Fate/Next   作:真澄 十

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Act.3 反英雄

 ―――眠りは、浅い。

 

 それは、多分机で寝てしまっているからだと思う。普段なら眠りはもっと深い。

 

 ―――夢を見た、気がする。

 

 多分それは、昔の話だ。私の見る夢はいつもそれだ。

 

 思い出すのは、17年前の大火事。私はそのとき幼稚園児だったと思う。

 

 それに巻き込まれた訳ではない。その赤い壁の外側から、それを見ていた。それによって誰かを失った訳ではない。

 

 だというのに、それを忘れられない。漂う焼死体の臭いが、目を焼く炎が、きっと強烈すぎたのだろう。幼い私のココロに、深く刻み込まれている。

 

 脳がそのシナプスを失おうと、魂は、心は覚えている。17年前の出来事を夢に見る程度には、それは強烈だった。

 

 幼いながらにも、いや、幼いからこそ理解に及んだのかも知れない。魔術師の家系でなければ気付きさえしなかったかも知れない。

 

 そこはきっと、ヒトならざる者がもたらした、本当の地獄だろうと思った。

 

 ―――友達が、たくさん燃えた。

 

 その壁の中には、私の友達が沢山居た。絵本が好きだった子、サッカー選手になると言っていた子、みんなみんなみんな―――燃えた。

 

 それは、誰に対しても平等な暴力だ。分け隔てなく、誰も彼もが死に絶えた。

 

―――助けたいと思った。

 

 だけどそれが叶うわけもない。そのとき私は魔術刻印すら持たぬ幼子で、その炎は極上の呪いより出でたものだった。

 

 飛び込めば、死は必死。だから私はその様子を見守るしかなかったのだ。母親の腕のぬくもりの中で。

 

 そしてあの中では自分と同じ年端の子が、灼熱の腕に抱かれている。

 

 ―――だからきっと、そのときだったと思う。

 

 私は魔道の道を覚悟した。私が進むのはあのような道で、決してあれを作ってはいけないと理解した。

 

 それは幼子にしては、出来すぎた決意だっただろう。でも私は、脳ではなくココロでそう感じた。

 

私は言葉ではなく、何か別のものでそう覚悟したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「―――ん。――ゃん、起きて」

 

彼方から呼びかけられたかのような声。――これはきっと、私の友人の声だ。

 

起きろと言っている。なら起きなければまずいのだろう。

 

「澪ちゃん。授業終わったよ?」

 

 突っ伏していた机から頭を上げる。…眠い。どうも睡眠が足りてないようだ。

 

 目を擦り、ぼやけた視界を回復させる。この気質の柔らかい女の子は私の友人。名を遠藤楓。何というか、ふわっとした感じの子。

 

周囲を見る限り、どうやら授業は終わったらしい。自分と同じ学生が、各々の荷物を鞄に詰め込んでいる。

 

…いけ好かない講師も荷物を纏めている。やはり2限は終了したらしい。

 

「お昼、急がないとお弁当無くなっちゃうよ?」

 

 がばっ、と立ち上がる。そうだ。今は昼休み。急がねば鶏チリ弁当300円が売り切れるではないか!

 

「悪いけど、荷物見といて。ここで食べるでしょ?」

 

「うん。いってらっしゃい」

 

彼女は弁当組。私のグループで唯一の弁当持参だ。よって戦場へは一人で赴くことになる。

 

 人の壁をすり抜け、だーっと駆け抜ける。目当ては弁当屋だ。

 

 この学校には昼休みになると、弁当屋が弁当を販売しにくる。これが安い。弁当は実にシンプルなものだ。大量の白米とおかず、そして漬物という何ともオトコノコな弁当。

 

 女である私だが、弁当の体裁などは些細なことだ。300円という値段は、コンビニ弁当を買うよりも100~200円ほど安い。一人暮らしの私、八海山澪(はっかいさん みお)にとっては有難いものだ。

 

 その中でも鶏チリがお気に入り。鶏の唐揚げにチリソースをかけたものだが、これが白米によく合う。私は昼食の大抵をこの鶏チリ弁当で済ますのだ。

 

