Fate/Next   作:真澄 十

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Act.46 彼女はもはやどこにも居ない

 私の意識は、もはや自覚できないほどの速度で混濁していった。

 名前も既にわからない。己の性別すらもう分からない。

 私は何者なのか。何者だったのか。

 私は誰だろう? 私の肩を揺らすこの人は誰だろう?

 分からない。もう何も分からない。私の中には私ではない何かがいて、それと混じり合い、打ち消し合い、そして最後に原型を失う。

 私の中に在った私は、私ではない何かによって削られ、残ったものは私だった何か。もう私は私ではない。もう二度と私に戻ることはない。

 

 誰か大切な人が居た気がする。失いたくない誰かが居た気がする。

 でも、それが誰か分からない。顔も名前も思い出せない。

 何もかもが飽和した海に沈んだが、最後に一つだけ、人間としての感情が残った。

 それは、こうなる直前に強く思ったこと。私が強く願ったこと。

 

 ――目の前の敵を倒さなければならない。

 

 何のためにそうする必要があるのか分からない。誰のためにそうするのかわからない。誰が敵なのかも、もう分からない。

 でも、自分とは明らかに違う者が敵だったことは覚えている。人間を超えた何かが敵だったことは覚えている。

 それが敵ならば、それを除かねばならない。倒さなければならない。

 私は、私ではなくなった私に問いかける。どうやって倒すのか。私は答える。方法はいくらでもある。私は既に個ではなく群としての私。問われれば、剣でも銃でも、徒手空拳だろうと敵を倒す手段を答えよう。

 敵が切りつけてきたときの対処、敵を欺く方法、人体の急所とそれを破壊する方法。目的は既に胡乱だが、手段だけは無限に存在していた。

 

 あらゆる手段を用いて、私は人外を殺さねばならない。人の形をした人外を倒さねばならない。

 右手には剣。どういう経緯で手に入れたかもはや知れぬ、黄金に輝く美しい剣。私にはもう、美しいと感じる感性は残っていないけれど、私の中の誰かがこれは美しいものだと教える。

 

 男が来た。もう誰か覚えていない。必死に記憶の残骸を漁ろうとしたけれど、どんなに探しても残骸そのものが残っていなかった。

 私の中の何かが伝える。これは人ではない。人の体をした人ならざるモノ。

 ならば、――私のすべきことは決まっているのだろう。

 

 ◆◇◆◇◆

 

 凛が彼女の異変に気付くまで、そう多くの時間は必要なかった。

 バーサーカーが消えてもなお、澪はその場に座り込んだまま動こうとしない。それどころか、次第に全身が脱力し、弛緩していく様が見てとれた。

 近づいて顔を覗き込むと、明らかに顔から表情らしいものが抜け落ちており、目も焦点が合っていない。しかしその口からは、聞き取れないほど小さく何かを呟いているのはわかった。

 

「澪……?」

 

 彼女は答えない。こちらに対する反応は何もなかった。軽く頬を叩くが、それでも反応は無い。今の彼女は、ただ生きているだけの存在だった。もう自我や魂といったものは存在しないも同然だった。

 

 理由ははっきりしている。

 自我と他者の境界が消滅してしまい、それらが一つに混ざってしまったのだ。澪の魔術は他者の精神に直接触れる。他者の精神を自分の精神で再現することで、澪はその他者が生前持っていた技術や知識を行使できるのである。

 そして、それゆえに弱点も明確だった。

 他者を己の中に投影し続ければ、自我が確立できなくなるのは当然のことだ。自己の意識とは、自分が自分であるからこそ確固たるものになる。その基盤を揺るがすほど、澪の魔術は危うく、それ故に強力なものなのだ。

 名画の上にさらに絵具を塗りたくるような所業。後から上書した絵画がいかに名作であったとしても、塗りつぶされた絵画は完全に復元できない。

 

