Fate/Next   作:真澄 十

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Act.16 遊撃、篭城

 時刻は12時前。日は完全に落ちて、教会付近の界隈は静まり返る。もとより山間にある教会である。日が落ちれば暗闇に包まれ、街頭すらまばらなことも手伝い深い闇に覆われてしまう。若者ならばまだまだ活動している時間だろうが、この付近には彼らを惹きつけるものもないこともあって人気は完全に途絶えていた。

 

 キャスターは間桐臓硯の命令に従い、慌てて生産したメフィティスを引き連れている。数は50にも満たず、数日前の大軍勢に比べれば遥かに見劣りする。現在のメフィティスの全てをここで投入してもこの数だ。しかし50も揃えたことを評価すべきだろう。

 

夕方前に、伸るか反るかの賭けに出て手持ちのメフィティスを放った。今晩に向けて戦力を増強するためである。結果として半数以上が何者か――おそらくはランサー――に撃破されたものの、残りの半数はキャスターのもとに無事に帰還出来た。それが今の手持ちの戦力である。

 

 しかし払った犠牲もある。その強行ゆえにランサーの妨害を押し切れたのだが、かわりに隠匿は全くと言って良いほど施していない。もとよりそんなことを気にかけては居ないのだが今回は特に酷い。何せ日が落ちきるまえからの行動だ。一応騒ぎにならない程度に配慮はしたが、それでも一部で大騒ぎになったことには違いない。

 

「…何故マスターは教会へ強襲を指示したのか…」

 

 キャスターは疑問に思う。具申したように此処にはランサーか、そうでなくとも何らかのサーヴァントが陣取っている可能性は高い。そこに赴け、とは自殺行為にも等しいのではないか。

 

“―――いや、マスターには何か考えがあった様子。…ここは信じるしかないでしょうか”

 

 敵を欺くにはまず味方から、という考えもある。下手にキャスターに教えておかしな行動を取られても困るということだろうか。

 

「止まれ!ここは不可侵地域だぞ、何用で参ったのか!」

 

 教会への坂までもう一歩、というところで呼び止められる。カソックを身に纏い、やたらに短い柄の剣を持つ男が数名。彼らのことは知っている。キャスターの錬金術も宗教観の波に晒され、彼らの一派と接触する機会はあった。おそらくは代行者と呼ばれるものだろう。

 

 警戒心と敵愾心を隠そうともしない。その様子にキャスターはやや侮蔑の視線を送った。彼にとって口喧しく叫ぶ輩は等しく低能の烙印を押すに値する。

 

「退きなさい。私はこの先に用があるのです」

 

「…そのおぞましい死体の群れ、貴様はキャスターで相違ないな?貴様は発見次第討ち取れとの指令だ。悪いがここを通すことは出来んな」

 

 数は5名。これなら一瞬だ。

 

「…やれ」

 

 その号令の瞬間に彼の後ろで屯していたメフィティスが一斉に襲い掛かる。だが相手も異端を相手にしてきた代行者。死徒の出来損ないのような彼らに遅れを取ることは無い。

 

 彼らが持つ剣は黒鍵という。投擲用の細身の剣を数本指の間に挟み、鳥の翼のような独特の構えでそれらを迎え撃つ。5名は隊伍を組んでバリケードを防衛する。それを迂回しようとするメフィティスには黒鍵を投げつけて迎撃する。

 

 ――――だがしかし。

 

 その回復力はやはり破格だった。通常の死徒ならば頭部を破壊すれば少なくとも暫くは無力化する。しかしこれらはその程度では数秒の足止めにしかならず、あっという間にバリケードを突破されてしまう。

 

 そしてバリケードは内側から倒壊させられ、それを背中にしていた彼ら5人は10倍もの数のメフィティスに取り囲まれてしまった。代行者ではあるが末端である彼らにとって、これはもはや詰みだ。50のメフィティスで一斉に襲い掛かられれば、どんな高速で唱えたところでキリエ・エレイソンを発動させる暇はないだろう。いや、キャスター自身がこの場に居る以上はそれも時間稼ぎに終わるだろう。そして逃げ場もない。

 

 事実50の軍勢は一斉に踊りかかってきて、やはり詠唱を許す暇は一瞬としてない。キャスターはキリエ・エレイソンを警戒したのか聖句を呟くそぶりを見せれば集中してその口を塞ぎに来る。もはや対処は不可能だった。5人のうち、1人が倒れた。彼が倒れた穴を塞ぎきれず、次に2人が倒れた。

 

 撃破が不可能と判断すれば即座に逃げろ、という指示を代行から受けてはいた。しかしこの凶悪な異端を前にして、無謀ともいえる蛮勇を奮ってしまった。バリケードを突破された瞬間に一目散に遁走し、後方に待ち構えるライダーのところまでもどればあるいは生き延びる方法はあったかも知れない。

 

 だが彼らでなくてもそうはしなかっただろう。彼らには魔術師とは並々ならぬ遺恨がある。本来なら討つべき仇敵を頼るというのは、この上ない屈辱なのだ。

 

 こうなってしまえば、彼らに出来ることは一つしかない。

 

 残った二人は懐から手のひら大きさの物体を取り出す。発煙筒だ。もしも彼らが別の宗教を信奉するものだったならここで手榴弾でも取り出して自爆するのかも知れないが、あいにくと彼らの宗教では自殺は大罪だ。自ら命を絶つことすら出来ないのであれば、後方で備える本命に敵襲を伝えることだけだろう。

 

主よ来たりませ(マラナ・タ)!」

斯くの如くあれ(Amen)!」

 

 同時にそれを遠くに高くに投げる。瞬間に特殊な粉塵を混ぜた煙が立ち上る。それは霊視の目を持つものにしか見えない煙。あらかじめ用意されていた、黄色(敵襲)赤色(防衛不可能)の二色だ。一度発煙してしまえば中の薬剤が尽きるまで煙を止めることは困難。これで彼らがどうなっても、後方には伝わるだろう。

