Fate/Next   作:真澄 十

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Act.26 友の道

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 二度目の同一化は思ったよりもスムーズに進んだ。体が感覚を覚えていたらしい。

 いや、むしろ忘れていた何かを思い出したかのような、在るべき場所に在るという感覚がある。血の為せる技というのなら恐ろしい限りだ。

 情報を引き出し、己の中で再構成する。

 自身の中に生まれるもう一つの人格。仮初のものとはいえ、それはオリジナルと何ら変わりのないものだ。水面に影のように儚い存在だが、私が制御する間それは紛れも無い実像。

 私の中に在る炉を動かし、そこから抽出された魔力を練りこみ、一つの人格を完成させる。それは仮面のイメージ。これを被ることで私は別人となる。

 だからこそ注意が必要なこともある。あまりにも狂気に染まった人格などをこの身に移せば、それは即ち毒だ。だからこそ引き落とす前にそれを匂いによって察知する必要がある。魔術的な完成を嗅覚に変換しているのだから、かなり当てに出来るものだ。

 だからこの同一化も、もし自身に降ろすだけでも危険なものであると思ったらすぐに中止するつもりだったが……それがどうか。

 これほど透明な人格があるのだろうか。

 あらゆる匂いを発さず、まるで空気のような存在。およそ自身の意思というものが希薄。

 だがそれにも関わらず、まるで十年来の友が隣に侍るような心地良さもまた有る。何とも不思議だ。

 

 最終工程。この人格を私の精神に組み込む。

 まるでモジュール化された部品を換装するかのように、それは存外呆気無く完了した。

 身体能力に以上が無いか確認する。五感、良し。指先一つに至るまで正常に動く。成功だ。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 一人の人物の話をしよう。

 それは遥かの昔、まだこの国が別の名前で呼ばれていた頃の話だ。

 

 まず、歴史にその人物の記述は殆ど残されていない。そもそもその性別すらも定かでは無い。一説には男とされているが、女であるという説もまた有力である。

 その人物は、当時の天皇の勅命によりある書を記す。

 何故その人物が天皇から直々にその命を受けたのかというと、その人物には他の者には無い特殊な技能が備わっていたからだ。

 何故そのような大人物でありながら、歴史に殆ど残されていないのかは定かではない。同時期に書かれた書物にもその人物の名は出てこない。

 だが彼が残した書物は、およそこの国に生まれたものならばほぼ全てのものが知っていよう。その人物の名は知らずとも、その書物を知らぬものは殆ど居まい。

 

 天武天皇に仕え、歴史を書に記すも己を記すことの無かった人物。

 この日出国の高天原におわす神々。その物語を記し、後の世に多大なる影響を及ぼした書物。

 その書物の名は、「古事記」という。

 そしてその編纂者の一人。その名も――――

 

 

 

 

 

「…………澪、大丈夫か?」

 

 衛宮士郎は堪らず声を発した。澪は薄く目を閉じたまま一言も発さない。

 澪の同一化魔術は精神を改変する魔術に他ならないため、失敗した際の影響は計り知れない。最悪廃人ということも十分に考えられるため、その最悪のケースに陥ったのでは無いかと思ったが故だ。

 

「……澪は我が子孫ぞ。これしきで失敗されては堪らん」

 

 だが返答は澪のものではない。その声色や目の鋭さは凛や士郎が知る澪のそれではない。士郎はこの瞬間に、例の澪子という人格が表に出てきたということを悟った。

 凛とセイバーはその変貌ぶりに狼狽する。昨晩の折、セイバーは既に気を失っていた上、凛もまた意識が朦朧としていてあまり記憶に残っていないようだった。事前に説明を受けていたとはいえ、実際に目にすると驚きもひとしおだろう。

 

「……澪の顔で、全く別の口調で話されるというのも何か……違和感あるわね」

「同感だ、リン。ここまでミオとは別物だというのに、顔はミオであるというのはおかしな感じだ」

「慣れてもらう他無い。さて、衛宮士郎。余に聞きたいことが有るのであろ? 今度は隠し立てはせん。澪は自力で辿り着いた。余の言葉はすでに何の助けにもならんが、疑問を晴らすことは出来よう」

