するように仕向けている。

 

「ほら、こっちだよ。あんたら妖怪なら、人間を襲いたいだろ? さっさと来いって……」

 

 鋭い爪を持った小型の妖怪が、警戒しながら妹紅を取り囲む。妹紅はわざと無防備に胸を張り、挑発するように下唇を噛んだ。

 妖怪の一匹が耐えきれずに飛びかかってくる。爪が妹紅の腕を掠め、皮膚を裂く。そこから噴き出す鮮血に、妹紅は鋭く息を飲んだ。

 

「くっ……いいね。そのまま、もっとやってみろ。」

 

 普段の妹紅なら、火力を全開にして一瞬で妖怪を焼き払う。だが、今日は違う。再生がどの程度遅れるかを確かめるためにも、重傷を負いたかった。相手の攻撃をわざと受けることで、深い傷を負わせようというわけだ。

 とはいえ、妖怪の狂乱の爪は思いのほか鋭い。妹紅の腹や肩、足にも次々と裂傷が走り、血が滴り落ちる。いつもの妹紅なら、その傷は短時間で塞がってしまうだろう。

 

 しかし今は、先ほどの術式の影響で完全再生が鈍っていた。切り裂かれた肉が痛みとともに拍動し、身体が震える。

 

「……ああ、これは痛いわ……。でも、いい……もっと深く……」

 

 まるで自棄のような妹紅の態度に、妖怪たちが動揺する。明らかに“あまりの血の量”に怯えはじめ、戦意を失っていくのがわかる。そもそも不死身の少女相手に勝ち目がないことは、妖怪といえど本能的に感じ取っているのだろう。

 

「おい、逃げるんじゃねえ……! まだ……試したいことが……あるんだ……」

 

 妹紅の呼びかけを振り切るように、妖怪たちは竹林の奥へ散っていく。息を荒らしながら取り残された妹紅は、ずるりと地面にへたり込んだ。腕や腹の裂傷から血があふれ、着物を真っ赤に染めている。

 それでも意識ははっきりしていた。むしろ痛みによって覚醒しているような感覚さえある。いつもならすぐにふさがり始める大きな傷口が、今はなかなか塞がらない。

 

「はは……ほんの数分くらいで治ってたのにな。……だいぶ効いてるじゃないか、あの術式。」

 

 妹紅は唇を震わせながら、自分の身体が再生しようとしているのを感じ取る。血が止まりかけてはまたじわりと滲み出て、肉の裂け目が少しずつ縮んでいく。その速度は明らかに遅いが、それでも完全に“死”に至る前に回復が始まってしまう。

 

「……まだ駄目か。こんな程度じゃ死ねない……。」

 

 悔しげに呟いて顔を伏せる妹紅の瞳に、わずかな涙が浮かんでいた。痛みや苦しみだけが増えていくばかりで、肝心の目的には届かない——その苛立ち。

 血まみれの身体を引きずるようにして、その場を後にしようとしたとき、不意に誰かの呼ぶ声が聞こえた。

 

 「妹紅!」

 

 竹の葉をかき分け、半人半獣の上白沢慧音が息を弾ませて駆け寄ってくる。その表情には驚きと焦りの色がはっきりと浮かんでいた。

 

「大丈夫か!? そんなに傷だらけで……まさか妖怪に襲われたのか?」

 

 慧音は地面に倒れかけている妹紅を必死に支え、懸命に様子を窺う。だが妹紅は「放っとけ」とでも言うように手を振り払おうとする。

 

「ああ……ちょっと喧嘩してただけだ。大したことじゃない。」

 

「大したことないわけないだろう。この血……いくら不老不死でも、そんなに出血したら衰弱するだろうに……!」

 

 慧音が取り乱しかけるのも無理はない。妹紅の服は真っ赤に染まり、地面には血の跡が点々と残っている。一歩間違えば命を落としかねない重傷に見えるからだ。しかし妹紅はそこで弱音を吐くどころか、あからさまに苛立った様子を見せた。

 

「だから、不老不死だって言ってるだろう。死なないんだから大丈夫だよ。……それにしても、なんでおまえがここにいるんだ? 人里にいたんじゃないのか?」

 

「……おまえが最近、妙に竹林で怪しげなことをしているって噂を耳にしてな。心配で様子を見に来たんだが……案の定、こんな有様とは。」

 

 慧音は責めるような視線を向けながら、妹紅の腕をそっと支え続ける。そのまま寺子屋に連れ帰って手当てをしたい衝動に駆られるが、妹紅がそれを許すとは思えない。

 

「なあ、妹紅……正直に言ってくれ。おまえ、何をしている? 最近の行動、どう見ても普通じゃない。」

 

「……何もしてないさ。強いて言うなら、自分がどこまでやれるか確かめてるんだよ。」

 

「確かめるって、何を?」

 

 その問いに、妹紅は沈黙したまま視線を逸らす。慧音は妹紅の頑なな態度を目の当たりにし、胸にかすかな痛みを感じる。友人として彼女を案じ、助けたいと思うのに、その想いが届かないもどかしさ。

 

「何も話せないなら、それでもいい。けれど、このままだと……本当におまえが危ない気がする。死なないのが不老不死だとしても、心が壊れてしまいかねない……。」

 

 慧音がそう訴えても、妹紅はあくまでも黙っている。まるで「おまえには関係ない」と言わんばかりだ。やがて妹紅はヨロヨロと立ち上がり、まだ止まりきらない血を気にも留めず、踵を返そうとする。

 

「……悪いが、構わないでくれ。あたしはあたしのやり方で生きてる。……いや、生きてるというか、ただ続いてるだけだ。」

 

「妹紅……」

 

 慧音が伸ばした手は、妹紅の背にわずかに触れたきり、虚空を彷徨う。妹紅は振り返ることなく、竹林の奥へと歩み去っていく。慧音は彼女を追うべきかどうか逡巡するが、妹紅の殺気立った雰囲気に圧倒され、その場から動けなくなる。

 心配と不安が、慧音の胸を重く締めつける。いま妹紅が何を試しているのか、正確にはわからない。しかし、放っておけば取り返しのつかない事態に陥る——そんな嫌な予感ばかりが募っていた。

 

 一方、妹紅にとって宿敵のはずの輝夜は、相変わらずの天真爛漫さで竹林をうろついていた。夜の襲撃と同様、気まぐれに現れては妹紅の前に姿を見せる。

 その日も、妹紅が焼き鳥屋の片付けをしている最中に、突如として背後からひょいと顔を出した。

 

「妹紅、こんにちは。今日も焼き鳥屋をやってるのかしら? 私も一本もらおうかしらね。」

 

 ぴたりと背後に立たれた妹紅は、反射的に身構える。いつもの殺気立った目つきで振り返れば、輝夜がにこやかに手を振っていた。

 

「おまえ……何しに来た。どうせ“遊びましょう”とか言うんだろうが……」

 

「ええ、もちろんよ。殺し合い……いえ、共に遊ぶのが私たちの関係でしょう?」

 

 輝夜は柔らかい物腰と丁寧な言葉遣いのまま、しかし遠慮なくタメ口をきく。妹紅が睨みつけても、その態度が変わる様子はない。むしろ、妹紅が嫌そうにしているのを見て、ますます楽しんでいる節すらある。

 妹紅は黙って串を一本、炭火にかざしたままの状態で輝夜に差し出した。ほんの少しだけ焦げ目がついたそれは、香ばしい香りを放っている。

 

「ほら、勝手に食え。代金はいらない。どうせ不老不死同士、金なんかに価値はないだろう。」

 

「ふふ、ありがとう。こうして焼き鳥を食べてると、あなたと私が仲良しみたいに見えるわねえ。」

 

「冗談言うな。どうせ殺し合いがしたいだけだろ? 遊び相手が欲しいだけじゃないか。」

 

 妹紅が吐き捨てるように言うと、輝夜は口元に笑みを浮かべたまま、串の先の鶏肉を軽くかじった。熱さを気にする様子もなく、上品な動作とは裏腹に舌鼓を打っている。

 

「そうね。あなたとこうして会うのが、私にとっての娯楽なの。……だって、不死身の存在ってなかなかいないでしょう? あなたと私、それに永琳くらいしかいないもの。」

 

「……知らないね。あたしは別に、不死身の仲間が欲しいなんて思ったことはない。」

 

「ふふ、でも私には妹紅が必要よ。あなたがどれだけ嫌がろうと、永遠に付きまとってあげる。」

 

 その言葉には、どこか狂気じみた独占欲が滲んでいた。妹紅が露骨に鬱陶しそうな顔をしても、輝夜はまるで意に介さない。まるで小さな子供が大切な人形を抱きしめて離さないかのように、妹紅との関係を“楽しんでいる”のだ。

 

「ああ、ウザい……。本当にどこまでも勝手なんだな、おまえは。」

 

 妹紅は苛立ちを抑えきれず、手元の炭をかき回して火の粉を散らした。火の粉が輝夜の袖をかすめても、彼女は嫌そうな顔をまったくしない。むしろ「きれいね」とさえ呟いている。

 そんな輝夜の姿に、妹紅はなぜか胸の奥に妙な不安を感じる。いつもなら、挑発し合い、火や刃を交わし合う不毛な殺し合いをして終わるだけ。だが、最近の妹紅は“死”に向けて具体的な方法を探している。もしそのことを輝夜に知られてしまえば、あるいは邪魔をされるかもしれない。

 

