久々にヘドラ主役のお話です。

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 最初は「下水が臭い」という苦情だったという。

 

「最初に気になったのは六月の始め、梅雨入りしたばかりの頃でした。雨が降った日で、いつもより少し湿っぽい空気だったんですけど……窓を開けた瞬間に、変な“臭い”がしたんです。なんていうか、ただの悪臭って感じじゃなくて、もっとこう、鼻に刺さるような……化学薬品みたいな、喉の奥がイガイガするような臭いでした」

 

 そう語るのは都内在住、主婦のA子さん(仮名)。

 A子さんは、日常の中に違和感が紛れ込んできた瞬間を、淡々と、しかし慎重に言葉を選びながら語ってくれた。

 

「最初は、台所の排水口かなと思って掃除して。でも変わらなくて。じゃあお風呂か?って、排水溝を歯ブラシで擦って、パイプ洗浄剤も入れて。でも、それでも臭うんですよ。家の中じゃないのかもしれないって思って、玄関を出てみたら、廊下まで同じ臭いが漂ってて。ああ、これはおかしい、って」

 

 A子さんはその日の午後、水道局に電話を入れた。

 

「こういうときって、何番にかけたらいいか、意外と分からないもんですよね。とりあえず役所の相談窓口にかけて、水道のことならこっちだと教えてもらって……やっとつながった先の人には、なるべく冷静に説明しました。『うちの周辺、下水がすごく臭うんですけど、何か工事か何かされてますか?』って」

 

 返ってきた答えは「現在、そちらの地域での下水工事は行われておりません。臭気は季節的なものや生活排水の影響もありますので、一時的な可能性もあります」という定型的な説明だったという。

 

「まあ、そんなもんだと思いましたよ。役所って、だいたい最初は取り合ってくれないし。でも……やっぱりおかしかったのよ、どう考えても」

 

 臭いは日ごとに強くなっていったという。最初は台所や風呂場、次第にトイレ、そして洗濯機の排水口からも似たような臭気が立ち込めるようになった。

 

「近所の人とも話したんです。そしたら、向かいの奥さんも『最近、変な臭いがする』って。あの人、鼻が利くから。なんか、動物が死んだような臭いだとも言ってました」

 

 ある日、風呂場の排水口から水が逆流してきた。

 

「ドロドロした黒いものが、少しずつ、ゴポッ、ゴポッて音を立てながら湧いてくるんです。水じゃない。ねっとりしてて、油みたいに膜を張って、しかも色が……紫がかった灰色? そんな色の水なんて、見たことなかった。慌ててゴム手袋して、バケツでかき出そうとしたんですけど、臭いがひどくて。立っていられないくらい。目がチカチカしてきて、喉の奥が痺れる感じ。頭も痛くなってきて……その日はすぐに寝ました。熱も出て、次の日は一日中起き上がれなかった」

 

 そこまで来て、ようやく調査員が派遣された。けれど、その場では「特に目立った異常は確認できませんでした」という報告が上がってきたという。

 

「信じられませんでしたよ。これのどこが“異常なし”なの?って。あれは何だったのかって聞いたら、『自然発酵でガスが発生することもありますので』って。冗談じゃない。あんな色の水が出て、あんな臭いがして、自然現象だなんて、ありえないって思いました」

 

 数日後、近くのアパートで一人暮らしの高齢男性が浴室で倒れていたという話が入ってきた。

 

「亡くなったとは聞いてません。でも、あれはきっと……あの臭いを吸い込んだせいよ。ガスだって言ってたけど、そんな生易しいもんじゃなかった。あれは、もう毒って感じだった。人間が吸っていい空気じゃなかった」

 

 そして、決定的なものを見てしまったという。

 

「その日の夜、犬の散歩をしていて、角のところでふと足元を見たら、マンホールの蓋が少しだけ浮いていたんです。最初は錯覚かと思った。でも近づいたら、わずかに傾いていて、そこから白っぽい“湯気”みたいなのが出てました」

 

 ……湯気、ですか?

