Fate/Next   作:真澄 十

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Act.30 正義とは

 城に帰るころには、既に空は白んでいた。

 ライダーは庭先に白兎の亡骸を丁寧に置く。駆け寄ってきた姉妹兵に丁重に埋葬するように伝えた。姉妹兵は事情をすぐさま察し、すぐにそれに取り掛かった。姉妹兵は交代性で常に誰かが行動している。白兎の埋葬にそれほど時間はかからなかった。葬儀を行うか否かについては、今後の主の方針に従うことで彼女らは決定した。

 

 その主であるが、様態は芳しくない。その情報はサーシャスフィールを出迎えた一体が知るに至り、次に現在活動している姉妹兵ら全員が知るに至った。言語機能を搭載していない彼女らであるが、互いの意思疎通は十分に行える。

 最初に知った一体曰く、目立った外傷はないが、自力で歩行が出来なかったという。

 彼女らは自らの主を守り、補佐するように調整されている。その自動反応なのか、それとも自由意志によってその行動を選択したのか、彼女らはひっきりなしに主の自室を訪れた。手足の麻痺や治癒促進剤を持参した固体もいるほどである。

 だがそれらの一切を、ライダーが「今はゆっくりと休ませてやれ」と言って追い返した。彼女らがこうも忙しなく部屋をノックしては休めないのも道理である。

 だが本当の理由は別にある。そのような介抱を彼女は既に必要としていないのだ。正確には、そのような介抱はもはや無駄である。

 

 ライダーは姉妹兵の一体に鎮痛剤を持ってこさせるように言った。主は何か深手を負ったのかと気を揉んだため、自分が使用するのだ、セイバーの仲間に受けた矢傷がまだ痛むと言い聞かせた。その姉妹兵はかなり訝しげであったが、言いつけどおりに鎮痛剤を持ってきた。ライダーは、沙沙の言うように自分は嘘が下手なのだろうかと思ったが、そのような瑣事を気にかけている場合ではない。

 鎮痛剤に眠気を誘う成分でも入っていたのか、サーシャスフィールはすぐに眠りに入った。その頃には、彼女に見舞いも一息ついたのか、ドアをノックする音は聞こえなくなっていた。

 

「やれやれ。……慕われておるな。やはり、お前はあのアハト翁とは違う。自分の部下に慕われるのもまた将の才であるかな」

 

 その傍を、ライダーは決して離れようとしなかった。ずっと、血の気が薄れたように思えるその手を握っていた。

 

 睡眠というには短く、仮眠というにはやや長い時間が経って彼女は目を覚ました。その頃には顔色も平常と変わりなく、回復の色がはっきりと見えていた。もはや痛みは無いようである。

 しかし痛みが無いというのは、もはや治らないということに等しい。やはり神経がやられている。それを再確認させられ、ライダーは気を病んだが、それを悟られまいと平常を装った。だが、やはり彼女には見抜かれたらしい。

 やや呆れ気味に、サーシャスフィールは溜息をついた。

 

「貴方が気を揉んでも仕方ないでしょう。……この足は、どう足掻いても二度と動きません」

「……そうだが。それでもやはり、気を揉まずにはおれんのよ」

「仕方ありません。神経をやられています。いくらホムンクルスといえど、筋肉に命令を下す回路を断ち切られてはどうしようもありません。

 治すとなると、治癒ではなくもはや再生の域です。ホムンクルスであったことを感謝したくもなりますが、その設備はここにはありません」

 

 人体を再生させるとなるともはや時間逆行、吸血鬼の域にまで手を伸ばさなくては達成できないだろう。あるいは宝具の力に頼るか。いずれにしても、自由に身体を弄れるのはホムンクルスの特権だ。切れた神経を繋ぐことは出来ずとも、新たに作って入れ替えれば良い。

 だがその設備はここにはない。ここは聖杯戦争のための橋頭堡。仮住まいに過ぎないのだ。

 サーシャスフィールはサイドテーブルの水を飲み、短く咳き込んだ。足だけでなく内臓もやられていたか、とライダーは肝を冷やしたが、サーシャスフィールは何でも無いと手で制す。ただ咽ただけのようだ。

 

「例えば……いいか、仮の話だ。姉妹兵の誰かが、沙沙に右足を譲るといえば、足はすぐに治るのか?」

 

 足の移植。

 サーシャスフィールの足は、太腿の辺りから下が不能に陥っている。神経が途切れた部分より上部を切断し、別の足を移植すれば、理論上は動く足が手に入ることになる。

 無論、ライダーの足では駄目だ。サーヴァントの四肢は、ホムンクルスといえど爆弾のような存在である。だが、同じホムンクルス同士、しかも製造ラインを同じくする彼女らであれば実現可能のように思えた。

 サーシャスフィールが休んでいる間に、普段あまり使おうともしない頭脳を精一杯活用して見出した一つの解決法である。

 しかし彼女は、首を横に振った。

 

「いいえ。私の身体は特別製です。彼女らとは同じようで違います。つまり互換性がありません。仮に可能だとしても、以前のように動くにはリハビリが必要です。その間に――終わっています」

「……そうか」

「はい。ですので、以降に私は同行できません。白兎の代わりなど居るはずもないですし、最大限譲歩して居たとしても、この足では騎乗は出来ないでしょう。今後の戦闘は、貴方一人に任せざるを得ません。

 ですので、この城を離れた場合には現場判断で行動して構いません。ですが、必ず聖杯をアインツベルンの本城まで持ち帰ると、約束しなさい」

「無論約束する。もとよりそのつもりだ」

 

 正直に言って、ライダーはアハト翁のことが好かない。サーシャスフィールの手に渡るなら彼の士気も俄然高いのだろうが、一度彼女の手に渡った後にあの老いぼれた腐れ外道の手に渡ると考える気持ちも萎える。

 だが、それがサーシャスフィールの悲願であるならば、そのようなことは瑣事なのだ。

 愛するものが望むことは、すなわち彼の望むことである。

 必ずや、あの常冬の城に聖杯を持ち帰ろうと決心を新たにした。

 

 そこで、あることに気がついた。

 彼女は言った。「ここにはその設備はない」と。ここには無いということは、どこか別の場所にあるということを暗に含んでいる。考えられるとしたら、それはあのアインツベルンの本城に違いないのだ。

 そこに一度帰れば、彼女の足は治せるかも知れない。いや、治せる。彼女の言の裏には、設備さえあれば治せるという意が含まれているはずだ。

 決してすぐには治らないだろう。だが十日もあれば十分のはずだ。一度本城に帰れば、彼女は治せる、たったの十日で!

