Fate/Next   作:真澄 十

16 / 56
Act.15 依頼

「……頭痛い…」

 

 響くような鈍い痛みが絶え間なく私に襲い掛かる。完全に二日酔いだ。思ってみるとこの数日間に爽やかな朝を迎えたことがない。今回は完全に自業自得なんだけれどね。

 

 顔を洗い、髪に櫛を通す。本音は一日ベッドで過ごしたいような体調だけれどそうはいかないだろう。昨日は聖杯戦争をお休みした状態だ。二日続けて何もしないのも如何なものかと思う。

 

 居間にいくと桜さんが朝食の準備をしていた。藤村さんも頭を抱えている。私と同じように二日酔いのようだ。でも一丁前に胃袋を鳴らしているあたりやはりウワバミだったか、それとも大食漢か。私は食欲なんか無いぞ。

 

「おはよー、澪ちゃん。アツツ…頭割れそう」

 

「お早う、藤村さん。桜さんもお早う」

 

「お早うございます。体調はどうですか?」

 

「はは…。私も二日酔いよ。頭が爆発しそう。…ところで他の人たちは?」

 

「遠坂先輩はまだ寝ているみたいですね。先輩とリオさんは道場に行くと言っていましたよ?」

 

「…道場?」

 

 たしかに道場らしい一角を案内されてはいたが、何でそんなところに居るんだろう。筋トレでもやっているのだろうか。でもわざわざセイバーも一緒だという意味がちょっと分からない。まさかセイバーと打ち合っているなんてことは無いだろう。相手はサーヴァントだ、稽古になんかなる訳ない。

 

 ――――と思っていたのだけれど。

 

 いざ道場に入って目に入ってきたのは、汗まみれになりながらセイバーに二刀流用の竹刀を振るう士郎さんだった。二刀流の竹刀は一般的な竹刀よりもかなり短く、片腕の筋力でも十分に扱えるものになっている。二刀流は剣道の公式規約でも認められているところだ。

受けるセイバーは普通の竹刀だが、なんと片手で握っている。本来は両手持ちで構えるべきなのだが自分本来のスタイルで戦うということなのだろう。息をつく暇もなく繰り出される剣戟を涼しげに流している。しかもよく見ると汗一つ浮かべていない。

 

「シロウ、剣の速度が鈍っているぞ」

 

「うぉおお!」

 

 両手に持った竹刀を同時に突き出す。セイバーの胸元を狙った一対の刺突は、すばやいサイドステップによって回避される。そして腕を伸ばしきった隙を見逃す筈もなく、セイバーは擦れ違いながら目にも留まらない速度で士郎さんの額を打った。

 

 すぱん、と不思議なくらいに小気味好い音とともに士郎さんは床にひっくり返る。見事なほどの一本だった。

 

「やけくその一撃が通じるのは素人までだぞ、シロウ。双剣の利点はとにかく手数の多さだ。相手に反撃の機会を与えても立ち直りやすいという隙の無さも大きい。とにかく相手を圧倒することが肝要だ」

 

「はぁっ…はぁっ……。そうは言っても…セイバーに全部捌かれてしまって…疲れが先に来てしまうんだよ…」

 

 床に大の字になったまま大きく肩で息をしている。そこで寝ているだけで水溜りが出来るほどの汗だ。朝は涼しいといってもあれだけ激しく動けば当然のことだろう。

 

「いいか、シロウ。貴方には剣の才がない。これだけは言っておく」

 

 意外だった。これほど戦えるのに、士郎さんには剣の才能が無い。それだったら私なんて虫けら以下になってしまうぞ。

 

「ああ…何度か言われたことがある…」

 

「うむ。生まれ持った才覚、センスと言っても良い。これが貴方には欠けている。だが…その代わりに経験や理論による剣は振るえる。まずは相手を崩すにはどうすれば良いかを考えながら戦うことだ。それが経験になれば、いずれ考えずとも相手を圧倒できるだろう」

 

「オケ…じゃあ、もう一本」

 

 頬を両手で叩き、気合を入れてから立ち上がる。だが起き上がって竹刀を構えた士郎さんをセイバーが手で制した。

 

「集中していることは大変素晴らしい。だがそろそろお開きだな。ミオ、そろそろ食事なのだろう?」

 

「え?…あ、ええ。桜さんがそろそろ朝食出来上がるって言っていたわよ」

 

 どうやら士郎さんは私に気付いていなかったようだ。

 

「すまないな、澪。わざわざありがとう。片付けて顔を洗ったらすぐに行くよ」

 

 士郎さんはセイバーの分の竹刀も一緒に片付け、端に置いてあったヤカンから水をラッパ飲みする。片付けとは道場の掃除のことだろう。確かに道場に落ちた汗を放置するわけにはいかない。

 

「道場の雑巾がけなら私がするわ。顔だけじゃなくてシャワーを浴びたほうがいいわよ」

 

「いや、それじゃ澪に悪いだろ」

 

「はっは。シロウ、好意は受けておくものだ。掃除は私がする、貴方は水を浴びて来い」

 

「…じゃあお言葉に甘えて。掃除道具はその辺にまとめてあるから」

 

 汗で額を拭いながら道場の一角を指差す。そうと決まればさっさと掃除を済ませちゃおう。頭はやはり痛いけれど、少しでも体を動かせば楽になりそうな気がする。気のせいかも知れないけれどね。

 

「しかしさすがはセイバーね。士郎さんもかなり強いはずだけれど、軽く遊んでやったって感じ?」

 

 さすがに士郎さんに悪いので本人が立ち去ったことを確認してから言う。セイバーはからからと笑いながら答えた。

 

「はっは。いやいや、ミオ。確かに傍目にはそう見えるだろうが、そこまでの余裕は無かったぞ」

 

「え、そうなの?」

 

 意外だった。華麗に双剣をいなし、かわして反撃する様は鮮やかだったし、汗一つ流さずに士郎さんへ指南しているものだからそうとばかり思っていたのだが。

 