 わたしが訊ねるとA子さんは「……いいえ」とかぶりを振った。

 

「……いや、あれは、湯気じゃあなかった。もっと重たくて、ドロッとしていて、しかも臭いが……それまでの臭いとはまた違ってた。焦げたゴムと、魚の腐ったのを混ぜたような……その隙間から、何かが……這うように動いていたんです。生き物とは思えないような、粘膜みたいなものが……」

 

 そこでA子さんは一呼吸。強く握りしめた指がわずかに震えている。思い出したくない記憶を無理に引きずり出すように言葉を探しながら、A子さんの声は小さくなっていく。

 

「……それ以来、夜は外に出ないようにしました。子供にもそう言いました。『絶対に一人でトイレに行かないで』『排水溝を覗き込まないで』って。普通、そんなこと言う? でも、言わずにいられなかったの。あの時、誰かがもっと早く動いてくれてたら……こんな大ごとになる前に、止められてたんじゃないかって思いますよ」

 

 そして、ぽつりと口にした。

 

「それがまさか、あんなことになるなんて……」

 

 

 B男さん(仮名)は、事件の少し前から、川沿いの地下水道を寝ぐらにしていたという。

 

「上はもう五月蠅(うるさ)くてね。雨宿りしてるだけでも警備員に追い立てられる。公園の東屋もダメ、駅の階段の下もダメ。じゃあってんで、地下に潜ったんだ。誰も来ないし、静かだったからな、あそこは」

 

 この季節、地上で雨風をしのぐには限界がある。ホームレスであるB男さんは数年前から、都市のインフラに空いた綻びのような場所――人目のつかない地下通路、空調の排気口の脇、そして水道局の点検用通路をつたって、雨水用の大口径管路へと泊まり込むようになった。

 B男さんは語る。

 

「濡れたコンクリの匂いは嫌いじゃない。ああ、もう誰もいない場所に来たって、そう思える。けど、あの日は違った。最初は臭いからだったな。まあ、地下が臭いのはいつものことだ、あの日みたいな雨の日は特に。だけどその時は、鼻を突くみてえな……いや、泥が腐ってドロドロになったような……とにかく、ただの汚物じゃねえ臭いだった」

 

 最初の違和感についてB男さんは「水の音が変わった」ことで確信したという。

 

「地下の水ってのは、流れ方で“空気”が分かるんだよ。いつもはチョロチョロか、ドボンって感じなんだが、その晩は……ぬるっとしてた。“ズズズ……”って。あれは水の音じゃねぇ、何かが這ってる音だ。生き物の音だった」

 

 その夜、B男さんはマンホールから数メートル下の配管の横に、身体を丸めていた。ランタンの光はかすかで、すでに充電も切れかけていた。耳を澄ませれば、水滴の落ちる音と、遠くの車の振動が微かに混じっていた。

 

「そのとき、壁が動いたんだ。最初、目を疑った。光のせいかと思った。でも違う。コンクリートの壁に、ドロッとしたものが這ってた。『動いてる』って分かったのは、“そいつ”が“ヌチョ”って音を立てて、ゆっくりこっちに流れてきたからだ」

 

 B男さんは、かすかに震えながら語る。

 

「逃げようとした。でも体が動かなかった。恐怖で、ってやつだ。息もできなくなって、目の前が真っ暗になって……その時だ。“目”を見た」

 

 ……目?

 

「ああ。あれには、目があるんだよ。丸くて、赤くて、光ってた。見てるんだ、俺を。そこに意思があった」

 

 どうやって地上に戻ったのか、あまり覚えていないという。ただ、這いずるように地面に戻った時、服は泥だらけになっていた。異臭は三日三晩抜けず、誰も近づこうとしなかった。

 

「……見逃されたって、分かった。あれを見てから、飯も喉を通らねぇ。夢にも出る。あの目だよ、あの目が、俺を覚えてる。わかってんだ。あいつはただの怪物なんかじゃない。人間がどれだけ汚してきたか、全部吸い込んで、全部覚えてるんだ。怒ってるんだよ。俺には、そうとしか思えねえ」

 

 数日後、同じ通路を使っていた仲間のホームレスが一人、姿を消した。

 

「Kって男だった。あいつはもっと奥まで入るのが好きだったんだ。『こっちは水も綺麗で涼しい』って笑ってたよ。でもあの日、戻ってこなかった。夜になっても、朝になっても。次の日、俺が代わりに入ってみた」

 

 しかしB男さんはKさんに再会することは無かった。

 

「……その時にはもう、そこら中に変な粘液がべっとりと広がってて。地面も壁も、ベタベタだった。吐き気がして、すぐに引き返したよ」

 

 後日、Kさんの持ち歩いていた鞄だけが地上のマンホール脇で見つかった。鞄の中には濡れた毛布と、空になった食料パックが入っていたという。

 

「Kがどうなったのか、俺はもう知ってる。誰に何を言われても、信じねえ。Kは“あれ”に喰われたんだ。人間が捨てたものを全部抱え込んで、“あれ”は生きてるんだ。人間の代わりに、汚れを飲んで、膨らんで……そして怒ってる」

 

 B男さんは、しばらく沈黙したあと、小さく吐き捨てるように言った。

 