(輝夜のやつ、こんなにあたしに執着してたか? ……嫌な予感がする。あたしが本気で“終わり”を望んでると知ったら、あいつはどう思うんだろう。)

 

 妹紅の視線を感じ取ったのか、輝夜はくるりと振り返った。長い漆黒の髪が竹林の風にそよぐ。

 

「どうしたの、妹紅? そんなに私のことを見つめちゃって……。気になる?」

 

「……うるさい。こっから出ていけ。あたしはもうおまえにかまってる余裕がないんだ。」

 

「あら、余裕がない? あなたほど強くて不老不死な人間に、どんな“不足”があるのかしら?」

 

 輝夜は興味深そうに首をかしげるが、妹紅はそれ以上答えようとしない。代わりに掌に炎を灯して威嚇する仕草を見せる。

 

「もういい。消えないなら、この火で追い払ってやる。」

 

「それもいいわね。じゃあ、ひとしきり遊んだら帰るとするわ。今日はあまり遅くまで付き合えないからね。」

 

 結局、二人はいつも通り殺し合いに近い小競り合いを始める。互いに致命傷を負わせても、どうせ再生してしまう不死同士の不毛な戦い。

 だが、妹紅の攻撃にどこか苛立ちが混じり、輝夜の笑顔も微妙に空回りしているように感じられる。まるで二人の気持ちが、同じ“永遠”を見ているようでいて、その実、かみ合わないまま彷徨っているかのようだった。

 

 炎の揺らめきと、竹を吹き抜ける風の音。どちらが先に手を止めるともなく、小競り合いはやがて潮が引くように終息する。輝夜は別れ際、意味深な笑みを妹紅に向けた。

 

「また近いうちに来るわ。……ちゃんと待っててね、妹紅。」

 

「勝手にしろ……。」

 

 その言葉を残し、輝夜は竹林の闇へと消えていった。妹紅は息を整えながら、火傷し焦げついた服の袖を乱暴に引きちぎる。肌に張り付いた痛みも、術式による再生の遅れのせいで、まだじんじんと残っていた。

 

(遊び? ふざけるな。あたしにとっちゃ、こんなの何の価値もない……。だが、あいつの執着が厄介なことになる前に、早く終わらせないと。)

 

 妹紅は拳を強く握り、燃え残った火の粉を見つめる。そこにあるのは、かすかな自嘲と焦燥。心の底から「死にたい」と願っている自分を、輝夜がいっそう追い詰めているような感覚さえ抱き始めていた。

 

 こうして、妹紅の“死”への研究は密やかに進展していく。身体の再生を遅らせる術に成功しつつある今、一歩ずつ目標へ近づく予感があるのも確かだ。しかし同時に、慧音が感じ取った不安と、輝夜の奇妙なまでの好意——その二つの要素が、妹紅の計画に影を落とし始めていたのだった。

 

  ある昼下がり、妹紅がまた別の迷い人を永遠亭へ案内したあと、玄関先で一息ついていると、奥から永琳が静かな足取りでやってきた。

 普段ならば診療を頼まれた患者をそつなくこなし、忙しげに奥へ引っ込むのが常の永琳が、わざわざ妹紅に声をかけるのは珍しい。

 

「妹紅、最近よく来ているようだけれど、少し話ができるかしら?」

 

「……別に、用があるなら聞くけど。忙しいなら手短に頼むよ。」

 

 そっけなく答える妹紅とは対照的に、永琳は柔らかな微笑を浮かべたまま、まるで医師が患者を診断するかのように妹紅を見つめる。

 

「あなた、少し顔色が悪いわね。……不老不死でも、過度な疲労が蓄積すれば行動に支障が出ることもある。何か変わったことをしていない?」

 

「変わったことなんて、別にしてない。客の案内や焼き鳥屋くらいさ。ああ、輝夜と殺り合うのも相変わらず、だけどな。」

 

「ふふ、それは昔からね。けれど、最近のあなたは少し“様子”が違うのよ。……私の気のせいかしら?」

 

 永琳の言葉に、妹紅はほんの一瞬だけ眉をひそめる。どこまで知られているのか測りかね、内心で舌打ちしそうになる。

 妹紅が術式を試しているなどという話が、永琳の耳に入ったとしても不思議ではない。竹林中にうわさは広がりやすいし、慧音や他の住人が心配して相談することも考えられる。だが、永琳がどう出るかは読みにくい。

 

「……ただの気まぐれだよ。どのみち死なないんだから、多少の無茶をしても問題ないだろ。」

 

「そう思うのは自由だけれど、もしそれが“あなたを死なせるための行動”だったとしたら、私も興味があるわね。」

 

「なっ……」

 

 不意打ちとも言える切り込みに、妹紅は言葉を失う。永琳の声色はやさしいが、その瞳には理知的な光が宿っている。

 

「誤解のないように言っておくけれど、私は純粋に学術的な興味があるの。蓬莱の薬で不老不死になったあなたが、もし本当に“死ぬ”方法を見つけようとしているのなら、それは研究者として見過ごせないわ。」

 

 永琳の物腰は穏やかだが、その実、妹紅の行動を警戒しているのが伝わってくる。妹紅は奥歯を噛みしめながら視線をそらした。

 永琳は続ける。

 

「ただし、姫様——蓬莱山輝夜——の唯一無二の遊び相手が、もし本当にいなくなるとしたら、それはそれで問題ね。あの方にとっては退屈を紛らわす術が失われてしまうもの。」

 

「……輝夜の退屈なんて知るか。あいつは勝手に遊べばいいだろう。あたしが付き合う義理はない。」

 

「ふふ。だからこそ、あなたがもし“本当に死ぬ手段”を見つけそうになったときは、私も放っておけないのよ。研究者としても、姫様の従者としても、ね。」

 

 永琳はそこで言葉を切り、ふと音のしない足取りで妹紅に近づく。妹紅は反射的に身構えたが、永琳はただ頭を少し下げて、まるで貴族の挨拶をするかのように微笑んだだけだった。

 

「もし何か興味深い方法を見つけたら、遠慮なく声をかけてちょうだい。あなたが死ぬか死なないかを、この目で確かめてみたいわ。」

 

「……冗談じゃない。あたしの邪魔をするってんなら、輝夜もろともまとめて焼き尽くしてやるさ。」

 

「あら、怖いわね。……まあ、あなたがそう来るなら、その時は私も容赦しないわ。姫様を守るためなら、ね。」

 

 互いに冷たく光る眼差しを交わし合った末、永琳は再び穏やかな微笑を浮かべて踵を返す。

 結局、妹紅は“何も言えなかった”自分に苛立ちを覚えると同時に、永琳が明確に疑いの目を向け始めていることを確信する。研究への好奇心と、主である輝夜のため——そのふたつが、永琳をいっそう危険な存在にするかもしれない。

 

 その夕刻、妹紅はいつも通り竹林に戻り、焼き鳥屋の小屋で火の後片付けをしていた。日はすでに西に傾き、竹の葉が赤く染まっている。

 だが、ふと背筋をざわつかせる殺気を感じ取り、妹紅はすぐさま立ち上がった。予感は的中し、竹林の奥から輝夜が姿を見せる。いつものおどけた雰囲気とは違い、その表情にはどこか苛立ちの色が混ざっていた。

 

「妹紅、あなた……最近どうして全然“相手”をしてくれないの? 焼き鳥屋ばかりにこもって、私が来てもすぐに追い払おうとして……。」

 

「相手する? ああ、殺し合いのことか? 飽きたんだよ、そんな茶番。」

 

「飽きたなんて言わないで。あなたと私は不老不死同士、もっと血みどろで楽しめるはずでしょう?」

 

 輝夜の目が、わずかに狂気じみた輝きを帯びる。妹紅は舌打ちするように口を開いた。

 

「好き勝手言いやがって……おまえがどれだけ楽しもうが、あたしはそんな娯楽に興味はない。飽きるとかそういう問題じゃないんだ……。」

 

「何よ、それ。まるで“殺し合い”なんかどうでもいいみたいな口ぶりね。あなた、本当にどうしたの? 最近おかしいわよ。」

 

 妹紅は答えない。代わりに掌に炎を灯し、輝夜へ向かって威嚇するように構える。すると、輝夜も負けじと身構え、薄い刃のような何かを月の光で形づくってみせた。

 竹林を吹く風とともに、二人の攻撃が交錯する。これまでも幾度となく繰り返してきた不死の殺し合い。だが、この日はいつもより激しさを増していた。輝夜の剣撃は鋭く、妹紅の炎はより苛烈に燃え上がる。

 

 血飛沫と焦げ跡が点々と散り、倒れ込んだ妹紅を、輝夜が容赦なく蹴り飛ばす。妹紅もすかさず体勢を立て直し、炎の渦で輝夜を包み込む。焼けただれた肌が再生しようとする瞬間、輝夜が再び剣を振りかざす。

 

「どうしたの? 本気を出さないと、本当に“燃え尽き”ちゃうわよ?」

 

「……これでも、けっこう本気だよ。けど、あたしは“終わり”にしたいんだ……!」

 

「終わり? 何を言って……」

 

 輝夜が怪訝な表情を見せる一瞬の隙をついて、妹紅の炎が輝夜の胸を貫く。霧散するように崩れ落ちた輝夜が、数秒後には再生を始める。それを見届けた妹紅は、はあはあと荒い息をつきながら、その場に膝をついた。

 輝夜が言い放つ。

 

「まさかとは思うけれど……あなた、本当にこの関係を終わらせようとしてる? 私との遊びに飽きたとか、そういうことじゃなくて?」

 