「並大抵の剣戟なら捌くまでもない。シロウのように短剣が相手ならば得物の長さを頼みに一撃を叩き込む。それで終わりだ。だが士郎相手にはそれが出来なかった。いやあ、剣の才は無いがあの機能美を感じさせる剣戟は見事だ」

 

「へえ…。ところで何で打ち合いなんかしていたの?」

 

「いや、士郎が鍛錬に付き合って欲しいと言うのでな。私としても士郎の剣には興味があったし、快く引き受けたという次第だ。やはりキャスターでの戦いで何か思うところがあったのかな」

 

 途中から記憶が無いけれど確かに私も思うところはある。私がもっと強ければ、私が戦うことさえ出来れば…士郎さんや遠坂さん、それにセイバーの足を引っ張らずに済んだかも知れないのにと思うと内心忸怩たるものがある。

 

「ミオも私と剣を鍛えるか?」

 

「遠慮するわ。私には接近戦は無理よ。こんな華奢な体じゃあね」

 

「そういうものでもないが。心技体はそれぞれ補える。体に難があるのなら心と技で補えばいいこと」

 

「簡単に言わないでよ。どれも一朝一夕で身につくものじゃないわ」

 

 脊髄反射に任意の行動を設定する反応魔術はとにかくその設定の難しさが難だ。“右から剣が来た”と認識すれば毎回同じ反応しか取れない。その上そういったこまごまとした動作を設定しようとすれば時間が掛かるし、かといって設定しなければ一瞬で負ける。どちらにしても実用に耐えない。

ちなみにずっと設定を維持するのは無理だ。神経に異物を挿入するにも等しいこの魔術をずっと使用しようと思っても体が保たない。

戦闘ではなくて逃走のみに用途を限定すればそれなりに使えるのが救いだ。

 

「そんなことより、さっさと掃除を済ませるわよ」

 

 セイバーも手伝ってくれるみたいだし、すぐに終わるでしょ。…そういえばセイバーは私以上に呑んでいた筈なのに元気だな。一体どういう体の構造しているんだろう。サーヴァントと人間では少し勝手が違うだろうけれどちょっと気になる。

 

 なんて愚にも付かないことを考えながら雑巾を硬く絞るのだった。

 

 

 

 

 

「…あー……」

 

 遠坂さんも一応起きてきたようだが、これは酷い。まず酒臭い。次に不機嫌。聞くまでも無く二日酔いだ。呑んでいた量は藤村さんと同じくらいかそれ以下だが、酒に弱いのかそれとも次の日まで残すタイプなのか、とにかく私達の中で一番症状が重い。

 

 やはりと言うべきか食欲がないらしく、なかなか朝食も進んでいなかった。とは言っても昨晩あれだけ飲み食いしておいて食欲だけは旺盛な藤村さんが異常とも言える。燃費悪すぎるでしょう、藤村さん。

 

「大丈夫ですか、遠坂先輩…」

 

 桜さんが心配して声をかける。まあ、大丈夫ではないでしょうね。

 

「大丈夫…だけど……後で冷蔵庫のウコン貰うわ」

 

 ウコンのドリンクは昨日の宴会時に誰かが買ってきていたものだ。この辺りの気配りは桜さんか士郎さんのお株だろうが、士郎さんが買ってきたものの中には無かったので必然的に桜さんだろう。凛さんが桜さんに断ったのも多分そういった理由からだ。

 

 その好意に甘えて乾杯前までに各々がそれを飲んでいたのだが、果たしてどれ程効果があったのかは謎である。

 勘違いされがちだがウコンドリンクを呑んだ後に飲むのは間違いだ。あれは呑む前に飲用しなければならない。

 

「遠坂さん、あれって二日酔いに効くの?」

 

「少なくとも気休めの効能はあるでしょ。飲まないよりかはマシよ」

 

 それは確かに。私も後で一本もらっておこう。こういう事態を考えていたのか6本入りのパックを二つ買ってあった。なんて用意周到な。

 

 遠坂さんも苦労しいしい朝食を平らげ、それを合図に食後の挨拶。その後は士郎さんと桜さんが食器を片付ける。私とセイバーも手伝ったが、人の台所は勝手が分からない上に4人居ると狭いので殆ど手伝えることは無かった。

 

「んじゃ、私は家に戻っておくねー」

 

「私も家に戻ってきますね。夜にはまた来ますので」

 

 片付けが終わってひと段落していたときである。二人とも一晩泊まったことが気がかりなのか一度家に戻るようだ。二人とも実家からここに来ているようなので家の人も心配しているだろう。…桜さんはともかく、藤村さんが心配されるような年齢と戦闘能力かと言われれば疑問だが。昨日知ったが剣道の有段者だったらしい。この家の戦闘力の平均値は狂っていると思う。

 

「おう、藤ねえも桜も車には気をつけろよ。最近はなにかと物騒だからな」

 

 そう言って士郎さんが二人を送り出す。さて、これで魔術師だけがここに残ったということになる。

 全員が揃っているタイミングを見計らって切り出した。

 

「これからの方針はどうするの?」

 

 昨日までの方針はキャスター戦に焦点を当てたものだった。しかしキャスターの件が片付いたため、今後の方針は気になるところだった。

 

「そうだな…遠坂、前回のときと同じスタンスでいいと思うか?」

 

 遠坂さんが手に持ったウコンドリンクを勢い良く飲み干す。“こっち”の話に切り替わったことで凛さんの表情を引き締まった。まだ苦しげだが少なくとも平常らしくは見える。

 

「そうね。それで問題ないと思うわ」

 

「シロウ、前回のスタンスというと?」

 

「夜に出歩いてサーヴァントを探して練り歩くってことだ」

 

「…ちょっと無計画すぎない?」

 

「いやいや、ミオ。そうでもないぞ。そもそも計画を立てられるほど我らには他のサーヴァントの情報は無い。キャスターの根城が分かったのも偶然に拠る部分もあるしな」

 