「誰も信じねぇよな。信じたくもねぇさ。俺だって、できるなら忘れたいよ。けどよ、“あれ”は……まだ、あそこにいるんだ」

 

 

 Cさん(仮名)は、都の水道局に二十年以上勤めるベテラン管理職だ。設備の老朽化や季節的な汚水の問題には慣れているつもりだったという。

 

「最初に報告が上がってきたのは、六月の上旬ですね。ある区の家庭から、『排水口から強烈な悪臭がする』という苦情が寄せられました。年間を通してそうした通報は珍しくないので、最初は例年どおりの、つまり“季節性の臭気”と判断しました。梅雨の時期は特に多いんです。下水が滞留して、メタンや硫化水素が発生しやすくなりますから」

 

 Cさんの語りは、淡々としている。自分の中で一度整理をつけたうえで、客観的に述べている様子だった。

 

「……ただ、今回の件では、苦情の頻度と範囲がどうにも異常でした。一件、二件ではなく、同じブロック内で一日に十件以上。周辺の住民がほぼ一斉に、『同じような臭いがする』と言い出した。内容も共通していて、『卵の腐ったような臭い』『刺激臭が混じっている』『頭痛や吐き気がする』といった具体的な体調不良の訴えまで出始めていました」

 

 水道局はすぐに現地調査員を派遣し、下水管の点検を行った。

 

「一時的な逆流かと思いました。ちょうどその頃、異常気象で局地的な大雨が続いていたんです。雨水が一気に下水管へ流れ込むと、圧力の関係で家庭側に逆流が起きることがある。それ自体は珍しいことじゃありません。なので、最初の報告書には『大雨による一時的なガス噴出』という結論が記載されていました」

 

 けれど、問題はそこで終わらなかった。

 

「次第に、雨が降っていない日にも通報が届くようになりました。しかも、調査員が実際に現地入りしても、数時間後に再び臭気が発生する。通常ならば換気や通水である程度改善するはずなんです。ところが今回は、臭いがどんどん強くなっているように感じられました」

 

 最初の報告から一週間。Cさんの元には「下水に変な粘液が混じっている」「配管の中から動くものを見た」といった、常識では説明のつかない異常な報告が上がり始める。

 

「正直、最初は職員が見間違えたんだろうと思いました。夜の作業で疲れていたのか、あるいは何かが混入したのか。しかし、報告書が三件、四件と続いたあたりで、これは何かあると感じ始めました」

 

 ある現場職員は、排水溝内で「異様に粘性の高い黒色の物質が流動していた」と証言している。また、別の職員は、点検口の内部で「腐敗臭とともに紫色の発光を伴う物体が動いていた」と報告した。

 だが、当局としてそれを正式な報告書には残せなかった。

 

「記録には“未確認物体”とだけ記載しています。あの時点で“生物的な何か”と書いたら、報道に抜かれるリスクもあったし、何より上層部が動かない」

 

 Cさんは、机上での判断の限界を痛感していた。

 

「もちろん、自分の判断も甘かったんです。異常を異常として扱わなければならないところを、最初の“想定内”にしがみついた。大ごとにしたくなかった。行政として、なるべく静かに処理したかった……でも、そうやって動かなかったのが、いちばんの問題でした」

 

 ついに決定打となったのは、ある区域で起きた水道管破裂だった。

 

「調査員が点検中に、急激な圧力変動が起きて、管が破裂した。管内から飛び出したのは、黒い液体と、異様な発泡物質。それが職員の皮膚に触れて、ただれを起こしたんです……その時点でようやく、我々は『これはただの汚水ではない』と認めざるを得なくなった」

 

 以降、水道局は防護服を着用した専門部隊による調査を開始し、都への報告書を通じて、異常物質の正体の解明を要請した。

 だが、時すでに遅かった。

 

「……私たちは、“水”に携わる仕事をしています。水は人の暮らしの根幹です。だからこそ、こんな事態を起こしてしまったことが、何より恥ずかしく、情けないんです」

 

 Cさんは、苦い表情でうつむいた。

 

「ですが……あれほどのものが、私たちの管理している地下に潜んでいたという事実を、私たちはどこかで“ありえない”と信じていた。問題はそこなんです。信じなかった、認めたくなかった。それが一番の敗因だったんです」

 

 

「現場に入ったのは、管が破裂したって報告を受けてから翌日です」

 

 水道局の調査員であるDさん(仮名)は、事件当時、緊急対応チームの一員として出動していた。二十代後半。現場経験も豊富で、同僚からの信頼も厚い人物だったという。

 

「最初に連絡が来た時点では、“配管内で化学反応が起きてガスが発生した可能性がある”って話でした。まあ、珍しいことじゃありません。古い管だと、蓄積した有機物が発酵してガスを発生させることがある。爆発は珍しいけど、原因としてはあり得ると判断してました」