 

 ―――そう、もしも彼らが死者の軍勢に加えられたとしても。

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 その煙は確かに後方の者達の目に届いていた。坂の下の様子を伺うことは出来ないが、発煙筒を焚いたということは代行の読み通りにキャスターが襲ってきたということだろう。

 

「…黄と赤か」

 

「第一防衛線が突破されたようです。…ライダー、彼らを助けに行かなくても?」

 

 ライダーはその言葉を無言で首を横に振ることで否定した。

 

「…赤を焚いたということは、…彼らはもう生きてはいまい。忘れたか、沙沙。赤は『防衛不可』だ。そして彼らが異端を前にして遁走するか、と言われれば否だろう」

 

 最前線に送り込まれたのは聖杯戦争の裏方として滞在している代行者だ。その中でも末端ではあるが若くて確かな実力と気骨、そして強い信仰心を持った者達を選定している。若さゆえ、そして信仰心ゆえに彼らは引き際を知らないだろう。ゆえに、赤を焚いたということは全員殉職という事態が最も現実味を帯びる。

 

「構えろ、沙沙。すぐにキャスターが来るぞ。…我らは一騎足りとも欠けるつもりはないぞ、心して望め皆の衆」

 

 その言葉に姉妹兵たちは無言の雄叫びで答える。全員がサーシャスフィールよりも簡素なハルバードを構え、来る怨敵に向けて気を研ぎ澄ます。たった20余りの騎兵隊であるが、宝具馬に跨り半年間サーヴァントに剣を鍛えられた。彼女ら全てが優秀という範疇では収まらないほどの実力を持っている。

 

 陣は道一杯に広がる形での横列だ。ライダーは彼女らの陣には加わらず、一歩前に出て単騎の形を取っている。ライダーが相手を蹴散らし、崩れた相手を隊列が蹂躙する戦法だ。この戦法の要は先陣を切るライダーにある。しかしライダーもまた一騎当千を体現した存在であり、彼を信頼するには十分だろう。

 

 森の中にはサーシャスフィールに続く優秀な騎馬を複数配置している。遊撃の任務を負った彼女らは、隊列の剣を逃れた敵を各個撃破する役目がある。単騎と単騎の戦いならば彼女らがそうそう遅れをとることはあるまい。

 

「…来たか」

 

 おもむろにライダーが呟く。サーシャスフィールにはまだ分からないが、ライダーにはそれを察知できているようだった。

 

 暗闇の向こうに輪郭が現れ始める。腐臭を撒き散らし、キャスターはライダーたちの前に姿を現す。

 

「キャスターだな。生憎とここは通せん。」

 

「…サーヴァントの手まで借りたのですかな、教会は。私は今ここで貴方と戦う意思はありません。教会に忘れ物をとりに行くだけゆえ、どうか道を空けていただきたい」

 

 キャスターはどうにかしてサーヴァントと戦闘を避けようとする。ここで現れたのがランサーであったのならば交渉の余地は無いのだろう。しかし互いに初見であるはずのライダーならば上手く口で丸め込めば戦闘を回避する余地はある。

 

 だがしかし、キャスターの予想に反してみるみるライダーの顔には怒気がせり上がってくる。怒り心頭に発する、を体現した様子だ。

 

「……人を物と称するのか、外道…。…宜しい、ならば分かった」

 

「…何がですかな?」

 

「やはり貴様はここで死ぬべきだということが分かったと言った。今生の暇乞いは手早く済ませろよ」

 

「………」

 

 やはり、戦闘は避けられぬか。ならば構わぬ。些か手持ちの兵力は足りないが、足止めで構わないのなら十分だろう。手はずは分からないが、きっとマスターが何らかの方法で死体を運び出すはずだ。

 

「……やれ!」

 

 一斉にメフィティスを襲いかからせる。ライダーの軍勢にそれらが殺到するが、ライダーはまだ微動だにしない。

 

「軍勢を従えるとはこういうことだ、キャスター!亡者ども、その道を開けよ。この(ライダー)が首級を上げにいくぞ!さもなくば、首を刎ねる!」

 

 だが彼らに殺到するメフィティスには一分の動揺もない。もとよりこの者達にライダーの言葉を理解する能力は無い。

 

“―――チ。こやつも俺の宝具が効かんのか”

 

 本来ならライダーと敵対した瞬間に彼の宝具は発動する。ライダーに睨まれた凛のように、亡者の軍勢は動きを止めると思っていたのだが、どうやらそうはならないらしい。ライダーに知る由はないが、キャスターの『留まれ、お前は美しい(グレートヒェン)』はライダーの宝具にも及んでいる。

 真名開放せずとも常に発動するタイプの宝具に対してはキャスターも真名解放する必要もなく無効化できるのだ。

 

 いや、それでこそ腕が鳴るもの。それでこそ首級を上げる価値があるというものよ。

 

「瀑布の如く攻めよ!所詮やつらは亡者よ、我らの敵では無いわ!」

 

 ライダーは弾かれたように黒兎を疾走させた。それに姉妹兵も続く。宝具馬は矢の如き速さで、それでなお些かも隊列を乱さず疾走する。メフィティスの足は速いが、宝具馬はそれを上回る俊足だ。

 

「そこで待っておれよ、外道!こんな薄い守りで俺の進軍を止められると思うてか!」

 

 ライダーはただひとり亡者の中へ飛び込んだ。その青龍刀を振るえば一瞬でメフィティスはずたずたに引き裂かれる。亡者の海を手にもった青龍等を自在に操り、黒兎はライダーと以心伝心でもしているかのようにライダーの意思通りに動く。人馬一体とはこのことだろう。これほどの猛勇を奮えば、黒兎が通った後はただ血の染みと肉片が残るのみだ。

 

 だがメフィティスは瘴気を発しながら起き上がる。そこに、遅れて到達した姉妹兵が襲い掛かった。20足らずの騎兵ではあるが、50の亡者を相手にするには十分な戦力。面で制圧することが可能なライダーにとって、キャスターの宝具は脅威にはなり得ない―――!