 

 彼女は再び咳き込んだが、さきほどよりも浅い。さきほど咽たのをまだ引きずっているのだろう。

 そんなことよりも、一度帰還することを薦めなければならない!

 

「沙沙、ここにその設備は無いと言ったな!? では、設備があれば治るのだな?」

 

 彼女は咳を飲み込み、息を整えてから答えた。

 

「……ええ」

「ではすぐに帰ろう! 完治させるとなると、どれほどかかる!?」

「そうですね、おそらく一週間もあれば十分かと」

 

 予想よりも三日も早く治せる!

 聖杯戦争は最後の一騎になるまで決着がつかないのだ。正確な数は知る由もないが、ここまでで既に二体の脱落をライダーは確認している。キャスターとランサーである。それに少なめに見積もってさらに一体か二体が預かり知らない場所で脱落したと考えて、およそ一週間で半数。あとさらに一週間はかかるかも知れない。そう考えれば、一週間の留守はそこまで痛いように思えなかった。帰ってきたときには、おそらく残り一体か二体にまで減っているだろう。それを叩けば良いのだ。

 十全になった自分と沙沙が居れば、手負いになっただろうサーヴァントの一体や二体は問題にならぬ!

 

「すぐに帰還しよう! 一週間程度ならば聖杯戦争から一次撤退しても問題はない!」

「そうかも知れませんね」

 

 サーシャスフィールは三度咳き込んだ。今度はさきほどよりも咳が酷く、息苦しそうである。口元を手のひらで覆い、ひどく大きな咳を繰り返した。

 傷口から何か菌でも入り込んだか。

 刀傷が元での発熱など、ひどく体調を崩すことは珍しくないことである。ライダーはベッドに腰掛ける彼女の背中を撫でた。

 ややあって咳がおさまり、長い時間をかけて息を整え、彼女は続けた。

 

「ですが、それではもう間に合わないのです。先ほども言ったでしょう、そのときにはもう終わっています」

「何が終わっているというのだ! 聖杯戦争は、最後の一騎になるまで続けられるのでは――――」

 

 ライダーはその続きを発することは出来なかった。

 代わりに目を見張り、息を呑んだ。

 何故なら、彼女の手は夥しい量の血で濡れていたからである。口元にも血の跡があり、喀血したのは疑いようも無かった。

 どうして、何故。

 その衝撃から立ち上がった後に湧き上がったのは疑問。傷は足のみのはずである。熱を出すことは考えられるが、この程度で喀血するほどでは無い。胸や腹を抉られたならともかく、足なのだ。

 最悪の想像が彼の脳裏をよぎったが、それはあえて無視をして、その考えを誤魔化すように声を荒げた。

 

「どうしたッ! 毒でも盛られたのかッ!」

「……違います。活動限界が近いのです。何度も言っているでしょう、一週間もかけていては、私の命が間に合わないのです」

 

 活動限界。

 その言葉を聞いて、ライダーは先ほど打ち消そうとした想像が現実であることを認めざるを得なかった。背けようとした現実を、至極淡白に彼女は突きつけた。

 おのれアハト翁。沙沙を、使い捨てに作りおったッ!

 拳を握り、机に叩き落した。爪が食い込んで血を滲ませている。

 彼は呪った。この不条理な運命を。

 それに抗うべく、彼は吼えた。

 

「――何故ッ!」

「いいですか、ライダー。これは初めから決まっていたことなのです。

 私はアインツベルンの長い歴史の中でも、屈指の戦闘力を誇っています。しかしその代償も大きい。

 ……私は短命なのですよ、ライダー。それも極端に。生まれたときから私の命は、聖杯戦争より先まではもたないと約束されているのです。

 生命維持に必要な機能を、全て戦闘に回しているのですから当然です。私の筋肉や魔術回路、反応速度は通常の人間には及びもつかないほど強力ですが、内臓はそこらの老婆にも劣るでしょう。

 ……半年ほど前、貴方が勧めた酒を断ったのを覚えていますか」

 

 ライダーは頷いた。あれはまだ召喚されて間もない頃だ。自分の自室を訪ねた彼女に葡萄酒を勧めた覚えがある。

 いや、それだけでは無い。彼女は徹底して酒を口にしなかった。葡萄酒だけでなく、ウイスキーや日本酒、ありとあらゆる酒がライダーのために振舞われたが、彼女の前に酒が注がれることは無かった。

 それに今思えば、日々の食事はやたらと栄養を考えられた規則正しいものだった。あまりに杓子定規な食生活だったため、かえって魔術師とはこういうものかと納得してしまった。それがあまり肌に合わず、ライダーはそれとは別に豚を炙らせて食べていたというのに、そのようなことを見落とすとは。

 あれは、それが好みでそうしているのではないのだ。あのような食事でないと、彼女は生き延びられなかったのだ!

 気付けといわれても無理な話だったかも知れない。だが、気付くべきだったのだ!