 

 彼ら調査班は、防護服と呼吸器を装着し、三人一組で地下に潜った。通常の点検ではそこまでの装備は必要ないが、この時は上層部の指示で“完全装備”が命じられていた。

 

「最初は静かでした。地上の騒音も遠のいて、水と自分たちの呼吸音だけが響く。むしろ、安心してたんですよ。『案外、大したことないのかもな』って。水は濁ってたけど、異物は浮いてなかった。温度もガス濃度も、最初の20メートルくらいまでは、基準内だった」

 

 異変が起きたのは、30メートルを超えたあたりからだった。

 

「空気が変わりました。急に、空気が重くなる。呼吸器を通していても、臭いがわかるんです。鼻じゃなくて、喉で感じるような臭い。化学薬品のツンとした刺激と、腐敗臭、そして……金属のような、血のような臭いが混ざっていた。経験上、ガスの成分じゃないってすぐに分かった。“何か別のもの”がある。チームの誰もが無言になった」

 

 チームは進行を続け、40メートル地点へ到達した。そこは、管の微細な破損が確認されていた区間の真下だった。

 

「水が揺れてました。最初は、ネズミでも泳いでるのかと思った。何かが、水の下で動いてる。小動物かもしれない。そう思ってた。でも……それは、ちがった」

 

 彼はそこで、一度言葉を切った。

 

「水が“呼吸してた”んですよ。表面がふわっと膨らんで、しぼんで、また膨らんで……何かがその下にあって、吸ったり吐いたりしてるみたいに。照明を当てた瞬間、黒い塊が浮かび上がってきたんです」

 

 それは“物体”ではなく、“存在”だった。

 

「言葉で説明できない。ぐちゃぐちゃに重なった汚泥みたいな塊。でも、それがただの泥じゃないって、見た瞬間に分かった。粘液質の膜がゆっくり動いて、まるで筋肉が収縮してるような動きをしてた。内側が、光ってたんです。紫色に。内照って言うんですかね、内側から発光するように」

 

 その時、Dさんはそれと“目が合った”という。

 

「目なんて、あるわけないって思ってた。でも、あった。赤く、丸く、左右に二つ。生き物の目って、ただ光ってるだけじゃなくて、“焦点”があるんですよ。“見てる”って分かる感覚がある。あれがまさにそれだった。こっちを、明確に見ていた」

 

 一瞬の後、塊が跳ねた。水面が破裂し、粘液が飛んだ。

 

「仲間のスーツにべっとりかかった。すぐに変な音がして、服の表面が泡立った。皮膚に直接ついたわけじゃなかったのに、火傷のような痛みを訴えて、叫び出した。俺は反射的に引き返すよう叫んで、後ろの二人を押すようにして逃げた。水の中、泥に足を取られながら……あんなに必死に逃げたのは、生まれて初めてでした」

 

 地上に戻ったとき、隊員の一人は化学性の粘膜炎を起こしていた。もう一人は過呼吸で倒れ、病院に運ばれたという。

 

「俺は、無傷だったけど……毎晩、夢に出るんですよ。あの目が。下水道の奥から、じっと、こっちを見てる。黙って、じっと……今でも夜中に目が覚める。汗びっしょりで。あれは、ただの事故じゃない。“あれ”は、あそこにいて、俺たちを見てたんだ」

 

 

 E隊員(仮名)は、対怪獣特殊戦闘制圧軍:Gフォースに所属する現役の兵士だ。過去に複数の怪獣災害現場への派遣経験があり、実戦経験も豊富なベテランである。

 

「最初は“いつもの警戒配備”だと思ってました。対象は“下水管内で目撃された不明生物”。これだけ聞けば、訓練で散々想定されてきたケースの一つです。最悪でもペットから逃げたワニか、変異性の両生類。最初の段階では我々Gフォースが出てゆくような話じゃなかったんです」

 

 だが、実際にはそれが“あの怪獣”だった。

 

「発令が正式に下りたのは、都内第七処理区画で水道局の調査員が負傷した件の直後です。“未知の生物による化学的攻撃の可能性あり”って通達が来て、正直、何の冗談かと思いましたよ。怪獣ってのは、基本的には物理的な強さが脅威なわけです。でも、今回は“毒”だった。“見たらやられる”“触れたら終わり”ってタイプのやつ」

 

 出動命令は深夜に下った。彼らの任務は、地下構造物内での対象生命体の位置確認と、捕捉が不可能な場合の物理排除。火器とともに、拡散型冷却剤、化学制圧弾、非殺傷レーザーも装備された。

 