 

 澪子が以前、衛宮士郎の問いを跳ね除けたのは澪のことを思ってのことだ。

 問われるがままに答えるのは容易いが、それでは澪は一向に成長しない。無意識下で同一化魔術を成すほどの才覚を持っているが、それを伸ばす努力を怠れば才能の目は腐り落ちるしかない。澪が自力で辿り着いてこそ、その目を伸ばすきっかけになろうという判断からだった。

 しかし今、澪は自力でここまで辿り着いた。だからこそ彼女に隠すべきことは何もない。

 

「……澪子っていうのは本当の名前じゃないんだろ。本当の名前は?」

「余は稗田阿礼(ひえだのあれ)という。知っておるか?」

「稗田阿礼……」

 

 そう。古事記の編纂者の一人に名を連ねる彼女の名は稗田阿礼。古事記には以下のように彼女のことは記されている。

 あるところに一人の舎人が居た。姓を稗田、名を阿礼。年のころは28。非常に聡明な人物で、一度触れたものは即座に言葉にすることができ、一度見聞きしたものは決して忘れることが無い。

 古事記に記される記述はこれのみである。それは即ち、稗田阿礼という人物を記す全ての記述ということである。それ以降、稗田阿礼を記した文章はこの世に存在しない。同時期に綴られた日本書紀や、この時期を記した新日本書紀にもその名前は登場しないのだ。

 その特殊な技能を持ちながら歴史に名を残すことをしなかった人物。それは何故か定かではない。

 だが、もしもの話だが。稗田阿礼が魔術師、いや、この国のその時代においては妖術師や陰陽師と呼ぶべきだろうか。そういう類の人物であったとしたならどうだろう。どの国、時代においても神秘は隠匿すべき存在だ。だからこそ自身を記されることを嫌ったとすれば、天皇に重用される身でありながらも非常に短い記述しか書に見られないということにも道理が通るのではないのだろうか。

 

「見たものを決して忘れない。そちらの言葉で言うと、固有結界というものが余にはある。見聞きしたものを遍く書き記す世界。余は「森羅写本」と呼称していたが」

 

 最も、日本は西洋の魔術とは別体系にあったのだから別の言葉で呼ばれていたのだが、心象世界で世界を塗り替えるというものは存在した。稗田阿礼のそれは「森羅写本」。見聞きしたもの、触れたものを全て書き記し、その情報を必要とあらば引き出すことのできる膨大な記憶野の固有結界である。その記憶量には限りがなく、また本人の意思に関わらず一度見聞きすれば森羅世界に情報が書き込まれ、その情報は際限なく増え続ける。

 衛宮士郎の「無限の剣製」とある意味似ていると言えよう。それが剣ではなく知識、情報に置き換わっただけに等しい。それを自在に引き出すことが可能という点でも似通っている。

 

「だけど稗田阿礼はとっくに死んだ人間だ。どうしてその森羅世界はこの世に留まっているんだ?」

「うむ……ややこしい事情があっての。少々長くなるであろうが、まあ聞け」

 

 促されるままに彼女は語りだした。まるで何か台本があるかのようにすらすらと、まるで昨日の出来事のように淀みが無い。

 

 古事記を記した彼女はある一つの思いを抱くようになった。それはこの世全てを書き記したいというものである。森羅を写し取る世界を持つ彼女がそれを望むのはある意味で正常な感情だ。固有結界とは心象世界の具現である。森羅を書き写す固有結界の担い手が、全てを書き写すという欲求を持つのは至極当然のことだ。

 彼女は世界を回った。あらゆる物を見て、あらゆるものを書き写した。

 だが足りない。まだ知らないことが在る筈だ。もっと私に知識を。

 知識欲というものには限りが無い。食欲も睡眠欲も、性欲さえもいずれは満ちる。だが知識への欲求には限りが無い。無知なものほど興味がなく、多くを知るものこそ多くの知識を求めるという性質の悪い性質まである。知れば知るほど、より多くのことを求めてしまうのだ。果ての無い悪循環である。

