帰省する数時間前に愛しの恋人と楽しげに会話をして、恋人のいる埼玉へ久しぶりに帰る。あの人と会うのは3年ぶりだと思うと、早く顔を見たい欲に駆られ足早に駅のホームへ向かった。
予定時刻までホームで時間を潰すあいだに恋人と何をしようかと、案を箇条書きにメモしていく。ベルとアナウンスが聞こえてくると私は停車した新幹線に乗り込んだ。そして変わりゆく風景にかつての思い出を呼び起こしながら帰路へ着く。
「ただいま〜」
チャイムを押さず、ゆっくりと玄関の扉をあけて声をかける。普段なら私の声が聞こえてきたら、テンションの上がった犬のような恋人が出迎えてくれるのに今日に限っていない。
そういう日もあるかと思い靴を脱いで、フローリングの床を歩く。玄関から入って左側にあるリビングへの扉に手をかけ、
「ねえ〜誰もいないの〜?」
なんて言いながらリビングに入ると思わず、強烈な匂いに顔を歪める。カーテンも閉め切っている部屋は暗くて分からないが物凄く濃い香水の匂いがリビングに満ちていた。
こんな空間にいたら、鼻が曲がる!なんて思ったら即行動に移す。
そのまま駆け足に直進し、カーテンを乱暴に引き、窓のロックを外して解放する。新鮮な空気と入れ変わるように濃い香水の臭いが外へ流されていく。
「っはぁ、はぁ。誰か落っことしてひと瓶ぶちまけたのかな?」
臭いが薄くなったリビング内で深呼吸をする。ほのかに香るラベンダーの花の匂い。その匂いでふと恋人がその花の香水を使っていたと気がつく。
今も姿が見えない恋人のことを考えて頭がいっぱいになってしまった。
「う〜、久しぶりの再会だと言うのになんで今日に限って家にいないの〜」
誰もいないリビングで独り愚痴る。
とりあえず、恋人が帰宅したら一緒にご飯を食べたいと思っていた。なので適当なところへお泊まりセットを置き、キッチンへ足を早らせる。
一人暮らしには少し大きすぎるキッチンには冷蔵庫、冷凍庫、そして綺麗なシンク。水垢のひとつさえなく、磨かれた鏡のような光沢を見せていた。
いつも泊まりに来る時はこのキッチンを2人で広いのにごちゃごちゃに散らかした結果、狭そうにしながら料理を楽しんでいたっけ、と思い出に耽ける。
今は恋人の姿が見えない為にひとりで料理を開始しようとしているのだが。
「冷蔵庫の中に何か入ってないかなぁ〜」
なんて言いながら、しゃがみ込んで冷蔵庫を開けた。そのとき、冷たい空気に乗ってラベンダーのいい匂いが私の鼻腔を抜け、肺に満ちた。
しかし冷蔵庫の中には青い色のタッパーが3つあるだけであった。
なんとなく気になり、ひとつ手に取るが、かなり重く何かがぎゅうぎゅうに詰められていた。
「お惣菜なのかな? この中が何か分からないから、1度蓋を開けちゃえ」
キッチンに戻ると、青い色のタッパーを置いて蓋を開ける。開ける時も冷蔵庫と同じようにふわりと優しいラベンダーの香りが鼻腔を抜ける。そして中身は、ミンチにされた赤身肉であった。
「わぁ! ミンチのお肉だ。今日はハンバーグだったのかな? それとも、そぼろ煮を作るつもりだったのかな?」
蓋を閉めると、残りのふたつのタッパーも取り出してきて蓋を開けて確認する。残りの箱も同様にミンチ肉であったが、若干黄色い脂と白い脂、ミンチ肉が混ざっている代物だった。
またそれらを開ける時に恋人を思い出させるラベンダーの香りと桃の甘い香りを嗅いだ。
「甘い桃の匂い? ラベンダーの匂いは何となくわかるけど、桃の匂いは何処からなんだろう?」
首を傾げつつも蓋を上から押して閉めて3つのタッパーを冷蔵庫へ再びしまう。肉しかない所を見ると後で買い物へ行くことが決まった。しかしそれもそれで恋人とのお買い物デートとして一緒に居られると思うとつい、ニヤケてしまう。口角があがり目尻はやや下がる。
傍から見たら、2度見されてしまうような表情をしているかもしれないが、今自身がいるところは屋内。そしてここは恋人が住んでいる部屋!つまり無敵の状態だと言える。詳しく言うならば虹色の星を手に取ったようなものだ。とはいえ恋人に見られて幻滅されたら泣いてしまう。