「最初から“殺す”とは言われなかった。“無力化できれば理想的だが、応戦の形になれば致し方なし”って……つまり、要はよく分かってなかったんです、上の連中も。“怪獣にしては小さいが、毒を持つらしい”くらいの曖昧な認識で、とりあえず我々を送り込んだんでしょう」

 

 突入は午前3時。雨上がりの濃密な湿気が残る、蒸し暑い都心の地下水道だった。

 

「視界は最悪でした。霧と蒸気が混ざって、ライトを当てると逆に白く拡散して何も見えない。呼吸器を通してても臭いが分かるくらいの化学臭が漂ってました。“例のヤツが近い”って全員が直感しました」

 

 先行班が接敵したのは、管路が三本に分岐する交差区間だった。

 

「“塊”がいたんです。いや、塊って言っていいのかどうか……黒い泥の山みたいに見えました。でも、ゆっくり、確実に動いてました。地面を滑ってるんじゃない。地面と一体化して、管全体を“這ってる”ような感じ。ライトを当てた瞬間、ヌメッとした表面が蠢いて、そして……眼がこっちを向いた」

 

 その瞬間、E隊員の班のひとりが反射的に銃を撃った。

 

「何発か命中しました。命中音が“ズプッ”って感じで、跳弾しないんです。弾が沈む。泥に吸われてるような感触でした。手応えがまったくない。“撃っても意味がない”って、撃った本人がすぐに気づいたんだと思う。そいつ、銃を下ろしかけた。その瞬間です」

 

 着弾の直後、塊の一部が“分離”したという。

 

「塊から分かれて、泥の触手のようなものがのびた。こちらに向かってきた。速い。反応する間もなく、先頭の隊員のマスクに当たった。ヒュッという音がして、次の瞬間には彼が叫び声を上げて後ろに倒れ込んだ。マスク越しなのに、溶けてるんですよ。顔面の一部が焼けて……あれはもう、戦闘じゃなかった。戦場じゃなくて、“災害現場”だった」

 

 指揮官が撤退を命じた。部隊は散開し、分岐路を通って後退を開始したが、背後からは“塊”が音もなく追ってきていたという。

 

「銃撃も化学弾も効かなかった。冷却剤も、かけた瞬間に“蒸発”した。蒸気が立ちこめて、視界ゼロ。俺は壁づたいに走るしかなかった。誰かが“眼が、眼が”って叫んでて……意味が分からなかったけど、後から思えば、やっぱり“見てた”んだ、あいつは」

 

 最終的に地下30メートル地点で非常脱出ハッチから地上へ脱出。部隊は即時解散、除染処置を受け、負傷者3名、うち1名が入院した。E隊員は軽度の吸引障害と精神的ショックで2週間の休養を命じられた。

 

「現場から戻って、上に言ったんです。『無理です。あれは倒すもんじゃない。押し流すしかない』って。だけど、誰も耳を貸さなかった。上は“怪獣”って言葉を使い始めた。名付けて、“対策”した気になった。でも、あれにとって、たぶんこっちが“異物”なんですよ」

 

 Eさんは、最後にこう語った。

 

「……あれ、もしかしたら、人間が生んだものの“記憶”なんじゃないですかね。薬品、汚泥、排泄物、廃棄物、死骸……全部、見ないふりしてきた。あれはぜんぶ覚えてるんですよ。たぶん」

 

 

 事件は、Gフォースの地下突入後に起こった。

 午前4時13分、いっとき止んだ雨が再び降り出した頃だったという。都内・M地区の住宅地で、ひとつの通報が消防局に寄せられる。

 

「マンホールの蓋が勝手に持ち上がってるんです。ガスでしょうか? 白い煙みたいなものが……あと、臭いがひどいんです。焦げたゴムと、魚の腐ったような……そんな臭いです」

 

 それから一時間も経たないうちに、同様の通報が一帯から連続して寄せられる。

 

「下水口から煙のようなものが噴き出している」

「白く濁った液体が道路を流れている」

「噎せ返るような異臭が一帯に充満している」

「生き物のようなものが、道を這っているのを見た」

 

 共通していたのは、「下水口から未知の物体が這い出ている」という内容だった。

 午前5時すぎ。封鎖区域近辺のマンホールが“内部から爆裂”したという連絡が、消防局に寄せられた。

 

「最初は野良犬かと思った。でも動きが違う。粘液みたいなものが道路を這ってて、そこを通った車のタイヤが……溶けてたんですよ。音もしてた。“ズズズ……”って、湿った雑巾を絞るみたいな音が、地面から響いてきて……」(目撃者の証言より)