 

「運の悪いことに、当時最高の腕をもっていた陰陽師と知り合いでの。阿迦奢への扉を開けば、全てを知ることが出来るであろと考えたわけよ。……いや、今思えば愚かなことをした」

「阿迦奢とは何だ、リン?」

「アカシックレコードのことよ」

 

 凛の言葉に頷き、阿礼は言葉を続けた。

 結果として、アカシャへ至る儀式は成功した。泰山府君を騙すよりも高度な術を見事その陰陽師は達成することが出来たのだ。今でこそ魔法に次ぐ奇跡だが、未だ神秘が世に溢れていた次代である。日本で最高の陰陽師(まじゅつし)となれば、決して不可能なことでは無かった。

 かくして稗田阿礼はアカシャへ触れることが叶うわけだが、一つ大きな誤算があった。

 すぐに書き記すことが出来るほど、アカシャの情報量は小さくなかったのである。アカシャと森羅写本の性質はよく似ている。おそらく協調してすぐに書き写すことが可能であろうと考えたのが運の尽きだった。

 何年たってもアカシャに記されているものを書き写すことが出来ない。それどころか、増え続ける過去の記述を写すだけで精一杯、一向に次のステップに進む気配が無い。

 やがて月日が経ち、稗田阿礼が死に至る段階になってもそれは終わらなかった。いや、死後も終わりはしなかった。

 稗田阿礼は紛れも無い英霊である。戦闘こそ出来ないから聖杯戦争に呼ばれることは無いだろうが、人類の守護者として召し上げられた存在と化した。それはつまり、永遠に魂が破滅することもなく、永劫とも思える時間を費やしてアカシャを書き写す未来を約束されたのと同義である。

 もしも森羅写本の見たものを遍く書き写すという性質が、稗田阿礼の意思によってどうにか出来るものなら良かったのだ。もはや森羅写本は過去の人物の記憶で埋め尽くされている。ただ記録されるときに、ある程度情報は纏められるのが救いだった。人ならば個々に仕切られて記憶されている。そうでなければ、今頃散乱した情報に自我が埋もれ、他人と己の区別が付かなくなっていただろう。

 かくして稗田阿礼は永遠にアカシャを観測する存在になってしまったのだが、あるときふと考えた。せめてこの能力を子孫に使わせることは出来ないだろうか、と。森羅写本は多くの知識の集大成である。神秘を追求する上で役に立つこともあるだろう、と。

 長い時間を費やし、森羅写本に一つ孔を空けた。稗田の血筋のものなら森羅写本に招くことが可能なように。

 さらに長い時間をかけ、子孫たちは先祖の固有結界が未だ残っていて、さらに自分達がそこに招かれることが可能だということに気が付いた。子孫たちが先祖の偉大な能力を探求し、彼女を一時的にだがこの世に現界させた結果である。

 

 森羅世界は誰でも侵入できるほど気安い存在ではなかったが、思い出したかのようにそれを可能とする有能な子孫を生み出し、時代の濁流に飲まれ、多くの魔術師の家系がそうであるように徐々に力を失い、そして今日に至る。

 その血が途絶えることが無かったのは僥倖だろう。森羅世界に入ることが出来るものが現れる期間が長すぎたため、その過程でその存在を忘れ去られたのは致し方ないことだ。その存在を忘れられないように、暗号化した書物をも記したのだが、そもそもその解読法が失われたのも大きな誤算だっただろう。あまり世に知れ渡って良いものではないため恐ろしく難解に作ったのは間違いないが、誰も読めないのでは意味がなかった。

 その書物とは澪が持つ形見の本のことであるが、それを読めなかったとて彼女を責めることは出来ない。凛に預けたところで読めなかっただろう。そもそも、自分の家に伝わる書物――それも形見――をそう簡単に人に見せられるはずも無かった。彼女自身の意地もある。

 