「……なんでもない。おまえに関係ない。」

 

 妹紅はそう言うと、再生途中の輝夜から目を逸らし、地面に伝う血を拭おうともしない。その様子に、輝夜はわずかに不安げな表情を浮かべる。これまで妹紅はどれだけ血みどろになろうと、必ず再び戦いに向かってきた。執念深く輝夜を狙い、殺す気でかかるのが当たり前だったのに、なぜか今日は違う。

 

「あなた……最近おかしいわ。本当に……いやな予感がする。私との戦いを嫌がっているようにも見えるし……。」

 

「……勝手に勘繰るな。殺し合いはやりたいなら勝手にしろ。あたしは付き合わないかもしれないがな。」

 

 妹紅が背を向けると、輝夜は思わず腕を伸ばして引き止めようとした。しかし、その手は妹紅の腕を掴む前に空を切る。妹紅は小屋のほうへ歩き去り、輝夜がどんな声をかけても振り向きそうにない。

 

 血と煙の匂いが漂う竹林の中で、輝夜はしばし立ち尽くす。いつもなら、妹紅がどれほどそっけなくても、翌日にはまた殺し合いに突き合ってくれる——そう信じていた。だが、今の妹紅からは、言いようのない絶望や拒絶の気配が滲んでいる。

 

「妹紅……どうしたのよ。永遠に殺し合う……その約束は、嘘になっちゃうの……?」

 

 輝夜は迷い子のように小さく呟き、再生しかけの肌を抑えながら、痛む身体を引きずるようにして竹林を立ち去っていった。

 

 妹紅は結局、夜通し竹林の小屋で静かに息を潜めた。ちくりと疼く火傷や斬り傷は、例の術式のおかげで治りきっていないものの、不死身ゆえに死にも至らない中途半端な苦痛を与え続ける。

 翌朝、人里へ出た妹紅を、上白沢慧音が待ち受けていた。寺子屋の門前で立ち尽くす妹紅に向け、慧音は真剣な表情で声を掛ける。

 

「妹紅、話がある。……少し、こっちへ来い。」

 

「また説教なら遠慮するよ。もう、あたしは誰の助けも——」

 

「それでも構わない。聞きたくないかもしれないが、言わせてくれ。……おまえ、このままだと取り返しのつかないことになるぞ。」

 

 慧音の声音には切迫感が宿っていた。いつもなら多少きつい言葉を使っても、妹紅はわざと軽く流してしまうのが常だ。だが、今回は違う。慧音は決して引き下がるつもりがないと、その眼差しからわかる。

 

「妹紅……最近のおまえは、まるで自分から傷つきに行っているように見える。妖怪の襲撃や輝夜との戦いだけじゃない。まるで“もっと深い傷を負いたい”とさえ感じさせる動きだ。」

 

「…………。」

 

「本当は……死のうとしているんじゃないのか? 不老不死なのに、死にたいと願っているんじゃないのか?」

 

 慧音は全身に力を込めるようにして、妹紅を真っ直ぐ見つめた。妹紅は唇を噛み、わずかに肩を震わせる。

 友人としての慧音には、本当は何か言ってやりたかった。だが、妹紅はその言葉を呑み込み、冷たい声で突き放すように返す。

 

「……だったらなんだ。もしそうだとしても、おまえには関係ない。」

 

「関係ないわけがない。私はおまえの友人だと思っているし、おまえが生きるにしろ死ぬにしろ、放っておけないんだ。」

 

「放っといてくれ。あたしはあたしのやり方でケリをつける。誰にも止められない。おまえらに手を貸せなんて言った覚えはないだろ。」

 

 そこには、かつて人里との関わりを避けようとしながらも、どこか気さくに慧音と茶屋で過ごしていた妹紅の面影は感じられない。

 慧音はぐっと拳を握りしめ、痛みを堪えるような表情をした。

 

「妹紅……本気で、死に場所を探しているのか……。もしそうなら、頼むから私に教えてくれ。永琳に相談すれば、何か手立てがあるかもしれない……」

 

「永琳に相談……? そんなことしてどうなる。あいつはあいつで、自分の興味と輝夜のためにしか動かないさ。きっと邪魔されるだけだろ。」

 

「でも、このまま放っておくわけにも——」

 

「黙れ!」

 

 思わず声を荒らげた妹紅の目には、一瞬、炎が灯るような怒りと悲しみが滲む。慧音がその表情から読み取ったのは、絶望に彩られた決意だった。

 

「誰もあたしの望みを叶えてくれはしない。だから、誰の助けもいらない。何度も言わせるな……!」

 

 妹紅は踵を返し、人里の通りを振り向きもせずに駆け出す。慧音は追いかけようとするが、妹紅は瞬く間に人混みに消え、足取りすら追えなくなってしまった。

 

 怒鳴り散らしたのは妹紅らしくない態度だが、それだけ彼女が切羽詰まっていることの証ともいえた。慧音は寺子屋の柱に手をついて深く嘆息する。

 悩んだ末、慧音はついに永琳を訪ねることを決めた。妹紅の言うとおり、永琳がどう動くかはわからないが、少なくとも今のままでは妹紅が本当に取り返しのつかない状況に陥るかもしれない。

 

 人里を抜け、迷いの竹林を進んだ先にある永遠亭。いつもなら診療を受けに来る患者や、薬を求める者の姿もちらほら見られるが、今日は静かだった。

 慧音が奥へ案内されると、永琳は落ち着いた様子で薬草の整理をしている。椅子に促され、慧音は妹紅のことを切り出した。

 

「……妹紅が、危ない。あのままじゃ、本当に自分を殺してしまいかねない。何かあなたにできることはないだろうか。」

 

 永琳は一度微笑むと、淡々とした口調で答える。

 

「やっぱり妹紅は、死にたがっているのね。あなたの話を聞いて確信したわ。最近、妹紅の様子がおかしいとは思っていたけれど……本気で不老不死を打ち破ろうとしている可能性が高い。」

 

「そうだ。だからなんとか——」

 

「ええ、必要ならこちらで介入するわ。でも、あなたの期待する形にはならないかもしれない。」

 

「それは……どういう意味だ?」

 

 慧音の問いに、永琳はわずかに目を伏せ、乾いた笑みを浮かべる。

 

「簡単なことよ。妹紅が本当に“死ぬ方法”を実行しようとするなら、私はそれを阻止するかもしれない、ということ。……姫様の唯一の遊び相手を失わせるわけにはいかないもの。」

 

「……あなたは、妹紅の命よりも、輝夜の遊びを優先するのか?」

 

「姫様あっての私の存在だもの。もちろん、学術的な興味もあるわ。妹紅の研究や行動は、私にとって大いに好奇心をそそるものだし、面白い実験材料でもある。」

 

 慧音はその冷徹さに唇を噛む。永琳にとって、妹紅の命はあくまでも輝夜の“暇つぶし相手”かつ“研究対象”でしかないのだろう。

 しかし、それでも慧音は食い下がる。

 

「……妹紅は、あなたの薬によって不老不死になったんだ。責任は感じないのか? そもそも彼女がこんなにも苦しんでいるのは、蓬莱の薬のせいでもあるだろう。」

 

「責任、ね。たしかに私が作った薬だけれど、妹紅が飲んだのは自分の意思でしょ? それに、あの子が本気で死を望むなんて、当時は思いもしなかったわ。」

 

 永琳の声は淡々としているが、その奥にかすかな感情の揺れが感じられるようにも思える。だが、すぐにそれは掻き消されるように、冷ややかな静寂が場を包んだ。

 

「私としては、妹紅がどう行動しようと自由にさせてあげたいわ。研究者としても興味深いし、彼女の不死の力がどこまで崩れるのか見届けたい。だけど、姫様の意向も無視はできない。……だから、いざとなれば私は妹紅を止める。」

 

「……そうか。あなたを頼るのは無駄だったか……。」

 

 慧音は小さく息を吐き、椅子から立ち上がる。永琳は「ごめんなさいね」と申し訳なさそうな笑みを浮かべるが、その瞳からは同情や悲しみは感じられない。

 

「でも、もし妹紅が苦しんでいるなら、あなたが寄り添ってあげて。妹紅を救うことができるのは、不老不死とは無縁の……人としての温かな関係かもしれないから。」

 

「あなたが言う資格はあるのか……?」

 

「ないかもしれないわ。でも、だからこそ、あなたしかいない。たとえ妹紅が拒んでも、あなたが諦めなければ、何か変わる可能性もあるかもしれない。」

 

 それが永琳なりの助言なのか皮肉なのか、慧音には判断できなかった。しかし、妹紅をどうにか救いたい——その気持ちだけは揺るぎない。無言のまま深々と頭を下げ、慧音は永遠亭を後にする。

 

 結果として得たのは、「永琳は妹紅を本気で止めるつもりはないし、いざとなれば力ずくで介入するかもしれない」という不確かな約束だけ。しかし、その“力ずくの介入”は、妹紅にとって救いになるのかどうか。

 

  古びた文献には、不老不死という存在そのものを否定するような儀式や術式の断片が散りばめられていた。どれも荒唐無稽に思えるが、妹紅がここ最近行ってきた小規模な“実験”が、それらをまったくのデタラメとは言い切れない証左となっている。

 実際に身体の再生が鈍る感覚を得た。深い傷を負っても、即座に治らずに痛みと出血が続く——その手応えは妹紅に「まだ先がある」と確信させるには十分だった。

 