 凛は何度も叫んだ。彼女の精神は完全に消滅したわけではない。ただ、他のものと混じってしまっただけである。

 それならば、なんらかの原因で澪が自己を取り戻す可能性はある。それを信じて何度も語りかけ、肩を揺らした。

 しかし澪は何もない虚空を見つめたまま、何も反応を示さなかった。

 

 十分間ほど凛は必至に語りかけたが、おもむろにそれを止めた。もはや無駄であると悟ったのだ。

 今の澪はよほどのことが無い限り、外界からの刺激に反応を示すまい。それが何なのかは分からない。セイバーなら何らかの反応があるかも知れない。でも、仮に反応があったとしても、それは以前の澪ではないだろう。

 見捨てるつもりはない。しかし、どうすれば良いというのか。

 精神を操作する魔術の類ならばあるいは澪は治せるのか。しかし、多群に溶けた個体を見つけ出し、それを復元することなど果たして可能か。例えるなら、樽に詰まったワインの中にコップ一杯の水を落とし、それらが混ざり合った後にコップの中にあった水だけを抜き出せと言っているようなものだ。事実上、不可能である。

 

 だから、彼女自身の力で戻ってくることに期待するしかないのだ。彼女自身が精神を操作する魔術の使い手である。混ざり合ったワインの中から、コップの中の水を見つけ出せるとしたら、それは水自身にしかできないことだ。

 

 凛は、澪をそっと肩に背負う。全身が弛緩した人体は思いのほか重かった。凛の背中越しに伝わる、死体のようになってしまった澪の体温が、凛にとってはかえって悲しかった。しかし、不思議と手に持っていたカリバーンだけは手放そうとしなかった。これを吉兆とみるべきか凶兆とみるべきかは分からなかった。

 凛は、このまま柳洞寺を目指すことにした。凛の見立てでは、もう聖杯戦争も終盤とみて間違いない。凛が脱落を確認しているサーヴァントはアーチャーとキャスターのみ。一概には言えないが、自分たちの知らない所で戦闘は行なわれているのだから、この倍は脱落しているとみていい。もちろん一概には言えないが、一定の目安にはなる。ならば、セイバーを除く六組のうち四組が既に脱落したとみて良いだろう。そして今夜現れたのはライダーとアサシン。残っているのはこの二組だとすると、計算はぴったり合う。

 セイバーとライダーは交戦中。澪の手にはまだ令呪があることを考えれば、ライダーが脱落したかも知れない。そしてアサシンと士郎も交戦中。こちらの経過は分からない。残るランサー、アーチャー、バーサーカー、キャスターが脱落。

 

 この状況を考えれば、もう次の瞬間にも勝者が確定してもおかしくはない。士郎がアサシンを運よく倒し、そしてセイバーがライダーを倒せば勝者は確定する。

 ならば柳洞寺に行かねばならない。聖杯を降臨させる場所は柳洞寺に限らないが、この場所から一番近いのがそこだ。

 

 聖杯本体の所在は知れないが、柳洞寺を押さえておくことに意味はあるはずだ。そう当りを付けて、凛は移動を始めた。

 さほど距離のある道程ではないのだが、バーサーカーと戦った傷と疲労、そして背負う澪の重さも手伝い、山道に出る頃には凛は汗と泥にまみれていた。

 いったん澪を下ろし、小休止を挟む。纏わりつくような熱帯夜の空気を吸い込み、呼吸を整えた。

 そうやって体を休め、呼吸が静まり汗も引いたころ、山道の入り口側からよく知った気配を感じた。サーヴァントの気配はわかりやすい。これはセイバーのものだった。

 

「セイバー、無事だったのね」

「ああ、ライダーを倒してきた。……殺さねばならかった。彼は、最後まで優れた武人であった」

 

 思えば、セイバーは敵のサーヴァントを倒したことがなかった。これが初めてだ。

 それはセイバーが無能であるとか、弱小であるという意味では断じてない。それは凛が知っている。純粋な戦闘能力ならば、かのアーサー王にだって引けを取らないだろう。何故なら彼はパラディン・ローラン。無敵と名高い騎士である。