「現場に到着したときには、すでに道路が崩れていました。アスファルトが膨らんで、そのまま破裂したような……その裂け目から、黒い液体が噴き上がって……煙と臭いがひどくて、近づけませんでした」(現地に到着した消防隊員の証言より)

 

 次に確認されたのは、粘液状の“本体”が道路を這う映像だった。

 これは付近のビルの監視カメラによって偶然記録されたもので、全体が霧に包まれてぶれた映像の中、黒い影は明確に“生き物のような動き”をしていた。

 “それ”は、自らを支える足も骨格も持たず、液体のような体を波打たせながら、道を這い、触手を伸ばし、周囲の構造物を腐食させながら進んでいった。

 

 

 午前6時00分、Gフォースは臨戦態勢に入る。

 早朝、それも土砂降りと濃霧の悪天候であったにもかかわらず、即応可能な第3市街地防衛中隊が現地に派遣された。

 指揮官の判断で投入されたのは、対化学災害用の装備を中心とした“都市内制圧”編成だった。

 

「対象の構造が不明なため、冷却剤・高圧散布型スタン弾・局地焼却用電磁投射装置を持ち込みました。本部からは“未知の生物”とされていたが、現場の感触では、“生き物”というより……“何か、別のもの”だった」(作戦を指揮した指揮官の証言より)

 

 最初の接触は、M地区の地下通路B-7で行われた。

 排水路を這うように進行していた“それ”に対し、冷却剤弾を投入。

 しかし、それは一瞬凝固したかに見えたものの、直後に膨張を開始。内部から発光とガスの噴出が観測された。

 

「冷却が刺激になってしまった。対象は防衛ラインに向かって自律移動し、接触した隊員を包み込んで……溶かした。電磁装置も無力だった。攻撃の“意味”を理解しているようだった。まるで学習しているように、こちらの攻撃に順応していった」(指揮官の証言より)

 

 市街地への地上流出を阻止できず、部隊は地下構造ごと放棄。

 そのわずか十数分後、“それ”は地上に到達した。

 

 

 午前6時11分。都心ターミナル駅B5出口前、朝の通勤ラッシュが始まる時間。

 地下鉄の出口から続々と人が流れ出し、横断歩道を渡っていく。

 そのとき、一人の女性が悲鳴を上げた。

 

「足が……足が熱い!」

 

 彼女が立っていた場所の地面から、黒い液体が染み出していた。

 ハイヒールが溶け始め、素足が露わになる。

 周囲の人々が彼女を助けようと手を伸ばした瞬間、アスファルトの下から大量の泡が噴き出した。

 黒い泡は紫色の光を放ちながら膨張し、あっという間に人の足首を飲み込んだ。悲鳴が上がり、混乱が広がる。

 泡は次第に形を整え、半液体状の巨大な生命体のような姿となった。その表面には無数の赤い斑点が浮かび、そのいくつかは瞬きする「目」のようだった。

 

「逃げろ!」

 

 警備員の叫びも虚しく、黒い液体は地面を這い、人々に襲いかかった。

 触れた人間は、まるで酸のように皮膚が溶け、悲鳴を上げる間もなく飲み込まれていった。

 恐怖に駆られた群衆が逃げ惑う中、黒い生命体は駅の入り口を「見つめ」ていた。

 「目」が駅の方向に集中し、次の瞬間、地下への入り口を目指して流れ込んでいった。

 まるで、目的地を知っているかのように。

 

 

 午前6時22分。

 監視カメラの映像に、地上に現れた巨大な“汚泥の塊”が映る。

 幅約6メートル、高さ2メートル以上。建物と建物の間の隙間から、まるで血管のように分岐しながら這い出ていった。

 

「ビルの地下から上がってきたんですよ。電気がパッと消えて、緊急灯がついたかと思ったら、スプリンクラーが勝手に作動して、その水の中から……ヌルッと出てきたんです。人が一人、飲み込まれました。叫び声も何もなかった。音もなく、ただ包まれて……消えたんです」(目撃者の証言より)

 

 “それ”は、構造物を避けることなく直進した。

 地下鉄の換気口から噴き出し、道路を溶かし、歩道にまで広がっていった。

 人が逃げても追わない。ただそこにあるものすべてを“腐食”し、“飲み込み”、そして、進んだ。

 

 

 午前6時40分。

 Gフォース第5機動部隊が、車両型戦術兵器を用いて再度制圧を試みる。

 車両型スタンネット、高熱投射装置、耐薬処理済み冷却噴霧機を複合的に運用したが、対象はそれすらも“記憶していた”。

 