「魂そのものを崩す……。危険だろうと、死なないこの身体で試すしかない。

終わりが見えるなら、どんな苦しみにも耐えてやる……。」

 

 妹紅は巻物に描かれた怪しい紋様を指先でなぞる。術式の理論によれば、“蓬莱の薬”が与える不死性は魂を主軸とする。ならば、その魂の軸を歪ませ、正しく肉体を再生できないようにすれば、“終わり”への扉が開くかもしれない。

 ただし一歩間違えれば、中途半端な状態で苦痛だけを味わい続ける危険もある。肉体は死にきらず、それでいて再生もままならない——そんな生ける屍となるかもしれないのだ。妹紅も、それは承知の上だった。

 

「構わない……。中途半端でも、今よりはマシだ。少なくとも、あいつとの不毛な殺し合いよりは……。」

 

 竹林の中に湿った風が流れ込み、炎の揺らめきを大きくする。妹紅はその照り返しをまっすぐ受けとめながら、歯を食いしばった。

 父の無念を晴らすために不老不死になったはずが、いつしかその敵への執着すらも空虚に感じるほど、彼女の本当の願いは“死”へと傾いている。もう引き返すつもりもない。

 

 一方、妹紅と同じく不老不死を背負う輝夜は、近頃の妹紅の態度に落ち着かなさを覚えていた。いつもなら遠慮なく挑発し、殺し合いを楽しむはずの妹紅が、最近はやたらと距離を置こうとする。

 ある夕方、輝夜は当てもなく竹林をうろついていた。人目を憚らない彼女でも、竹林の深奥となればそう簡単に妹紅の所在を突き止められない。

 

「妹紅ったら、全然姿を見せないじゃない。いったいどこに隠れてるの……?」

 

 焦りや苛立ちを隠しきれない輝夜の足取りは、普段ののんびりした雰囲気とは違っている。足元に生い茂る笹が、彼女の着物を遠慮なく引っかけるが、気にする余裕もない。

 ときおり、竹の隙間から小屋の煙が見えれば駆け寄ってみるが、そこに妹紅の姿はなく、焼き鳥屋の炭すら冷め切っていることもあった。

 

「……どうして、私を避けるの? 飽きただけじゃないわよね……。まさか、本当に私との関係を終わらせようなんて思ってるんじゃ……」

 

 輝夜は自問自答するように歩みを止め、うっすらと滲む不安に胸を掻きむしられる。

 妹紅は唯一、同じ不老不死の存在として輝夜を対等に扱ってくれる相手だった。永琳は従者であり保護者だし、鈴仙や他の妖怪たちは姫である輝夜を畏れるか敬うかのどちらか。

 しかし妹紅だけはいつも臆せず輝夜を罵り、攻撃し、文字通り殺しにかかってきた。輝夜はその“殺し合い”を、永遠に続く遊びとして捉えてきたのだ。

 不老不死の孤独は、当初こそ気楽に思えた。しかし長い時のなかで、同じ境遇を分かち合える妹紅の存在が輝夜にとってどれだけ大切になっていたか、自分でも完全には認めきれていない。

 

「……妹紅がいなくなるなんて、嫌……」

 

 竹林に沈む夕陽を見つめながら、輝夜は小さく呟く。胸の奥から湧き上がるのは、“独占欲”とも言える切迫感。

 妹紅が“殺し合い”を拒み始めた以上、ただ手をこまねいているわけにはいかない。輝夜はついに永琳に相談を持ち掛けた。しかし、永琳からは「妹紅が自死を図っている可能性がある」という衝撃的な話を聞かされる。

 

「そんなの……嘘でしょう? 妹紅が、死にたがってる? 私との殺し合いを楽しんでるくせに……」

「……本当かどうかは姫様ご自身で確かめられるといいでしょう。ですが、私も彼女の動向を“興味深く”見守っています。もし本当に不老不死を破るなら、それは学術的にも一大事ですから。」

 

 永琳の言葉が耳にこびりつく。輝夜は笑顔を作りながらも、その表情はどこか引きつっていた。

 

「妹紅が……本気でいなくなるかもしれない……。そんなの……許さない。絶対に。」

 

 輝夜は自分の感情が何より大事だ。妹紅がどんな思惑を抱えていようと、あの激しくも退屈を紛らわせてくれる存在を失うわけにはいかない。だが、一方で妹紅の決意が本物なら、輝夜一人の力では止めきれないかもしれないと薄々理解していた。

 自分だけでは足りない。永琳にも動いてもらわなければ。それでも妹紅の心は遠い。

 

 妹紅が死を望んでいる——その事実をはっきり突きつけられた上白沢慧音は、夜も眠れないほどの苦悶に苛まれていた。

 寺子屋での子供たちの授業中も心が乱れがちで、つい声を荒げてしまったり、教科書を逆に読んだりとミスを連発する。子供たちは「先生、どうしたの?」と不安そうに見つめるが、慧音は笑顔を作るだけで何も言えない。

 

「(妹紅……いったい何を考えているんだ。何をそんなに追い詰められているんだ……)」

 

 不老不死である妹紅と、人間である慧音。外見の年齢差や立場は違えど、長い交流のなかで二人は不器用な友情を築いてきた。

 しかし、いざ妹紅が本気で“死”を求め始めたとき、慧音は何もできない。それどころか、妹紅を引き止めようとすればするほど、彼女との溝は深まっていく。

 

 ある夕暮れ、慧音は再び迷いの竹林を訪れ、ひそかに妹紅の後を追ってみた。茂みの向こうに、篝火の火がちらちらと見える。妹紅が何かを読んでいるようだ。

 そっと近づいた慧音は、地面に描かれた不穏な紋様を目にして愕然とする。血文字のように赤黒く染まった線や、無数の呪符らしき紙切れ。そこには確かに“魂を乱す”という言葉が綴られていた。

 

「まさか、本当にこんな危険な術式を……妹紅、何をしているんだ……!」

 

 しかし息を殺しながら見守る慧音の存在に気づいたのか、妹紅はピクリと反応して振り返る。彼女の瞳には焦りと苛立ちの色が浮かんでいたが、同時にどうしようもない決意の硬さがにじんでいる。

 

「見たのか……。わざわざあたしを探して、これを見るなんて物好きだな、慧音。」

「冗談じゃない! こんな危険な術、絶対にやめろ! ……死なないはずのおまえが、そこまでしなきゃならない理由があるのか?」

 

 慧音の声は痛切な叫びに近かった。妹紅は一瞬視線をさ迷わせたが、やがて皮肉めいた笑みを浮かべる。

 

「理由? 理由なんて、言ったところでわからないさ。不老不死でいることが、あたしにとっちゃ死より苦痛なんだ……。

そりゃあ父の仇とか、輝夜への復讐とか……いろいろあったさ。でも、全部もういいんだ。あたしが死ねるなら、何でも構わない。」

 

「……馬鹿げてる! そんな考え方、間違ってる!」

 

 慧音は妹紅に駆け寄ろうとするが、妹紅は片手に炎を宿して構える。その炎はいつもの殺意に満ちたものとは違い、どこか拒絶を象徴するような冷たい迫力を帯びていた。

 

「近寄るな。止めたいなら力づくでやってみる? でも、あんたが下手に手を出せば、あたしも容赦しない。……あたしの邪魔は許さないよ、慧音。」

 

 その言葉に込められた決意の重さを感じ取り、慧音は足を止めるしかなかった。攻撃すれば、妹紅との関係が完全に壊れてしまう。かといって、放置すれば妹紅は本当に儀式をやりかねない。

 瞳が潤みそうになるのを必死にこらえ、慧音は拳を握り締める。

 

「……どうしてだよ、妹紅。おまえには焼き鳥屋での客とのやり取りもあるし、人里の人だっておまえを好きな者は多い。私も、おまえがいなくなるなんて耐えられないんだ……!」

 

 しかし妹紅は、その想いを突き放すように鼻を鳴らす。

 

「あたしは人間じゃないんだ。いつまでもおまえらと一緒に暮らせるはずがない。特に深く交流しないようにしてたのも、そのためさ。

……でも、それが苦痛のない生き方だなんて思わないでくれ。むしろ苦痛だよ。何百年、何千年と生き続けて、人の死を見送って、何も変わらない自分だけが取り残される。そんなの、耐えられるわけがない……。」

 

 そこには妹紅の切実な絶望があった。

 長い時を生きるがゆえの孤独。人間としての感覚がわずかに残るからこそ、その孤独に蝕まれる。かつては父の無念を背負って輝夜を殺すことだけを考えていればよかったが、不老不死の蓋を開ければ、終わりなき時間がただ重くのしかかるだけだった。

 

「……ごめん、慧音。おまえの厚意はありがたいけど、もう止まらない。あたしはどうせ死ねないなら、痛みに耐えてでも“死ねる可能性”に賭けるよ。」

 

 そう言い放つと、妹紅は地面に置かれた書を手早く束ね、炎を一閃させて見張りを牽制するかのように荒っぽく地面を焼いた。その一撃で慧音は後ずさりし、目を見開く。

 焦げくさい匂いとともに、妹紅は篝火を蹴り消し、竹林の暗がりへと消えていく。

 

「……妹紅……!」

 

 慧音の伸ばした手は、またしても虚空を掴むだけ。何度そう繰り返しても、妹紅を救う術は見つからないまま。

 