 ならば何故、聖杯戦争において敵を倒したことが無いのかというと、それはきっとセイバーの内面の問題なのだろう。

 彼が過去に後悔していることは凛とて知っている。きっと、あのレコンキスタの忌まわしい記憶が彼を未だしばっているのだろう。和解の道が見える相手ならば、セイバーはきっと敵を殺したくはないのだ。キャスターのように、明確で分かりやすい悪ばかりが敵ではない。話し合えば理解しあえる相手も居た筈だ。そう考えると、セイバーは相手を殺すことを戸惑ってしまう。無論、相手は既に死んだ英雄なのだから気にすること自体がおかしな話ではあるし、サーヴァントとして主人を守らなければならないという義務からも反する。

 セイバーの正義は矛盾だらけである。敵を殺したくないと思いつつ、そうするしかないと分かっている。その矛盾との軋轢の果てに、今のセイバーがあるのだ。

 そしてそれ故に、セイバーは今の今まで、サーヴァントに剣を向けることはあっても殺したことが無かったのだ。

 

「そんなことより、ミオの様子はどうだ。何やらマスターの異変を感じ取ったので、ここまで駆け抜けてきたのだ。……見たところ、いたく憔悴しているようだが」

「……セイバー、落ち着いて聞いて。もう澪は、澪ではないの。澪はその他大勢の海に呑まれて、混濁してしまった」

 

 その言葉だけで、セイバーは事の顛末を知った。

 澪が同一化魔術を行使し、そして澪という精神が消えてしまった。それはつまり廃人と化してしまったことに他ならない。

 セイバーの眼には涙が溜まり、そして本人にも知れないうちに流れ落ちた。その場に崩れ落ち、強く石畳を殴る。石畳は砕けたが、セイバーの手もまた傷ついたのだろう。籠手の隙間から赤い血が流れていた。

 

「……ごめんなさい。私がついていながら、止められなかった」

「リン……私は貴方を責めないし、そのつもりもない。私が許せないのは、私自身だ! 私はミオを守ると誓った! 友として、主人として、そして――愛した女性として! しかし、またしても私は何も守れなかった……。何が騎士だ、何がサーヴァントだ! 私はこんなにも無力だ……。またしても、友を殺し、私だけが生き残った!」

 

 セイバーは再び手を打ちおろした。最初の一撃に比べると、非力ともとれる弱々しさであった。そして打ちおろした両手を天に掲げ、嗚咽を漏らしながら叫んだ。

 

「神よ! 私は過去に大罪を犯した。貴方の名を借り、正義という欺瞞の剣を掲げ、殺戮を行なった! その罪は消えないものと知っているが、ミオに何の罪があったというのか!」

 

 澪がこのようになってしまったのは、自業自得であると断じることも出来る。同一化魔術など二度と使わなければよかったのだと、第三者は言うかもしれない。しかし、状況がそれを許さなかった。バーサーカーと邂逅してしまった時点で、この顛末は確定していたのだ。

 それを使えば、自分は自分ではなくなると知りつつも、自身が消滅する恐怖を飲みこみながら、澪は同一化魔術を使った。結果、澪も凛も生還できた。

 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある。しかし、浮かんだ瀬に待つのが自己の破滅では、結局のところ溺死したのと変わらない。

 

 セイバーは横たわる澪のそばでまで歩み寄り、顔を覗き込んだ。流した涙が零れ落ち、澪の頬へ落ちた。

 

「ミオ、私が分かるか!? 頼む、答えてくれ。戻ってきてくれ……」

 

 澪は答えない。沈黙を守ったままだった。

 しかし唐突に、その両目がセイバーを捉える。まるで爬虫類のように眼球だけをぎょろりと動かし、その双眸でセイバーを見つめる。そこにおよそ感情らしいものはない。まるで人感センサーのついたカメラを思わせる、機械的で無機質な視線だった。

 

「……ミオ……?」

 