 夏を目前に控えたこの空はどこまでも青い。いかに綺麗な絵の具を用いようと、この青さは人には再現できないだろう。

 

 大学の構内は、授業が終わったらしい人達の波で溢れている。皆学食か弁当を買いに行っているのだ。

 

…これは出遅れたかも知れない。

 

 全力疾走…はみっともないので、小走りで弁当屋へ向かう。が――

 

時既に遅し。弁当屋には長蛇の列。そりゃもう、アナコンダもびっくりの長さ。

 

それでも並ばないと食糧は手に入らない。蛇の体の一部になる以外の選択肢は無い。

 

「…弁当残るかなぁ」

 

 半ば諦めの境地だが、それでも仕方がない。私は列の最後尾に並ぶのだった。

 

 

 

 

「…案外美味しいものね。」

 

 結局鶏チリ弁当は売り切れ、残っていたのは塩鯖弁当だけだった。同じく300円。

 

 長時間待たされた果てには、もう食べられれば何でもいいやー的な心境に至り、青魚が苦手にも関わらず塩鯖弁当を買ってきた次第だ。

 

 …しかし、鶏チリも大概だったが、こいつはそれを超えるオトコノコな弁当だ。しかし、眼前のコイツの弁当には負けるだろう。

 

「魚は美味しいものさ。肴にも最高だし。」

 

 そう言いながら小久保美希が頬張っているのは肉だ。ボリュームたっぷりのカツ。ソフトボール部らしい焼けた肌には、その肉食が似合いすぎる。

 

 つくづく思うが、およそ対極に位置するだろう楓とも友人なのか理解できない。東洋の神秘だ。

 

「そうだよねー。私はお酒飲めないけど、魚は好物だなぁ。」

 

「楓、多分コイツが言う魚は深海魚の類よ。ゲテモノに違いないわ。」

 

「失敬だなあ八海山!鮟鱇はゲテモノなんかじゃないぞ!」

 

「…本当に深海魚のつもりで話していたの?それとも魚類代表が鮟鱇?いや、答えなくていいけど。」

 

 後者だったら最悪だと思う。

 

 商店街の軒先に並ぶ、尾頭付きの新鮮グログロのお魚。お姉さん今日は鮟鱇が安いよーなんて勧められても買わないわよ私は!

 

「アンコウっておいしいの?お店で見かけたこと無いけど」

 

 なんて素朴な疑問を口にする楓。彼女はきっと鮟鱇の見た目を知らないに違いない。捌かれる前の姿でスーパーに並べば、たちまち食指が止まること請け合い。というかあの魚って柔軟性と粘性が強すぎて包丁が入らないんじゃなかったっけ。

 

 …そういえば鮟鱇の胃の中からペンギンが出てきたって話聞いたことあるな。うげぇ、何か食欲なくなってきた。

 

「むちゃくちゃ旨い。鍋も旨いが、ポン酢と紅葉卸のあん肝だな!これと日本酒をこう、くいっと!…かー、たまんねぇぜ!」

 

 …おっさんかコイツは。

 

 

 

 

 

 

 

 本日最後の授業が終了を告げる。時刻はおよそ4時半。

 

この時間帯は夏ならばまだまだ明るい。あと2時間もすれば、綺麗に照る夕焼けが拝めるだろう。

 

「じゃあ、また明日なー。」

 

「澪ちゃん、また明日ね。」

 

 友人二人が手をひらひらと振り、別れを告げる。美希も今日は部活が無いらしく、楓と帰宅するようだ。

 

 私は下宿生だから学校までは原付で通っているが、二人は自宅生だ。駅から出ているバスで通学している。

 

「お疲れ。また明日ね。」

 

 バス停を素通りし、バイク置き場に向かう。ちょっと苦労して自分の原付を見つけ出し、キーを挿して回す。

 

“今日はバイトか。だるいけど仕方ないわよね。”

 

 原付を発進させながらこんなことを思ってしまった。

 

 親は既に死去している。遠方に住む祖父母から仕送りが届いているものの、あまり大した額ではない。

 

 私の両親はそうでも無かったと思うが、祖父母は孫であろうと甘やかすタイプじゃない。少々古い型の人間だ。

 

