両者はそれぞれ武器を構えたまま、互いの顔を凝視した。
互いに予感はあった。ここで敵の顔を拝まなければ後悔するような、それでいて見てしまうと大変なことになってしまうような、そんな予感。だからこそ、両者はこの場に留まり続けて戦闘を行なった。
ある意味で、その決着がつかなかったのは幸運であっただろう。もしかすると、親殺しや子殺しという大罪を犯すところだった。
しかし、士郎はともかく切嗣には記憶が無い。目の前の人物を知っているような、失ってはならないような、そんな胡乱な気配があるだけだ。
その気配を押し殺しても良いものか、切嗣は測りかねていた。このまま引き金を引いて敵を殺めるのは容易い。相手がこちらを攻撃する動きがあれば躊躇わずに引き金を引く覚悟はある。だが、こちらから引き金を引くという鋼鉄の決意は揺らいでいた。
切嗣は頭が割れそうな頭痛を堪えながら、眼前の敵に問いかけた。
「君は誰だ。答えろ」
「……何言っているんだ。俺だよ、親父! 士郎だ、衛宮士郎だ!」
「……シロウ? 親父? 君は、僕の子なのか?」
切嗣の頭痛はもはや耐えきれるようなものではなかった。しかし、それででも毅然とした態度を崩さなかった。痛みで溢れる汗を堪え、震える指先を無理やり抑え込む。猛烈な吐き気を飲みこんで、ようやく平静を装っていた。
このときの士郎の心中は推し量るには余りあるものだった。
亡き父親に再会できた喜びもあり、しかし自分を忘れているという悲しみもまたある。それらの感情が胸の奥で渦となり、もはや名状し難いものになってしまっている。士朗もまた、汗と指先の震えを禁じえなかった。しかし士郎もまたそれらを飲みこみ、必至に耐えた。
まだ両者は武器を構えたまま、油断を許さない状況である。この距離ならば、互いに殺傷圏内だ。切嗣は士郎の眼が潰れていたために接近したが、士郎の眼が回復した今となっては互いに必殺の状況となってしまった。
「そうだよ、親父。忘れたのか? 昔――17年前の聖杯戦争のとき、俺を救ってくれたじゃないか」
脳漿が弾けているのではないかと思うほどの頭痛が切嗣を襲う。痛みで気を失いかけたが、どうにか耐えた。
「僕は、君を知らない。――とも言い切れないらしい」
士郎は確信した。錯乱しているのか、魔術的な要因か、原因は不明だが切嗣の記憶は無い。完全に忘却しているとも言えないらしいが、少なくとも自分のことは覚えていないらしい。
だが、記憶を失っていること自体にはさほど驚かなかった。前回のアーチャーとて償還時に記憶を失っていたという。
ならば分かりあえる筈だ。記憶を失っているだけならば、話し合う余地はあるはずだ。
まだ剣を振るには早い。ローランなら、きっとこう言うだろう。切嗣なら、きっと武器を手にとっていただろう。今までの士郎なら――多分、悩みながらも戦う以外の選択肢を知らなかっただろう。
だが士郎は新たな選択肢を知っている。ローランから教わった、一つの選択肢。
他者の正義を認めること。自分の正義を理解してもらうこと。
他でもない、己の敵を理解すること、理解しようと努めること。
「……親父。アンタは俺のことを忘れているみたいだけど、俺は覚えている」
そう言って、士郎は両手の剣を捨てた。士郎の意志によって破棄されたそれは、ガラス細工のように砕け散り、粒子となって消滅した。
「俺は親父と殺し合いたくない。……なあ、親父。ちょっと久しぶりに、月でも見ながら世間話でもしよう」
「……何だって?」
◆◇◆◇◆
切嗣とて、その言質を信じているわけではなかった。
しかし、相手は明らかに敵愾心を失い、武器を放棄している。ここで射殺することは容易いが、果たしてそこまでする意味はあるのか。
いや、意味は当然ある。敵対勢力の一角をここで抹殺すれば、今後有利な展開になることは間違いない。
はっきり言ってしまえば、ここで相手が対話を持ち出す意味がわからない。あるとすれば命乞いの類か。そうならば、話の展開次第では生かしておく意味も出てこよう。士郎がマスターでないにせよ、セイバーの陣営に属していることは切嗣も承知している。ならば人質や、スパイとしての使い道も存在する。ここですぐ殺すには惜しいという判断もできる。
いずれにせよ、この男と対話する意味は少なからずある。切嗣はそう判断した。
士郎はまず、互いに武器を捨てて話し合うことを提案した。切嗣としては承諾しかねる申し出である。当然却下した。