 セイバーは、澪が反応を示したことに喜べばいいのか、明らかに異様な空気を放つその瞳に戸惑えばいいのか分からなかった。

 逡巡していると、おもむろに彼女は起き上がる。その間も視線はセイバーから離れることなく、不気味な眼光を放ち続けた。

 手には、ぎらりと光る黄金の剣。その剣を澪は握り直し、静かに呟いた。

 

「倒さなくてはならない」

 

 セイバーはこの状況がよく理解できなかった。いや、本当は理解しているのだ。しかし、それを頑なに拒否した。それを信じたくはなかった。

 彼女が剣を握り、自分に敵意を向けるなど、決してこの現実を許容できない。私を愛していると言ったではないか。私も彼女を愛している。なのに、殺し合うなど出来る筈がない。それを想像するだけで恐ろしい。

 

「敵を倒さなければならない。サーヴァントを倒さなければならない」

 

 やめろ。やめてくれ。

 セイバーは叫んだが、澪の耳には届かなかった。

 次の刹那に放たれた一撃は、セイバーにとっては驚天動地の剣戟だった。澪は剣など持ったことはない。いくら同一化魔術を使うと言っても、それを再現する筋力と体力がないため、戦闘に限れば完全な再現は不可能である筈だ。

 しかし、この一撃は今まで澪が見せた全てと比較しても群を抜いた鋭さだった。セイバーは不意を突かれたこともあって完全には避けきれず、喉を狙った一撃は薄皮一枚を削いだ。

 

 仕方なく、セイバーもまた武装を顕現させる。無論、澪を傷つけるつもりなどないが、応戦はしなければならない。うまい具合に気絶させるしかセイバーに取れる策はなかった。

 続いて放たれる一撃、さらにもう一撃。それらをセイバーは捌くが、その鋭さと的確さはサーヴァントの足元に触れる程度には必殺の威力を持っていた。

 言うなれば、澪の体格と筋力に適した剣技。非力な少女が振るうにふさわしい剣技だった。剣の鋭さに頼み、決して力技に走らず、刺突を主とし、速さに重きを置いた剣技だった。

 少なくとも、セイバーはこのような剣技は知らなかった。レイピアでの戦闘方法とも違う。もっと踏み込みは浅い。まるで踊るような足取りだ。かといって、セイバーの持つような長剣での戦いとも違う。相手を斬り伏せようという気概がまるでない。

 あくまで合理的。一切の無駄を省いた、彼女のための剣技。そういう意味では、士郎の戦い方に似ていた。

 

 セイバーにはすぐに分かった。今、澪は多くの人間の精神と同化している。それらのものが持っていた剣の技を、ひたすらに抜粋しているのだ。自分に合うであろうものを取捨選択し、組み合わせ、独特な剣技を完成させている。

 単一の人物のトレースではなく、複数の人物をトレースしその中から取捨選択をするという所業は、少なくとも通常時に澪には不可能である。既に精神の海に自己を埋没させてしまっているからこそ成し得る、奇跡のような剣技だった。

 

「倒れろ。倒れろ。倒れろ」

 

 叫ぶでもなく、澪は静かに呪詛を吐き出し続ける。一撃ごとに、愛したはずのセイバーに呪いを浴びせる。

 セイバーはその声を聞き、悲痛な色を顔に浮かべた。溢れる涙を堪えようともしなかった。

 眼前は涙で霞み、澪の挙措もまともに分からなくなってくる。しかしそれでも、セイバーは澪の剣を捌き続けた。澪の剣は驚異的な技巧を誇っていたが、サーヴァントを打倒するにはやや力不足である。ここが柳洞寺とはいえ、山道には結界が存在しない。結界の中に飛び込んだバーサーカーならともかく、セイバーはこの程度の剣で倒せるほど軟弱な英霊ではない。

 

 澪もそれを理解したのだろうか。おもむろに動きを止めた。そして、何やら虚空に向かって何やら呟く。その声はか細く、誰も聞き取れなかった。

 そして、手の甲に視線を下ろした。それは令呪のある側の手。まるで、――令呪の残りを確認したかのような仕草だった。

 