 確かにそうだ。キャスターの情報の出所は凛さんの監督役からの連絡が途絶えたということに端を発する。セカンドオーナーである遠坂と監督役が密に連絡を取ることに不思議はないが、凛さんに頻繁に連絡を取る気のない監督役だったならこうはならなかったかも知れない。

 

「それならばこちらから出歩いて誘き寄せる他ないだろう。敵とてこちらの情報を掴めてはおらんのだ。互いが篭城してしまったらいつになっても終わらんぞ」

 

 全く以って正論だ。よくよく考えれば、私達の戦闘能力は他の勢力と比べて劣るなんてことはそうそう無い筈だ。だったら誘き寄せて返り討ちにするほうが効率的だし、何よりこれ以外に方針もない。

 

 あ、でも待てよ。

 

「確か、サーシャ…なんとかとかいうマスターが居ましたよね。ライダーのマスターの。あの女性のことは何か知っているんじゃ?」

 

 互いに面識は無いようだったけれど、確かに士郎さんはあの女性のことを知っていた筈だ。正確にはあの女性ではなくその肩書きについて知っているみたいだったが。

 

「サーシャスフィール・フォン・アインツベルンね。アインツベルンって聞いたことない?」

 

 残念だけど私の家は時計塔にも関心がなければ他の家にも興味がないという世間知らずな家柄だ。私が知っていた魔術師はセカンドオーナーの遠坂と八海山の一族の面々だけである。

 

「アインツベルンっていうのは、魔術師の中でも最上位に位置づけられる一族よ。閉鎖的な家柄のせいもあってその実態を知るのは難しいけれど、錬金術の総本山と言っても過言では無いわ」

 

「へえ…で、そのアインツベルンの根城は何処にあるか分からないの?」

 

「いや、分かるんだが…あの城に乗り込むとなると乾坤一擲の勝負になるぞ。何重にも張られた結界と深い森。あれは天然の要塞だ」

 

「それ以前に不利を悟ったら一目散に逃げられるでしょうね。向こうはマスターもサーヴァントも馬に乗っているのよ」

 

 言われてみればそうだ。機動力は向こうが遥かに上回っている。セイバーの話ではバーサーカーがライダーを圧倒していたという。加えて今度はセイバーとバーサーカーは共同戦線を張っている。わざわざ不利な戦いをすることは無いだろう。その城とやらが無血開城されたとしても、そこを乗っ取る意味もメリットも無い以上は無駄足だ。

 

「私たちの陣営にはセイバーとバーサーカーが居ることはサーシャとライダーには知れているし、きっと戦闘にすらならないわ。足を運ぶだけ無駄よ」

 

 サーシャスフィールだからサーシャか。そちらの方が呼びやすいから私にとっても好ましい。

 

「確かに…囮作戦、それ以外に無いのかもね…。うん、私に異存は無いわ」

 

 私の探索魔術のこともある。サーヴァントの気配に気付いて寄ってくれば私のレーダー網に引っ掛かってフィッシュ。これでサーヴァントの一本釣りだ。

 

「じゃあ今日からその方針でいこう。ライダーはその時に釣れることを期待するしか無いだろうな」

 

「了解したわ。それじゃあ、昼間は自由行動?」

 

「そうなんだけれど、澪はちょっと私に付き合いなさい」

 

 何だろう。私に何か用だろうか。という疑問が顔にでていたらしい。すぐにその疑問の答えが返ってきた。

 

「遠坂凛の魔術講座よ」

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 蟲蔵には二人分の人影があった。間桐臓硯とキャスターだ。もっとも、彼らを人と称していいのかは甚だ疑問であるが。

 

 キャスターは何も喋らない。それは大敗を許したことと醜態を晒したことによる自責の念からか。魔力の消耗は著しく、昨日はずっと霊体となって消費を抑えていた。よってキャスターが一昨日の夜以降に臓硯と顔を合わせることがなく、今この瞬間がその最初の機会だった。

 

「カカカ…。手酷くやられたものじゃのう」

 

「申し訳ありません…。私が至らぬ故、マスターのご子息を亡くしてしまいました」

 

 正確に言えば一昨日の夜以前から慎二は死んでいるというべきなのだが、あえてキャスターはこのように言った。

 

 慎二はマスターではない。仮初のマスターですらないのだ。何故なら彼には令呪を譲渡されていない。そうでなければ臓硯がキャスターを呼び戻すことは不可能だった。

 

 考えてみれば当然だ。慎二はキャスターの傀儡であって主ではない。表向きはマスターとして扱っていたが、それは周囲を欺くための布石であり保険である。

キャスターの宝具はその性質上秘匿が難しい。墓を暴くのならともかく、メフィティスの材料を一般人に求めればどうなるのかは自明の理だ。メフィティスは霊ではないので姿を隠すこともできず、一般人からゾンビの目撃情報が上がるのも時間の問題だったろう。

そういった際に汚名をすべて慎二に被せ、彼が矢面に立つことで臓硯は気兼ねなく暗躍できるという図式だった。

 

「構わぬ。どうせ魔力回路も持たぬ出来損ないよ。彼奴がくたばったとしても何の問題はないわ。それよりも傀儡の材料はあれで足りたかの」

 

 早朝に間桐邸の蟲蔵に運び込まれたいくつかの死体。それが間桐臓硯の“養分”になる筈だったものか、キャスターの為に調達したのかは定かではない。しかしキャスターにとってそんなことは問題ではなく、指示されるままにメフィティスを量産して戦力を再び蓄えようとしていた。

 

「死体に問題はありません。ですが…少しお時間を頂けなければ、サーヴァントと戦うことは難しいでしょう」

 

 メフィティスの中のいくつかには臓硯の蟲を植え込んであった。キャスター流のホムンクルスの術式を孕んだそれはメフィティスを苗床にして増殖する。そのメフィティスを徘徊させ、それが人を食い殺した際に傷口から死体に入り込む。侵入した肉体をある蟲が改造し、またある蟲が人工魂の代わりを果たす。こうやってメフィティスをネズミ講式に増やしていた。たったの数日で100を越えるメフィティスを用意できたのもこういった手法による。