 妹紅が本格的に儀式の準備を進めている一方で、輝夜もまた嫌な胸騒ぎを抑えきれなくなっていた。永琳は「学術的に見守る」と言うものの、最終的には輝夜の意思に従うともほのめかしている。それは即ち、妹紅が本気で自殺行為に及ぶなら、輝夜や永琳が制止しに動くかもしれないということだ。

 しかし輝夜は、妹紅が何を抱え込んでいるかを本人に問い質すことすらできずにいた。強引に捕まえてでも言わせようとすれば、妹紅はますます離れていくかもしれない。

 

「あの子……私から逃げてる。私の望みなんてどうでもいいの……? 永遠に殺し合うって、あなたがいてくれるって、信じてたのに……。」

 

 輝夜は苛立ちまぎれに竹を蹴り飛ばす。呆気なく折れる竹が、やけに虚しい音を立てて転がった。

 

「……妹紅がもし本当にいなくなるなら、私はどうすればいいの? 永遠の退屈を打ち消してくれる相手が、この世のどこにもいなくなるなんて……そんなの、嫌……。」

 

 独り言のように呟いた言葉は、誰の耳にも届かない。ただ竹林の風がそれを攫っていく。輝夜自身、妹紅に対する感情が単なる“遊び”から逸脱していることに気づきつつも、素直には認められないまま時間が過ぎていく。

 

 そして、妹紅が儀式の最後の準備を行う日が近づいていた。

 竹林の小屋で焼き鳥屋を開くのは、あくまで表向きの生活にすぎない。客を相手にしたり、気まぐれに人里へ出かけたりする行動の裏で、妹紅は欠かさず古文書を読み解き、術式を磨いている。

 血を払いながら試す術は痛みを伴うが、それでも死の可能性を感じられるなら躊躇しない。かつて己が蓬莱の薬を飲んでしまったことを後悔しながら、それでも焦りと期待が高まっていくのを止められない。

 

「もう、あと少し……。何度も試して、再生が追いつかない瞬間があるなら、必ずその先が……。

あたしはこの呪いを終わらせてやる……。」

 

 竹の葉がざわめくたびに、不穏な空気が少しずつ濃くなる。輝夜は妹紅を失うかもしれない恐怖に苛まれ、慧音は妹紅を救えない無力感に苦しみ、永琳は静かに成り行きを見極めている。

 いずれにせよ、誰もが薄々感じていた。“終焉”へ向かう道筋は既に動き出しており、立ち止まることなどできないのだと。

 

  夜の帳が降りる迷いの竹林。その奥深くに踏み入る者はごく僅かで、そこは闇と静寂が支配する世界だった。だが今宵は、静寂の中に異様な気配が漂っている。竹の根や枝葉をかき分けて進んだ先——か細い月光すら遮るほど生い茂った場所に、ぽつんと怪しい火の灯りが揺らめいていた。

 その中心に立っているのは、藤原妹紅。彼女は荒い呼吸をしながら、ぐるりと地面に描かれた古代文字の紋様を見つめる。そこには呪符がいくつも貼りつけられ、焦げくすんだ文献の切れ端が散らばっていた。

 

「これで終わるなら、どんな苦痛でもいい。」

 妹紅は自身の腹からじわりと血を滲ませたまま、手にした短刀を握りしめている。すでに幾度となく実験を試みて、身体の再生が確実に鈍っている手応えを感じていた。

 かつて、不老不死の身を得たばかりの頃は、その痛みもすぐに癒えてきた。死にそうで死なない身体は、自分では望まなかったとはいえ、ある種の万能感をもたらしたのも事実だ。しかし、その“無限”の感覚も年月を重ねるごとに苦痛へと転じ、いまや妹紅にとっては呪いとしか言いようがない。

 

「少しずつ再生を遅らせる術なら、もう成功している。あとは……最後の仕上げ……。

ここまでやって、失敗だったら……笑えないけど……」

 

 吐息混じりに呟く声はかすれているが、その瞳には狂気にも似た決意が宿っていた。

 古文書の断片によれば、魂を軸にした不死の力を崩すには、自分の魂を徹底的に“破壊”するしかない。妹紅はそのために、傷を深く負った状態で特定の術式を発動させ、火や血や苦痛を意図的に重ねる必要があると読んだ。

 自分に炎を放ち、自らを焼くなど、彼女にとっては散々やってきた行為だ。だが、今回は“魂”そのものを壊しにかかる——一度始めれば、半端に引き返すことはできない一世一代の賭けだった。

 

 妹紅は短刀の刃を横に置き、代わりに掌に小さな炎を宿らせる。普段なら自在に操れるその火を、あえて制御せず暴れさせるかのように、呪符へと投げ込んだ。

 ぼっ、と燃え上がる焔が辺りを照らし、竹林の闇が炎の色に染まる。血の混ざった脂が焦げる臭いが立ち込め、妹紅は鼻を曲げながらそれをかき消すように松明を振る。

 

「……これで……あたしは……終われる……」

 

 術式が起動し始めたのか、呪符が一斉にぱちぱちとはぜる音を立てる。地面に描いた怪しい紋様が淡く発光し、まるで妹紅を中心に渦を巻いているかのようだった。

 その光景は、外から見れば悪夢のようだろう。だが妹紅の表情には、痛みに歪みながらも“やっとここまで来た”という焦燥と安堵が同居していた。

 炎の熱が肌を灼き、あちこちに負った傷から血がどくどくと流れる。今までなら瞬く間に塞がっていた傷がまったく治りきらないこの状況が、妹紅にとって“死”の可能性を示唆していた。

 

「く……っ、これは……さすがにキツいな……。

でも、こんな程度の痛みより……永遠に生きるほうが地獄だ……!」

 

 思い出すのは、長い時間を生き続ける苦痛。父を失った復讐心や、輝夜との因縁を抱えながらも、結局は誰を殺しても再生が続く無意味さ。生きているのに生の実感がない——そんな日々を重ねてきた果てに、妹紅はこの結論に辿り着いたのだ。

 

 やがて、竹の葉を踏みしめる音が混ざり合い、遠くから二つの気配が近づいてくる。上白沢慧音と蓬莱山輝夜だ。

 慧音は真剣な面持ちで炎の渦へと駆け寄り、怯むことなく妹紅に声を張り上げる。

 

「妹紅! 何をしているんだ、今すぐやめろ! こんなことをして、ただで済むはずがない……!」

 

「……慧音、また来たのか。言ったろ、止められないって……。

 おまえらには……関係ないんだ……」

 

 血まみれの顔で歪な笑みを浮かべる妹紅。その姿に、慧音は言葉を失いかける。

 だが、それ以上に焦りの色を濃くしていたのは輝夜だった。美しい漆黒の髪を振り乱し、荒い息をつきながら妹紅の正面に立ちはだかる。

 

「あんた、何やってるのよ……こんな竹林の奥で。

私を置いて勝手に……死ぬつもり? ふざけないで!」

 

 蓬莱山輝夜の瞳には怒りと混乱が入り交じっている。たとえ妹紅を殺したいと口にしても、心の底では“永遠に続く殺し合い”を当たり前のように求めていた彼女。その輝夜がいま、妹紅の“自殺”を認められるはずもない。

 妹紅は口端を引きつらせ、炎の中でまるで死にかけた獣のように吠える。

 

「自分だけいなくなる……? ああ、そうかもしれないな。

でも、輝夜……おまえはどうせ不死身だろ? なら、おまえの退屈を紛らわせるのは他の誰かに頼めばいい。あたしはもう降りる……!」

 

 言い放った刹那、輝夜の表情が歪む。幼い子供が大切なおもちゃを失う寸前のような、それでいて狂おしい執着の色が走った。

 

「……そんなの、絶対に嫌。誰でもいいわけじゃない……あなただからよ。

私の殺し合いの相手は、妹紅、あなただけなんだから……! こんな術で勝手に死ぬな!」

 

 輝夜の声が終わると同時に、彼女の掌に青白い光が集まり、まるで月の刃のように形を成す。もともと殺し合いという形でしか感情をぶつけあえなかった両者にとって、それは衝動的な行動といえた。

 激昂した輝夜は火傷を厭わず炎の中心に踏み込み、妹紅を斬り伏せようと刃を振りかざす。慧音が「やめろ!」と叫ぶが、輝夜はまるで聞く耳を持たない。

 

「妹紅……こんな馬鹿げた真似、私が許すと思う?

