そこは、天然の結界とも言える空間だった。
舞い上がる砂は、もはや弾丸となって襲い掛かる。それは老若男女分け隔てなく襲い掛かる暴力だった。この土地特有の乾燥した気候の影響で、土というよりも砂に近い。それが昨今の異常気象の影響だろうか、凄まじい突風で舞い上がり、降り注ぐのだ。
びしびしと窓ガラスに砂粒が降り注ぐ。
しかし室内に居る限りでは、身の安全は保障されているも同然だった。ゆえに此処は結界。
コンクリートで固めただけの、人工物然としたこの小屋は、果たして外の弾丸から守るためのものなのか、それとも閉じ込めるための牢なのか、当人達にはもはや判別つかない。
「―――皮肉だよな。」
小屋には3人がいる。そのうちぼんやりと外を見ていた一人が口を開く。
「……何が?」
別の一人が答える。声は女のもの。凛とした声が特徴的だ。この辺りの慣習だろうか、顔は布で隠されている。
「俺たちはさ、この紛争を終わらせるのが目的でここに来たんだよな?……なのに、自分達の力じゃどうしようもない。結局この紛争を中断させたのは…自然の猛威。結局さ、何もしなくても良かったのかもって気になっちまって。俺なんかがいくら足掻いても、無意味なのかなーって思ってしまった。」
女はふう、と深い溜息をつき、顔の覆いを解く。
「士郎。それ、アーチャーが聞いたら斬りかかってくるわよ。アンタ、お前とは違うってアイツに啖呵切ったんでしょ?その悩みはエミヤシロウのものであって、衛宮士郎であるアンタには許されないものよ。」
「……そうだった。すまない遠坂、なんだか弱気になっていたみたいだ。」
男はふと、その胸にかかるペンダントに目を落とす。それはかつて、彼が彼女から命を貰った折の、運命の宝石。紅く輝くそれは、今はかつて程の魔力は込められていない。
「分かればいいのよ。……しかし、この砂嵐はいつになったら止むのかしらね。…いや、もしかしたらチャンスかも知れないわよ。この砂嵐に乗じれば、各勢力の指揮官の首くらい簡単に取れるわ。」
「……遠坂。それこそアーチャーに首を刎ねられる。俺の目的は紛争を止めることであって、首級をあげることが目的じゃないぞ。…そりゃ、最終手段として、そうせざるを得なかったことはあったけど…それを良しとしたことなんて一度もないぞ、俺。」
「冗談よ。私もこの砂嵐で鬱になっているのかもね。」
彼女の冗談は、つくづく現実味がありすぎて嫌なのだが、それをわざわざ口にしない程度には彼は賢かった。おそらく口にすれば、嫌味や皮肉が数倍になって返ってくるのは目に見えている。見えている地雷をわざわざ踏むことは無かろう。
男は再び窓から外を見る。もう1週間程、外は砂で覆われている。そろそろ食料を買い出しにいくか、民兵辺りから簒奪して来なければ、三食がまずいお粥になる。それは遠坂凛の許すところではない。最近の憂鬱、というより癇癪の種である。そしてその矛先は彼か、もう一人の男に向けられる。
3人目の男、ここの家主は日本語の会話についていけず、ただ無為に過ごしている。時折思い出したかのように本を読み始めるが、それもすぐに机の上にも戻す。暇を持て余しているのは明白だ。先ほど昼食を食べたばかりで眠いのかも知れない。幸い、この嵐では反政府軍は行動しないだろう。そういう意味では、この嵐も歓迎すべきかも知れない。骨休めは今後暫くできないだろうから。
――衛宮士郎と遠坂凛は、中東のある国に訪れていた。中東ではよく内乱が起きている。今回の紛争も、内乱の類だった。現政府と、過激な反政府派の衝突。歴史の本を紐解けば、似たような内乱はそこかしこに溢れているのだろう。仮に反政府派が勝利し、現政府の重臣を処刑すれば、めでたくクーデターは成功。新政権の樹立だ。
国土全土を巻き込んだこの内乱。ここは首都、最も激戦に曝されている地区だ。毎日何人もの人が殺戮され、犯される。ここはそういう場所なのだ。
二人の目的は、内乱の終結。可能な限り平和的な解決を模索し、可能な限り血を流さない終結。一番理想的なのは、両陣営のトップが話し合いで解決すること。その場をセッティングする努力を二人は厭わない。
そして一番暴力的なのが、片方の陣営を戦闘続行不可能な状況まで追い詰めること。武器・兵站の破壊で済めばいい。しかし時には殲滅を行わなければならない事態もあり、――幾度かそれを実行した。
しかし今は幸いにして、砂嵐がすべてを遮断している。今のところ、その最悪な手段を実行する必要はない。その上骨休めまで出来る。彼らの少ない休養と言えよう。
だが、その少ない休養も、突然の其れに終わりを告げる。
「いたっ――!?」
遠坂凛にとっては、一度体験した痛み。焼鏝を押し付けられたかと思える程の熱さと痛み。