 

「本当はあの酒を飲んでみたかったのです。貴方の酒を断るのは本意ではなかった。酒とはどういうものなのか、興味があった。

 ……私がこのような身体であるばかりに、貴方には食事の面で不自由をさせたでしょう。貴方には物足りない食事だったでしょうね。豚など安いものです。それで貴方の不満が解消されるのであれば。……あの食欲と酒量には驚かされましたがね」

 

 そう言ってサーシャスフィールは微笑んだ。その笑みは、いつもと何ら変わりがなかった。

 なんと酷なことをしたのだろうとライダーは悔いた。食べられない相手の前で、豚を食らい、酒を勧めるなど、何て酷なことを! 自分の食欲などどうでもいいのだ。元より既に死んでいる身。食事など要らないのだ! 酒など不要なのだ!

 ――ただ、自分の我侭であったに過ぎないのだッ!

 せめて自分を罵倒してくれれば、少しはこの思いも晴れたのだ。お前の無神経な行いがどれほど不快であったかと罵倒してくれれば良かったのだ。そうすれば、詫びることも出来るというのに。

 ここで詫びたとしても、彼女は構わないというだけだろう。それがいたたまれないのだ。

 詫びろと一声でも言ってくれねば、自分の言葉を届けることが出来ないのだ。それが悔しいのだ。

 ライダーの頭の中にはあらゆる感情が入り乱れ、そしてそれは涙となって流れ落ちた。

 

「常々思っていましたが、貴方は変わっていますね。何故貴方が泣くのです」

「これが――涙せずにいられるかッ。愛するものが、もうじき逝くというのだぞッ!」

「……ありがとう、ライダー。その言葉が何より嬉しい。ですが、もう覆せないのです」

「何故……何故そこまでして戦う! 戦えば沙沙の命は、それだけ削れるのだろう!?」

 

 ライダーの言うとおりである。もとより生命維持能力を戦闘能力に当てているのだ。戦闘を行えば、それだけ彼女は寿命を縮めることになる。それも、大幅に。

 戦闘自体の回数は決して多くないが、半年前から練兵に参加している。そのことも加味すれば、もはやその命は幾許もないかも知れない。

 

「貴方と同じです、ライダー。私は戦うために生まれた。それが私の唯一の存在理由であり、己の表現方法なのです。貴方の言葉を借りれば、純粋戦士というやつですか」

 

 ライダーは唇を噛んだ。そして握った拳をじっと見つめた。涙を拭うこともしなかった。

 そういわれて、ライダーは何と言い返せばいいのだろう。剣によって生まれ、鐙の上で育ち、鬣の上で逝くと豪語するライダーが何と言い返せるのだろう。

 何も言えない。彼もまた、そうだからである。戦うことで生き、戦って逝くのを良しとしているのだ。彼も彼女も同じ生き様を選択しているのである。だからこそ、何も言えることは無いのだ。

 だが分ることはある。彼女にも心残りはあるはずだ。彼と同じならば、鬣の上で、戦って死ぬことを望むはずなのだ。理不尽に定められた寿命によってではなく、怨敵の刃で死ぬことを望むはずのだ。

 つまり、鬣の上で死ねない、馬に乗れないのであれば、ここは彼女の死に場所ではない。いずれ死ぬとしても、今は生き延びなければならないのだ。

 

「あと、どれだけ生き永らえることが出来る……?」

「……安静にしていれば、おそらく五日は。……ですが、次に戦えば、そのまま活動を停止するかも知れません。

 ですがいずれも断言できません。この右足の傷で、思いのほか体力を消耗すればもっと早いかも知れません」

「……分った。五日だな」

 

 五日あれば聖杯を手にすることができるだろう。聞けば、過去の聖杯戦争はいずれも十日ほどで終着しているのだ。五日あれば十分である。

 もとより、ライダーの願いは聖杯なんかなくとも叶えられる。いや、既に叶っているといってもいい。強者と戦いたいという願いは、もはや達成されているといっても良いのだ。

 だから、ライダーは聖杯を彼女のために使うことに決めた。アインツベルンの悲願が何か、アハト翁が何か、魔法が何か。聖杯の奇跡にすがれば、彼女は助かるのだ。

 

「良いか。沙沙は決してこの城から出てはならん。一人きりになることも避けよ。……五日以内に聖杯を持ち帰る。良いな」

 

 彼女は頷く。それを確認すると、ライダーは威嚇するように甲冑を鳴らして部屋を出た。

 今はもう日が出てしまった。もう外に出て敵を捜し求めるのは難しいだろう。

 だが夜になれば、ライダーは再び黒兎を走らせて敵を探しに行くだろう。サーシャスフィールを救うために。

 

 それが、彼女にとって辛いことだった。

 言えなかった。ライダーが聖杯で自分を救おうとしているのは明らかなのに。聖杯では誰も救えないと、言えなかった。

 聖杯はもはや暴力装置だ。所有者の願いを暴力でしか叶えられない。暴力で叶える救いなど存在する筈が無いのだ。

 だが、だからといってライダーにそれを言えるはずもなかった。彼の望みを取り上げるようなことは出来なかった。

 もしも、彼と彼女が出会った当初であれば彼女は平気でそれを口にしたかも知れない。だが今となっては――それは出来ないことだった。

 再び咳き込む。口の中は、再び血の味がした。

 

 果たして本当に五日も自分の命はもつのだろうか。思いのほか体機能が低下することも考えられる。

 体力の低下は避けねばならなかった。体力が低下すればそれだけ命も縮むだろう。落ちた体力を回復させるほどの機能は、もう望めないのだ。

だが五日と約束した。だから、それは守らなければならない。だからライダーの言いつけを従順に守り、城はおろか用が無ければ部屋からも出ないつもりでいた。

 ――――半年前の自分であったら、自らを顧みずにライダーと一緒に敵を求めていたであろう。一晩で全て片付け、その結果として活動が停止しても構わないと考えただろう。

 何が自分を変化させたのだろうと考えて、自分はライダーとの別れを惜しんでいることに気がついた。死など怖くはないが、彼との別れは嫌だ。自分が死んだ後に彼が悲しむであろうことが怖い。