それは無敵をも貫通する一撃なのだ。笑い話にできるとは限らない。
「…っといけない。恋人と買い物へ行く為にもL○NEでメッセージしないと!」
『わたしの 愛おしい 恋人へ。冷蔵庫の中にミンチ肉があるのを確認したよ〜。帰ってきたら一緒にスーパーへお買い物デートしようねえ〜♡』
そう、ニヤケながら文字を打ち、送信ボタンを押す。
恋人の返事を待とうとしたのも束の間。
天井からL○NEの通知音が大音量で響いたのだ。
突然のことに肩を竦めて、生娘のような声を漏らす。
「び、びっくりした…今のはL○NEだよね…? 恋人、もしかして2階の寝室にいる? なんだぁつい寝ちゃってるだけだったのかぁ」
ならばやる事はひとつ。恋人を起こすだけである。携帯をズボンの前側のポッケに入れるとキッチンへ向かうよりも早くリビングから廊下へ駆け、そして踏み外さないように、それでいて素早く階段を駆け上がる。
「おっはよー! もう私が来るってちょっと前に伝えたじゃーん!」
勢いよく、寝室の扉を開けるがそこには誰もいなかった。布団は盛り上がっていない。その様子に肩を落とした。確信を持ったが故の行動であり、元気よく扉を開けてなお不発だったのが今になって効いて頬が熱くなるのを感じていた。
「いやあっちはカモフラージュ。私を騙す為のカモフラージュッ! ベッドの中にはいなくともクローゼットの中にも人は入れるんだよっ!」
しずかな寝室内で騒ぎ立てながらクローゼットの戸を勢いよく引く。大きな音を立てるも中はアイロンされたスーツやワイシャツがハンガーにかけて吊るされているだけであった。
「……もしかしてあっちの部屋にいるの?」
ひとつの可能性が頭をよぎる。寝室を出ると、向かいの部屋の扉を注視する。
初めて泊まりに来た際、何気なく向かいの部屋について聞いたら捲し立てるような剣幕で恋人が普段立ち入りを禁止しているのだと、口をすっぱくするほど言っていた。
恋人以外は開かずの部屋。
「L〇NEの通知音が聞こえたのはここ……もしかして趣味か何かに没頭しているの?」
無意識的にこの部屋を避けていた。恋人が豹変したような出来事はあの時以来だった事もあり、忘れていたが、今思い出してしまった。先程までの元気さは消え手に汗が滲むほど緊張していた。
ドアノブにゆっくり力を入れ、捻る際にごくりと生唾を飲みこむ。立ち入り禁止と言われていたが、この扉の奥に愛しの恋人がいるかもしれない。仮にいなくても、後でキチンと謝罪をしよう。
『この部屋には何があっても入っちゃダメだよ?』
ふたりが最初に結んだ約束を破る時が来るとは思いもしなかった。
「しっ……失礼しまぁす」
ドアノブを室内へ押す。部屋に入る際は決して大きな音を立てず、職員室へ入るように、小さくゆっくりと丁寧な言葉遣いで。
足を踏み見れる前に、扉を解放された際に室内の空気と廊下の空気が混ざる。最初にリビングで味わった換気したくなるほど濃いラベンダーの匂い。それを顔面に匂いを乗せた風を浴びると、思わず足を後退させる。
「わっ! ちょ、ちょっとまた……! この匂い!?」
顔の周りにまとわりつく匂いを手を高速で仰いで、飛ばす。再び室内へ侵入したが前を見ずに心臓をドキドキさせ扉の方をじぃっと見つめながらかたつむりのような速度で閉める。顔を下に向けたまま、相手から何か言われる前に口から言葉が漏れる。
「ごっごめん! 入っちゃダメって言われたけど! 下で呼んでも返事しないからいないもんだと思っちゃって、それでメッセージしたらここから通知音が聞こえて……」
自分が高速で言い訳を並べていても恋人からは何も言われない事に疑問を抱いて、顔を上へ向けるとそこには長方形のテーブルと大きなパンダのぬいぐるみがふたつ向かい合うような形で座り込んでいた。