 

「進軍しなくとも構いません、亡者を押し留めることに専念なさい!」

 

 サーシャスフィールはハルバードを巧みに操りながら姉妹たちに指示を飛ばす。皆がハルバードだけを握る中で、サーシャスフィールだけは別のものを手に握りこんでいた。

 

 それは一見すれば針金。だがその強靭さは只の針金ではない。しかし一定の柔軟性を維持しており、手の中で容易に操ることが可能だ。銀を混ぜ魔術的に強化されたそれは、サーシャスフィールのもう一つの得物。

 

shape(形骸よ) ist(生命を) Leben(宿せ)!」

 

 二小節の詠唱で魔術を急速に紡ぐ。針金はその身を互いに絡ませ、捻り、瞬く間に太いワイヤーを形成する。それがサーシャスフィールの手から離れて蛇のように動いた。

意志をもった鉄の蛇は倒れ臥していた一体のメフィティスに標的を定め、四肢が引きちぎれそうなほどの力を以って拘束する。

 

 捕らえられたものは喉を潰したかのような叫びを上げて戒めを解こうとするが、固く括られたそれから脱することは不可能だった。

 

 第四次の折にアイリスフィール・フォン・アインツベルンが使ったものと同質の錬金術だ。彼女の戦法は記録として残されており、サーシャスフィールもそれに倣ってこれを習得していた。

特に目的があってこれを習得した訳ではなかったが、芸は人を助けるとはまさにこのことだろう。これ以外ではまともにメフィティスを無力化できなかったに違いない。

 

 メフィティスを無力化する方法はいくつかある。それが魔術に頼らなければいいのだ。言峰綺麗やランサーのように神の奇跡によって魂を浄化させてもいい。もしくは物理的手段によって無力化すればいいのだ。

 

 直接的にメフィティスを対象にしなければ『留まれ、お前は美しい(グレートヒェン)』は発動できない。サーシャスフィールの魔術はその針金を対象にしたものであり、それが結果としてメフィティスに害を与えたとしても無効化できない。

 

「アインツベルンの錬金術を舐めないで頂きたいですね。この程度、先代や二代前のアインツベルンのホムンクルスの受難に比べれば!」

 

 サーシャスフィールは自身に襲い掛かってきた一体の首を刎ね、一瞬動きが止まったところで拘束する。次々と襲い掛かるメフィティスを彼女らは完全に押し留め、着々と相手の数を減らしていく。

 

「な…なんと……!これでは足止めどころでは無い…!」

 

 当然ながら物理的手段によって拘束されればキャスターが『|腐臭を愛する大公(メフィストフェレス)』を使用したところで意味がない。

 

自分と同じ錬金術を扱う女。自分には思い至らなかった錬金術の使い方だ。現代の錬金術はこのような形になっているのか。

 

 そしてライダーの猛進だ。騎馬の機動力も加わり、先日のセイバーとランサーを越える勢いで血路を開いている。これでは自分のところまで到達するのも時間の問題だ。

 

 一度この事態を経験しているためか今度は取り乱さなかったが、それでも圧倒的な戦力差は覆しがたい。偏に騎馬の恩恵だろう。馬上に居るだけで戦闘は圧倒的に有利に進む。上から振り下ろす一撃は徒歩のものにとって脅威だ。しかもこちらの軍勢は徒手空拳であり、騎手には爪が満足に届かない。宝具となった馬は爪を立てることさえ難しい。

 

 これはもはや駄目だ。相性云々の前に、戦略が戦力に潰されている。せめて騎馬をどうにかしなければキャスターには生き延びる道すらない。そして、彼の持つ魔術の知識ではどうしようも無かった。

 

 ―――だがしかし。キャスターには一つだけこの状況を打開できるスキルが備わっている。

 

“―――物質の変質を利用している。卑金属を貴金属に変えるのではなく、金属を金属として連続的に変質させることで操っているのか”

 

 知識探求のスキル。未知のものに対して高い理解力と吸収力を示したものが習得するスキルだ。キャスターのランクはB+。同じ魔術系統ならば、低い確率でそれを習得してしまう。

 

 この飽くなき探究心と吸収力が無ければ、メフィストフェレスが経験させた事象を自身のものに出来なかった。彼は全くの未知のものでも一目でその本質を見抜き、可能であれば自身のものにしてしまう。彼は今まさにアインツベルンの技術を我が物にしようとしていた。

 

 キャスターは膝を折って地面に手を振れ、確かめるように呟いた。

 

shape(形骸よ) Sammeln(集まれ)

「な―――!?」

 

 途端にサーシャスフィールたちの足元に異変が起こる。ずぶずぶと宝具馬の足が地面に沈む。これでは満足に馬を駆れない。底なし沼、ということは無いようだが白兎を初めとした宝具馬の機動力を殺された。

 

 すぐに思い至る。先日の雨だ。

 

 キャスターは明らかにアインツベルンの錬金術を模倣してみせた。自身が使うものと同質だとすれば、正体は明らかだ。

 先日の雨で地面はやや濡れている。ぬかるむことは無かったが、湿気を含んでいたことは確かだ。その水分をこの一帯に集めて攪拌すればこうなるだろう。もはや沼にも等しい足場は馬にとって好ましくない。その俊足は完全に殺された。

 

 しかも不思議とその泥に引っ張られるように足が沈む。ただの泥ではないことは明らかだった。キャスターの意思を汲み取り、対象を引きずり込もうと泥が蠕動している。サーシャスフィールの蛇と同じ原理で動いているのは明確である。

 

「く…!」

 

 その機動力を殺されたことで姉妹兵たちの足は止まる。急に足場が泥になったために馬が足を取られ、上手くそこを脱することが出来ていない。いや、信じがたい力をもって引きずり込もうとする泥からは片足を上げるだけでも全身全霊を必要とする。それに抗えている宝具馬を特筆すべきなのだ。