 これが愛なのであろうかと考えると同時に、ホムンクルスの自分が人を愛せたということが、たまらなく嬉しく思うのであった。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 ある英雄譚をしよう。それは、一つの聖戦の物語だ。

 ――そう、それは聖戦というに相応しいものだった。

 ある王の軍は、瞬く間に異教徒どもの都を併呑した。その目的は領土拡大もあるだろうが、その奥には一つの目的が存在した。

 聖都奪還。

 再征服運動(レコンキスタ)である。

 レコンキスタとは即ち、聖戦のイベリア。イベリア半島で起きた、十字軍における遠征のことを指す。これは、その最初期の物語である。

 

 今は邪教の手にある神の国(エルサレム)を再び我らの手に。みなの者神を示す十字を纏い、異教の者を黒鉄の杖を以って陶器の如く打ち砕き、再び現れる我らの(イエス)のための国を築かん。

 彼らはエルサレムを目指し、異教の都を攻め、彼らの教義を敵に伝えた。従わねば、それは死を意味した。

 そうやって幾星霜。長年にわたり、多くの地を彼らは平らげた。残るは、これもまた異教徒の街をただ一つ残すのみである。

 

 その十字を身体に宿した軍勢に、一人の男が居た。

 砂金を零したかのような髪に細い線。瞳は碧く澄んで優しさを宿す。しかし剣の腕はその容姿に似合わず、数多の地にその名を轟かせる壮士である。

 腰に帯びるは、叔父にあたる王より授けられた宝剣。いや、聖剣。さらに、神の威光を知らしめ、邪悪な都を討ち滅ぼすための笛。

 その笛は立派な角笛である。いくつもの宝石を埋め込み、さらには煌びやかな装飾。神の名に相応しいものであった。

 優秀な駿馬に、すばらしい鎧。そんな彼が、一軍の英雄であると云われるのは至極当然の運びであった。

 

 彼は、この遠征に参加できることを誇りに思っていた。

 彼らにとって、彼らの聖都の奪還はまさしく正義である。そもそもその地は我らのものであると教義にある。約束された大地なのだ。それを、異教徒どもが侵略したのである。

 正義は我らにあるのだ。/本当に?

 あれは我らの地である。彼らはその地を不当に占拠している。/彼らはただ、住み慣れた地を守ろうとしているだけではないのか。

 我らは正義である。/我らは侵略者ではないのか。

 彼は軍勢の勇である。迷いなど、全て飲み込まねばならない。だから彼は、誰の前でも求められている壮士の姿で在り続けた。

 この戦いは誇りであると、自らに信じ込ませた。

 

 あるとき、攻めていた最後の異教徒の都から使者が訪れた。曰く、彼らの王は和平を望んでいるという。その見返りとして、莫大な財宝と人質の提供を約束した。そしてその使者はこう付け加えた。

「我らの王が、敬愛する汝らの王によって教えを授けられるよう、国に帰って次の聖祭の準備をなさってくださいますよう」

 彼らの王はすぐさま信用する重臣を呼び集め、相談を始めた。その中にはその男の姿もあった。

 彼は、この申し出に反発した。

 敵の王は、以前我らが遣わした使者二人の首を刎ねている。陛下、敵は信用ならない。いや、殺された彼らの復讐をするべきだ。

 しかし別の臣は申し出に賛同した。

 無碍に断るのは愚かなり。

 王はその意見に同意し、彼らの申し出を受けることとした。

 そうなるとただちにここを去らなければならない。しかしその前に、申し出を受けることを了承する意を伝えるため、こちらも使者を送らなければならない。

 彼は、では私がその任に、と申し出た。

 しかし王はそれを退けた。彼はこの申し出を不服に思っているので、敵の王との謁見時に剣を抜くことも考えられたからだ。

 彼は、では我が義父を、と言った。

 その意見は認められ、彼の義父が使者として遣わされることになった。

 彼は、使者の任は名誉であると考えた。

 使者の任は信用あるものにしか与えられない。王の代理として行動することは、その肩に王の威光を背負うことと同義である。だからこそ彼は自らを使者にせよと誰よりも早く進言したのだ。

 

 義父は、ただ危険なだけの任であると考えた。

 以前に使わした使者は首を刎ねられ殺された。この申し出が罠であることが十分に考えられるのだ。そうなれば、自らの命は既に無いも同然である。殆ど丸腰で敵の本陣に出向かねばならないのだ。

 義父は彼を恨んだ。心底、恨んだ。

 

 義父が使者となって出向く際、その案内として申し出を伝えた使者も同行した。一方は任務を終えて帰還する使者。もう一方はこれから任務を行う使者だ。

 二人の使者は、彼を悪く言うことで意気投合した。和平を伝えに訪れた敵の使者は内心では和平を快く思っておらず、また敵の象徴的英雄である彼を憎く思っていた。彼らにとっては、彼は味方を多く屠った悪鬼である。

 そしてこのとき、義父は裏切ったのである。

 敵の王との謁見時、義父は言った。

「奴を排除せよ。そうでなければ、あなた方に勝機は訪れない」

 ではどうやってそれを成す、と聞かれ、義父は答えた。

「貴方の申し出により、我が軍は橋頭堡より立ち去る。そのときに彼が殿を任されるよう、私が取り計らおう」

 

 その言葉の通り、彼は殿を任されることになった。

 言うまでもなく殿は危険な役割である。本軍と離れて行軍しその背中を守る。敵が追撃を仕掛ければその背後を襲われるのは必至。背後を守りきれないとなれば、本軍が逃げられるように自らの命を差し出して時間を稼がなければならない。自らを危険にさらして本隊を守るのが殿の役目なのだ。