しかしそれは一瞬のことらしく、びくりと反応しただけでそれ以上痛がることは無かった。その代わりに尾を引くのは、彼女の戸惑いの表情。
何かに突き動かされたかのように、自身が纏っていた民族衣装の袖をまくる。士郎にとっては死角となり、彼女の行動の意味が分からない。
「?…遠坂、どうした?」
「……そんな…ありえないわ。」
士郎は座っていた椅子から立ち上がり、彼女の背中に近づく。そして背中越しに見たそれに、目を見開く。
「なっ――!れ、令呪!?」
そう、それは間違いなく令呪。士郎は前回の聖杯戦争では、彼女のそれを見ることはなかった。しかしそれでも断言できる。この赤い三画の紋様と、凝縮された魔力の気配は、間違いなく令呪のそれだった。
「い、いや。有り得ないだろっ!聖杯は、セイバーの宝具で跡形も無く吹き飛ばした筈だ!なんで令呪が再び発現するなんてことが起こる!?」
「そんなの知らないわよ!私が聞きたいくらいよっ!」
「まてまて、落ち着こう。……令呪が再び与えられたということは、だ…」
凛も同じ結論に至っているのだろう。彼女はゆっくりと頷く。
「あの史上最悪の争いが、幕を開ける。そういうことでしょうね。」
どこへ向けたものなのか。彼女の目には憎悪とも憤怒ともいえない色が宿っている。しかし口元には笑み。引きつったその笑みは、おそらくは自嘲の笑みだろう。
「遠坂。こうしちゃいられない、冬木に戻ろう。」
「当然よ。あれがもしもヤバイ連中の手に渡れば、それこそ世界の危機よ。」
二人は手早く荷物を纏める。もっとも、荷物なんてほとんど持ち合わせてはいない。ものの数分で身支度は完了した。むしろ、砂の猛威に耐えるための装備のほうに時間をかけた。今や二人とも、素肌を見せている部分なんて無い。顔は木乃伊のように布をまきつけ、目には特殊部隊然としたゴーグル。手には糸で装飾された皮製のトランク。日本ならば職務質問を免れない珍妙ないでたちだ。
凛が家主に礼を言い、暗示を解く。すると家主は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。しばらくは意識を失ったままだろうが、数分で目を覚ますだろう。おかしな同居人のことは全て忘れて。
「急ごう。…飛行機は飛ぶだろうか。」
「ムリね。砂嵐が止んだとしても、今は反政府軍の管理下よ。どの便も飛んじゃいないわ。一旦陸路で国を出ましょう。そこから飛行機で成田まで。」
「分かった。……日本に戻るのは久しぶりだ。桜、元気だろうか。」
「心配ならもう少し頻繁に返ってあげなさい。」
二人は砂嵐の中を歩む。道すがら、令呪が宿った訳について議論するが――議論の余地などない。
冬木の町に、再びあの聖杯が降臨する。その選定のための戦争。即ち聖杯戦争の火蓋が、再び切って落とされた。
凛は此度もマスターに選定され、殺し合いに身を投じる。
――これ以外の解答など、ありはしないのだった。
◆◇◆◇◆
長い陸路を辿り、隣国へ渡り、航空機で日本へ渡る。言葉で表せば易いが、実際はかなりの強行軍だった。
それでもこの過程を3日でこなしたのは、偏に彼らの行動の早さだろう。
空はまだ明るい。久しぶりの日本の空気は、何だか少しだけ暖かい気がした。
“まぁ、あの天候と比べれば当然か”
日本は実に生活しやすい国だ。単に生まれた土地というだけではない。大きな内乱もなく、熱砂に焼かれることもない。一度国外へ行くと分かるが、本当に過ごしやすい国なのだ。
「士郎。冬木へはどうやって行く?」
どうやら遠坂も税関を通れたらしい。彼女の場合、相手に暗示をかけているから通れないなんてことは無いだろうが。
「やっぱ電車を乗り継ぐことになると思う。冬木に飛行場なんて作らないだろうし。それとも近くの空港までは飛行機で行くか?」
「いいわ、新幹線にしましょ。飛行機って結構高いのよね、新幹線の方が数段マシよ。」
「ん。じゃあ駅まで行こうか。そうだ、桜に電話しとかなくいいか?」
「んー…そうね。急に押しかけたら驚くでしょうし、一応電話の一本くらいはしましょうか。こういうのは心の贅肉じゃないでしょうし。」
今や絶滅しかけている公衆電話。時代の波に晒されたそれを利用する者は一人もいなかった。遠坂は10円玉の数を確認し、そのうちの一枚を投入する。
電話番号は衛宮家の番号だった。
呼び出すことおよそ一分。ようやく繋がった。
「もしもし。衛宮です。」
「あ、桜?私よ。」
「遠坂先輩!?どうしたんですか!?」
「やぁね。そんなに驚かないでよ。いやね、そっち何か変わったこと、ない?」
「…え、えっと……いえ、特には…」
「…そう。今日中には冬木に帰れるわよ。久しぶりに桜の料理、食べさせてね。士郎もいるけど代わる?」
「は、はい…!お願いします。」