 

 サーシャスフィールは苦虫を100匹ほど一度に噛み潰したような顔をする。まさか長い歴史をもつアインツベルンの魔術が、こともあろうか一見で模倣されてしまうなど。

 この事実は少なからずサーシャスフィールの矜持に泥を塗った。

 

 だがサーシャスフィールも強かだった。この事態に甘んじるほど彼女は矮小ではない。

 

「この程度で私達の足を殺したつもりですか!shape(形骸よ)Welken(散れ)!」

 

 即座にサーシャスフィールが返す。地面から凄まじい勢いで水煙が上がり、一瞬で一帯は霧に包まれた。一寸先は白い闇である。

 もうもうと立ち上る霧のせいで相手の位置が確認できない。この霧に乗じて泥から脱し、体制を整えるつもりか。

 

 いや、この泥の水分を全て発散させて泥を固い土に戻すつもりか。直ぐに泥に戻せば済むが、これでは千日手だ。

 

「小賢しい―――!かくなる上は、この霧の水素を使って木っ端微塵にしてくれようか!shape(形骸よ)eleme(素なる)―――」

 

「阿呆が!貴様の相手は俺であろう!」

 

 そこに泥を物ともせずに進軍していたライダーが現れる。飛ぶように馬を跳躍させてメフィティスの囲いを飛び越え、キャスターの頭上より現れた。

 

 ―――そうか。この霧は単に泥を消すだけでなく、私の視界を奪うためであったか。跳ぶライダーを迎撃させないために。そしてこの様子を観察しているのであろう間桐臓硯(マスター)に令呪を使わせないために…!

 

 直後、サーシャスフィールはこの世のものとは思えない恐ろしい悲鳴を聞いた。

 

 ライダーの白刃は深くキャスターの胸を切り裂いていた。血が心臓の鼓動に合わせて吹き出す。紙一重で心臓は断たれていないようだが、もはや誰の目から見ても明らかな致命傷だ。令呪の力があったとしても絶対に助からない。内臓は飛び出し、骨は露出している。ランサーの『神の血を受けし聖槍(ロンギヌス)』の恩恵でもない限りは絶対に助からない傷だ。

 

 苦痛にのたうち回るキャスターの首を刎ねようと、ライダーは馬首を翻してその首目掛けて剣を振るう。それは情けではなく、一瞬たりとも生かしてはおけないという意志からだった。

 

「最後に貴様を討つ者の名を教えてやろう!冥土へ持ってゆけ、我が名は―――!」

 

 だがしかし。キャスターはその声を聞くことは叶わなかった。

 

 

 

 

 

 

 ここはどこだ。

 

 どこまでも白い空間。重力すらもなく、水に浮かんでいるかのような脱力感。ただここに私は浮かんでいるだけだ。淡い光の指すこの場所は、何故かとても心地がいい。ずっとここに居たいと思ってしまうほどだ。

 

 ああ、ここに居ると思い出す。彼女の腕の中で眠った日を。

 

 思えば波乱に満ちた生涯だった。安息の日々などどこかに置き去ってしまった。その末に磨耗し、何かを見失っていたかも知れない。

 

 ああ、何故今まで気がつかなかったのだろう。私は彼女に会いたい。だが彼女はどうなのか。

 

 静かなる眠りから起こされることを願っているのか。本当に私と再会することを望んでいるのか。

 

 望んでいたとしても。本当にこの方法は正しかったのだろうか。幾つもの屍に支えられたリザレクション。多くの人間の死の果てにあるこれを、本当に彼女は望むのか。

 

 彼女は優しい。きっとこのことを知れば悲しむだろう。私は彼女を悲しませたくはない。

 

「グレートヒェン…」

 

 彼女の名を口にする。自分の声は、自分でも驚くほどに邪気の無い声だった。

 

 ―――ファウスト。

 

 呼ばれた気がする。そんなことは無いだろう。ここには私一人しかいない。寂寥の思いは幻聴まで引き起こすのか。恋の病とは末恐ろしいものだ。

 

 ――――ファウスト。

 

 また聞こえた。二度続けば幻聴ではないかも知れない。上も下もないこの世界で、私を呼ぶものが居るのか。周囲を何度も繰り返し観察し、彼方にそれを見つけた。

 

 グレート…ヒェン……。

 

 はは、何だいその羽は。まるで君が天使になったみたいではないか。いやいや、それよりも。君は何も変わっていない。私はこんなにも荒んでしまったというのに、君は私を迎えに来てくれたのか。

 

 ああ。今なら声を大にして叫ぼう。心の底から、この喉が潰れようとも。この美しさを忘れぬように。この思いが留まるように。

 

 ―――留まれ、お前は美しい。

 

 

 

 

 

 

「…女の名前、か……。貴様が外道に落ちたのも、夢心地で逝ったのも、何か訳があるのだろうなあ」

 

 ライダーがキャスターの首を刎ねる瞬間。確かにキャスターは呟いた。グレートヒェンと。ゲオルグ・ファウストはドイツの英霊だ。アインツベルンはドイツに居を構える家であり、その伝承も少なからず残っているのだろう。サーシャスフィールが言葉を発した。

 

「グレートヒェン。ファウスト伝説に登場するファウスト博士の想い人です。メフィストフェレスに囚われる運命だった彼の魂を救ったのは、天使となった彼女だったそうです」

 

「いや、多分それは違うな」

 

 その言葉にサーシャスフィールは首をかしげた。

 

「おそらく、こやつは今救われたのだよ。そうでなければ、こんな顔をして逝けるものか」

 

 彼女とライダーの足元には首を刎ねられたキャスター。その身体の輪郭は薄れ、輝く飛沫となって消え去ろうとしている。

 その顔は、今までの妄執に囚われていた相貌からは考えられないほどに邪気が落ちていた。満たされた顔と言ってもいい。何かをやり遂げて逝く人は、皆このような顔をするのだろうか。

 

「…そうですね」

 