 

「ふむ…しかし今度は他のサーヴァントにも気取られていよう。数をそろえることは難しかろうな」

 

「はい…」

 

 セイバー陣営は上手く騙せたかも知れないものの、ランサー陣営はそうはいくまい。キャスターが存命であることは疑いようがない。ランサーがとると考えられる行動はキャスターの姿を追い求めることだ。その際にメフィティスを発見されない、という甘い見通しは捨てるべきだろう。

 メフィティスを発見されれば当然撃破される。ネズミ講式に増えるとはいっても、今動かせるメフィティスは少ない。運が悪ければ一晩で全て無力化されるほどの数だ。

 

 キャスターたちにとっては最も厄介な相手に睨まれた形になった。

 

「ふむ…キャスター、今晩教会の死体を回収するがよい」

 

「マスター!?なりませぬ、ランサーが待ち伏せていましょう!」

 

 教会にはメフィティスからただの死体となったものが転がっている。今冬木で最も死体が集まっている場所だろう。そこまで赴き、『腐臭を愛する大公(メフィストフェレス)』を発動すればそれらはキャスターの戦力として復帰する。手早く確実に戦力を集めようと思えばこれが最上だろう。

 

 だがこの程度の考えはランサーも及んでいるだろう。当然ながら待ち伏せは考えられる事態だった。それだけに臓硯の指示は不可解極まるものだった。

 

「異議は聞かぬぞ、キャスター。なに、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるということよ。案ずることはない、貴様はランサーを足止めするだけで良い」

 

 ―――聞けば、此度の聖杯は再び無機の器に戻したという話であるしのう。

 

 その呟きはキャスターには届かなかったようだ。キャスターは怪訝な顔をしながらも、その指示に従う他無かった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 同時刻にライダーとサーシャスフィールの姿は教会付近にあった。ライダーの懐には此度の聖杯の器が納められている。

 器が無機物であれ有機物であれ、それが損壊される危険は常に伴う。そこで不干渉の掟が存在する冬木教会へ聖杯を委任することで聖杯戦争の期間中に破壊されることを防ごうという腹だ。勿論教会が絶対安全という保障はないが、中立を誓約している分戦火には晒されにくいだろう。監督役も信頼できる人物であることもあり、サーシャスフィールは戦闘に専念できるという訳だ。

 

 二人の後ろには20近くの騎馬が整列したまま行進している。ライダーの練兵を潜り抜けた猛者たちだ。姉妹兵と呼ばれている彼女たちは一言も発することはない。ただその手綱を器用に操るだけだ。

 

 この異様な一団の姿が街中にあっても騒がれなかったのは、偏にサーシャスフィールの認識阻害魔術の効果である。一般人の目には一団の姿は映っているのだが、それを脳が認識しない。目には映っているので車も人も彼らを避けて通るのだが、それを記憶に留めることも出来ない。

アインツベルンの専門分野は錬金術であるが、魔術師にとって必修科目ともいえるこの魔術はサーシャスフィールも身に修めていた。

 

「…何やら騒がしいな」

 

「そのようですね」

 

 だから当然のこと、一般人に騒がれているという意味ではない。ライダー達の存在に関わらず、教会付近は慌しい様子だった。

 

 先ほどから何台かのバンやトッラクとすれ違っている。トラックは幌などで荷台をすっぽり隠せるタイプのものだ。そしてそれらは決まって教会の方面からやって来ているようだった。

 

 何より気になるのは、運転手などがライダー達に気がついているようであること。すれ違った数台のうち幾つかの運転手が目線をこちらに送っていた。さらに気になることは、その車から死臭がすることであった。

 

「教会で何かあったかな」

 

「かも知れませんね。…器を預けるのは見送ったほうが良いでしょうか」

 

「構わんだろう。そもそも相手方が今日を指定しているのだ。出直す羽目になるかも知れないが、かといって行かぬわけにもいかぬ」

 

「正論ですね。…これで15台目です」

 

 また一台、死臭を漂わせるバンが通り過ぎた。白塗りのそれは、一応は匂わないように処理をしているようにも思える。だが死臭というより腐肉の臭いは完全には除去されてはいないようだった。

 

「…そこの者達、止まれ!教会は不可侵地域だ。何用で来たのか?」

 

 教会へ続く坂の入り口で、カソック姿の男に止められた。見れば入り口には鉄柵で簡易なバリケードを構築してあり、今その鉄柵を開け放ってバンが一台出てきた。門番らしい男たちは睨むような目つきでサーシャスフィールとライダーを凝視する。

 

 私を認識できるということは、この者達は教会の代行者かそれに準ずるものでしょうか。それよりも教会側から日時の指定を突きつけてきたというのに、何用かとは随分な挨拶なことです。

 

「アインツベルンです。此度の器を預けるために参りました」

 

「器…?まだ受け取っていなかったのか。これは失礼を、預かりましょう」

 

 手を伸ばしてきた男を遮るように、ライダーの刀が割り込んだ。

 

「悪いが監督役を呼んで来ていただこう。あるいは監督役のところまで案内していただく。我らのことを聞き及んでおらぬ貴様を信用できるわけが無かろう?」

 

 その言葉を受けて男は苦々しい顔を作る。そして何やらばつが悪そうに唸ったあと、やや申し訳なさそうにこう答えた。

 

「監督役の神父様は殉職なされた」

 

「…なに?」

 

「おそらくキャスターの仕業と目されている。先日死亡が確認された。今は監督役代行が指揮を執っているため、我ら末端まで指示が届かなかったようだ」

 

 確かにサーシャスフィールは監督役としか連絡をとっておらず、器の受け渡しの際に簒奪される危険を危惧して情報の漏洩には気をつけるように念を押していた。まさか誰にも漏らしていないとは思っていなかったが、そうであれば門番まで聞きおよんでいないことは納得できるというものだ。