「あれ……誰もいない。それにこの部屋お腹が空くいい匂いがするな~」
ラベンダーの匂いが薄れてきた今だから感じるのは肉の焼けた匂い。どこからそれがあるのか気になって仕方がない。パンダのぬいぐるみのある机の方へ自然と足が進む。
「美味しそうな匂いの正体はこれだったか〜」
少し冷めたハンバーガーとまだ温かいハンバーグ。パンダのぬいぐるみの前の皿にひとつずついれてある。皿の隣には開封されていないお茶のペットボトルがあった。
ここへ戻ってくる前になにも食べていないと気づいてからは言い訳しながら、ハンバーガーを手に取り思い切り頬張った。その瞬間、私の中で大きな衝撃が走る。
柔らかくほのかに甘いバンズ、シャキシャキのレタス、瑞々しく酸っぱい輪切りされたトマト。薄いはずのパティから肉汁が溢れんばりに、咀嚼する度に口の中で混ざり合う。その中でひとつの調和がなされていた。ソースもピクルスも1級品が使われていることは想像に難くない。
「不思議な味のするパティだった。鳥のような、兎のような。それでいて桃のようなフルーティーなソースだったなぁ……恋人には悪いことしちゃった」
自分でも思っていなかったがハンバーガーを丸々ひとつ食べ切るには5分と掛からなかった。いつもは最低10分とかかっていたが、半分以下というのはそれほどに美味しかったということだろう。後で恋人には謝ろう。
そしてもうひとつはハンバーグ。
湯気がたつという事は完成されてから時間が経っていない証明だ。
皿の隣にある、銀のナイフとフォークを使ってハンバーグを縦に切れ込みを入れて割る。
中から溢れるのは透明な肉汁、どろりと溶けたチーズ、ラベンダーの香りである。空腹を刺激する匂いとは別の匂いに耐えながら、半分に割った欠片を咀嚼する毎に肉の匂いとラベンダーの匂いが混ざりあってなんとも言えない気持ちになる。いや吐き気まで催す。
「うええ……まっっず」
なんでハンバーグの中にまでラベンダーの香りの爆弾が入っているのだろうかと怒りを感じた。香水として纏わせる程度ならば許容するとしよう。しかし部屋中を満たしたり、料理に混ぜるのは御法度というものだろう。
ハンバーガーのあった皿の隣に置いてある未開封のお茶のキャップを開けて一気に飲み干す。それでもラベンダーの匂いは消えない。
困ったな、と思いつつ何処にもいない恋人は何処にいるんだろうと考えたとき、今度は私の携帯がL○NEの通知音を鳴らす。
「今度こそ、恋人かも?」
そう思い、手早い動作でL○NEを起動しトーク画面を見る。携帯の白いディスプレイに短く纏められた文章が目についた。
『○○へ
これで私たち永遠に一緒だね。
私だけじゃ心細いから○○が大切にしていた可愛いこたちも一緒に連れていくよ』
永遠に一緒とはいったいどういう意味!?私の恋人だけじゃ心細いから、私が大切にしていた可愛い子たちも一緒に連れて行くってどういうことだろうか。
恋人が何を言っているのか理解ができない。文章を見た後にありとあらゆる思考が一生懸命に恋人が伝えたい解を導き出そうとしている。
理解したくない事実が頭を過る。小刻みに震える手からは携帯が落ち、机の下へ転がる。それを取るために、しゃがんだ際に机のふちとぶつかってしまい机と椅子を揺らした。
「いつつ……頭ぶつけちゃった」
頭をさすっていると自身の真横からぐちゅり、という嫌な音を耳にする。
ぶつかった衝撃で椅子の上にあったぬいぐるみが落下した、ということが分かった。ぬいぐるみの首がほつれていたのか、もげて転がる。中からは赤く汚れた桃がごろごろと出てくる。
布地からは赤黒い染みが滲み、どんどん染め上げていく。
私の服にも赤黒い液体と鉄臭さと恋人の臭いが混ざる。
「え……いったい何が」
拾い上げた携帯のトーク画面から目が離せない。そして恋人が遺したその言葉が理解できるまで時間はかからなかった。
そしてこの後、私自身の身に何が起きるのか。
遠くから聞こえるサイレンの音が物語っていた。