 そしてキャスターは完全に消滅した。メフィティスだったものは既にキャスターの束縛から逃れ、既にただの死体となっている。キャスターが消滅した今、彼らを脅かすものは何もない。

 

「さて、我らの仕事はこれで終わりだ。後は他のものに任せよう。出すぎた真似をすれば却って邪魔になる」

 

「そうですね。今晩は帰還しましょう」

 

 依頼された内容はキャスターの討伐のみ。これ以上ここに居ても出来ることは無い。

 

 空は雲ひとつない満天の星空である。町の光と月光が些か眩しいが、それでも見事なものだった。月の銀の光を浴びて、肩で切り揃えられたサーシャスフィールの銀髪が輝く。

 

 その様はまさに、夏の夜に咲く純白大輪の月下美人のようであった。

 

「心得た。……ところで沙沙」

 

「何でしょう?」

 

「その化粧、良く似合っておる。大層美しい」

 

 サーシャスフィールは顔が紅潮するのを覚えた。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 月は曇りひとつない。しかし、森を掻き分けて進むこの蟲にはそれは届いてはいない。キチキチ、ギチギチとその蟲の群れは進む。方角は南へ、つまり冬木教会の在る場所へ。深い森の木々は月光から蟲の姿を完全に隠していた。

 

 この蟲は間桐臓硯が操るものである。蜂のようなもの、蚯蚓のようなもの、蛾のようなもの。醜悪さを際立てる蟲の群が突き進む。

 

 蟲の数は両手の指ではまだ足りない。蟲の数を視認するのに二つの眼ではまだ足りない。それは圧倒的な数の蟲だ。一体どこにここまでの数の蟲を蓄えていたのか、その数は密集すれば日の光すら遮断できるだろう。

 

 いや、蟲を蓄えた方法は明らかだった。メフィティスである。

 メフィティスの中にはキャスターの魔術を孕んだ蟲を潜ませてあるものもあった。それと同時に、臓硯を構成するものや使い魔のように使役するための蟲の苗床としてもそれを利用してあったのだ。

 

 町の人全てを生贄にしかねない手法によって、間桐臓硯の軍勢は急速に力を蓄えた。何せキリエ・エレイソンでも蟲は死滅することはない。教会に放置されてあった死体の中にも蟲は多数潜んでおり、機を見てここに集合させたのだ。

 

 そしてその一軍は、教会の明かりを見つけた。教会の周囲に沿って開かれた森。その境界から出ないように、わんわんと羽音を響かせながらぐるりと囲む。すぐに境界は森に潜む蟲によって包囲された。

 

 それを頃合に、蟲の一部が密集し始め一つの輪郭を作り出す。出来上がったソレは間桐臓硯であった。教会を値踏みするように眺める。その口には醜悪とも凶悪とも形容できる笑みが浮かんであった。

 

 間桐臓硯の目的は、聖杯の簒奪である。

 

 聖杯はサーヴァントが無ければ使えない、というのは間桐臓硯に言わせればとんだ子供騙しだった。そもそも聖杯は七体のサーヴァントの魂を用いて根源への穴を穿つための装置。その使用にサーヴァントが必要だと言われれば堂々巡りだ。いつになっても使用できない。サーヴァントが必要だと説くのは、サーヴァントを自身が贄だと気付かせない為の詭弁に過ぎない。サーヴァントなど無くとも聖杯は使用できる筈だ。

 

 それは第四次の言峰綺麗が示しているだろう。彼はサーヴァントに頼らずにその恩恵を得ていた。結果的に臓硯の持論の根拠ともなりえる。

 

 つまりは聖杯を手に入れてさえしまえばサーヴァントなど不必要なのだ。そして聖杯を手中に収めるという行動は、自らのサーヴァントを捨て駒にしても余りある意味がある。

 

 聖杯を手中に収めておけば、いずれ完成するだろう聖杯を独占することが可能だ。サーヴァントは聖杯の奪還に躍起になるだろうが、全てが足並みを揃えることなど出来るわけが無い。それぞれが争って数を減らしいき、可能ならば蟲を用いてマスターを殺せばいいのだ。

 

 間桐臓硯は桜の心臓に核となる蟲を植え込んでいる。仮にその末に失敗したとしても決して破滅はない。現時点での聖杯簒奪は十二分に意味があることだった。

 

 これがもしも前回や前々回のように生物としての聖杯であったならば難儀だったろう。心臓を抉り出しても聖杯が完成する前にそれが腐敗してしまう恐れが大きかった。

 だが此度は無機物である。手荒に扱わねば砕かれることも腐敗することもない、実に第三者でも管理しやすいものであった。

 

 そしてここに聖杯が運び込まれたという報せは臓硯にも届いている。教会に死体が残っているのは好都合だった。そこにいる蟲を使えばすぐに会話から知れた。

 

 しかしあのアハトが教会に依頼するという事態は些か疑問が残る。だがアインツベルンが教会に依頼する、という事態は今までの経緯を考えればそこまで不思議でもない。何せ第三次、第四次、そして第五次と続けざまに聖杯の器を破壊されているのだ。それがどういった経緯にせよ、破壊に至ったのはアインツベルンの手落ちである。これ以上恥辱を浴びせられるぐらいならば、と教会を頼りにするのは道理から外れはしない。合理的に考え、聖杯を壊されないように保護しようとするならばこの行動は正しい。だが、あのアハトが本当に?