 王は殿につくことになった彼を心配した。最初に彼には二万の兵が与えられたが、王は本隊の兵から半分を与えようと言った。

 だが彼は断った。義父を信じたからである。

 義父がうまく和平を取り計らったならば敵は兵を進めたりなどしない。ここでそれ程の兵を受け取ってしまえば、それは我が義父を信じぬことになる。

 その言葉に感嘆し、王は自らを恥じた。その代わりに、万が一異常があれば、与えた角笛を吹け。そうすれば本隊の兵が援軍に駆けつけると約束した。

 彼はそれを了承した。

 そうして王の本隊は橋頭堡を離れ、そこから時間を置いて殿である彼らも撤退を開始した。彼に付きしたがうのは、殿につくことになった彼を心配した友と、歴戦の壮士たちが十数人である。

 冬も深まったその日、彼らはその地を後にした。

 

 殿の任に付きながら、友が訊いた。

「本当に、正義は我らにあるのか?」

 彼は心臓が一層脈打つのを感じながら、しかし理想的な壮士であるべく、冷静を取り成し模範的な答えを返す。

「何を言っている? 君はそうは思わないのか?」

 分らないと友は返した。ときどきそれが分からなくなる、と加える。

 彼はこの話をあまり続けたいとは思わなかった。適当に理由を挙げてその話を打ち切る。

 そのときである。背後の兵が悲鳴にも似た叫びを上げた。

 敵が現れたぞ!

 

 彼はすぐに思い知ることになった。義父が裏切ったのだと。

 山嶺の彼方より現れた、敵兵。その数はじつに四十万。彼らの二十倍の兵である。

 彼らはすぐさま馬首を返し、その軍勢と向き合った。

 友が言った。その角笛を吹け。

 だが彼はそれを退けた。

 この笛を吹くのは恥である。これほどの軍勢、我らだけで討ち滅ぼそう。

 そもそも、殿の役目は本隊を守ることなのだ。殿が危険に晒されたとして、どこに本隊を呼び戻す殿が居ようか。

 殿の役目は援軍を求めず、背後の敵兵を退けることである。それを全うできないのであれば、それは騎士の名折れである。

 

 そして彼は剣を抜く。対峙する間もなく両軍は衝突した。

 一番槍は見方の軍勢であった。彼は叫んだ。

「見よ、我らに敗北など無い! 邪悪は外道、異教にあり! モンジョワ!」

 友はそれに続いた。

「――ああ、その通りだ! 我ら勝利を確信せり! モンジョワ!」

 彼に付いてきた壮士達も叫んだ。

地獄(ゲヘンナ)に堕ちよ!」

「悔い改めよ!」

「主を愛さぬものが居るならば、呪われよッ!」

 名も無き兵たちは皆一様に叫んだ。

再征服せよ(レコンキスタ)ッ!」「再征服せよ(レコンキスタ)ッ!」「再征服せよ(レコンキスタ)ッ!」

 

 彼は戦った。どこまでも戦った。

 騎馬で切りかかった者の心臓を貫いた。斧を投擲しようとしたものの首を刎ねた。槍で彼を穿とうとしたものの兜を叩き割った。

 歩兵の眼球を抉った馬の首を落とした逃げる新兵を両断した矢を取り落とした弓兵の腕を切断した半狂乱になって切りかかった騎士を縊り殺した自軍の兵を殺したものを殺した自らを慕って付いてきた壮士を殺したものを殺した友に刃を浴びせたものを殺した。

 殺した。殺して殺して、悉く殺した。

 神の名の下に、殺戮を行った。

 

 見方は次々と倒れていく。二十倍の兵力だ。当然である。

 そんな中、彼だけが刃を浴びることなく突き進む。

 壮士たちは既に事切れた。二万の兵も次々と死に逝く。

 そこはまさに、地上に現れた地獄である。

 動く者は、もう動かなくなったものの屍を踏み越えて殺しあう。大地に血が染みこみ、純白だった雪化粧は、紅で染め上げられる。

 両者は各々の正義を胸に戦った。戦って戦って、敵を呪いながら血溜まりの上に倒れていった。

 彼もまた逝った味方の屍を踏み越えて敵に切りかかり、一つ、また一つと屍を築き上げる。その戦い様はまさに獅子奮迅。無双の剣戟である。

 盾で一閃を受けて弾き、返す一閃で血の花を咲かせる。その血を浴びるのは、その哀れな死体の次に切り伏せられた死体。それはまさしく、電光の如き速さであった。

 気がつくと、敵兵は彼に恐れをなし、遠巻きに彼を睨むだけになっていた。誰も彼に近付こうとしない。

 敵兵の誰かが洩らす。あれは悪魔だ。

 

 彼はそのとき、友を守るように残存数万の敵兵を睨んでいた。敵と味方が入り乱れる中、偶然にも傷ついた友と合流したのである。友の傷は深く、助かる見込みは低かった。それでも、彼は必至に彼を勇気付けた。

 敵が恐れをなして一度距離を取ったため、味方は彼を中心に集まりだした。味方の残存する兵力の少なさに、彼は絶望した。

 ほぼ壊滅状態である。残るのは、信を置くドルイドと友。そして僅かな兵のみである。壮士達はことごとく死に絶え、兵も皆神の広い懐に召された。

 もはや、敗北は明らかである。

 彼は慌てて角笛を吹こうとした。

 だがそれを友は拒んだ。臓器が切られた腹部よりこぼれているのを意に介さず、叫んだ。

「それこそ恥ではないかッ! ならば何故、最初から援軍を呼ばなかったッ!」

 ドルイドは言った。

「……それでも、吹かないよりはましである」

 彼は涙を流しながら、角笛を吹いた。力の限り。

 王の援軍はこの音を聞きつけ、すぐに駆けつけるだろう。敵兵はたちまち滅びるに違いない。王の軍勢は四十万を越えるのだ。

 だがその前に、我が友は死に絶える。

 ドルイドは言った。貴方の選択の結果です。貴方の正義の結果です。せめてそれを貫きなさい。

 