いっそ私の手で殺してやるから、さっさと再生してきなさいよ……!」

 

 刃が妹紅の肩口を思い切り抉る。いつもなら燃え上がる炎が妹紅を護るはずだが、今は魂が崩れかけている状態。再生も防御もままならず、妹紅の身体は切り裂かれ、地面へ膝をつく。

 自分を殺す一撃が入ったにも関わらず、輝夜の瞳にはどこか安堵に近い色も混じる。“いつものように、妹紅はすぐ起き上がってくるはず”と疑っていないのだ。

 

「どうせ死なないわよね? お願いだから、また立ち上がって……。

私と殺し合うんでしょう? 永遠に、って言ったじゃない……!」

 

 しかし、妹紅は苦しげに唸るだけで、血に染まった胸や腹の傷が塞がる気配は一向にない。

 慧音はそんな光景を見て、恐る恐る一歩踏み込む。火の粉が散る炎の渦の中、妹紅の赤い瞳と視線が交差した。

 

「……慧音、もういい……。あたしは……どうせ不老不死だから死なないはずなのに……

これで……やっと……」

 

 妹紅の言葉は最後まで続かず、吐血混じりの微かな呼吸が途切れがちになる。慧音は思わず妹紅に駆け寄ろうとするが、炎と輝夜の殺気がそれを阻む。

 

 輝夜は尚も迫る。悲鳴を上げるように燃える火の勢いに負けじと、再び月光の刃を構えて今度は深い突きを繰り出す。

 妹紅は腕を上げようとするが、血と術式の影響で力が入らない。刃が容赦なく胸を貫き、そのまま地面へと叩きつけられた。焼ける焦臭さと鉄錆びのような血の味が、竹林の暗闇に濃厚に漂う。

 慧音がようやく炎の端を駆け抜け、妹紅の身体に覆い被さるように手を伸ばした。が、あまりの出血量に、もはやまともな応急処置もできない。

 

「妹紅、耐えてくれ……! 私が、何とか止血を……!」

 

 だが、その声を聞いているのかどうか。妹紅はかすかに唇を動かしながら、ほとんど呼吸もない。

 

「これで……あたしは……終われる……。

結局……殺してくれたのは……おまえ、か……輝夜……」

 

 輝夜は勝ち誇ったように笑みを浮かべていたが、その目はどこか空虚だった。すぐに妹紅が再生し、この戦いが再開されるという確信が揺らぎ始めていることを、彼女自身も気づいていないわけではないのだ。

 慧音は泣きそうな声で輝夜に訴える。

 

「輝夜……馬鹿なことはやめろ! これ以上やったら妹紅は……本当に……!」

 

「黙って。あなたが思っているほど、妹紅は簡単に死なないわ。蓬莱人なんだから……」

 

 輝夜はそう強く言い聞かせるが、その声には説得力を欠いていた。妹紅の呼吸音が消えかけているのを前にしても、輝夜は「どうせ起き上がる」と自分に言い聞かせるように繰り返すばかりだ。

 こうして、火に焼かれ血まみれになった妹紅は、遠のく意識を感じながら、心の中で「やっと……死ねる」と呟く。切り裂かれた魂が、もはや再び身体を再生する力を保てないほどに脆くなっていることを、妹紅自身は確信していた。

 

 竹林を包む炎は徐々に小康状態になり、呪符は既に焼け落ちて灰と化していた。そこへ遅れて駆けつけた八意永琳が、険しい表情で状況を見回す。

 慧音が必死に妹紅を支え、輝夜は焦点の合わない瞳で妹紅の顔を覗き込んでいる。まるで「ほら、そろそろ起きろ」と願うように。

 永琳はさっと妹紅の身体に触れると、奥歯を噛み締めた。血肉の再生がほとんど働いていない——よほど魂にダメージが及んでいるのか。

 

「……これは……深刻ね。急いで永遠亭に運ぶわよ。姫様、手を貸してください。」

 

「手を……貸す? どうせすぐに治るわ。私たち不老不死は死なない。見てなさい、妹紅も——」

 

「輝夜、もういい……!」

 

 慧音が叫ぶ。輝夜と永琳はその剣幕に僅かに目を見開いた。慧音の声色は怒りとも悲しみともつかない震えを帯びている。

 

「……こんなの、ただの殺し合いじゃない。ただの“死なないごっこ”じゃないんだ……!

妹紅は本気で……“終わり”を望んでたんだ……!」

 

 慧音は妹紅の体温がどんどん下がっていくのを感じながら、そんな妹紅の願いを理解できなかった自分を悔やむ。止めるどころか、ここにいることしかできない歯がゆさに胸が軋む。

 

 血の海と燃え尽きた焼け跡の中で、妹紅はかろうじて薄目を開く。そこに映るのは揺れる竹林の天井と、逆光で見分けづらい輝夜や慧音、遠くに永琳の人影。

 口元から血が溢れ、声にならない声が漏れる。何を言おうとしたのか、もう理解はできない。

 そして次の瞬間、妹紅の意識はそこで途切れた。確かに不老不死であるはずの妹紅が、まるで普通の人間のように“命”を失ったかに見える光景。

 

「妹紅……妹紅!!」

 

 慧音の必死の呼びかけも、輝夜の苛立ち混じりの独り言も、妹紅には届かない。

 こうして、竹林の奥深くで行われた儀式は最悪の形で結末を迎える。妹紅は永遠亭へと運ばれていくが、そこに待ち受けているのは救いでも再生でもない——まさに“終焉”に近い虚無の状態であった。

 

 月の光がわずかに差し込む中、風に揺れる竹の葉が、一度きりのさざめきのようにカサカサと音を立てる。まるで、長い因縁の幕が下りたことを密やかに嘆くかのように。

 

 永遠亭の一室——診療所として使われている奥まった部屋で、八意永琳は妹紅の脈や呼吸を丹念に確かめていた。どう見ても致命傷なのに、妹紅が“死なない”のは不老不死ゆえの特性だろう。

 しかし、再生の気配はない。魂と肉体の結びつきがずたずたに断たれたようで、微かな生命反応を保ちながらも、目覚める兆候がまるで見えなかった。

 

「やはり……魂が不安定なまま、元に戻っていないようですね。」

 

 永琳は淡々と告げる。だがその口調は、客観性を装っていながらもどこか沈んだ色を孕んでいる。病人を診る医師としての興味はあれど、一度“不老不死”を破ろうとしている例を見たことがないのだ。

 一方で、部屋の片隅では輝夜が妹紅の姿を見つめながら、苛立ちと不安が混ざり合った表情をしていた。

 

「……不安定って何よ? 早くこの子を治して、起こしてよ。

私は永遠に遊ぶつもりなんだから、妹紅が起きないと困るの。ほら、どうなの?」

 

 輝夜の問い詰めるような口ぶりに、永琳はほんの一瞬だけ口を噤む。

 そのわずかな沈黙こそが、妹紅の状態の深刻さを物語っていた。

 

「正直に申し上げて、あの子がいつ目覚めるかは分かりません。……もしかしたら、このまま目を覚まさない可能性も高いと考えています。」

「そんなの、信じられないわ。妹紅は不老不死なのよ? 治らないはずがないじゃない!」

 

 半ば悲鳴じみた輝夜の声に、永琳は軽く首を振った。

 

「蓬莱の薬は、魂の軸を強固にすることで肉体を再生させる仕組み。それが崩れてしまえば、たとえ身体を保っても目覚める保証はありません。

……時間経過で自然に戻るかもしれませんが、今の状態では……」

 

 言葉を濁す永琳。その静かな説明は、妹紅が“長い眠り”から戻らない可能性を匂わせていた。輝夜は納得できない様子で、妹紅に手を伸ばし、何度も肩を揺さぶってみせる。

 だが妹紅の瞳は閉じたまま、焦点の定まらないまぶたの奥から微かな息遣いだけが漏れるばかり。その姿はまるで人形だった。

 

 輝夜はベッドに横たわる妹紅の傍に座り込み、じっとその顔を覗き込んだ。

 長年見慣れてきた妹紅の表情はいつも生気に溢れ、どんなに殺されてもすぐに蘇っては「こんな茶番に付き合わせるな」と悪態をつく——それが当たり前の関係だった。

 

「ねえ、妹紅。早く起きてよ……。あなた、いつもはずるいくらいしぶといのに……」

 

 声をかけても、妹紅は応えない。薄く光る白い額に触れてみても、ただ冷たい感触が返るだけだった。

 輝夜はぎゅっと唇を噛み締め、目を伏せる。

 

「……時間をかければ、そのうち元に戻るんでしょう? 不老不死同士なんだし、永遠に待てばいいだけだわ。

……そうよね、永琳?」

 

 永琳が曖昧に相槌を打つ。しかし、それは確証のない“気休め”にすぎない。輝夜も本当は、それをわかっているはずだった。

 

「まったく……妹紅のやつ、こんな寝姿を晒すなんて。起きたら叱ってやるんだから。」

 

 空元気ともいえる口調で輝夜は妹紅の手を握り締める。その表情には不安を押し殺そうとする必死さがにじみ出ていた。

 

 一方、上白沢慧音は永琳の隣で、青ざめた顔を隠せずにいた。妹紅が心底望んでいた“死”の可能性を彼女が理解したのは、あまりにも遅かった。

 妹紅を救いたかった。だが、結果的にこの“長い眠り”に入り込むのを防げなかった。むしろ、慧音がそこにいたことで妹紅を余計に追い詰めたのかもしれない——そんな思いが胸を刺してやまない。

 

「妹紅……。おまえ、そんなに不老不死を嫌っていたのか……。

もっと早く気づけていれば、何かできたはずなのに……」

 

 視線を落としながら、慧音は自責の念に囚われていた。目の前にいる妹紅が戻ってくる保証もなく、仮に戻ったとしても、その苦しみを解放できる手立てが思いつかない。

 その時、永琳がちらりと慧音の方へ目を向け、淡々とした声で言う。

 

「……これが、蓬莱の薬を持つ者の“成れの果て”なのかもしれませんね。永遠に死なない、とはいえ、魂が崩れればこのように眠り続けることもあり得る。

不老不死とは万能ではなく、呪いと呼ぶに相応しいものだと改めて思い知らされます。」

 

 言葉の端々に同情や悲哀はない。ただ、厳然たる事実を述べる医師のごとき冷静さで告げられる“当然の帰結”として。

 慧音はそれに対して唇を噛む。怒りをぶつけることもできない。永琳は悪意を持って言っているわけではない——それが余計に虚しさを募らせた。

 

「……確かに、妹紅にとっては、地獄だったのでしょうね。

それを理解できなかった私も、どうかしていた……」

 