 

 間桐臓硯の思考はそこで蝶番の音に中断させられた。

 

「カカカ…。監督役が死んで間もないというのに、夜分遅く騒がせてすまんのう」

 

「………」

 

 教会から一人の男が出てきた。監督役代行、冬原春巳である。その姿を認めて、臓硯は一歩森から出て月光の下にその痩躯を晒した。

 

「……何か用かしら?お爺ちゃんが出歩くにしては遅すぎる時間じゃないかしら」

 

 その目に警戒心と敵愾心を露わにして叩きつける。問答次第では切り捨てることも辞さないという気配が垣間見えた。彼は常に武器を携帯している。必要があれば、その武器で臓硯を抹殺せんとするだろう。

 

「いやいや、大したことではないでの。少々聖杯の器をお借り申し上げたくてのう。……断るなどということは有るまい?」

 

「断るわ」

 

 どすの利いた臓硯の声を受けても冬原は即答だった。そして聖杯簒奪の意思(宣戦布告)を静かに受理し、その拳を強く握る。これが彼の臨戦態勢だった。

 

「うむ?いや儂の耳も遠くなったのう。よく聞き取れなんだ。そちらに使いの蟲をやるのでのう、もう一度言ってくれい」

 

 そう言って臓硯は殺意を以って三匹の蟲を放った。まるで釘のような角を持ち、褐色の甲殻で身を包んでいる。その速度は銃弾もかくやというもので、あの鋭い角をまともに受ければ骨を穿たれ臓腑を食い破られることは確実だ。

 

「―――シッ!」

 

 だが冬原はそれを避けようとせず、鋭く息を吐き出しただけだった。それだけに見えたのだが―――

 

 三匹のうち、心臓と肺を狙っていた二匹が黒板を掻いたような断末魔を上げて撃墜された。残りの一匹は冬原の喉を破ろうとしていたが、軽く身を捩るだけで回避されてしまう。勢いを殺せず背後の扉に深く打ち付けてしまい、自分から磔になる形になった。

 

「ほう。これは中々。昨今では武器に頼る者が多いなか、拳闘とはのう。それも中国拳法や日の本の空手とも違う。ボクシング、というものかのう?」

 

 彼の最大の武器はその鍛え上げた肉体である。黒鍵もカソックの下に忍ばせているが、それはサイドアームとしてのものだ。彼はその鉄拳によって幾多もの血路を切り開いてきたのだ。その速度はもはや常人では肉眼で捉えることが出来ない。牽制程度に放たれた蟲では彼を仕留めることは叶わないだろう。

 

 だが、その速度を少し見誤ったのだろうか。未だに背後でもがいている釘蟲によって頬を浅く裂かれている。そっと傷口に手を当て、その指が血に濡れたことを確かめた。

 

 次の瞬間に彼は怒気を何倍にも膨らませる。筋肉に力を込めすぎたのかカソックのボタンがいくつか弾けた。そして振り向きざまにハンマーのような鉄拳を背後の蟲に浴びせ、断末魔さえ許さずに叩き潰した。木製の扉は蜘蛛の巣のような罅とクレーターを残している。

 

 ゆっくりと臓硯に向き直りながらヒステリックに叫んだ。

 

「……貴様…よくも、よくも私の顔を!許さないわよ!」

 

「カカカ…案ぜずとも、直ぐに骸にしてやるわい。醜悪な骸を晒すのが嫌なら、余すことなく蟲の餌にしてやってもよいぞ」

 

 ぼきり、ぼきりと冬原が指を鳴らす。この時点になると我を忘れつつあるのか、普段の口調が崩壊を始めた。

 

「黙らっしゃい、この腐れド外道がぁ!タマ取ったるわボケェ!」

 

 若干激高するポイントが場にそぐわないようではあるが、かくして妖怪と聖職者の闘争は勃発した。

 

 森に潜んでいた蟲は一斉に羽音をけたたましく鳴らす。ぎちぎちと鳴らす歯は蟲には不釣合いなほどに鋭い。蚊のように口が針になっているものや、さきほどの蟲のように角のような凶器を持つものもいる。あれらの一撃を食らえば、鍛え上げた体など気休め程度の防御しか発揮しまい。

 

 だがそれは蟲にとっても同様だ。あの鉄拳の前では脆弱な蟲など一撃で絶命させられる。まるで鉄甲弾のような拳だ。重くて、圧倒的に早い。直線的な動きは武芸の達人ならば見切ることも可能かも知れないが―――脳の小さい蟲にそこまで望むべくもない。ただ本能で襲い掛かるだけだ。

 

 睨み合いは一瞬だけだった。冬原が臓硯に向かって鮮やかなフットワークで疾走する。ファイティングポーズを崩してカソックから黒鍵を抜き出し、最高速を以ってそれを放つ。放った手とは逆の指に黒鍵を握りこみ、間髪入れず再投擲。計六本の黒鍵は誤らず臓硯を刺し穿ったが―――

 

「カカ…その程度の腕で儂を殺そうてか。些か興醒めじゃのう」

 

 針鼠にしたはずだがその輪郭が崩れる。なるほど、これは妖怪だ。単純な物理的手段ではまともに臓硯を殺すことは叶わないだろう。そして、分の悪いことに冬原自身には物理的な攻撃手段しか持たないのだ。

 

 彼の主な武器はその拳と黒鍵のみである。代行者に許される神秘などキリエ・エレイソン以外になく、そして魔術など望むべくもない。

 

 だが、それは冬原自身の能力のみに限定した話である。武装というものは必要に応じて臨機応変に変えるものだ。

 

「地獄の猛火、先に味わってみなさいよ!」

 

 懐から幾つかの缶を投げつける。一見するとやや大きいスプレー缶だ。

 

 人道主義が基本の教会ではあるが、こういった異端殲滅に託けた荒事のためにある程度の武器調達には融通が利く。そのコネを今回は最大限活かしていた。普通の代行者ならば敬遠する方法だが、冬原は使えるものは全部使う主義である。特に今回は出し惜しまない。

 

 投げつけたのは焼夷手榴弾(サーメート)である。アメリカ軍御用達のAN-M14焼夷手榴弾は一見するとスプレー缶のようであるが、その凶悪性はそんなものの比ではない。それが破裂すると辺りに焼夷材(テルミット)と硝酸バリウム、少量の硫黄などの混合物を撒き散らす。それらは化学反応により一瞬で華氏四千度を越える高熱に達し炎を上げる。じつに鉄もゆうに溶かすことが可能な温度だ。