 セイバーはそれを察した。澪はまだ一回しか令呪を使用していない。つまり、後二回の使用権利を有している。

 それをする前に気絶させようと、セイバーは全速力で駆け寄ったが、澪のほうが圧倒的に早かった。

 

「“自害しろ”」

 

 セイバーはそれ以上駆け寄ることが出来なかった。セイバーの右手は何か強い力に後押しされて、自らの喉元に向かって剣を唸らせる。しかし、その切っ先が喉に触れた瞬間、それ以上剣が喉を悔い破ることはなかった。

 だが、さすがの対魔力を誇るセイバーのクラスである。令呪ですら、彼を完全に縛ることは出来なかった。

 

 これが前触れもなく放たれた令呪であれば、耐える間すら無く喉を突いていただろう。しかし、彼女が令呪を確認したおかげでそれは免れた。きっと、残りの回数の記憶が消滅していたのだろう。それに救われた。

 

 しかし、これ以上は微動だに出来なかった。令呪に逆らうだけでも相当な負担である。令呪に抗う反動か、セイバーの全身から青白い火花が発せられる。令呪の力とセイバーの抵抗は拮抗しており、セイバーはそのまま制止したまま動けない。

 もはや、これまでだった。

 

 これは拙いと飛び込んだ凛の両腕をするりと避け、澪はセイバーに剣を突きたてた。まるで、セイバーの腕の中に飛び込むようで、それでいて悪意に満ちた抱擁だった。

 剣はセイバーの心臓付近を貫通し、背中まで突き抜けた。澪の刺突は正確に心臓を狙っていたが、どうにか回避しようとセイバーが動いた結果、即死は免れた。しかし、即死していないというだけで、これはもう誰が見ても致命傷だった。

 澪は、カリバーンをセイバーから乱雑に抜いた。その瞬間、セイバーの傷口から夥しい量の血が流れる。心臓付近の動脈を断たれたのだろう。傷口から噴水のように血が流れ落ちた。

こうなると、もはや仮に令呪の力を行使してもセイバーが助からないのは明らかである。死の運命を覆すほどの奇跡――それこそ、『神の血を受けし聖槍(ロンギヌス)』の力でもない限り、セイバーは助からない。

 

 確定した死の運命からか、セイバーにかかっていた令呪の効力が突如消えた。それに合わせ、澪もそれ以上の攻撃は加えなかった。確実に死ぬものに、わざわざ止めを刺す意味は無い。少なくとも、今も澪にとっては無意味な行動だった。

 

 澪の眼は再び虚空を見つめ、崩れるようにその場に座り込んだ。それとほぼ同時に、セイバーもまたその場に崩れ落ちた。

 

「セイバーッ!」

 

 凛はセイバーに駆け寄り、その傷口を確認した。傷口は思わず目を背けたくなるほど大きく、グロテスクなものであった。

 凛は急いで宝石を取り出し、傷口を癒そうとする。しかし、手持ちの宝石では傷口だけを塞ぐのが限界だった。断たれた動脈を復元することはどうしても出来ない。それでも必至に治療しようとする凛の手を、セイバーはそっと握った。

 

「良い……もう良い、十分だ。私はここに捨て置け。もはや助からないのは、リンもわかっているだろう」

「それでも、見捨てるなんて出来るわけないでしょう!」

「……それでも、見捨てろ。私のことより澪を頼む。私のそばに置いておくと、いつまた豹変するか分からん。次は貴方まで傷つけるかも知れん。私は、そんなミオを見たくない。早く、彼女を連れて行ってくれ」

 

 そこまで言ったところで、今度は喀血した。瀟洒な鎧が自らの血で汚れる。

 凛は、握られた手を強く握り返した。

 

「ライダーも、この私も斃れ、残ったのはアサシンのみ。これで、この血で塗れた戦争も終わりだろう。……私がいなくとも、最悪の事態だけは回避してくれ。聖杯を使わせてはならない」