「と、こういう経緯を経て今日に至るというわけじゃ。稗田の名も中途で失われたのは嘆かわしいことだった。西洋魔術の形式を取り入れるのもあまり歓迎できることでは無かったが……結果としてこやつのように、優れたものが生まれたのだ。悪いことばかりでは無かったかの」

「澪は同一化魔術といっていたが、元々そういう使い方なのか?」

「うむ。本来は知識の貯蔵庫としての役割しか持ち得ないが、このような使い方をするものは過去に確かにいたぞ」

 

 ただ澪のそれは西洋魔術の系統に則ったもので、阿礼の言うそれは東洋魔術としてのそれである。よって阿礼のいうところの口寄せとは若干毛色が違うわけなのだが、あえて言う必要もないだろうと彼女は判断した。どちらにせよ、過去の人格を再現する点では同じである。別段手法の違いによって何か問題が生じるわけではないのであえて黙っておくことにした。

 

 阿礼は話の途中で出された茶を啜る。テーブルに置いた湯飲みの音が殊更大きく感じられた。

 

「さて、他に質問は?」

「前に士郎が固有結界を使ったときに、澪は気絶したわね。あれは?」

「澪はどういうわけか、余の森羅世界と繋がりやすくてな。これは生まれつきの相性であろうな。余のそれは過去の知識、そちのそれは過去の剣を貯蔵する世界であろ。しかも剣には作り手の理念やそれが経た歴史も一緒に込められているという話ではないか。かなり余のそれと共通点が多い。おそらく……それに触発され、澪の魂が余の世界に引きずり込まれたのだろう。他には?」

「前に一度会ったよな。そのとき澪は自分の能力について自覚していなかったけれど、あれはどういうことだ?」

「うむ。これは余の推論だが……。澪は自己が少し弱いのかも知れんのう」

「自己が弱い?」

「無論、自意識はある。自己も確かにあるのだが、それが少々弱いのかも知れんのう。それが原因であろ。無意識に余の森羅世界に接続し、引き出した情報と同化してしまうのだろう。……気をつけろよ、衛宮士郎と遠坂凛、それにセイバー。今後もこやつの預かり知らぬところで、誰かの人格が出てくることがあるやも知れん。特に、気絶などしたときが要注意だな。自分から進んで眠るのと違い、精神の守りが弱くなるからの」

 

 澪の言うように、澪が図らずして他者の人格を表に出すときは気絶などした場合だった。

 一度目、言峰綺礼の人格と同一化した場合には、先ほどにも説明されたように森羅世界に引き込まれて意識を失った時に。

 二度目、初めて稗田阿礼の人格と同一化した場合は、宴会を催した際に呑みすぎて倒れた際に。

 両方とも意図せずして澪が気を失ったときにその能力の一片を見せている。阿礼がいうように気絶をしたときというのは、精神の守りが少しばかり緩む。通常の眠りならば、魔術師でなくともこれから無防備な状態に陥るということを深層心理下で警戒している。そのため精神には多少の守りが存在するのだが、気絶という急激な意識の低下に陥るとそれに綻びが生まれるのだ。

 

 阿礼はぐるりと周囲を見渡し、これ以上質問が無いことを確認する。ややあってから湯飲みの中身を飲み干して一息ついた。

 

「話は無いな。では、そろそろ同一化を中断するぞ」

 

 そういうと四肢から力が抜けて体勢を崩す。だがそれも一瞬のことで、滞りなく主人格を表に出した澪が倒れることは無かった。このときには既に、纏う雰囲気は既に澪のそれだった。

 外見は澪であるのに、中身が全くの別物であるということに三人は戸惑っていたが、外見と内面が一致したことでやや安堵の表情を零した。

 澪は自分の後頭部を軽く掻いて、目を反らしながら言う。

 

「……とまあ、私のご先祖は結構な偉人でした、と」

「結構どころじゃないわよ。英霊よ、英霊。サーヴァントとして呼ばれることは無くても、れっきとした英雄よ」

 

 確かに凛の言う通りだ。稗田阿礼は戦闘などに呼ばれることは無くとも、その知識の量はおそらく全人類で最もたるものだろう。それも今もなお増え続けている。これを英霊と呼ばずして、何と呼べばいいのだろうか。