ならばせめて場所を移そうという申し出には、切嗣も同意した。ビルの屋上を消し飛ばすほどの破壊は、間違いなく近隣住民の注目を集めただろう。結果、警察と消防へは既に連絡が行き渡っていると考えるべきだ。その場からの脱出は容易い話だが、カラシニコフだけは英霊の武具として召喚されたものではなく、現世の物品である。よって霊体化してしまうと運び出すことが出来ない。結果として、警察の手に渡ってしまい、しばらくはコンテンダーとナイフのみで戦うことを強いられる。それは避けたかった。
つまり、切嗣としてもこの申し出は利するところがある。
とはいっても、いつでも相手を殺傷せしめることが出来る状況を手放すことは、やはり戦略上頂けない話だった。
よって切嗣は、親指を人差し指に沿うようにぴったりと閉じさせ、結束バンドできつく縛ることを強要した。この拘束を両手の指に行なう。こうすると拘束を解かない限り何かを掴むという動作が満足に行なえない。士郎の攻撃は剣戟によるところが主であるため、剣を掴めないことは、即ちほぼ無力化された状態である筈という判断である。
実際は手を使わずとも士郎は攻撃手段が存在する。投影魔術による剣製は何も手で持って戦うだけではなく、そのまま射出するという用途もあるのだが、切嗣はそれをまだ見ていないため知る由もない。
そして拘束された両手をポケットの中に収めれば、傍目には何の不自然もない。
切嗣はといえば、カラシニコフをその当りに転がっていた旅行用鞄に詰め込み、代わりにコンテンダーを取りだした。それを自らのコートで覆えば、傍目にはコートを脱いで手に持っているようにしか見えない。
このようにして切嗣は、可能な限りこちらが有利な状況を保ちつつ、相手を無力化させる状況を作り出した。相手は両手を満足に使えない上、こちらは単発のコンテンダーとはいえいつでも発砲できる。しかも往来を行き来しても人目につかない工夫も凝らした。
二人は階下へ降りながら、どこへ移動するのかを相談した。結局、切嗣が指定した未遠川の深山町側、冬木大橋付近にある海浜公園へと行くこととなった。もはや夜も深いため、人目も皆無だろう。この場所から近く、うってつけの場所であった。
二人が一階まで降りると、正面玄関は既に人だかりができており、そこから出ていけば注目を浴びることは必至だった。しかし、ある程度の常識はある野次馬ばかりだったのか、ビル内部まで侵入しようという者はおらず、裏口にも人は居なかった。二人は全く人目につくことなくその場を離れることに成功した。
海浜公園までの道中はたがいに緊張が絶えなかった。士郎にとっては背後から常にコンテンダーの銃口に睨まれ、切嗣にとっては得体の知れない敵の監視に油断を許さない状況である。さらに、切嗣の頭痛は治まる気配すらなく、彼を苛み続け、集中力を刈り取っていく。
しかしお互いに何か挙動を起こすこともなく、無人の海浜公園に辿り着くことができた。
海浜公園は静寂そのものだった。ときおり付近の冬木大橋を通った大型トラックの走行音が遠巻きに聞こえるのみである。そよ風が通り過ぎる音すら大きく聞こえるほどの、不気味な静寂がその場を支配していた。
「そこのベンチに腰をおろしてもいいかな、親父」
「……好きにするといい」
「親父も座れよ」
「僕はいい」
士郎は、「そうか」と言いながら未遠川に向かって腰をおろした。対岸の新都、そのネオンの明るみの遥か上空に明るい月が漂っていた。
士郎が、「いい月だな」と呟いたが、切嗣はそれに答えなかった。それでも構わずに士郎は言葉を続けた。
「あのときもさ、こんな月だった気がするな」
「……何のことだ」
「覚えてないかな。俺が……正義の味方になるって言った日さ」
切嗣は今までで最高潮の頭痛に襲われた。それはもはや痛みという認識を超え、意識が白く霞む感覚に陥った。しかしすんでのところで耐える。
「正、義」
「ああ、正義さ。覚えてないみたいだし、わざわざ言ったこともなかったけどな……俺、親父のようになりたかったんだ」
やめろ、と切嗣はか細く言ったが、その声は士郎の耳に入らなかった。切嗣は痛みのあまり多量の脂汗を流し、肩を痙攣させている。
「でもさ、最近ちょっとわからなくなってきたんだ。正義ってなんだろう、俺が目指すべき姿、目指したいと思った姿は何だろうと思うと、わからなくなる」
「そんな話はどうでもいい。用件はなんだッ」
切嗣は声を荒げた。彼は今、普段の冷静を欠いていた。