 

 殺傷範囲が狭いのが難点ではあるが、そこは正確無比な投擲でカバーした。投擲した全てが臓硯の居た場所に転がり、そして爆発的な燃焼を起こした。鉄とアルミニウムの燃焼する閃光は闇を切り裂いて余りある。燃焼時間は2秒余り。これだけの時間これだけの高温に晒されればひとたまりも無い筈だ。

 

 だが気配が消えない。炎から逃れたのか、それとも魔術的要因の無い炎では殺せないのか。気配だけは依然と残っているのだが、騒音じみた羽音の所為で正確に場所を掴めない。

 

「『カカカ…無茶苦茶やりよるわい。それは人に使うものじゃ無かろう』」

 

「おあいにく様…!人ならざる者と異端には容赦しないのが教義でね…!アンタが人だとしたら、ちょーっと私達の仕事がお暇になっちゃうのよ!」

 

 声がしたと思われる場所へ黒鍵を投げつける。だが手ごたえは無い。ただ木々に黒鍵が打ち付けられた音が返ってきただけである。

 

「―――チッ」

 

 舌打ちをする。相性が悪い。並大抵の魔術師や吸血鬼ならば一瞬で縊り殺す実力と自負ならばある。だが、霞のような相手と戦うには些か厳しい。霞を剣で切れるわけもなく、捉えようによっては不死身に近い相手だ。

 

 これは多分、勝てない。

 

「そろそろ幕引きかのう。まだせねばならんことも在るゆえ、そろそろ貴様には斃れてもらおうかの」

 

 一層羽音が大きくなる。そしてそれらが全方位から冬原に襲い掛かった。どれも弾丸に迫る速度で、圧倒的な物量を頼みに冬原を血祭りに上げるべく殺到する。

 

“―――この体は殺すことができても、魂を殺すことのできない者どもを恐れること無かれ。この体と魂をゲエンナで滅ぼすことの出来る者を畏れよ”

 

 黒鍵をミリ単位の正確さで振るい、拳とフットワークを十分に振るい、蟲を次々と撃墜する。だがそれを物ともせず蟲どもは殺到し、ざくざくと彼の身を削る。致命傷こそぎりぎりで回避しているものの、既にカソックはボロ切れとなり、体は無数の擦過傷と切り傷で血みどろだ。出血も酷く、視界は血で潰れている。

 

「―――ここまで、ね。」

 

「『潔いことだ。神の元へ行くが良い』」

 

 ふらつく足が体を支えきれない。礼拝堂の扉を背に彼は倒れこむ。

 

 空中で蟲が待機している。まるで獲物が生き絶えることをじっと待っているハゲタカのようだった。違いを挙げるならば、これらは自ら獲物を屠ることを選択するだろうこと。これは獲物に恐怖を与えようとする臓硯の悪趣味なのだろう。

 

 それに対抗するように彼は中指を立てて精一杯の揶揄を返す。

 

「貴様なんぞ恐れるに値せず、また畏れるに能わず。あっちに行く前に電話で神様に聞いとけ、腐れ外道。『ママのおっぱいは飲ませてくれますか』ってな!」

 

「『今際の綴じ目がそれかの。神に祈りでも捧げるものと思ったがのう』」

 

「はっ。…まだ早いってことよ。……後は頼んだわよ、少年」

 

 次の刹那、頭上より何かが振ってきた。それは勢いをそのままに地面に突き刺さる。見ればそれは一振りの剣だ。見事な意匠を施されたそれは威厳すら感じさせる。

 

 そしてその刀身からいくつかの火花が散り、それを火種に焼夷手榴弾とは比べ物にならない規模の炎が噴出した。冬原を守るように展開された炎は蟲を容赦なく焼き焦がし、灰燼へと変貌させる。

 

「いい仕事ね、衛宮君。塵は塵に灰は灰に。…全く、ヘンなメンツのお陰で血まみれよ。暫くは化粧もへったくれも無いわ」

 

 教会の屋上から『害為す焔の杖(レーヴァテイン)』を放ったのは、衛宮士郎その人であった。そしてもう一人の影がある。

 

「フユハラ、いい仕事は貴方も同じであったぞ。だが暫し休まれるがいい、後は私たちが引き受けよう」

 

 八海山澪のサーヴァント、セイバーであった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「『タマ取ったるわボケエ!』」

「………」

 

 元々札付きのワルだったらしい冬原さんらしい啖呵の切り方だ。だけど(タマ)なのか、それとも(タマ)なのか、どっちのタマだろうという疑問は敢えて口にしなかった。その疑問を口にしたところで栓の無いことのうえ、下品に思われかねない。

 

 その部屋には衛宮邸に身を寄せている全員の姿があった。その全員が一心にその映像に見入る。ここまで空気が張り詰めると余計なことを言うのは憚られるものだ。

 

 八海山澪は教会の中で洗面器に張った水を覗いていた。水晶ではなく水面に映像を映すのが八海山の遠見の魔術である。水面が振動することで声も明瞭に伝えていた。

 

 宝石を取りに屋敷に戻った凛を待ち構えていたのは教会の使いの者だった。聖杯戦争が本格的に始まってからというもの、ずっと衛宮邸で過ごしていたために教会の者が連絡を取れなかったらしい。家に張られていたのは気分が悪いが、教会からの言伝を聞いてはそれを口にするのも憚られた。

 

 つまるところ、キャスター存命の報せだ。

 

 具体的には、監督役の権限を使わないまでもそれを臭わした上でのキャスター討伐の依頼。御三家の誇りを天秤に載せられ、アインツベルンは快諾したとあっては遠坂も黙っているわけにはいかなかった。また賞与として宝石を幾つか与えるとあっては凛個人としても垂涎ものである。

 

 キャスターは存命、近日中に再び教会や死体を簒奪しようとすることは想像に難くない。アインツベルンが遊撃として出て、遠坂勢が篭城して守るという図式だ。間桐が黒幕とは意外というわけでもなく、結果として御三家の一角を残りが粛清する形となった。