 だが澪は照れるのでもなく、苦笑するのでもなく、話はここで終わりだとばかりに席を立った。まるで有無を言わさないような言葉の強さで言う。

 

「……ちょっと、疲れたから部屋で休んでいるわ。同一化魔術って、それなりに魔力を食ううえに疲れやすくて」

 

 それが魔術である以上、澪の同一化魔術そのものにも魔力は必要とされている。その魔力量は士郎の投影魔術のそれには及ばない量であるが、澪の魔術回路は士郎のそれより本数が少なく、魔力の生成量は若干劣る。さらに自身の精神の上に他者の人格を重ねるというのは、以前から澪が使用している直感を駆使し脊髄反射に任意の行動を設定する魔術と同じく精神に異物を挿入する所業に他ならず、しかも異物としての排斥感はそれの非にならない。

 実のところ、澪の実感としては一時間も連続して使用できないであろうという見込みであった。

 昨日、ほぼ限界まで使用したところである。それも初めてのことだったので疲労もひとしおだ。今日の使用はもう限界だろうと感じていた。

 

「そうか。何か要るものがあったら言ってくれ」

「……大丈夫か、ミオ」

「ありがとう。……大丈夫だから」

 

 そう言って澪は、傷む足を引きずるようにして居間を後にした。まだ日は最も高い位置についたばかりで、一日はまだ長いと主張しているようだった。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 足を引きずり、どうにか自室に戻る。ドアを急くようにして閉め、鍵をかけた。ここまで大所帯の屋敷となれば、廊下は公道とさして変わらない。プライベートを守るためにも、自分の弱いところを見せないためにも、扉の内側から鍵をかけてしまう。尤も、自室に鍵をかけない魔術師など存在するのかは疑問だが。……士郎さんがそうだったか。

 

 投げ出すようにしてベッドに体を沈める。枕に顔を埋め、そしてじっとそうしていた。

 髪を掻き毟ってもいい。だが意味がないのでしない。

 泣きじゃくってもいい。だが余計に疲れるだけなのでしない。

 正直、自分の感情まで冷静に俯瞰している自分が憎らしい。どうしようもない感情が渦巻いているというのに、どこか違う部分でそれを冷静に見ている。自己が弱い、というのがこういうことなら、きっとそうなのだろう。

 

 先ほどから私の中で暴れる感情。それは恐怖に他ならない。

 怖い。例えようも無く、怖い。

 ライダーを前にしたときの恐怖とは違う。あの圧倒的な死の気配は確かに恐ろしかったが、それとは気質の違う恐怖なのだ。

 ライダーのそれが死の恐怖なら、今のそれは崩壊の恐怖。

 足元がゆっくりと、だけど徐々に崩れるに似た恐怖。あるいは至極緩慢に、だけど確実に落ちてくる吊り天井。今すぐ死に至ることは無くとも、いずれ確実にそれが到来し、しかも苦しみのうちにこの身を殺すだろうという恐怖。

 普通の人なら恐怖に耐えかね、発狂することもあるだろう。

 だが私は、それすらも冷静に見ているために狂うことが出来ない。いや、しない。

 それがまた恐怖を煽る。私は、本当は壊れているのではないだろうか。

 

 どれほどそうやってベッドで時を過ごしたのだろうか。一時間は軽く越えていたように思える。おもむろに、ドアをノックする音が聞こえた。

 

「……大丈夫か、ミオ。入ってもいいか?」

 

 この声はセイバーだ。ここで拒否するのは簡単だが、それでは要らない心配をかけてしまう。壁掛け時計を見れば午後一時少し前。おそらく昼食に呼びに来たのだろう。声色だけは平静を取り繕って入室しても構わない旨を伝えた。鍵は開けなくとも入ってこられるだろう。だというのにわざわざ許可を仰ぐあたりは律儀なことだ。

 

「では失礼する」

 

 短く答えて、ドアをすり抜けてセイバーが部屋に入ってくる。霊体とは存外に便利そうだ。

 