「用件なんかないよ。親父と話がしたいって思っただけだ」
「……ふざけているのか」
「ふざけてなんかないさ」
士朗は月を眺めたまま、背後には一瞥もくれなかった。
切嗣はまだ銃をつきつけたままである。だが士朗は、切嗣は決して撃たないと確信していた。少なくとも、自分が大人しくしている間は手を出さない。先程まで殺しあっていたにも関わらず、理由もなしにそう思った。久しく忘れていたが、これが親子というものかも知れない。
「なあ、一度ちゃんと話し合いたかったんだ。俺が正義の味方を志したときには、親父はもう居なかったじゃないか。だからさ、こんな機会は二度とないだろうし」
言うまでもなく、切嗣は既にこの世に居ない人間である。こうして話ができるのが一種の軌跡であるのは間違いないことだ。
澪に頼めば、会話すること自体は難しい話ではないのだが、それは完全に「本人」ではない。父親が自分を忘れているとしても、こうやって父親の温度を感じながら会話できるというのは、やはり例えようもなく嬉しいことなのだ。
「なあ親父、親父にとっての正義ってなんだ?」
切嗣の表情には、苦痛の上に怪訝な色が浮かんでいた。
切嗣はこの問いを無視する選択肢がある。しかし、切嗣はこの問いを無視してはならない気がした。理由は定かではない。だが、何かに後押しされるように口を開いた。
「……僕は、たとえ僕がこの世全ての悪を担うことになっても、この世界を変えてみせる。この戦いで、僕はこの世から流血をなくしてみせる」
「……大多数を救うため、少数を切り捨てて?」
「そうだ。より多くを救うためには、自らが手を汚して泥をかぶり、少数を見すてなければならないんだ」
理想が大きければ大きいほど、現実との軋轢は大きくなる。その軋轢の末に導きだした答えが、切嗣の信条である。
より多くのものを救い続け、より少ないものを殺め続けた。この世から争いを無くすために、戦場へ赴きそれを収めた。戦いを未然に防ぐために、戦いの目があればそれを摘み取った。
この世から流血を無くすために流血を許容する。その矛盾の果てに理想が成ると信じ続け、それを実行し続けた。
士朗もそうである。少なくとも、英雄エミヤシロウとしての過去はそうであった。
しかし、士朗は知っている。その果ての姿を。果てに成った結果を悔いた者の姿は、今は既に遠い過去のものだ。しかし、鮮明に覚えている。
その男の後ろ姿に、後悔なんかしないと誓った。
その誓いは果たして守られているのか、それは分からない。
正義とは何か。悪を滅ぼすことか。それとも弱きを助けることか。はたまた、全く別の何かなのだろうか。
それを違えてはならないと、士朗は知っている。もう一人、正義に溺れて悔いた男の姿を知っているから。
私の正義の果てに、何も無かったと、その男は言った。
敵対したものを悪と断じ、正義の名の下に斬り殺した。正義を騙って虐殺を是とした。悪を全て斬り殺せば、この世は平和と神の慈愛で溢れると信じてそれを続けた。しかし、その果てにはただ虚無しかなかった。
他者に自らの正義を押し付け、顧みようともしないことも、また悪である。
自分はどうであったか。これからどうしたらいいのか、まだ分からない。
だが、士朗は心のどこかで思っていたのだ。自分の唯一の原動力。その源となった男と語らうことが叶えば、きっと答えは得られる。
だからこそ、士朗は切嗣に問いかけた。
「みんなを救う選択肢は存在しなかったのか」
「……場合によってはあっただろう。だが殆どの場合、誰かの犠牲が無ければもっと大勢が死んでしまう状況だった」
「……そうだよな。俺もそうしてきたし、そうするしかなかったと思っている」
やや間があって、士朗は言葉をつづけた。
「でもさ、それって結局、自分の正義を他者に押し付けているに過ぎないんだよ。しかも命っていう唯一無二の犠牲を強いる形で」
「仕方のないことだ」
「そう、仕方のないこと。だけど、見捨てられた人はどう思うのだろう。彼らも仕方ないと思うのか? 見捨てなければならなかった人たちは、本当に見捨てないとどうしようもなかったのか? 除かねばならなかった悪は、どうしても殺さなければならなかったのか?」
切嗣は答えない。長い沈黙が流れた。
切嗣の頭痛は、常人ならば既に卒倒しているほどまで悪化している。しかしこうして会話が出来ているのは、偏に切嗣が痛覚を魔術によって操作していることと、意志の力であった。ここでは倒れてはいけない。敵前だから、ではない。いかなる理由があってもこの会話を絶ってはいけない。