 

 しかし今回の聖堂教会の動きは素早い。いや、監督役が存命のときから代行は立ててあったのだろう。第四次、第五次と監督役に任命されたものは悉く死亡している。マスター達を監督し、事態の隠匿に奔走する者達の指揮する任を負っている監督役の席を空けるのは得策ではない。

 

「代行がいらっしゃる場所まで案内しよう。話は直接会ってされるがいい」

 

 門番の一人に案内されて向かったのは、教会ではなくその裏手の墓地であった。この辺りからサーシャスフィールにも分かるほどの悪臭が漂いだした。我慢できないわけではないが、食欲を無くす臭いであることは間違いない。

 

「代行。客人をお連れしました」

 

「ご苦労さま。下がっていなさい」

 

 後姿で振り返らずに答える。声は男のものだ。中々に低い声をしている。臭いのためか、スカーフのようなもので顔を覆っているようだった。

 

「…これは」

 

 ライダーが漏らす。サーシャスフィールは言葉にもならなかった。

 

 死体の山である。何の比喩でもなく、実際に死体が山を形成している。それらは既に腐敗しており、蛆のようなものさえ湧いている。

 

 そして作業着に身を包んだ男たちが、バンやトラック死体を運び込んでいた。死体をある程度は丁重に扱いながらも手早く作業を進めている。これで死臭漂う車の正体は分かった。あれは実際に死体を積んでいたのだ。だが正体が分かっても意味はよく分からなかった。

 

「用件は何かしら?」

 

「…聖杯の器をお持ちした。聖堂教会で保管をお願いしたい」

 

「あらん、やっぱりまだ預かっていなかったのね。申し訳ないけれど、教会までご足労願えるかしら?」

 

 重ねて言うが声は男である。

 

 振り返りながら顔を覆っていたスカーフを取るとそこには―――厚化粧をした壮年の男性がそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 宝具馬と姉妹兵たちは表で待機させていた。まさか20を越える団体で応接間に押しかけるわけにもいくまい。護衛を置いて、二人は男に促されるままにソファに腰掛けていた。

 

「サーシャちゃん、紅茶でよかったかしら?」

 

「…お構いなく。すぐに帰りますので」

 

「そう言わないの。せっかく大切なものを運んできてくれたのに、茶の一つも出さないなんて私の気が済まないわ」

 

 そう言って彼は奥に茶を淹れに行った。男の名前は冬原春巳(ふゆはらはるみ)。名前の音だけを取れば女にも思えなくは無い。だが本人は筋肉質なもので、到底その輪郭から女を想像することはできまい。

 ただその動きは逐一くねくねと落ち着きが無いので、遠くからでもその異様な雰囲気だけは感じられるかも知れない。不幸にも最初の邂逅時には直立不動だったために覚悟ができていなかった。

 

 ややあって盆に紅茶の入ったポットと茶請け、それに人数分のカップを置いて持ってきた。陽気にも流行歌を口ずさんでいる。言及するなら、それは恋歌であった。

 

「どうぞ」

 

「…有難うございます」

 

「忝い」

 

 茶を受け取るも、それに口を付けようとはしない。冬原は苦笑しながらまず一口茶を飲んで毒を混入していないことを主張した。

 

 それを受けてまずライダーが、サーシャに出された分を飲む。臭いも細心の注意を払い、ゆっくりと舌で紅茶を吟味した後に無害であることを確認した。

 

 サーシャスフィールはライダーの分を取り、同じように毒の類がないか確認した後に口をつけた。毒は一切なく、ただダージリンの芳香が口を満たすのみである。

 

「申し訳ありません。第五次の監督役はマスターを殺してサーヴァントを奪ったという噂を耳にしていたものですから」

 

「言峰ちゃんね。まあ警戒するのも仕方ないことでしょうけれど、私は魔術師だからといって問答無用で切り捨てることもないし、特に叶えたい願いもないわ。…それとも、オカマの言うとこは信用できないかしら?」

 

 その言葉を慌ててサーシャスフィールが否定した。

 

「いえ、そんなことは…。ですがお伺いしても宜しいですか?」

 

 性に厳しい宗教のことである。まして監督役ともなれば代行者かそれに準ずるものが任される方針であると聞く。そういった戦闘集団の中にこのような際物が紛れたことには興味があった。

 

「ん~。性に厳しい教えだからかしら。ほら、うちの教義は自慰禁制じゃない。私は人並み以上にそういった欲求が強かったのか、代行者をやっているときにもかなり無理して抑えていた部分があったのでしょうね。どっかでそれが曲がっちゃったみたい。気がつけば性別不詳よ」

 

「…はあ」

 

 どこか宙を見ながら答える冬原は若干自信なさげだ。こういったものは往々にして“気がつけばなっていた”というものである。自分なりに原因が思い当たっているようではあるが確信は持てないようだ。

 

 しかし性別不詳と言い切ったことにはサーシャスフィールはやや呆れた。誰がどう見ても男である。性別は不詳だなどとぶち上げる勇気はある種感服に値した。

 

「教会としては、致死率100パーセントを誇る監督役の任につけて厄介払いをするつもりなんでしょうね。さすがに監督役は任されなかったけれど、代行という肩書きだけでも“あわよくば”という意思が見え隠れするわ」

 

 確かに彼を監督役として前に出せば、魔術師たちの反感を買いかねない。本人は至って真面目なのだろうが、周囲はそうは思わないだろう。そして彼を煙たがるのは魔術師だけでなく、どうやら同じ組織のもの者達もそうであるようだ。厚化粧をしたオカマが自分と同じ代行者だと思うと、周囲も内心穏やかざるものがあるのだろう。

 

「冬原殿。墓地の死体について聞いてもよろしいか」

 

「ああ、私ったら自分のことばっかり喋っちゃったわね。ごめんなさい。…あれは今回のキャスターの仕業よ。町を騒がしている連続殺人についてはご存知?」

 