「あまり気分が優れないようだが、昼食は食べられるか?」

「ん。食べるわ」

「……ミオ。何か苦悩の種があるのなら、話してくれないか。私はミオの力になりたいのだ」

 

 ……これは参った。隠し通せなかったらしい。よほど酷い顔をしているのだろうか。それとも気付いていなかっただけで、私は泣いていたのだろうか。

 どうしようか、悩む。

 ここで誤魔化すのも簡単だ。いずれ話すと言って先延ばしにするのも易い。

 だが私は、――話すことを選んだ。

 私の力になりたいと言ってくれたのが嬉しかったのだろうか。それとも、話せば楽になると思ったのだろうか。

 気が付けば、自然と言葉が口を衝いていた。

 

「……怖いのよ」

「怖い?」

「そう。とても、怖い。

 自分のことを他人のように話す自分が怖い。寝ている間に、何か訳の分らないことをしているんじゃないかと思うと、怖い」

 

「ジキル博士とハイド氏」という小説がある。普段の人格はジキルという名だが、残忍な性格をしたハイドというものが表に出てきて、殺人を犯してしまうという二重人格を主題に挙げた物語。それが今、私の身に起こっているのだ。これが恐怖でなくて、何だ。

 私の知らないところで、私は何かとんでもないことをしているのではないか?

 私は自分でも制御が利かないようなこの能力のせいで、誰かを傷つけるのではないか?

 そして何よりも、私が恐怖するのは、

 

「私は、本当に八海山澪なの……? 怖いのよ、セイバー。八海山澪のものだと思っていた人生は、本当に私のものなの? 本当に私がオリジナルの人格なの? この感情も、この記憶も、誰かの間借りをしているだけじゃないの?

 そう思うと、怖い……。ねえ、セイバー。私は、本当に八海山澪なの……?」

 

 もはや自分の過去が信じられない。自分は本当に自分なのだろうか。自分が忘れているだけで、本当は過去に誰かの人格をかぶり、そのまま今日に至っているのではないのだろうか。

 何を以って、人は自分を認識するのか。何をもってアイデンティティを確立するのか。

 この問いの答えはきっと哲学的なものになるだろう。だが私は、「過去」であると思う。

 人間は過去を通して自己を形成する生物だ。今でもなく、未来でもない。そして過去を通してでしか今を認識できないのだ。過去という概念が在り、その上に現在と未来がある。過去というものを通してでしか今と未来を推測、あるいは評価できないのだ。

 今の私は、その過去が疑わしい。私の記憶が全て疑わしい。本当にこれは自分の記憶なのか、自分の思いなのか。

 その前提の崩壊はつまり、私の人格全てを破綻させるものだ。私は、何を以って私となったのか。本当に私は私なのか。

 だからこそ、今が分らない。未来も分らない。私は今、誰で、何をしたいのか? 未来に、私はどうなっているのか。数年後には別の人格にすげ代わり、別の名を名乗っているのではないのか。

 

 そういった感情、いや、衝動が胸中で駆け巡り、引き裂き、膿が溢れる。

 それは次第に疑心暗鬼を生じさせ、己を否定し、そして何もかも信じられない。急に宇宙に放り出されたかのよう。足場もなく、自分がどこにいるのか、自分がどこに流れているのかも分らない。このまま宇宙の塵になるのか、それとも別の顛末が待っているのか。何も分らない。

 だが、

 

「今、私の目の前に居るのは八海山澪以外に有り得ないッ!」

 

 屋敷どころか、周辺の民家にも響いているであろう程の声。その大声を間近で受け、驚きで身を竦ませてしまう。後にはキンと響く耳鳴りが残った。

 恐る恐るセイバーの顔を見たとき、私はぎょっとした。彼は大粒の涙を流していた。

 

「セイバー……?」

「仮に、……仮にだ、貴方が本当は別の人間だとしても。それでも私は貴方をミオと呼ぶ。

 私は、嬉しかったのだ、ミオ。友を失い、永く後悔していた私だが、再び友を得ることが出来た。全力で守ろうと思える人物に出会えた。それが堪らなく嬉しいのだ。

 お願いだから、ミオ。私の感情を否定することはしないでくれ。ミオが自分を否定するというのは、私が好いた友としての貴方をも否定することだ」

 