―――勤労を以って大成すべし、がうちの家訓。正直言って、貧乏の言い訳に過ぎないと思う。

 

 それを爺様と婆様は堅実に守っているのだから、孫である私もそれに倣う必要がある訳だ。仕送りという弱みもある。

 

 …この地のセカンドオーナー、遠坂の家系ならこんなことしなくても良いんだろうなーと思ってしまった。

 

 私こと、八海山澪は魔術師だ。とにかく、魔術というのは金食い虫で、バイト代だってほとんどそれに消える。

 

 …というのは建前で、殆ど魔術の探求なんてしていないが。バイト代は主に娯楽費だ。

 

 多くの魔術師は起源への到達や、より深淵なる神秘の探求に明け暮れているというが…正直、うちの家系は割りといい加減だと思う。

 

“こんなモン真面目にやったって食っちゃいけないぞ。八海山の魔術を途絶えさせるのは許されないが、探求なんてほどほどにしておけ”

 

 というのが父の言葉だ。遺言よりもこっちが強烈に残っている。子供心に、「そんなので良いのか?」と思ったものだ。

 

 何せ先祖からの魔術を継いで、次の世代にバトンを渡せばそれでいいときた。何と気楽なのだろう。

 

 こんなお気楽な家系だからというのもあるが、何となくセカンドオーナーへ挨拶しに行くのは気が引けた。

 

八海山の家系は正直言って無名だから、多分発見されていないのだろうとは思う。今の私は、勝手に住み着いた寄生虫みたいなものだ。見つかったら多分ヤバイ。

 

 といっても大層な工房を設置している訳でもないし―――多分許してくれると思う。だといいな。

 

 と、余計なことを考えていたら事故にあう。今は深山の中心区、高いビルがそびえる場所だ。

 

 当然、交通量も多い。運転に集中しなければ。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 ―――そこは、濃縮されて汚濁した闇だ。

 

 正常こそが異常だと言わんばかりの空間。蝋燭の明りはその闇に食われ、その部屋の全貌を見通すのは不可能。

 

 外は夏の夕方。未だ炎天下の空であるのに、この空間は骨まで凍える。それは決して、この肌寒さだけでは無かろう。

 

 カツリ、と音が響いた。

 

 杖が石畳を叩く音である。

 

 そこは蟲蔵だ。間桐家の屋敷に設けられたそれは、狂気の産物だろう。

 

 人影は一人分。燭台を手に、蔵の主がそこを訪れた。蟲たちはキイキイと鳴き、一部の蟲はその翁の足元から這い上がり、それと同化する。

 

 マキリの初代当主――今は間桐と名前を変えた、間桐臓硯その人である。

 

 既に500年の時を生きる正真正銘の妖怪。その長き生に渡り、もはや魂は磨耗し、ただの外道に成り果てている。

 

 ―――この世全ての悪を根絶やしにする。かつて彼もその意思を掲げていたが、いつからだろう、それは失われた。

 

 そして残ったのが、―――この妖怪である。

 

 その体は無数の蟲で構築され、多くの命を吸い上げることで自らを延命している。そうして500年の間、延命に延命を重ね、搾取した命は数知れない。

 

 これを妖怪と言わずして、何であろうか。

 

「―――マスター。」

 

 もはや飽和した闇の中から、一人の異形が姿を現す。

 

 姿形こそ人間のそれだが―――其れが纏っている気配は、500年の妖怪にも劣らず醜悪だ。

 

 まるで闇で染め上げたかのように黒いローブにその長身痩躯を包み、宝石を設えた金具でそれを留めている。

 

 目はまるで焦点があっているとは思いがたい。ぎょろりと向かれたその双眸は、妄執に囚われたもののそれだ。

 

 そしてそれは間違いではない。彼は、その妄執によって巨大な力を得て、その妄執によって命を落としたのだ。

 

 ―――反英雄。英雄とは反する、怨霊と言うに相応しいモノだ。

 

「応、キャスターか。首尾はどうか?」

 

「はい。最良の地が見つかりました。―――先客がいたので殺して参りましたが、宜しかったですね?」

 

「構わん。面は割れてなかろうな?」

 

「はい。目撃者は存在しません。」

 