 敵兵は戦意を取り戻し、再びこちらに刃を向けんとしていた。

 彼はもう一度笛を吹いた。

 今度は、その笛を武器として用いるためである。力の限り吹いた。脳の血管が切れるほどに、天までその音色を響かせんとするように。

 その時、敵兵は確かに神の威光を見たに違いない。

彼は再び、永遠とも思えるほどの時間を戦い始めた。

 

 だがその力を以ってしても、敵は多すぎた。彼はもはや数え切れないほどの、いや、数えることすら無意味に思えるほどの敵兵を地獄に叩き落した。

 だが見方は誰も残っていない。友も息絶えた。残るのは自分一人である。

 彼はその剣と笛の力を全力で振るい、戦い続けた。

 だがもはや自分には力が残されていないことを悟った。剣を握る手は感覚がなく、目は霞み、全身は血に濡れている。

 彼は自分の最後を悟った。

 彼は聖剣を敵に渡すまいと、近くにある大理石に剣を叩きつけた。だが剣は折れることなく、逆に大理石を断ってしまう。

 剣にまでも、己の正義を貫けないのかと言われた気がした。

 

 彼は死の刹那、深く後悔した。

 どこから過ちであったのだろう。

 どこで誤ったのだろう。

 王の本隊を断ったことか。

 笛を最初に吹かなかったことか。

 それとも――――正義を掲げたときからか。

 我らは正義かも知れない。しかし彼らは悪だったのか。

 本当にこの戦いは正義か。本当に避けられぬ戦いか。

 我々はもっと知るべきではないのか。敵が、何をもって戦うのか。本当に彼らは邪教の民か。

 本当に――我らは正義か。

 見よ、この大地を。

 大地は紅く染まり、炎に焼かれ、剣で穿たれ、死臭を漂わし、川は死体で埋まっている。

 この行いが正義か。これのどこに正義があるのか。

 

 正義を誰かに強要したとき、我らは既に悪であったのではないか。

 正義のために剣を振るったとき、我らは悪であったのではないか。

 

 多くの都市を、我らの教えで染め上げた。これが正義である。これが正しい教えである。

 信じよ。さもなくば呪いあれ。

 神の国を目指して進軍してきた。それが正義である。神の国を取り戻せ。

 その妨げは斬り捨てよ。

 

 ああ――もう分からない。

 正義とは何だ。悪とは何だ。

 ああ、友を許してくれ。私の勝手な正義で、貴方の命までも奪ってしまった。貴方を守れなかった。

 私が殺したも同然だッ!

 

 ――気がついたら、彼は自らの心臓にその聖剣を付きたてていた。

 それが、彼の生前の最後の記憶である。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 これはセイバーの記憶だ。

途中から全て分かっていた。いや、最初からだ。眠りに入る前から予感はしていた。

 同一化魔術を自覚した現在、それによって彼の記憶と同調することは十分に考えられた。

 だが、ある程度覚悟していたとはいえ、少々衝撃的だったことは否めない。

 

 もはやこれは悪夢に近かった。目が覚めた時、嫌な汗で服を塗らしていた。

 まだ朝日も昇りきっていない。きっと士郎さんは朝食を作り始めているだろうが、きっと私はひどい顔をしている。今は顔を合わせたくなかった。

 しかし自室にいるとさらに気分が塞がりそうで、あてもなく屋敷の中を歩いた。

 

 頭の中はごちゃごちゃだ。睡眠時に私は何度か別人格を表に出していたらしいが、基本的に私は覚えていない。だから無意識での同一化は記憶に留めづらいということなのだろう。そのせいか、上手く頭の中が整理できていない。

 いや、それは正確ではないのだろう。

 あの記憶を見て、色々と考えてしまい、だけどそれらが一向に形を成さないから、私の頭のなかはごちゃごちゃしたままなのだ。

 

 だが、一つだけはっきりしたこともある。

 セイバーの名だ。セイバーの、役割(クラス)に応じた名前ではない、本当の名前。

 隠されているもので、暴いたほうが良いものなど無い。隠されているには隠されているなりの理由がある。

 セイバーが私に名前を隠していたのは、私を守るためだった。魔術師として未熟な私は、敵の魔術師の催眠にかかるなどという事態が十分考えられる。その時、知らないほうが身のためであるということもあるのだ。

 だが私は知ってしまった。彼の名と、その過去を。

 そしてその過去を見て、私は考えざるを得ないのだ。

 正義の意味。正義の形。

 

 気がついたら、そこは道場だった。

 何となく、そこにセイバーが居るという確信があった。

 そっと扉を開けると、静かに佇む姿があった。セイバーだ。

 瞑想中なのか、目を閉じて正座をしたまま動かない。

 邪魔をしないように、音を立てないようにそっと近付いた。

 だがおもむろに目を開け、こちらを見据えられた。やはり気付かれていたらしい。

 

「今日はやけに早いのだな、ミオ。よく眠れたか?」

「ええ、眠れたわ。……ローラン」

 

 ローラン。それが彼の名前だ。

 

 フランス最古の叙事詩『ローランの歌』に出てくるシャルルマーニュ王の甥である騎士ローラン。その物語は、血戦と称されるロンスヴォーの戦いを主題に置いたものである。

 再征服運動(レコンキスタ)最初期の物語とも言われ、この物語によりヴァチカンとイスラムの幾度にも渡る戦いの歴史が幕を開けるのである。

 