「熱が効いたと思ったのは最初だけ。次に打ったときには、まるで呼吸するみたいに表面を閉じて、弾くように反応した。“あれ”は兵器に対する“反射”を持ってる。生き物が学習しているのか、そもそもそういう“構造”なのか分からない。ただ分かったのは、こっちの攻撃を“理解している”ってことだけだ」(作戦に参加したGフォース隊員の証言より)

 

 この時点でGフォースは、対象を〈公害怪獣ヘドラ〉と認定。

 この戦闘でGフォース隊員3名が殉職、5名が化学火傷によって戦線離脱。

 制圧作戦は中断され、地域一帯を封鎖する大規模な封鎖作戦へと移行した。

 

■その日、都心で何が起こったか

死亡者:12名(直接的な腐食・硫酸ミスト吸引によるもの)

行方不明者:37名(吸収、もしくは混乱の中で消息を絶つ)

負傷者:301名(呼吸器障害、熱傷、神経損傷)

都市機能麻痺:地下鉄4路線・電力網3系統・病院1施設が機能停止

区域封鎖:M地区・S地区・C地区の一部地域に避難命令発令

 

 

 この一連の大惨事を引き起こした公害怪獣ヘドラのルーツについては各方面から分析報道がなされているが、その核心に踏み込めたものは、未だ数少ない。

 水質汚染、老朽化した都市インフラ、違法な産廃処理……要因は複合的であり、明確な“出発点”は見つからないとされてきた。

 

 だが、その「出発点」を知っているという人物がいる。

 今回、わたしはその匿名告発者との接触に成功した。企業名は明かせない。場所も伏せる。ただ、彼の言葉は記録として残されるべきだと判断した。

 

「……あれは事故じゃない。自然発生でもない。私たちが、何年もかけて“作った”ものです。自覚なしにね。意図して作ったわけじゃない。でも、意図的に“見ないようにしていた”ことの積み重ねが、あれを生んだんです」

 

 X氏(仮名)は、都内に本社を構える大手化学メーカーグループの環境管理部門に10年以上勤めていたという。

 製薬・農薬・プラスチック・電子材料・金属加工――数多くの製造ラインを持つこの企業では、当然のように大量の化学廃液と産業廃棄物が日々生み出されていた。

 

「私の仕事は、そうした排水の成分を分析し、法律に則った形で“処理済み”と報告することでした……実際に、すべてが処理されていたかどうかは、正直、言えません。というか、言いたくないですね。現場レベルでは、処理コストをいかに抑えるかってことばかりが求められてましたから」

 

 X氏が関わった業務の中に、ひとつ気がかりな案件があったという。

 それは“応急的な排水処理”と称されて行われた、地下配管への直接排出ルートの使用だった。

 

「本来なら、焼却処理か高度な分解処理に回されるはずの薬液が、“一時保管”という名目で地下に流されていた。使われていたのは、古い非常用排水管。図面にも記録が残っていない、昭和の初期に作られたと聞いています。都の下水道本線と繋がっていて、しかも誰にも“見えない”。管理責任が曖昧で、都も企業も“管轄外”として扱っていた――理想的な“捨て場所”でした」

 

 そのルートに流されたのは、試薬の残液・界面活性剤・高分子ポリマー・殺菌剤・血液成分・重金属塩など。

 廃棄物として扱えば莫大な処理費用がかかるそれらが、数年にわたって“地下に押し込められてきた”というのだ。

 

「数値が異常な地点が、現場の分析データでいくつも見つかってました。でも、報告しても“記録には残すな”と言われる。“現場で処理済みと書類に記載すれば、あとは忘れていい”――それが、うちのルールでした」

 

 X氏が辞職を決意するきっかけとなったのは、“変異微生物の発見”だった。

 通常の下水には存在しえない、高い耐性と活性をもった菌類が、分析試料の中から検出された。

 

「鉄を腐食し、プラスチックを侵食する。酵素活性が異常に高くて、処理槽内で拡散してた。冗談で“これが怪獣にでもなったら面白いよな”って言った同僚がいましたよ……今思えば、笑えない冗談でしたね」

 

 猛威を振るうヘドラ。その映像を初めて見たとき、X氏は「見覚えがあった」という。

 

「……ああ、“あれ”か、と思いました。私たちが作って、私たちが流して、私たちが忘れたもの。名前なんかなくてよかった。ヘドラなんて名付けないでほしかった。あれは“我々の無意識が生んだ現実”です。あれは、私たちの都市そのものなんですよ」

 

 都心の壊滅的被害、そして事態収束から3カ月が経過した頃、わたしは、ある企業の重役と接触した。

 インタビューはオフレコ前提で行われたため、企業名は伏せる。ただ、彼の所属する企業は、我が国を代表する化学メーカーグループであり、都市インフラや医療、エネルギー分野にまで影響力を持つ巨大な組織である。