 臓硯は呵呵と笑う。そのくぐもった嗤いは蟲蔵の闇に反響する。向けていた背を翻し、跪く反英雄と対峙する。

 

「重畳、重畳。して、それは如何なる地か?」

 

「はい。冬木の教会でございます。」

 

「なんと。其処は不可侵が協定で義務付けられているのは知っていような?」

 

「はい。―――しかし、そんなことは瑣末でございましょう?」

 

 その反英雄は能面のような顔を破顔させ、凶悪な笑みを浮かべる。その悪性は何処までも―――その老魔術師と似通っている。

 

「然り。―――しかし、そうなると表立って儂が動く訳にもいかんのう。」

 

「マスター、気になさることは有りますまい。」

 

 だが老魔術師はかぶりを振って否定する。これにはキャスターも意外だったのか、虚を突かれたかのような表情を浮かべる。

 

「最早この老体には不名誉を引っ提げるだけの膂力がなくてのう。それに―――孫が玩具を欲しておってのう。」

 

 キャスターはまだ合点がいかない。偽臣の書によるマスター代行に不満はないが、果たしてその必要が本当にあるのだろうか。

 

「あれも、中々面白く歪んでおるからの。7年前聖杯に為りかけた故、さらに面白いぞ?器としての性質を得たのであろうな。魔術回路を持たん癖に、与えられた魔力は面白いように吸い上げよる。お前の宝具とも、相性は良かろう?」

 

 ここにきてキャスターも理解する。

 

 とどのつまり、この奸者は表向きのマスターとして、孫を矢面に立たせようというのだ。

 

 キャスターは破顔を通り越し、獰猛とも凶悪ともいえる笑みを湛える。

 

“やはり、この方は私のマスターに相応しい―――!”

 

 老魔術師が妖怪であるなら、キャスターもまたそうであった。その歪みきった在り方は、およそ凶行ともいえる老魔術師の行動にも、愉悦を隠し切れない。

 

「―――はい。あの方ならば、良いモノが出来上がるでしょう。」

 

「呵呵。良い良い、さらに重畳!…では、さっそく取り掛かろうかの。」

 

「御意に。」

 

 

 

「え―――?」

 

 間桐慎二の第一声は、素っ頓狂なものであった。言っている意味が分からない、といった風だ。

 

 ベッドの上から見上げる爺の顔は、にんまりと破顔したままだ。

 

 ―――前回の聖杯戦争で、間桐慎二は聖杯になりかけた。聖杯の少女の心臓を植え付けられ、その身を聖杯に変貌させた。

 

 その時の記憶は依然として残っているのだろう。それは彼のトラウマとなり、一日の大半を自室で過ごすようになっていた。

 

 外に出れば殺される、と思い込んでいる。さながら薬物の末期症状だ。

 

 特に拒絶反応を示すのが魔術に関わること。今や彼は自身の爺に会うのにさえ、動悸を抑えなければならなかった。

 

「此度もマスターとして参戦させてやろう、と言ったのだ。何、案ずることは無い。」

 

「い、―――嫌だ!怖い怖い怖い怖い、ヒィィィッ!」

 

 弾けたように起き上がり、部屋の隅でガタガタと震える。今や恐怖を隠そうともしていなかった。

 

 しかし、それも無理からぬことだろう。何せ、彼はサーヴァントによって殺されかけたのだ。

 

 その傷も癒えないうちに、サーヴァントを押し付けられたら恐怖に打ち震えるのは、きっと彼に限ったことではない。

 

 だが、当然ながらそんなことを斟酌する間桐臓硯ではない。

 

 部屋の隅で歯をカチカチと打ち鳴らして震える孫に歩み寄ると、その素首を掴み上げる。

 

「グッ―――!」

 

 足は地面に付いている。傍から見れば、爺が素行の悪い孫の首根っこを掴み、叱り付けているように見えるかも知れない。

 

 しかし、その締め上げる右手の膂力たるや、まるで万力のようだ。容赦なく指は首に食い込み、血液と酸素の搬送を抑える。

 

 間桐慎二はパクパクと金魚のように、酸素を求める。その顔はみるみる土気色になり、チアノーゼ一歩手前だ。

 