 そう呟いた慧音のまなざしには、深い喪失感が伺えた。竹林で何度も説得しようとしたが、妹紅にとってそれは押しつけがましかったのだろうか。あるいは、もっと早く手を差し伸べていれば結果は違っていたかもしれない——。

 

 やがて、その日が暮れ、永遠亭の回廊には夜の静寂が降り立つ。蝋燭の揺れる灯りを頼りに、慧音はふらりと妹紅の部屋を出た。人里へ戻るべきかどうか迷いながら、心が重く沈んでいる。

 

「……私には人里を守る義務がある。妹紅のためにずっとここにいるわけにはいかない……」

 

 重い足取りで永遠亭の玄関先まで来た時、振り返った慧音の目に飛び込んだのは、まだ妹紅の枕元に座り込み、動こうとしない輝夜の姿だった。

 輝夜はまるで幼子が母親の帰りを待つように、じっと妹紅の顔を覗き込み、何か言葉をかけている。

 

「……大丈夫。いつか目を覚ます。妹紅は不老不死なんだから……」

 

 その独り言が次第に小さく囁きのようになり、やがて輝夜は妹紅の手を握り締めたまま微動だにしなくなった。慧音はその光景を見て、言い知れぬ怖さを感じる。

 輝夜は嬉々として妹紅を殺し合いに誘っていたはずなのに、その大切な相手を失いかけているいま、なぜこんなにも脆く見えるのだろう。人との交わりをほとんど持たない姫が、その全存在を妹紅に委ねているかのようでもあった。

 

「姫様……私は部屋に戻りますので、何かございましたらお呼びください。」

 

 永琳の声が廊下に消え、慧音も足音を忍ばせて永遠亭を後にする。人里へ戻らないわけにはいかない——それでも、どこかで「妹紅の枕元を離れたくない」と思う自分がいた。そんな葛藤が心を軋ませる。

 

 深夜の永遠亭。明かりは落とされ、診療所の奥で妹紅はただ眠り続ける。

 永琳は一応の治療を施そうと試みるが、“魂が戻らない”状態では薬や処置も効果が薄く、実質的にできることは限られていた。まるで医学的に説明のつかない不可解な昏睡。

 輝夜はそんな妹紅を起こそうと、一方的に話しかけ、何度か揺さぶってみる。しかし妹紅はうめき声すら上げず、ただそこに横たわっているだけだ。

 

「……ほら、目を開けてよ。

いつもみたいに炎を出して、私を焼き払ってみせてよ……。

私だってあなたがいないとつまらないんだから……!」

 

 輝夜の声が震える。いつも勝気で尊大な彼女が、ここまで弱気になる姿はめったに見られない。

 その背後で永琳は、姫の表情を横目にしながら静かに息を吐いた。危惧していた最悪のシナリオが現実になりつつある。妹紅が完全に目覚めない可能性——つまり、姫が“永遠の遊び相手”を失う未来。

 

「……姫様。しばらくは様子を見るしかありません。魂が戻るかどうかは、私たちにはどうにも……」

「いいわよ、待ってあげる。……あの子は不老不死なんだから、たとえ何十年眠ったって問題ないわ……」

 

 輝夜の言葉には、どこか盲目的な楽観が滲んでいる。だが、それは現実逃避にも似た執着に違いなかった。

 

 翌朝、慧音が再び永遠亭を訪れた。人里の用事を片づけてから時間を見つけて駆けつけたのだ。だが、妹紅の容体に大きな変化はないらしい。

 奥の部屋へ通されると、布団に横たわる妹紅は相変わらず眠ったまま。青白い頬には血色がなく、腕や胸の傷痕も残ったままで再生の兆しが見えない。

 

「……妹紅……」

 

 慧音は布団の端に膝をつき、その顔を覗き込む。昨夜の激痛と血の海が嘘のように静かな面差しだが、そこには生気の欠片すら感じられない。

 ふと、永琳の淡々とした声が後ろからかかる。

 

「本当は、妹紅さんはずっと“死にたかった”のでしょうね。私にも察しがついていましたが、姫様の相手をしているうちは大丈夫かと思っていました……。

彼女にとっては、これこそが“望んだ結末”だったのかもしれません。」

 

 慧音は黙って唇を噛む。妹紅を深く知っていたはずなのに、真意を理解できずにいた後悔が深く胸に突き刺さる。友人として、もっと早く手を打てば防げたかもしれない。けれど、そんな言葉は今さら虚しいだけだった。

 

「私の言葉なんかより、姫様やあなたの想いのほうが、妹紅を変えられる可能性があったかもしれません。……結果的に、誰もが間に合わなかった。

——これが蓬莱の薬の呪いの終着点かもしれませんね。」

 

 永琳の言葉には諦観が混じる。決定的な治療法はない。魂が自ら戻るかどうかは、妹紅の内面に依存する——つまり、妹紅がこのまま戻りたがらないなら、永遠に眠り続ける可能性が高い。

 慧音は唇を震わせながら、もう一度妹紅に呼びかける。

 

「妹紅……あんなに不老不死を嫌がるなら、どうして私に言ってくれなかったんだ……。

私なら……おまえの力になりたかったのに……!」

 

 もちろん、妹紅にとって慧音は唯一の友人だったのかもしれない。だが同時に、死ねない苦痛を分かち合えない相手でもある。そこに遠慮や諦めがあったのだろうか。

 いずれにせよ、今はもう遅い。妹紅が眠り続ける事実は変えられない。

 

 布団のそばに腰を下ろしたまま、輝夜はじっと妹紅の顔を見ていた。普段なら退屈を嫌い、永遠亭の奥深くで引きこもりをするか、妹紅を探しに出かけていたはずなのに、今回は微動だにしない。

 時計の針が進んでいくと同時に、人里でも竹林でも、季節は移り変わるだろう。だが、輝夜はそんな外界の時間など眼中にないかのように、妹紅と向き合っている。

 

「まだ起きないの? ずいぶん長い昼寝ね……。

でも、私は待ってあげる。あなたは不老不死なんだから、いつか絶対に目を覚ますわよ……」

 

 まるで子供をあやす母親のような口調だが、そこにはどこか狂気じみた淀みがあった。

 慧音が「妹紅を連れ帰りたい」と申し出ても、輝夜は首を左右に振る。「ここでずっと見てるほうが確実だから」と譲らない。永琳も“姫様の意向”としてそれを容認しているため、どうしようもない。

 こうして、妹紅は事実上、永遠亭の奥で“眠り姫”として横たわることになった。

 

「何十年かかっても構わない。私は気が長いのよ……不老不死だからね。

何度でもあなたが目覚めてくれるのを、待ち続けるから……」

 

 輝夜の低い囁きは、自己暗示のように繰り返される。そこには、妹紅を“失う”かもしれない現実を見ようとしない頑なさが感じられた。

 

 永遠亭に妹紅が運び込まれてから数日、数週間——やがて月が巡り季節が変わっていく。慧音も折に触れて見舞いに訪れるが、妹紅の状態は微塵も好転しない。

 傷も再生せず、呼びかけにも反応せず、ただ淡い呼吸だけが続く。慧音はそんな妹紅を見て、心が軋むのを感じる。やがて寺子屋の仕事や人里の守護のために長期で居座ることもできなくなり、後ろ髪を引かれる思いで人里に帰らざるを得ないのだ。

 

「……妹紅を救ってあげたいけれど、私はどうにもできない。

あの子の魂がもう戻らないのだとしたら、誰が助けられるんだ……」

 

 慧音はやるせなさに打ちひしがれながら、寺子屋で子供たちを指導し、夜になれば竹林のほうをただ見つめるだけの日々を送る。

 一方、永琳は診療所の業務や研究を続けているが、妹紅に対してできることは「微弱な魔力を注ぎ、体温を下げすぎないようにする」程度に限られた。魂を呼び戻す妙策は見つからない。

 

「姫様、ごきげんよう。妹紅さんの容体はいかがですか?」

「……変わらないわ。相変わらず眠ったまま。

けど、大丈夫。私がこんなに長く待っているんだから、妹紅もそのうち起きるに決まってるの……」

 

 輝夜はかすかな笑みを浮かべつつ、まるで眠る妹紅を支えるように枕元に座り続ける。その姿は傍目には献身的でさえあるが、同時にどこか“ずれた”狂気をはらんでいた。

 永琳も鈴仙も声をかけるが、輝夜は「気にしないで。私は平気よ」と言うだけ。まるでそれが当たり前の暮らしだというように、妹紅の傍を離れようとしない。

 

 こうして妹紅は、不老不死の肉体を保ったまま魂が帰らない“廃人”のような状態で、永遠亭の片隅に眠り続けることになる。

 輝夜は“再生するんだから、そのうち目覚める”と口にしながら、実際には「もう戻らないかもしれない」と感じ始めていた。だからこそ、狂おしいほど妹紅の手を離さず、待ち続ける道を選んでいる。

 慧音は人里を離れるわけにいかず、たまに訪れても変わらぬ妹紅の姿に胸を抉られ、どうしようもない無力感に苛まれる。

 永琳は淡々と「仕方のないこと」と受け止めつつ、姫の狂気をそばで見届けるしかない。本人なりに治療の可能性を模索してはいるが、魂を呼び戻す方法など見当たらない。

 

「……このまま、どれだけ時が流れても、おそらく妹紅は目覚めないだろう。

……誰も救われない結末ね。」

 