新たな10円玉を投入しながら受話器をよこす。彼は一つ咳払いをしてからそれを受け取った。
「…桜?元気か?」
「先輩…!はい、元気ですよ。藤村先生も、兄さんも皆元気です!」
「そうか、そりゃよかった。さっき聞いたように、今日の夕方にはそっちに帰ると思う。…家の面倒みてもらって悪いな。桜がいなかったら、中庭なんかきっと魔境だったと思う。」
「いえ、そんな…。それに、お庭のお手入れは藤村先生がやってくれていたんですよ。士郎が帰ってきたときにこんな荒れた庭じゃ悲しむからって。」
「あの藤ねえが…?信じがたいな。きっと矢が降ってくるに違いない」
「ふふ。藤村先生にもお伝えしときますね。おいしい料理作って待っています。」
「ありがと、桜。そろそろ切るぞ。」
「はい。お気をつけて。」
◆◇◆◇◆
「はい。ではそのように。」
サーシャスフィールは受話器を置いた。17年前に外から雇ったマスターが引かせたらしい。オハト翁は嫌っているが、サーシャスフィールは別段嫌いではない。
むしろ、外のヒトと楽に連絡がとれるのは好ましい。念話の類は魔術師にしか通用せず、一般人との連絡方法は、冬のアインツベルン城の中にあっては皆無に等しい。
「…ふう。」
もう何度目か分からない溜息。全てはあのサーヴァントの所為だ。
自らの部屋を出る。足取りは決して軽くない。――きっと、彼ほど破天荒な存在を召喚したアインツベルンは存在しないだろう。
破天荒?いや、違う。多分彼は本物の阿呆だ。
「ライダー」
ノックも無しに彼にあてがわれた部屋に入る。そも、私室を所望するサーヴァントなんてそうは居まい。それだけでも稀有な例だが――
「おう、
ぐいーっと酒を呷っているのだ。
足元には数々の銘酒の瓶。足の踏み場も無いとはこのことだ。
いや、それよりもマスターの名を発音できていない。しかも開き直って別の名で呼ぶ始末だ。それならばマスターと呼べばいいものを、断固としてそう呼ばない。
「沙沙も飲むか?いや、この葡萄酒なかなかの一品。ささ、駆けつけ一杯。」
頭痛すら覚える。…ホムンクルスとしての機能に異常があるのかも知れない。本気で診てもらった方が良いのかも知れない。
しかも、頭を押さえる仕草をどう受け取ったのだろうか。
「二日酔いか?沙沙、二日酔いには迎え酒が一番よ。」
ほれ、とさらに酒を勧める。
――この馬鹿はライダーのサーヴァント。およそ貴族のアインツベルンに相応しくない。きっとお爺様も部屋で頭を痛めているに違いない。
それもそうだろう。召喚されてからというもの、飲酒以外に何もしていない。
毎日、炙った豚を丸々一匹平らげ、酒瓶は無数に空ける。というか、サーヴァントが酔えるのか甚だ疑問だ。
鎧も最初の、召喚された折からは身に付けていない。――というか、この格好は如何なものだろうか。
アジア風だと言えばそうなのだが、何やら一枚の布を、腰の帯で留めているだけにしか見えない。ユカタ、というものが近いのだろうか。
私はそれが好かない。というのも―――
見えそうだ。中身が。
胡坐をかいた彼の股の中など知る由もないし、知りたくもないが…下着ぐらい身に付けているわよね?というか床に座るな。何故テーブルと椅子を使わない。
「……酒は結構です。私はアルコールなどとりません。」
「なんと。沙沙は酒が飲めんのか。つまらんなぁ……酒宴でないとしたら、何用で?」
一応真面目な話だという雰囲気は伝わったのだろうか。空気が読めるならもっと早く読むべきではないだろうか。
「貴方が所望していたものですが――半分は数日中に揃うでしょう。しかしもう半分は時間がかかります。此度の聖杯戦争に、貴方の要望通りの数を揃えるのは至難です。」
「うーむ…そうか。いや、揃えられる分だけ揃えてくれたので構わない。今揃っている分はどれ程か?」
「およそ20組です。要望の10分の1ですね。」
「とりあえずはそれで良いだろう。大体、揃ったからといって戦場にすぐ投入できるものでもない。訓練させなきゃならんからな。」
「そうですね。」
「よし。俺は一眠りする。起きたら練兵をする故、“姉妹”にそう伝えておいてくれい。」
「いいでしょう。」
了承の意を聞くと、にんまりと笑う。…なんとも子供みたいな笑い方をする英霊だ。
彼は胡坐の姿勢から、後転でもするかのように天を仰ぎ、足も天に向け、バタリと豪快に寝ようとして―――見えた。
「ヒッ―――!」
なんでこいつはいてないの、とか色々考えたが、錯乱して一つとして言葉にならない。
「なんじゃ?」
あろうことか、肌蹴た衣服の裾から、――ポロッと出ている。
むしろモロッと言うべきか。
「キャァァァアアア!!」
――この日。サーシャスフィールに生涯消えないトラウマを植えつけたのは言うまでも無いことだった。