 無言で首を縦に振った。

 

「それなら話は早いわ。キャスターは自分の所業の隠匿も行わず、無秩序に住民を食い漁っているわ。…放置すれば、数日中にここは死都となるでしょうね」

 

「な…!?」

 

 正確にはあれは死徒などではないし、ここを根城にするものも存在しないので死都というには語弊があるだろう。だが現状を説明するには最も適切な言葉に思えた。

 

「キャスターの宝具の力ね。墓地の死体は、キャスターがここに戻ってきた場合に備えてよ。本当は焼却処分しちゃいたいところなんだけれどね。焼いた程度で宝具から逃れられるのか分からないし、何より審判の日に体がなくっちゃねえ。上も動きを見せてくれないし、仕方ないから大急ぎで運搬しているのよ。死体がなくっちゃキャスターもどうしようもないでしょ」

 

「馬鹿な、教会は動いていないのですか…!」

 

 魔術協会は神秘の秘匿がなされている限りは動かない。いずれ露見する可能性はあるが、現状では動かないだろう。しかし聖堂教会は神の教えに反する異端を殲滅する機関でもある。現状で動かない道理はないはずだ。

 

「今死都と言ったけれど、アレは死徒ではないからねえ。死者の蘇生そのものは教義で否定しているわけでもなし。それに聖杯戦争中には聖堂教会は基本的に不干渉よ。少なくとも、今は動いてくれないでしょ」

 

「そんな…では、監督役の権限でマスターを召集したらどうです。キャスターの首に賞金をかければ」

 

「それも考えたんだけどね…」

 

 そう言って一口紅茶を飲む。茶請けのクッキーに手を伸ばしながら言葉を続けた。

 

「まず今回のマスターは教会に登録するものが少ないわ。約半数は届出がない状態よ」

 

 教会に連絡を入れたのは、間桐、遠坂、アインツベルン、そして八海山澪の4組だけだ。前回の監督役の動きから鑑みて、何のサーヴァントのマスターかは誰も明かさなかったが少なくとも一報は全員入れてある。残りの半数はイレギュラーであることが考えられ、ともすれば魔術師ですらない可能性すらあった。

 

「召集をかけたところで集まるとも思いがたいわ…。第一、キャスター陣営が召集に応じてしまったら意味がないじゃない。それにこれが最も重要なことなんだけれど、相応の見返りを用意できないのよね」

 

「令呪、とかは…」

 

「前回までならそうしていたわ。だけれどね、未使用の令呪は言峰ちゃんと一緒に燃え尽きているのよね」

 

 第五次の折、言峰はアインツベルンの城で焼死体として発見された。焼けた遺体から未使用分の令呪を回収することが適わず、マスターが食いつきそうな報酬を用意できないのが現状だった。

 

 魔術師など基本的には利己的な生物だ。自分に利することが無ければ誰が好き好んで教会の依頼を受けるだろうか。まさか金銭で釣れる輩が居るとは思えまい。

 

「で、ここからが本題なんだけれど…」

 

 冬原は襟を正してこう切り出した。

 

「サーシャスフィール・フォン・アインツベルン。御三家の一角に監督役代行として依頼します。近日中にキャスターはここ、冬木教会に襲撃するものと考えられます。暫くの間、ここを護衛して頂けないでしょうか」

 

 今までのややおどけた調子ではなく、そこには一人の代行者としての顔があった。厚化粧の奥に、戦禍を潜り抜けてきた兵としての顔を垣間見られる。

 

「提供が可能な見返りならば用意しましょう。しかしこちらから呈示できる物はありません。ただ、始まりの御三家としての矜持に訴えるのみです。聖杯戦争の場をキャスターの傍若無人な振る舞いで荒らされたくないとお考えなら、どうかお受け頂きたい。ここが死都となってしまえば、魔術協会も聖堂教会も動かざるを得ない。そうなれば…聖杯戦争はもう二度と行えない可能性もある」

 

 確かに二勢力が介入したとなると、残るのは焼け野原のみだ。それを隠匿するためにミサイルの一つでも落とすかも知れない。そうなってしまえば、霊脈や聖杯のシステムもただでは済まないだろう。二度と、いや今回の聖杯戦争すら行えない可能性まであるのだ。

 

「私は沙沙の意志に従う。どうする、沙沙?」

 

「……分かりました。私にもアインツベルンとしての誇りがあります。それを天秤に載せられたからには頷くほかありません」

 

「ありがとう、サーシャちゃん!」

 

 勢いよく立ち上がってその手を握る。そして腕がもげるのではないかと思うほどの速さでその手を振った。

 

「正直言って間桐は胡散臭いから依頼するつもりもなかったし、そもそも連絡取れないし!遠坂も何故か屋敷に帰っていないし!アインツベルンにまで断られたらどうしようかと思ったわ!」

 

 凄い勢いでまくし立てられてサーシャスフィールは乾いた笑いを返すしかなかった。

 

「せめてものお礼に、貴方にお化粧を教えてあげるわ!」

 

「…はい?」

 

「お化粧よ、お・け・しょ・う。貴方それスッピンでしょ?もとが凄くいいんだから、化粧すればもっと綺麗になるわよ~?」

 

 先ほどから握っていた手を離そうともせず、ぐいぐいと引っ張られる。このまま化粧台まで連行するつもりらしい。

 

「い、いえ…私、化粧は…」

 

「黙らっしゃい!化粧は女の嗜みなの、それを疎かにするなんて許さないわよん!さあ、痛くしないからついてらっしゃい!」

 

「ラ、ライダー…!助け…」

 

「俺も沙沙の化粧姿が見てみたい。早くしてくれよ、沙沙」

 

 後で覚えておきなさいよ、という悲痛な叫びは廊下の奥から響いてくるのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「『送受信』とは聞いているけれど、もう少し詳しく説明してもらっていいかしら?」

 