 不老不死ゆえに死ねず、けれど魂の軸を崩したがゆえに意識を取り戻すこともできない妹紅。輝夜はそんな妹紅を永遠に待ち続け、慧音は止められなかった自分を責め、永琳は呆然と見守るしかない。

 こうして、第二部は冷徹な現実の前で立ちすくむ登場人物たちの姿を描き出し、静かに幕を引く。

 妹紅が本当に望んでいた“救い”は、この永遠の眠りだったのか——誰にも答えはわからない。竹林のざわめきは、ただ虚しく揺れ続けるだけなのだから。

 

 深く入り組んだ迷いの竹林。そこに佇む永遠亭の奥まった部屋には、一人の少女——藤原妹紅が横たわり、長き眠りから一向に目覚める様子はなかった。

 不老不死のはずの彼女の肉体は、魂の崩壊によって自ら再生を拒み続けている。時が経っても傷跡は消えず、呼吸はか細いまま。まるで“生きながらにして死”を迎えたかのような状態だった。

 

 季節は移り変わり、外の竹林は幾度も色合いを変えていく。夏が過ぎ、秋の気配が漂い、やがて冬の冷たい風が竹を鳴らす。それでも妹紅の姿は変わらず、まるで時の流れから切り離されたように眠り続けている。

 

 しばしの休暇を得た上白沢慧音が、町から離れて永遠亭を訪れると、診療所の奥で眠る妹紅を看取る蓬莱山輝夜の姿があった。

 輝夜は相変わらず妹紅の枕元に腰を下ろし、小声で何かを囁いている。内容はいつものように「まだ起きないの?」「早く目を開けてよ」「また私と殺し合いましょう」といった他愛ないものだ。

 

「輝夜……もう、どれくらい妹紅の傍にいるんだ?」

「さあ、どのくらいかしらね。気づけばずっとよ。私には時間なんて腐るほどあるから、特に数えていないわ。」

 

 慧音の問いに、輝夜は淡々と答える。周囲に視線をやると、燃え尽きた蝋燭や取り替えられたまま放置された食器が並んでいる。おそらく、輝夜はろくに部屋を出ず、食事もまともに摂っていないのだろう。

 妹紅と同じく不老不死である輝夜だからこそ、“飢え”や“休息”をさして必要としない。そうして今日も明日も、永遠に続くように妹紅を見つめている。

 

「……私がまだ寺子屋を開く前、妹紅はよく私のところへ来てたんだ。あの子は死なないから、どこか無茶をしても平気だと思い込んでいて……」

「慧音、あなたもそうだったのね。私も同じだったわ。妹紅と私はどんなに殺し合っても、決して死なない関係だって信じていたもの。」

 

 輝夜は静かに笑う。そこにいつもの“お転婆ぶり”はなく、絶望を見つめる狂気が微かに混じっている。

 

 日中、また別の日。輝夜は誰もいない診療室で妹紅をじっと見下ろしていた。縦の糸も横の糸も切れたかのように、妹紅の存在は脆く、その肉体があるだけという儚さを漂わせている。

 輝夜は妹紅の頬をそっと撫でながら、まるで独り言のように微笑む。

 

「ねえ、妹紅。まだ聞こえてる? 早く目覚めて私に文句でも何でも言ってよ。

……こんなの、退屈で仕方ないわ。あなたなしじゃ、時間をつぶすのも億劫なのよ。」

 

 まるで子供が壊れた人形を愛でるような声色だった。普段なら人を小馬鹿にするような輝夜らしい口ぶりも、いまは空虚に響くのみだ。

 部屋の戸口から様子を見守っていた八意永琳が、姫の姿に心痛を覚えながらも声をかける。

 

「姫様、すこしお休みになっては? このままでは姫様のお身体にも差し障りが……」

「身体? 私も不死身よ、永琳。心配なんていらないわ。……ここを離れたら妹紅がいつ目覚めるか分からないじゃない。」

 

 輝夜は永琳を振り返りもしない。視線は妹紅に固定され、その手は決して離さないとばかりに握り続けている。心の底では「妹紅はもう戻らないかもしれない」と悟っていながら、そこから目を背けるように執着を深めているかのようだった。

 

「……まあ、姫様のお好きに。ですが、もし本当に妹紅が戻らないなら、いくら待っても変わらないかもしれませんよ。」

「それでもいいの。……私だって、永遠に生きる身なんだから、何年でも何十年でも待ってあげるわ。」

 

 その言葉はどこか空虚なやさしさと、狂おしいほどの独占欲の入り混じった響きを帯びる。永琳はそれ以上は何も言わず、静かに踵を返して部屋を出た。

 

 慧音が再び永遠亭を訪れたのは、それから一月以上経ったころだった。人里の子供たちを冬支度に導きながらも、妹紅のことが頭から離れず、こうして何度か足を運んでいる。

 だが、妹紅の様子は相変わらず。季節が巡り、竹林の風景が一変しても、彼女の身体は微動だにしない。

 診療所で顔を合わせた永琳は、ややそっけない口調で現状を説明した。

 

「何も変化はありません。魂が戻らない以上、医学的にも手の打ちようがない。

私にできるのは、このままの状態で“生かし続ける”か、ただ見守るかのどちらか。残酷な話ですけれどね。」

 

 慧音は苦い表情を浮かべる。妹紅が死にたいと望んでいた。その願いが叶ったといえばそうかもしれない。だが、本当にこんな形を妹紅は求めていたのだろうか。

 妹紅は意識のないまま。不死であるがゆえに朽ちもしないが、生きているとも言い難い。まるで魂のない人形。

 

「……妹紅は、解放されたのか……? それとも、永遠に抜け出せない苦しみを味わっているのか……」

 

 慧音は自問するが答えは得られない。答えてくれる相手がそもそも目を覚まさない。唇を噛んでも悔いは消えず、ただ静かに妹紅の額に手をやって祈るしかないのだ。

 

 永遠亭の奥の一室。輝夜が妹紅の枕元で囁く姿は、まるで眠り姫の童話を連想させた。だがそこに希望やロマンは存在しない。あるのは深い喪失感と空虚な祈りだけ。

 輝夜は毎日のように妹紅に話しかける。昔の殺し合いの思い出、焼き鳥屋でのやりとり、さらには他愛ない世間話まで。どれも妹紅が返事をするはずもないのに、一方的に語り続ける。

 

「この前、鈴仙がお菓子を持ってきてくれたの。あれ、けっこうおいしかったわよ。……あなたも起きたら食べればいいわ。

それからね……竹林の焼き鳥屋は閉店しちゃったわ。あなたがいないし、誰も引き継がないから当然だけど……」

 

 たまに妹紅の髪を梳き、額に触れる。長い時を生きる姫とは思えないほど、その仕草は儚く、何かを懇願するようだ。

 しかし、妹紅が揺れ動くことはない。変わらない時間が延々と続くばかりだ。まるで真空の閉ざされた空間。

 

「……そろそろ起きなさいよ。私はいつまででも待てるけど……本当に退屈で仕方ないわ。

でも、いいの。あなたが起きるまで、私はここにいるから。……永遠にね。」

 

 輝夜の囁きは、日に日に狂気を帯びていくように慧音や永琳の目には映る。彼女が笑うたび、その表情には痛ましいほどの欠落感が漂うのだ。

 

 こうして妹紅は“肉体的”には死なず、不老不死でありながら魂の帰らない廃人状態で眠り続ける運命を辿る。

 輝夜はその事実を理解しながらも、「永遠に待ち続ける」という狂気めいた執着を手放そうとしない。こんな結末は認めないとばかりに、“妹紅はいつか蘇る”と自分に言い聞かせ続ける。

 慧音は妹紅を救えなかった自責を抱いたまま、人里の守護という使命に戻っていく。たまに永遠亭を訪れても、横たわる妹紅の姿に痛ましさを噛み締めるしかない。

 

「あの子が本当に望んだのは、こんな形だったんだろうか……」

 

 慧音は問いを投げるが、答える者はいない。妹紅自身が眠りから目覚めることはないのだから。

 永琳は冷静に現実を受け止めているように見えるが、「姫様の唯一無二の遊び相手」が失われたことに、内心穏やかではいられない。ともあれ、彼女なりに治療を試みても報われる見込みがないと判断しているため、ただ見届けるしかなかった。

 

 こうして、迷いの竹林と永遠亭には、誰も報われない時が流れ続ける。

 藤原妹紅という存在が、意識を失ったまま、永遠に近い眠りに沈んでいる——それこそが、不老不死を巡る歪な行き着く先だった。

 妹紅の願いは「死」だったのかもしれないが、その形ですら完全には果たされない。輝夜は「待つ」という苦しみに囚われ、慧音もまた罪悪感を拭えず、永琳は冷ややかな視点で姫を支える以外に道がない。

 竹林を吹く風は、それでも青々と葉を揺らしながら同じ場所に留まり続ける。絶望は日常の風景に溶け込み、もはやそこに“救い”という言葉は無意味だ。

 

「……妹紅、あなたはもう二度と目覚めない。

そして、輝夜はその事実から永遠に目を背けている……。」

 

 結末としてはあまりに報われない。だが、それが不老不死の“終焉”であり、虚無の光景でもあった。

 誰もが心のどこかで知っていたのかもしれない。——そこにはもう希望も救いもない、と。

 

 閉ざされた室内に淡い月光が差し込む。輝夜は眠る妹紅の手を離さず、ひたすら幻想を抱き続ける。永遠に終わらないはずだった殺し合いは、こうして空虚な結末を迎え、何も動かない時間だけが残された。


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