 

 だが教会にも守らなければならないメンツがあるようだ。外部の魔術師に頼りきりという状況は現場の士気にも関わるらしい。自分が駄目ならば手を貸して欲しい、というのが具体的な指示だ。

 

 その時点では敵が誰かは分からなかったが、誰が相手でも戦えるように準備は整えた。その一環が澪の遠見である。

 

「…セイバー、そろそろ行こう」

 

「よし、心得た。こちらも十分に気をつけろよ」

 

 長い歴史を持つ聖堂教会だからこそ、捨てきれないメンツというものがある。誇りや矜持と言い換えても良い。長い歴史を持つ我らが、異端を葬ってきたのは我らが、魔術師風情を頼らなければならないという汚辱。

 

 教会が魔術師に頼りきり、という現状は教会にとって許しがたいものだ。実際に直面している現状を鑑みれば当然の成り行きとも言えるのだが、教会の防衛を魔術師に依頼するという案については現地の者からも少なからず反論が上がった。

 

 妥協案、あるいは折衷案としての共同戦線である。いや、この言い方には語弊があろう。基本的には教会で可能ならば全て片付けるという作戦だ。

 

 まず教会のみが全面的に出て対処する。それで対処不可能と判断すれば魔術師の助けも場合によっては受けるというのがこの作戦だ。最初のバリケードに代行者しか詰めていなかったのもこういった事情からだ。

 

 実につまらない意地だとは全員が思っている。だがそれでも守るべきものなのだ。表社会でも珍しくないテリトリーの張り合いは裏の世界でもある。特に互いに排斥し合う間柄である。この措置でも特例だといえた。

 

 だが冬原の本音は魔術師でなければ対処不能だろうということ。サーヴァントは並の吸血鬼を遥かに凌駕する存在だ。それを相手にしなければならない事態を想定するならば、同じ穴の狢に頼む他無い。だというのに教会の面々の多くは自分達だけで対処できる、魔術師に依頼する必要など無いと息巻いている。

 

 だから迅速に彼らに事態を明け渡すために、彼が遁走しなければならなかったのだ。使える手は全て使い、その上で無様に負けて誰にも分かりやすいような敗北を演出する必要があるのだ。そうすればサーヴァントの相手はサーヴァントにしか出来ない、現状の教会の備えでは対処不可能と分かるだろう。

 

 教会のメンツに泥を塗ることになるが、一応の体裁は保っている。そうやってお膳立てを済ませた上で、彼らが動く手筈だった。

 

「士郎さん。セイバーに敵の情報を伝えるわ。キャスター戦と同じように少数対多数よ、注意して」

 

「分かった。もしも進入を許したら、そっちで可能な限り対処してくれ」

 

「士郎、舐めないでよね?バーサーカーも居て、敵を察知できる澪もいる。こっちのが数倍安全よ」

 

「……器を壊さないようにな、リン」

 

 これだけ言って二人は出て行った。指示されたように屋上で身を潜めておくのだろう。冬原が先頭続行不可能に陥った瞬間から我々の出番だ。

 

 水面の映像は冬原が蟲を巧みに避けつつ、着実に相手の数を減らしている場面を写している。だが彼の読みどおり、彼では対処できないだろう。多勢に無勢、数が違いすぎる。現に処理能力を超えた攻撃を捌ききれず、瞬く間に傷が増える。たった数分で傷が無い部分を探すほうが困難なほどの負傷を負うことになった。

 

 ふらふらと扉に背中を預け、そのまま座り込む。だれが見ても明白な敗北だった。

 

 そろそろ二人は屋上に上がった頃合だろう。こちらから現状を伝えなければ。ここに来る前に事前に打ち合わせた波長でセイバーに念話を送る。問題なく繋がった。

 

“セイバー、そろそろバトンが回ってくるわ。敵はほぼ全方位、数は多すぎて把握できないわ。でも一体あたりは大した脅威じゃない。面制圧すれば十分に勝機はあるわ”

 

“それは士郎に任せよう。私はとりあえずフユハラを中に運び込む”

 

“オーケー。遠坂さんが礼拝堂まで迎えに行っているわ。受け渡したら士郎さんの援護をお願い”

 

「凛さん、礼拝堂まで行ってセイバーから冬原さんを受け取って。可能なら応急手当も。私はここから動けないわ」

 

「司令塔は座っているのが仕事よ。精々私達を顎で使いなさい。じゃ、気をつけてね」

 

「お互いにね」

 

 そう言って凛さんも部屋から出て行く。この応接間には私だけだが問題などない。いざとなったらセイバーを呼び戻せばいいだけだ。いや、この部屋には遠坂さんの封印を施してある。出入りには合言葉が無ければ必要だ。そうそう簡単にこの部屋へ侵入を許すことは無い。

 

 誰も居なくなった部屋で一人呟く。

 

「―――鼻が曲がりそうな臭いがする」

 

 腐臭とはまた違う。もっと気分の悪い臭いだ。あの蟲か、それとも枯れ果てたような老人からか分からない。しかし耐え難い臭いだった。

 

 いや、今はそんなことは良い。今は集中して敵を探らないと。一目して直感できた。アレは良くない存在だ。キャスターやその奴隷の死体に引けを取らないおぞましさ、汚らわしさ。

 

 ―――極めて汚も滞無ければ穢きとはあらじ。内外の玉垣清淨と申す。

 

 祝詞の一つ、一切成就祓だ。どのような汚れであっても、どんな悪事を働いても、どんな失敗をしても、どんなに悲しいことがあっても、それを滞らせないで祓い清めていれば穢れにはならない。

 

 だがアレは穢れてしまった。人として大事な部分が穢れてしまった。もはやそれは人ではなく、そこにいるのはただ一つの人外。同情だってある。元はああじゃなかったろうに。しかし今は違う。今は打ち倒すべき敵なのだ。

 

 さあ、夜はまだ始まったばかりだ。


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