理由のわからぬ脅迫概念が、いま切嗣を支える唯一のものである。
「……わからない。ただ、それを貫けば理想は成ると信じて、ひたすらに戦った」
「親父、俺の友人は言ったよ。その果てには、何もない。残ったのはひたすら空虚な後悔のみ。……親父も、そうだったんじゃないか?」
痛い。頭が痛い。痛覚は遮断したはずなのに、抑えきれない激痛。
万力で頭を締め上げられているかのような痛みだ。もう、いつ倒れてもおかしくない。しかし切嗣は倒れまいと、脂汗を流しながら耐えた。
「わからない。何も覚えていない。しかし……何故か否定できない。その通りだったと思う。――君の言うように、君と僕は対話が必要だ」
ややあってから、切嗣は言葉をつづけた。
「では聞きたい。君の言う正義とは何だ? 正義のあるべき姿とは何だ?」
「うーん……実はさ、俺もまだよく分からないんだよね。少なくとも、『普遍的かつ不変的な正義』は存在しないんじゃないかな。時代も変われば、正義も変わる」
「では、今あるべき正義って何だ?」
「だからよく分からないんだって。だからこそ親父に相談しているんだよ。なあ、親父も一緒に考えてくれよ」
少し考えてから、士朗はつぶやくように続けた。
「……さっきの友人がさ、こうも言ったんだ。『正義を称して剣を掲げるな』ってさ。正義の名の下に行なう殺戮を許してはいけないって、そう言ったんだ」
「……だったら僕は、きっと落第だな。正義を成すために、理想をこの世にもたらすために、数えきれない程の人を殺した」
「俺だって落第だよ。でもさ、やっぱりおかしいって思ったんだ。誰かの血の上に成り立った平和って、本当に平和な世の中なのだろうか? 暴力によって実現された世界は、結局は暴力を許容するんじゃないか?」
「しかし、犠牲なしに革命は成しえない」
「そうかも知れない。だけど無血革命を目指すことだって可能だ」
「それでも……僕はこの方法しか知らない。もう後には引けない。僕が今まで殺め、背負ってきた命のためにも」
「本当にそれで良いのか、衛宮切嗣!」
そこで切嗣の体力は限界を迎えた。切嗣の視界は白い靄でじょじょに覆い尽くされ、足元に力が入らなくなった。直立することができず、その場に倒れこむ。
士朗は背中ごしに人が倒れる音を聞いて、父親の名を叫びながら駆け寄った。見ると既に顔面蒼白で、夥しい量の汗が流れていた。だが、意識はまだ保っているようだった。意識があるならば、まだ危険な状態というほどでもない。安堵のため息をもらす。
そのとき、暗闇から不意に乾いた拍手の音が聞こえた。一人ぶんの拍手と、歩み寄る足音。その姿は闇に紛れてしまい、その正体は知れない。
その暗闇の中から、一人の男の声が投げかけられた。
「正義とは難しいわ。ある人から見れば正義でも、別の人から見れば悪になる場合もある。……でも、だからこそ話し合う必要があるのよ。我々は敵と語らう必要がある」
聞き覚えのある声だった。少なくとも最近に聞いた声のはずだった。
暗闇から街灯の明かりの下まで足音は移動して、その正体が映し出される。その男は黒いカソックを身に纏っていて、その挙措と体躯からは鍛え上げられた肉体を思わせた。
顔にも見覚えがあった。その男は冬原春巳。第6回聖杯戦争の監督役代行にして、鉄拳の代行者。
「しかし、もはや語り合う時間は残されていない。結論を先延ばしに出来る時期は、もう過ぎたの。アサシンのサーヴァント、私の言葉は聞こえていますか」
切嗣は答えられなかったが、目線だけはそちらに向けた。
「よろしい。私は代行者、冬原春巳。第6回聖杯戦争の監督役の補佐でしたが、監督役の死亡により私が代行を務めております。
本日は、聖杯戦争の終結を連絡しに来ました」
その言葉と、次に綴られた言葉は士朗に強い衝撃を与えるものだった。
「第6回聖杯戦争の監督役代行として宣言します。今回の戦いは、アサシンの勝利としてここに終結を宣言します」
短くてすみません。
リアルでの忙しさが半端なくて、遅くなった割には大した量が書けなかったです。今後も文字数は一定しないと思いますので、ご了承ください。
とにかく投稿することを優先したいと思います。
さて、この続き(というかセイバーがどうなったのか)は皆さん気になるところでしょうし、1~2週間の間に投稿したいと思います。ですがリアル事情により遅れることもありますので、悪しからず。