 八海山澪が自分を否定するということは、それを慕った全ての人間の感情をも否定することになる。

 胸を殴られたようだった。八海山澪を好いてくれた人物は、八海山澪を好きになったのであって「私のような誰か」ではない。私が自分を否定するということは、私自身が八海山澪を否定することに他ならず、それは私の友に対する最大の侮辱である。私は今、私を好いてくれた人の目の前で自らの命を断つに等しいことをやっていたのだ。

 大学で知り合った友人、遠藤楓と小久保美希の顔が浮かんだ。おっとりとして見るものを和ませる楓、破天荒だが根は優しい美希。しばらく連絡を取っていなかったが、今どうしているのだろうか。

 

「私には、貴方に強く生きてくれという他に言うべき言葉が見つからない。それは時に酷な言葉であると承知していながら、これ以外に私は言葉を持たない。

 だが……せめて、私と同じようなことをするな。私もその様だったのだ。友を私の失態で失い、私は己を否定し尽した。だがその先に、何も無い。ミオ、……私の友に、同じ道を歩ませたくはないのだ」

 

 己を否定するという悪癖において、私とセイバーは似ているかも知れないと思った。もしも何かの縁によって私がセイバーを呼び寄せたのであるとすれば、きっとこの悪癖によるものに違いない。

 彼のいつかの言葉を思い出す。私が、マスターと呼ぶのはむず痒いからやめて欲しいと言った時のことだ。そう、確かあの時彼は「ではミオと。いや、良かった」と言ったのだ。

 彼は再び友を得て嬉しいと言った。それはつまり、マスターと義務として守る存在ではなく、感情として守る存在で在りたいと願ったのだろう。つまり、それは友だ。

 彼はもう何度も友を失ったことを嘆く発言をしている。それは想像できないほどに深い後悔であるのだろう。だからこそ、彼は願った筈だ。

 もう一度、自分に友を守らせて欲しいと。

 故人となった彼の友を守ることは出来ないだろう。聖杯戦争にともに呼ばれたとしても、それは敵同士としてということになる。だからこそ、彼は新たな友を欲したのだ。

 マスターを友として守りたい。その願いのためには、主従としての関係が邪魔になる。だからこそ私がマスターと呼ぶなと言えばそれに安堵し、サーヴァントらしからぬと言われることを承知で私と遊ぼうとしたのだろう。よく知りもしないくせに、わざわざマスターとゲームをしようなどという英霊はそうは居まい。とにかく一緒に遊べば友になれるだろうという発想から来ているのだろう。

 ……全く、不器用なヤツだ。そしてやっぱり子供っぽい。そんなことをしなくとも、一時間ほど茶を共にするだけで人と人は友になれるというのに。

 

 くすりと零れた笑みにセイバーが怪訝な顔をする。ああ、話して楽になったのか、それともセイバーの言葉が利いたのか。私は私。それ以外の何者でもないというのに、つまらないことで悩んでしまった。

 いずれこの疑心は再び私の中で渦巻くこともあるだろう。だが、きっと大丈夫。その時はまたセイバーが傍にいてくれるだろうし、そうでなくともセイバーの言葉があれば私は持ち直せる。

 

「……心配かけちゃったわね。もう大丈夫よ」

 

 苦労しいしい立ち上がり、セイバーの胸を軽く叩く。自分が今できる最高の笑顔を見せてやる。

 その様子に安心したのか、セイバーもまた笑った。

 

「……そのようだな」

 

 気持ちよく笑うセイバー。私はこれからもつまらないことで悩むだろうけれど。セイバーのこの気質は見習おうと思った。セイバーは私と同じ、自己否定の病を乗り越えたのだから。そしてこの能天気とも取れるものに行き着いたというのなら、それはきっと、私に必要なものだと思えるのだ。

 