 彼は以前に言った。私が成したことといえば、長い戦乱の種を撒いただけであると。

 それは――確かにそうなのかも知れない。ローランを失ったシャルルマーニュの軍勢は異教徒を殲滅する。それがその後の禍根にもなったといえば、そうなのかも知れない。

 だがセイバー自身も分かっているはずである。それは、彼自身の咎ではないことを。

 しかしそれでもセイバーは悔いるのだ。それが、その在り方が、何だか寂しかった。在りもしない罪に悩まされ続けるその背中が、何だか痛々しかった。

 

「……誰の名だ? そのローランというのは」

「夢で見たわ。貴方の記憶か、もしくは森羅写本から引き出した情報よ。そのどちらか私には判断できないけれど、いずれにせよ、貴方は騎士ローランで間違いない。

 ……貴方の記憶を盗み見るようなことになって、申し訳なく思うわ」

 

 セイバーはじっと私の瞳を見つめ、ややあって軽く溜息をついた。

 そして、隠し通せないと観念したのか、諦観の微笑みを浮かべた。

 ……今思えば、私自身が隠し通してしまえば良かったのに。私がローランと呼ばなければそれで済んだだろうに、そう呼んでしまった。

 仕方がないではないか。

 私はセイバーと話さなければならない。色々なことを。

 

「…………そうだ、私はローラン。シャルルマーニュ王の甥である」

「いつも隣にいた友人は、オリヴィエ?」

「うむ。オリヴィエは本当に優れた騎士であった」

「じゃああの戦いは、やっぱりロンスヴォーの血戦なのね?」

「……あの戦いを見たのか。……そうだ、あれが後の世に伝えられる再征服運動の始まりだ」

 

 セイバーは私から目線を外し、格子戸から覗く朝日をじっと見据えた。

 その目は青く澄んでいて、とても深い悲しみを宿しているようには思えない。普段の態度からも、それはあまり感じさせない。

 だがそれは違う。セイバーはいつも悲しんでいる。いつも悔いている。

 聖杯にあの血戦のやり直しを求めるほどに。それは一つの希望であった。

だがそれは叶わないと知った今、彼は今悔いるしか出来ないのだ。それが贖罪であるというかのように。

 ややあって、ローランは吐き出すように言った。まるで、懺悔室で神父に罪を告発して許しを請う罪人のようであった。

 

「……私は死後、無限とも思える時間を英霊の座で過ごした。いくらでも考える時間はあった。

 正義とは何か? 士郎は、正義の味方を目指すと簡単に言うが、そもそも正義とは何だ? 倒すべき悪とは何か? ……どう思う、ミオ」

「……正義が何かなんか分からないわ。でも、正義の味方は何となく分かる。

 誰かの為に自身を投げ出して戦う、そういう存在じゃあないかしら?」

「しかし、その手を差し伸べる先は、その正義の味方が“正しい”と思う方向だ。つまり正義の味方自身の“正義”に準拠している」

 

 つまり、どう転んだとしても、正義の味方を冠する以上は正義の定義は避けられないということだろうか。

 それは――とても難しいように思う。そもそも正義は時代や地域によって大きく変わる。

 例えば基督教の歴史が顕著だろう。基督教は、昔は排他的な宗教であった。レコンキスタの歴史を見ればわかるように、他の宗教は間違いであり、地獄に落ちるべき存在であるとまでされたのだ。どちらも同じ神ヤハウェを信仰しているにも関わらず、である。

 しかし当時はそれが正義であったのだ。だが、今は違う。

 基督教は基本的に全ての宗教に関して寛容である。少なくとも表立って対立することはない。

 それが今の正義の形なのである。このように、正義の形は時代によって変わる。手のひらを返すように。

 ――水面下では、未だにヴァチカンは代行者などを使って対立関係を展開することはあるが、少なくともそれは裏の話である。今はそれを考えない。

 

「……士郎さんは、明確なそれを持っていないと?」

「そうではない。はっきりとした形ではないにせよ、何かは持っているだろう。

 だがそれでは駄目なのだ。自分が何をもって正義とするか、それを把握しなければ。何が正しいのかを分からないまま剣を振るえば、それは破滅を呼ぶ。

 正義を貫くのは決して容易ではない。自信の中に確固たるそれがなければいずれ見失う。何が正義を見失った正義の味方など、それは既に正義の味方ではない」

 

 つまり、定義だ。

 何故自分を見失うのかといえば、それは定義が出来ていないからであるとセイバーは言う。それは、間違いないのかも知れない。

 何か問題が表れたとき、その問題の定義から始まらなければならない。何故ならそれがはっきりしないと、明確な解決法は生まれず、そもそも何について論じているのか分からず混乱を招くだけだ。

 それは正義というあやふやなものでも同じなのだろう。いや、あやふやで不定形だからこそ、自己の中だけでも明確な形を持たなければならないのだろうか。

 それは――とても難しいことだろう。おそらく、『自分は何者なのか』『何を以って自分なのか』というアイデンティティに踏み込まなければならない問題だ。

 自己を見つめ、それを定義することは魔術師の基本である。何を以って自己を成すのか、これをはっきりさせないと、神秘の海で自己を見失う。特に、私のような自意識を改変する魔術となれば、それは顕著だ。

 だがそれはあくまで基盤である。魔術師であるから、幸いにして基盤はできていよう。しかしその上に礎石を定め、何か――ここでは正義――を形作るのは、存外に困難だ。定義と構築を同時に行わなければならないのだから、自己の定義よりも一段階難しい。

 これは、本当に難しい問題なのだ。

 これ以上考え込むと会話が途切れそうで、取り敢えず最初に思い当たったことを口にする。

 

「分かりやすく、誰かに手を差し伸べる生き方に憧れた、とかじゃ駄目?」

「駄目だな」

 

 セイバーは至極簡単に斬り捨てた。

 多分、世の中で正義の味方と称される職業――例えば消防士や警察官――に憧れる理由は、その在り方が美しいからというものだろう。単なる憧れだ。その憧れを抱いたまま、その職業についてしまうことも少なくないだろう。

 だがセイバーはそれでは駄目だと言った。

 

「手を差し伸べた相手に裏切られたら? 利用されたら? 手を差し伸べたとしても、もはや手遅れだったとしたら?