 そしてそれを頃合と見たのか、間桐臓硯の懐から一匹の蟲が飛び出した。

 

 臓硯の腕を這って疾走するそれは、一直線に慎二の口へ飛び込む。それを見計らって臓硯は五指の力を緩めた。

 

 間桐慎二の体は貪欲に酸素を求めて―――その蟲を飲み込んでしまった。

 

「ウグッ――――!」

 

 蟲は瞬く間に胃まで到達する。既に解け始めたそれは、臓硯の忘却魔術を胎に溜め込んだ蟲だ。

 

「暫し眠るが良いわ。7年余りのことを全部忘れさせてやろう。…覚めたら主は、生まれ変わっておるぞ?」

 

 間桐慎二の意識はそこで途切れる。

 

 眠りなどという生易しいものではない。まるでブレイカーを落とされたかのようなものだ。

 

 急に意識を剥奪され、間桐慎二はその場に倒れこむのだった。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 景山悠司は、ついぞ運が無かった。

 

 高校あたりから歯車はズレ始めたように思う。確か、部活を辞めたとき辺りからだろうか。

 

 いや、第一希望の高校に落ち、滑り止めの私立高校に通い始めた辺りからかも知れなかった。

 

 大学受験も悉く失敗し、今は浪人生。――いや、もう進学する気はない。だから浪人生というのは間違いで、フリーターと言うべきだ。

 

 付き合った女も酷かった。散々貢がせておいて、浮気の末の別れ話。こんなものはまだ可愛い。

 

 美人局や、借金の連帯保証人にされたりすることもある。

 

 就職もうまくいかない。フリーターを脱却しようと、何度も面接を受けるが悉く断られる。

 

 だからいつまでも貧乏だった。彼の総資産は、借金でマイナスへと針が触れている。

 

 何故、不幸の星が自分の頭上に位置するようになったのか、分からない。

 

 だからこんな自分がどうしようもなく嫌いだった。

 

 ――――まるで、この世全ての不運を背負っているような気分だ。

 

 そんな自分にもお守りのようなものがある。

 

 まず日本じゃ見かけない、一発の銃弾。尤も、弾頭は既に発射されている。いつも懐に忍ばせているそれは、空の薬莢だ。

 

 何故これがお守りなのか、自分でもよく分からないが―――

 

 多分この銃弾を受けた人はその瞬間、自分よりも不運な末路を遂げたに違いない。

 

 だから、これを持ち歩くと、自分よりも下が存在すると教えてくれるような気がして、何となく気分が朗らかになるのだ。

 

 汗水流して働いているときも、家で休んでいるときも、常に身に付けている。

 

 苦労してその真鍮に穴を穿ち、紐を通してネックレスにしている。それを人に見られないようにしていた。

 

 人に見られたら効果を失う、というのがジンクスのルールだが、実際の問題はそっちではない。

 

 これは景山悠司が偶然拾ったものに過ぎない。確か川辺を散歩している時だったろうか。草むらの中に輝くこれを見つけたのだ。

 

 当然、これが落ちているということは、誰かが撃たれたのだろう。これは殺傷の重要な証拠に違いないと思う。

 

 だから人に見られたら宜しくないな、と思うに至り、秘密の(まじな)いとしていつも首に下げている。

 

 気の持ち方が変わったのか、何となく全てが少しだけ順調に行っている気がしていた。人と比べれば不運だろうが、それを前向きに捉える程度には効果があったといえよう。

 

 そう、この金の真鍮は自分を祝福する輝き―――だと思っていた。

 

 

 

 景山悠司は、盗みを働いている。

 

 堕落に堕落を重ねた末、空き巣にまで身を落としていた。

 

 いくらアルバイトで稼いでも、借金の返済には全く追いつかない。

 

 裕福そうな家から拝借するのが最も効率的だという結論に至り、それに甘んじている。

 

 こういうものは薬物のようなもので、一度味を占めるとなかなか辞められない。

 

 何せ、上手くいけば数分間のうちに大金が転がり込むのだ。その金を借金に当てれば、これ以上生活を切り詰める必要もない。

 