 セイバーに肩をかりて居間に向かい、昼食を取った。まだまだ一日は長い。今日はどう過ごそうかと、辛いカレーを食べながら考えるのであった。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 新都方面、海に程近い場所に構えられた宿には磯の香りが舞い込んでいた。宿の窓から遠く見える海を眺めながら、ランサーは思案に耽っていた。

 もう聖杯戦争が始まって一週間。他の陣営の詳細な進捗状況など知る由も無いが、何体かは既に脱落していると見て間違いない。ランサーはそう判断した。

 キャスターはライダーが打倒した。それは間違いない。それから数日たっているため他のものも脱落したのは間違いないだろうが、それを確かめようにも、マスターであるスカリエッティは頑なに部屋から出ようとしなかった。

 マスターが居なくとも戦闘はできる。だが居るのと居ないのでは雲泥の差がある。相手にマスターが補佐についていた場合には特にそれが顕著になるだろう。だからこそ、ランサーはスカリエッティも夜の徘徊に同行するように再三促したが、説得は難航していた。

 やはりアーチャーの奇襲が相当尾を引いていると見える。宿を転々とするほうがかえって危険にも思われたが、それでマスターの気が済むのであればそれでいいと判断した。宿から出さえしなければいくらでも守る術はある。さほど問題視はしていなかった。

 

 スカリエッティは昼食を食べ、その際にまた酒を呷ったこともあるのか部屋で休んでいた。あの調子で鯨飲を続ければ近いうちに体を壊すであろうことは明白だが、そもそも魔術師という人種は自分の体など二の次だ。スカリエッティは魔術こそ家から受け継がなかったが、その精神だけは受け継いでいた。というよりも、家人全員がそうであるために自然と身についたことである。

 スカリエッティは食後しばらくテレビを眺めていたのだが、興味を引くことは無かったらしい。テレビは点いたまま放置されていた。ランサーもまた、映像を視界に留めはしていなかったが音だけは注意して聞いていた。スカリエッティは無視したが、どうにも気になるニュースが報じられていた。

 

 それは冬木病院のガス爆発だ。どうにも妙である。

 ランサーは聖堂教会が誕生するよりも遥か前の人物である。昨今の医療の実体はよく知りはしないが、ある程度の知識は召喚の際に与えられている。その情報と照らし合わせた結果、一つの疑問が浮上した。

 ガス爆発というが、病室にガスは通してあるのか否か?

 火元が何の変哲もない病室の一つという話である。頼りない知識を総動員しても、ガスを必要とするようなものは思い至らなかった。そもそも危険である。病院で火事が起これば、おそらく多くの逃げ遅れが出る。五体と五臓六腑が満足ならそもそも入院などしていまい。となれば病院側が普通の病室にガスを通すということも考え辛いのではないか。とすれば、ガス爆発というのは些か妙である。報道にあるように、事件性も踏まえて調査するという言葉にも引っ掛かる。

 

 聖杯戦争の真っ只中であるこの時期。全くの無関係であるとは考えられなかった。

 このような手段に訴えるとすれば、サーヴァントであればおそらくアサシンだ。キャスターも疑わしいが、彼は既に脱落している。マスターの仕業となれば話はややこしいのだが、ここまで大仰なことをするマスターというのも考えにくい。そもそもこのような婉曲した方法を取ろうなどとは思わないだろう。だからこそ、徹底的に隠密を旨とするアサシンが疑わしい。

 

 まだ推定の段階に過ぎないが、おそらく間違いないだろう。何か収穫があるかは分らないが、その手口を確認することはできるかも知れない。

 ランサーは、今夜冬木病院に向かうことを決意した。その際、スカリエッティにも同行をして貰う所存である。アサシンの手口から察するに、おそらく近代の英雄に違いない。少なくとも己の武器よりも化学変化の猛威を選択する英雄など、ランサーは思い浮かばなかった。近代の科学技術などを使用することを厭わない相手となると、ランサーには未知の領分になりつつある。スカリエッティの同行は必須だと考えた。

 ――さて、どのようにしてスカリエッティをその気にさせようか。スカリエッティはずっと海の向こうを眺めたまま、それを考えるのだった。


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