 ここは遠坂さんの部屋だ。いたるところに実験器具じみたものが散乱している。天体観測よりも夜行性生物の捕獲と解剖を行っていますと言ったほうが信じられるかも知れない。少なくとも天体観測を連想させるものなど一つとしてなく、藤村さんや桜さんはこの部屋に立ち入ったことが無いに違いない。

 

 遠坂さんは何故か眼鏡をかけていて、それがとても知的な雰囲気を作っている。とはいえ目は悪くないはず。きっと雰囲気から入るタイプの人だ。

 

「うーん…もはや言葉のままの意味なんだけれどね。魔力などの受信、送信を得意かな。パスの作成や、遠見の魔術、念話の分野ではどの家にも引けを取らないと思うわ」

 

「他には何かある?」

 

「他に…かあ。まあ…士郎さんみたいに普通とは違う、魔的な変化には敏感かな。『受信』の能力の部分の活用ね」

 

「確かに士郎が固有結界を展開するときに、いち早く世界の異常を察知していたわね」

 

「ええ。八海山の人たちは皆あんなものよ。六感全てが過敏だといってもいいわ。さすがに知覚過敏になる人は居ないみたいだけれどね。六感以外に何かあるかな…ああ、昔に読心術を使える者が居たって祖父母から聞いたことがあるわね」

 

「読心術?そんなものが可能なの?」

 

 読心を実現しようと思えばいくつか方法はある。最も難易度の低い方法は、既に通っているパスを使うものだ。対象の同意と契約によって実現するこの魔術は共感知覚に近い。経路で繋がれた者同士の強い感情は相手に伝わるということからも想像しやすいだろう。だがかなり熟練した魔術師でも、相手の深層心理や隠匿したい記憶や感情を読み取ることは難しい。

 

 逆に最も困難な方法は相手の意思に関わらず心を読む方法だ。これは経路や契約に頼らず、純粋に術者の技量だけで実現しなければならない。相手が眠っていれば十分に可能な範疇であろうが、起きているときは不可能に近い。人間の意志の力とは存外に侮れない。心の壁という言葉があるが、それが読心術には天敵となる。特に魔術師相手ならなおさらだ。

 

「もう何代も昔の人物が可能だったらしいわ。あまりに昔過ぎて、そいつの名前はおろか性別すらも分からないそうだけど」

 

「へえ。じゃあ澪も読心術を使えたりするの?」

 

「そんなわけ無いでしょ。ヘタに使えば破滅よ、あれは」

 

 人間の脳は、その人物の記録だけで埋まっている。それ以上の情報を押し込むことなんかできない。相手の身の上程度なら誰しも記憶できるだろう。しかし相手の出生から今までの全ての情報を叩きつけられたらどうなるか。人間の一生を全て余すことなく記せばどんな文章量になるか分るだろう。

空気を入れすぎた風船は破裂する。つまりはそういうことだ。

 

 運よく破裂を免れたとしても問題がある。いかに潔癖の人物でも負の感情というものは存在する。憎悪、憤怒、嫉妬、狂気などといった感情は、その感情の持ち主には甘美かも知れないが他人にとっては猛毒だ。風船の中に硝酸を混入するようなものだ。

 

「それに私にはそんな才能ないわ。断言できるわ。絶対に無理」

 

「でしょうね。それが出来たらサトリでしょうし」

 

 日本の妖怪、サトリ。確かにそれがイメージとしては一番近いと思う。

 

「じゃあこれについてはいいわ。他に何かある?」

 

「他に…あ、そういえば……いや、でもねえ…」

 

「何よ、煮え切らないわね。はっきり言いなさいよ」

 

「うーん…いや、自分でも自信が無いの。確証が持てたら話すわ。他には特に無いということで」

 

「…そう」

 

 凛さんはこれ以上追求しないでくれた。正直助かる。問い詰められても答えられないのが現状だ。言うなれば靄を掴んでいる感触だろうか。確かに何か掴んでいるだけれど、何を掴んでいるのか分からない。分からないものは答えようもない。

 

「じゃあちょっと実演してもらおうかしら。今すぐに出来ること、ある?」

 

「パスの作成かな」

 

「え!?いやだってホラ…アレだし…」

 

「…ああ。そういうのは要らないわ。血を一滴だけ貰えるかしら」

 

「…それだけでいいの?」

 

 経路を作成するのに、最も手っ取り早くて確実な方法がある。その…所謂『にゃんにゃん』することだ。だけれど八海山式ではそんなものは必要ない。というか、この場でそれを提案などしない。私にそっちの気はないぞ。

 

 遠坂さんは引き出しから短剣を取り出し、それで指先を浅く切った。鋭利な切り口なので血が出るまでにやや時間があったが、すぐに指先には血が溜まった。

 

「手の甲に一滴。…うん、これでいいわ」

 

 切った指先を手の甲に差し出し、一滴落とす。令呪の無い左手にも赤いものが置かれる。これで準備は完了だ。

 

「―――我ハ其ヲ知ル者ゾ」

 

 右手で左手の甲を包みながら唱える。ゆっくりと魔力を循環させ、血を拠り代にして凛さんと経路を接続する。

 

「繋ゲ、“経路形成”」

 

 右手離して血を大気に触れさせると、花火のように弾けて血痕は消滅した。代わりに凛さんと私には魔力のやり取りを可能にする経路が形成されている。

 

「…えらく簡単ね。それは良いとして…聞いていい?貴方、詠唱はドイツ語じゃなかった?」

 

「うん?ああ、私も良く分からないんだけれど、最近になって会得したようなものはドイツ語で詠唱するみたい。昔から八海山で扱われているようなものについては日本語よ」

 

「ふーん…まあ確かに単一の言語である必要はないでしょうけれど…そんな回りくどいことを?」

 

「八海山は元々魔術師と呼ばれるような存在ではなかったらしいわ。それが何代か前の当主が、魔術の体系を取り入れようとしてこうなった…という話よ。私も無意味に面倒だとは思うけれどね。それはそうと、ちゃんと経路は形成されているわね?」

 