 二つに一つを選択せざるを得ない場面ではどうする? 愛するもの一人と他人数名を天秤にかけられたら?

 ただの職業のうちは良いだろう。だが、それを信念として掲げるには足りない」

「それは――」

 

 答えられない。私自身に明確な正義がないから。

 何を以って自分は正義とするのか。それが無く、曖昧な正義、普遍的な正義の形では答えられない問いだ。

 例えば、自分の周囲だけを守りたいと願うのならばある程度答えられる。そもそも裏切りや利用されることは考え難いし、手遅れだったとしてもただ悲しむだけだ。他人と天秤にかけられたら、迷わず愛するものを選択する。

 だが全てを救いたいなどと願えばそうではない。裏切られる。利用される。身は一つだ、手遅れにもなる。二つに一つなど選択できるはずがない。

 そこに待つのは苦悩と破滅だ。

 だからこそ、明確な形が必要なのだろう。自分はこれ信じるから、これの為に戦うという信念。それが胸の中にあるならば、それは道標になる。それがあれば、苦悩することはあっても、道を間違えることは無い。

 

「そして、正義の味方とは何か? 正義の味方は正義か?」

「正義の味方だから、正義なんじゃないの?」

「前の休日の朝に、正義の味方を名乗る者達が戦う番組を見た。あれは果たして正義か?

 対立するものたちの話を、彼らは一度でも聞いたのか? 敵にも、何か信じるものや守るものがあり、それのために戦っているにすぎないのではないのか?

 それに、私は思うのだ。正義を強要することは悪なのではないか」

「どういうこと?」

「人は常に正義を求める生き物だ。だが、状況や環境により、その正義を選択できないこともある。

 そのようなものにまで正義を強要することもまた、悪ではないのか」

 

 スラムに住む子供に、盗みをやめろというのは簡単だ。

 だが、彼らは生きるためにその悪を選択しなければならないのだ。盗みが悪であることなど彼らとて知っている。だが、環境がそれを許さないのだ。

 そんな彼らに、盗みの罰であると拳を振るうことは――果たして正義なのだろうか。盗みをやめさせるのは、彼らから生きる術を奪うのと同じである。

 セイバーの戦隊シリーズの話にもあったように、悪であると決め付けて、力を以ってそれを正すことは正義なのか。悪を滅ぼすことは正義か。

 

 夢で見た、ロンスヴォーの戦いだってそうだ。

 敵は、住み慣れた地を奪われようとし、自分達の信じるものを奪われそうになったから剣を握ったに過ぎないのだ。剣を以って抗議することは決して最良の道ではないかも知れないが、それを選ばざるを得ないのだ。

 ではローラン達のシャルルマーニュ軍はどうか。彼らにもまた、明確な正義があった。

 神の国(エルサレム)にある、ゴルゴダの丘を取り戻したいと願っただけなのだ。それは神を信じるが故の、当然の行いなのだ。だれも彼らを責めることなど出来ない。

 

 だからこそ正義とは難しいのだ。正義の反対は、悪ではなく別の正義である。月並みな言葉だが、これが一番的を射ている言葉だろう。

 正義と正義は時に対立し、時に共存する。一つの言葉で定義することは難しい。

 自分だけが正義ではないのだ。別の正義もあることを認識し、認めなければならない。

 

「正義とは、難しい。簡単には名乗れぬ。……まあ、士郎はまだ若い。その答えを求めるには時期尚早かも知れないが」

「でも、いずれ見つけなければならない?」

「そうだ。人には各々の正義がある。その形を見つけなければならない」

 

 そのとき、道場の扉が静かに開いた。

 噂をすれば影が差す。今しがた話題に上がっていた士郎さんだ。エプロン姿のままであることを考えると、朝食の準備が出来たのだろう。

 時計を見てみれば、随分と長い時間がたっていた。もう朝食の時間である。

 別に聞かれて拙い話ではないが、何となく聞かれてしまったのではないかと気を揉んでしまう。だが、様子から察するに話は聞かれていないようだった。あの話を聞いていれば、今すぐにでもここでディベートが開かれるのは間違いない。

 

「何だ、澪もここに居たのか。朝食の準備ができたから、なるべく早く来てくれ。今日は遠坂の要望によりパンだけどな」

「和食のほうが好みだけど、パンが嫌いというわけじゃ無いわ。気にしなくていいわよ」

「私はパンのほうが好みだが。シロウ、先に居間に行っておいてくれ。すぐに行く」

「ん。分かった」

 

 話の重苦しさを悟っていたのか、何の話をしていたのかは聞かなかった。もしかすると、顔には出さないだけで話を一部始終聞いていたのかも知れない。

 ……セイバーの名前を聞かれたとしたら拙かったりするのかな。と思ったが、よくよく考えれば士郎さんは剣の解析でセイバーの名前は知っているはずだ。今更隠しても仕様がない。

 

「では暗い話は一度切り上げて、朝食にするか」

「そうね。……今までどおりセイバーと呼ぶほうがいいかしら」

「その呼び方にこちらも慣れた。今更真名で呼ばれるのもむず痒い。クラス名で呼んでくれ」

「ん、了解。私も今になって呼び方を変えるのは難しいわ」

 

 もう暗い話題は打ち切り。

 私とセイバーは居間に向かうべく立ち上がった。板張りの床は夏にあっては冷たくて気持ちがいい。

 居間に向かう途中、中庭の景色に夏の息吹を感じる。

 そんな清清しい空気を享受しながらも、心のどこかでずっと考えていた。

 

 正義の意味を。正義とは――何か?


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