 事実、借金の残額は徐々に減っている。500万はあったろう負債も、今は半分程度だ。

 

 テレビや市井の声は、空き巣に注意しろ、なんて叫んでいる。しかし実際にそれで戸締りを強化する家なんて殆ど存在しないのだ。

 

 精々、出かける前に施錠を確かめる程度だろう。それでは全く意味がない。鍵のシリンダーを最新のものにし、窓にはブザーを取り付けるくらいの心構えでなければ。

 

 そもそも鍵が開いているなんて期待してはいない。自分は運がないのだ。そんな幸運に巡り会えるわけもない。

 

 最も狙い目なのは―――古くて少々ボロの民家か、中の上くらいのアパートだ。

 

 前者は言うまでもないかも知れない。とにかく用心が杜撰だ。経験からすると、門がある家。

 

 内側から閂をかけられるような門だ。閂をかけて安心するのか、勝手口などに鍵をかけていないことが多い。事実、彼の実家もそうだ。

 

 だがあまり品格のある家は別だ。そういった家は大抵なんらかのセキュリティがある。

 

 後者については、オートロックが付いているところが好ましい。一度中に入ってしまうと、住民だと思われ疑われない。

 

 さらに、そういうアパートに住む住民の多くはオートロックで安心する。鍵も最初から備えられているものだし、窓にブザーも付けない。

 

 特にそれは二階より上階に住む者にその傾向が強い。だがそういうアパートの大抵は、上階の侵入など容易い。

 

 脚立を使ってもいい。工事現場風の格好をしていればまず疑われない。偽者のネームプレートでも下げておけば尚更だ。

 

 何か足場があるならそれでも良い。以前で一番楽だったのは、標的の部屋のすぐ隣に、雑居ビルの非常階段があったときだ。非常階段から身を乗り出せばすぐベランダだ。

 

 盗みを働いてくれと言わんばかりだ。

 

 そうやってベランダに進入し、然る後に窓を突き破って盗みを働き、帰るときは堂々と、諸手を振って正面から出るのだ。

 

 ほとんどノーリスクで盗める家は、決して少なくない。

 

 

 

 だからその日も、格好の標的が見つかったので盗みに入るつもりだった。

 

 閑静な住宅街にある、一見の民家。何となく、武家屋敷を連想させる。

 

 少々歴史あるように見えるが、決して品格が漂うものではない。ちゃんと手入れされているようであるから、空き家ということはあるまい。

 

 表札は―――衛宮?

 

 珍しい名前だ。何と読めばいいのだろう。素直にエミヤでいいのだろうか。名前というのは時々予想外の読みをするから厄介である。

 

 夜も深まり、辺りから聞こえるのは虫の声だけだ。人の目もなし。衛宮家も明かりは落ちている。

 

 ぐるりと塀の周囲を見渡す。監視カメラや赤外線センサなどの類も無さそうだ。この家に金品があるかは差し置いて、進入は容易い。

 

 十分な助走をつけて突進し、塀を一度強く蹴って跳躍する。両手はしっかりと塀を掴む。ポケットに忍ばせておいた軍手も着用済みだ。指紋も残るまい。

 

 筋力を頼りに半身を持ち上げ、そのまま塀の上にあがる。

 

 見る限りでは、それなりに良い家だ。本当に武家屋敷かも知れない。土蔵と道場、離れまであるではないか。

 

 庭に降り立つ。幸いにして番犬の類は居ない。

 

 その代わりに、カランカランという音が聞こえた。

 

「っ―――!」

 

 肝が冷える。空き缶でも蹴飛ばしたのだろうか。

 

 出来るだけ暗がりに身を隠す。体制を低くし、息を殺す。

 

 が―――異変はそこまで。家人が騒ぐようなこともない。それなりに大きな音だったが、よほど深く眠っているのだろうか。

 

“―――脅かせやがって”

 

 気を取り直し、あたりを見渡す。家でも良いが、あれだけ広いと金品の保管場所の見当が付き難い。

 

“土蔵が良いかな”

 

 現金は手に入らないが、値打ち物がある可能性もある。第一鍵もかかってないようだ。最初に検めるのに相応しい。仮にガラクタしか無いのであれば、家に侵入すれば良いのだ。

 