「分かったわ……。分かった、貴方の犠牲は決して無駄にしない。でもまだ死んだら駄目よ、最後まで諦めず、生き抜いて。もし澪が戻ってきたら、令呪の力でなんとかできるかもしれない」

「……そうだな。なあに、私は無敵のローランだ。血さえ止まったのなら、この程度の傷で……そう簡単には死なない。……ああ、そうだ。私の懐の中に、ライダーが持っていた聖杯がある。これを持っている限り、儀式は完了しない筈だ。……では、後は頼んだぞ」

 

 そこまで言うと、セイバーは静かに両目を閉じた。

 凛はセイバーの手をそっと胸に置いた。そして座り込む澪にビンタの一撃をくれた後、彼女を再び背負いこみ、柳洞寺の境内を目指して歩き始めた。

 

◆◇◆◇◆

 

「これが、事の顛末よ。セイバーはまだ完全に絶命した訳ではないけれど、それも時間の問題。我々には時間が無いの。アサシンには、さっそく儀式の準備に取り掛かってもらいます」

「セイバーを、澪が殺しただって……?」

「そうよ。紛れもない事実。これは各所に散開させている私の部下が伝えてくれた事実。柳洞寺には常に数人の監視の目があるの。あそこで起こったことは筒抜けよ」

 

 冬原は切嗣に歩み寄り、うやうやしく礼をした。

 

「第六回聖杯戦争の勝者、アサシン。さしあたって、柳洞寺に向かいます。そこに聖杯があるので、それを奪還した後、直ちに儀式に」

「……わかった」

「親父! 聖杯を使ってはいけない!」

 

 士郎の言葉に弾かれたように、冬原は士郎を睨んだ。その眼光の鋭さは一種の殺意すら孕んでいた。

 

「黙りなさい。聖杯は使われなくてはならない。言ったでしょう? 結論を先延ばしにできる時期は、もうとうに過ぎたの」

「どういうことだ?」

「答える義理はない。大した理由でもないけれど、それを知ったところで貴方にはどうすることもできない。……ここで私を止めてみる? 指を縛られたその状態で?」

 

 士郎の指は、まだ結束バンドで縛られたままだった。

 しかし、この程度の拘束ならば、士郎にとって解けない戒めではない。そもそも、手など使えなくても十分に戦える。

 

投影(トレース)……」

 

 冬原から発せられる、鋭く息を吐く音。引き絞った矢のような速度に乗せられた、鉄槌のような拳。

 これら全て、以前に教会で見せた時のそれを凌駕して余りあるものだった。

 士郎は彼の実力を見誤っていた。彼の速度と拳の威力を見誤った。ゆえに、彼の鉄拳をまともに腹で受けてしまう。

 士郎の口から苦悶の声が出る。内蔵が破裂したのではないかというほどの威力だった。あまりの苦痛に腰を折ったところを、針の穴に通すよりも正確で、剣のように鋭いアッパーカットが士郎の顎を捉えた。

 

 士郎の意識は、一瞬で彼方に追いやられた。一切の抵抗を許さない、ある意味で芸術的なコンビネーションとフットワークだった。

 

「能ある鷹は爪を隠すって言うでしょう。あの時の私が全力だと思って? 私は代行者。吸血鬼すら縊り殺してみせる」

「……恐ろしいな」

「アサシン、貴方がこちらの意図に反しない限り、私は貴方に危害を加えるつもりはありません。さて、さっそく移動しましょうか」

 

 二人は士郎をその場に放置したまま、柳洞寺に向けて歩みを進めた。勝ち残ったアサシンの歩みを止めるものは、もはや存在する筈もなかった。

 もしそれを止めるものが居たとすれば、それは目を覚ました士郎と凛以外に居ないだろう。いや――あるいは澪もその可能性があるかもしれない。少なくともセイバーは、眠りながらそれを強く願い続けていた。

 




 久しぶりに1週間での更新。
 怒涛の展開……に書けていたらいいなあ。書いていて結構楽しかったです。

 次は少し遅れるかも知れません。2週間~3週間以内に投稿できたらと思います!

 twitter:mugennkai

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