 Y氏(仮名)はその企業の取締役の一人であり、ヘドラの騒動に際して、終盤に投入された「中和薬剤」の供給元として名指しされている企業の顔でもあった。

 

「我々がやったことは“解決”です」

 

 そう誇らしげに、Y氏は語る。

 

「世間では何やら騒がれていますが、まず確認していただきたいのは、被害がこれ以上広がらなかったという事実。ヘドラの活動を止めたのは、間違いなく、我々が提供したG-VH71薬剤によるものです」

 

 G-VH71――正式には「高分子有機構造崩壊促進剤」と呼ばれるその中和薬剤は、事態が最も深刻化した時期に、地下水道網を通じて散布された。

 その結果、ヘドラは活動を停止。膨張も腐食も止まり、都市機能の再建がようやく始まった。

 

「行政対応は遅かった。Gフォースの投入も結果としては失敗でした。最終的に頼られたのは、我々民間の科学力だった。それをもっと正当に評価していただきたいと思います」

 

 だが、その薬剤は“完全な答え”ではない。投与後に採取された地下水からは、通常の分解では生成され得ない化学構造物が複数検出されており、専門家の間では「次の生態系リスク」への懸念も高まっている。

 

「そういう報告も一部にはありますがね、まだ確定的ではないですよね。科学とはそういうものです。常に未知がある。だからこそ、仮説を立てて、対処して、また検証する。今はまず、“止めた”という実績に目を向けるべきです」

 

 それは確かに一理ある。だが、そもそもヘドラが誕生したのは、同企業グループの非公式な廃液処理ルートが原因ではないかという疑惑が依然として燻っている。

 X氏のように、コスト削減の名のもとに、廃棄物を都の地下に流していたという証言もある。今回のヘドラ騒動、その“始まり”と“終わり”の両方に、同じ企業たちが関与しているのだ。

 

「そうした報道には、非常に恣意的な印象操作を感じますね。我々はすでに第三者機関による調査を受け入れ、何ら違法な処理はなかったことが確認されています。それに、ヘドラがどうして誕生したのかなんて、まだ誰にも本当のことは分からないんですよ。誰かが“これが原因です”と言えば、それを信じたがる人が出てくる。でも実際には、もっと複雑で、社会全体の構造的な問題じゃないですか?」

 

 では、その構造の中で、自社が果たしてきた役割については?

 そう問うと、Y氏はすぐに口を開いた。

 

「もちろん、社会の一員としての責任は常に意識しています。だからこそ、技術を開発し、提供してきた。結果として、都市は救われ、人命はこれ以上失われなかった。それが事実です」

 

 ――でもそれは、新たな化学物質を流すことになるのでは?

 

「それは……」

 

 

「……結局、あいつは、なんだったんでしょうね」

 

 最初にヘドラと遭遇した水道局のDさんは事件後、長期の休養に入った。医師の診断では、軽度の心的外傷後ストレス障害とされている。事態収束から3カ月経った現在も、現場には復帰していないという。

 Dさんはインタビューの終わりにこのようなことを語っていた。

 

「俺はこう思うんです。俺たちが下水に流してきたもの、全部あそこに溜まってたんだと思うんですよ。洗剤、薬品、油、排泄物、動物の死体、薬物、血……誰も見ようとしなかったもの全部が、忘れられたまま積もってた……あいつはきっと、そういうもので出来てたんだ」

 

 それからDさんは窓の外を見遣った。

 時期は九月、天気は雨。先から到来した秋雨前線により、この連日は長い秋の時雨(しぐれ)が続いている。

 ざあっ……!

 土砂降りの雨足が窓を打つ秋黴雨(あきつゆ)の中、Dさんは乾いた笑みと共に語り続ける。

 

「『Gフォースが投入した化学兵器でヘドラは退治された』? 冗談じゃない。地下は、まだつながってるんです。水は流れてる。雨が降れば、また何かが流れ込む。そして、“あいつ”もまた、静かに流れていく……」

 

 このとき、Dさんの視線の先にあるものに、わたしはようやく気がついた。下水溝だ。あのヘドラを育んだ、都会の地下水道。その薄暗い奥へ、ごぼごぼと音を立てながら雨水が流れ込んでゆく。

 その光景を静かに眺めながら、Dさんは呟いた。

 

「あいつは誰にも気づかれないように息を潜めながら、こうしてじっと、こちらを見ているんですよ。きっと今も、仄暗い水の底から」




Twitterの呟きを基に書きました。ヘドラを扱うとどうもその手の“思想”が強くなりがちですが、別にそういう意図はないのであしからず。

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