 ぎぃ、と古めかしい音を立てる。なるべく音を立てないように、静かに、ゆっくりと開ける。

 

 中は暗闇で、様子は分からない。

 

 景山悠司は背負っていたナップサックから懐中電灯を取り出し、そこを照らす。

 

 最初に目に入ったのは、何だろう。機械の部品のように思える。あとはやたら時代を感じるストーブ。ビデオデッキ。これらの中には埃を被っているものもある。

 

 さらに本の山だ。こちらには誇りから守るためにシートで覆われてあった。しかし値打ちのある本とは思えない。そもそも外国語で書かれていて、彼には読めない。

 

 残念ながら、正真正銘のガラクタである。

 

“はずれか。金庫でもあればラッキーだったんだけどな”

 

 手に抱えた本を山に戻す。そのとき一冊の本が落下したように思えたが、既にこれらの本には興味が無い。彼はそれを無視した。

 

 そして足の踏み場を探そうと電灯の明かりを床に落としたときに、それを見つけた。

 

「――――?」

 

 床に刻み込まれたその紋様は、円の中に二重の六芒星という如何にもオカルトじみたものだ。

 

 それらが誇りを被っているのは、下手人が亡くなったのだろうか。確かに、下手に掃除したら祟られそうで気味が悪い。

 

 その魔方陣の傍に、一冊の本がある。先ほど落下した本だ。何故かこれだけ、外国語の上に日本語で小さく約がつけられている。最初のページにはこう書かれている。

 

「何々?―――“聖杯の降臨とサーヴァントの召喚”?はっ、何だコリャ」

 

 何やらこれは別格だ。他の本にも、ファンタジーらしい挿絵が入ったりしていた。しかしこれは、いかにもという感じだ。

 

 ちゃちなイラストではなく、幾何学的な紋様が刷り込まれてある。

 

 しかも手描きの本だ。大量出版されたものとは違う。

 

 彼は知る由もないが、これは衛宮士郎と遠坂凛が、聖杯再降臨の疑問を解き明かすために引っ張り出した古書だ。注釈と約は凛が士郎も読むために付けたものである。

 

“ここの家人は、どうもオカルトに狂っていたらしいな”

 

 男は本を馬鹿にしながら、パラパラとページを捲る。

 

 ―――思えば、そんなものに興味を持ってしまった時点で運が無かろう。

 

 ふとページを捲る指が止まる。刻まれた魔方陣と同じ紋様の挿絵を見つけたからだ。

 

「サーヴァントの召喚方法ね。だいたいサーヴァントって何?――――えーと、『汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ』?」

 

 完全にジョークでその言葉を紡ぐ。サーヴァントが何者か知らないが、ランプの魔人みたいなものが出てきてくれれば借金も帳消しにしてくれてラッキーだな、程度の遊びだ。

 

「―――ま、そんなうまい話があるわけない、と。」

 

 特段何の変化もない。ランプの魔人はおろか、可愛い女の子が出てくるわけでもない。

 

 本をその場に放り捨て、土蔵から立ち去ろうと背を向ける。

 

 ―――異変はその瞬間だった。

 

 男は背中に圧力を感じてよろける。振り返ると、先ほどまで刻まれただけの紋様が、赤く発光する。先に感じた圧力は、陣から発する暴風だ。

 

 まさか、と思った。本当にランプの魔人でも出てくるのだろうか。

 

 光が収束し、一人の男が現れる。不精髭をたくわえたその男の目は、どこか虚ろなものを感じさせる。

 

 全身は黒い。髪も、目も、その外套も黒い。どこか幽鬼を思わせる。

 

 景山悠司は断じて魔術師などではない。ただ、遠い昔がそういう家系だったにすぎない。

 

 ただ、雨生龍之介がそうだったように、壊れた機械が突然作動を始めるように、魔術回路が突然開かれるという例が存在するのだ。

 

 彼もその稀有な例の一人だった。

 

 故に呼んでしまった。

 

 彼を、この家が持つ縁が、彼が所有する薬莢の縁が―――

 

「……アサシンのサーヴァント。反英雄、エミヤキリツグ。召喚に応じ、参戦した。」

 


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