「ええ、つつがなく機能しているわ。言っておくけれど、あまり無遠慮に魔力を持っていったりしないでよね」

 

「しないって。何なら今作った経路を破棄する?」

 

「いいわ。別に在って不自由なものでもなし、仲間同士なら経路の一つくらいなくちゃ不便だしね」

 

「私も遠坂さんの魔術について聞いていい?」

 

 士郎さんの魔術についてはある程度聞いた。だけど思い返してみれば遠坂さんの魔術についてはあまり知識がなかった。やはりある程度は知っていないと有事のときに困る可能性もある。敵を知り己を知れば百戦危うからず、は孫子の言葉だ。いいこと言うじゃない。

 

「遠坂の血筋は宝石魔術を得意としているわ。宝石に魔力を溜めて保存し、必要に応じてそれを開放する。戦闘にも儀式にも仕える便利なものよ。…財布には優しくないけれどね」

 

 確かにキャスター戦やライダーのマスターに対して宝石を使っていた。なるほど、アレが遠坂の魔術ということか。やたらに金のかかる魔術だな。私の少ない収入じゃ扱えない魔術だ。

 

「宝石を見せてあげましょうか。えーと…確かこの辺りに…あった」

 

 そう言って引き出しから宝石箱を取り出した。赤絹で装飾されたそれには、ただの箱ながら威厳を感じる。いや、ただの箱ということは無いだろう。凛さん以外が不用意に触れば只では済まないに違いない。

 

 留め金を外して蓋を開ける。するとその中には―――何も無かった。

 

「…遠坂さん、私には空に見えるんですが?」

 

「……キャスター戦で全部使い切ったんだった…」

 

 おーい。今もしも敵襲があったらどうするつもりだったんだ。結構恐ろしいうっかりをやらかしてくれね、遠坂さん。本当に前回の聖杯戦争を切り抜けたのか不思議に思える。

 

「…仕方ない。屋敷に少しストックがあるから取りに戻るわ。今日の講義はここまで。…といっても、私が教えられることはあまり無さそうね。ま、何か分からないことがあったら何でも聞いてね。答えられるものは答えるから」

 

「はいはい。帰りに宝石店でも行ってらっしゃい」

 

 こうやって午前は、遠坂さん以外は特に問題もなく過ぎていくのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 時間は緩やかに過ぎていき、空は朱色に染まった。ライダーとサーシャスフィール、それに姉妹兵の姿は教会へ続く坂の中途にあった。そこには入り口のバリケードとはまた別のバリケードを構築してある。

運搬作業も先ほど終わったため、バリケードは土嚢で補強されて閉じられてあった。時間の都合と地形の攻略の困難さから森まではバリケードが伸びていないが、それでも気休めの効果はあるだろう。少なくとも森の中では組織だった動きはとれまい。

 

 そのバリケードの外側、つまり教会側ではないほうへ彼らは陣取っていた。城門から出て敵を遊撃する役目を任されている。

 

「何者か」

 

 おもむろにライダーが森に向かって声をかける。まだ日は落ちていないが、キャスターの可能性も捨てきれない。サーシャスフィールと姉妹兵は武器を一斉に武器を構えた。

 

「……」

 

 しかし森から姿を現したのは鎧姿の男だった。一点の汚れもない白衣に鎧を纏い、手には黒塗りの槍を構えている。警戒を隠そうともしていなかった。

 

 ランサーとライダーの間には一触即発の火花が散った。キャスターの前に、ここで互いに雌雄を決しようとするかも知れない。

 

「貴様はランサーだな?我らは監督役の任を負ってここに居る。キャスター討伐の任を果たすまでは貴様の相手は出来ん。黙って引き返されよ」

 

 だがライダーは平静だった。しかしそれはランサーにも言えることだったらしく、その言葉を受けて警戒を緩める。

 

「…キャスター討伐?何ゆえか問いたい」

 

「監督役代行の依頼。そして何より…あれは私も許しがたいでな」

 

“あれ”が何であるかは言わなかったが、ランサーには伝わったようだった。やや気を許したのか槍に込められていた力を少し崩す。

 

「私もキャスターを討つために動いている。貴方はライダーだな?このランサーも助太刀したい。以前にここで奴と戦い、そして逃がしてしまった。私にも責任の一端がある」

 

「ありがたい。では一つ頼まれてくれんか」

 

 ライダーはサーシャスフィールの意思を聞こうともせずに話を進める。しかしサーシャスフィールはライダーに戦闘に限り方針を委ねている。それに異論があれば口を挟むので、ライダーの言葉に異論はないということだ。

 

「代行の話では、今日あたりに此処か街中に彼奴が現れると思われるそうだ。ここは私が守るゆえ、貴様は町を回ってくれ。キャスターは現れずともその下僕は現れる可能性が高いということだ。こちらを任せたい」

 

「任されよう。見ればそちらは数が多い。あれらを止めるのは私より易いだろう。…墓地までキャスターを辿り着かせてくれるな、ライダー。彼らの悲鳴は心に痛い」

 

「しかと」

 

 その言葉を聞いてランサーは霊体となってその場を去った。互いにどこまで信用できるのか計りかねるが、一定の信用は出来るものと考えていた。

 

 ライダーには教会のバックアップがあるのを見て取れた。バリケードの外側に彼らは居て、何か別の目的があってそこに居るのならばそれはバリケードの内側に陣取るだろうからだ。

 

 ランサーはライダーの言葉を聞いて下がった。何か別の目的があったならば、あそこまで潔く引き下がるはずが無い。それにランサーの任は、仮にランサーがそれを放棄してもライダーにとって致命傷にはならない。

 

 短い問答ではあったが、十分な探りあいだった。その結果として今だけは信用する、という意志で両者は纏まった。

 

「…そろそろ夜が来るな」

 

 日はもうじき落ちる。そうすれば、その瞬間から魔術師と人ならざるモノたちの時間である。

 

 ―――空は、まるで天が燃え落ちているかのような色であった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。