Fate/Next   作:真澄 十

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Act.6 逃走劇

 冬木に降りる聖杯。しかし、これは神の血を受けた杯とは別物だ。

 

 聖杯の名を冠した魔術的な儀式装置。これが冬木の聖杯の正体である。第726聖杯であるこれは、本物の聖杯とは似ても似つかない。

 

 ただ、聖杯らしきもの、というだけである。

 

 本物の聖杯は、一級の聖遺物。

 

 では、それに類するものには何があるだろうか。

 

 聖十字架。聖釘。聖骸布が挙げられるだろう。いずれも神の血を受け、奇蹟の存在となったものばかりだ。

 

 神を磔にした十字架。神を穿った聖釘。神の骸を包んだ聖骸布。どれも一級の聖遺物である。

 

そして、この一大宗教に明るい人ならば、これも挙げるだろう。敬虔な信者でなくとも、この名前を知っている者は多いはずだ。

 

 聖槍。

 

 それは、かつて神の子が受難の末に死亡した際に、その死亡を確認するために彼の脇腹を刺した槍だ。

 

 神の血を受けたそれは、聖杯に並ぶ一級の聖遺物である。

 

 その槍は神の子を象徴する遺物の一つであるが、もとはある百卒長の得物であった。

 

 百の兵卒を束ねた彼だが、詳細はどの書にも記されてはいない。後に聖者と呼ばれるが、聖者である前の彼は誰も知らないのだ。

 

 ただ、文献にはこのように記されるのみである。

 

 白内障の百卒長は、神の子の死亡を確かめるためにそのわき腹を突いた。その時に血を目に受けると、たちまち彼の目には光が灯った…。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「魔術師殿、宝具を使用しても宜しいか?」

 

“―――許す!早く使え!”

 

 ランサーの問いに、すぐさまスカリエッティが返す。その声は焦燥が極まったときのそれだ。

 

 ランサーはゆっくりと槍を構えなおす。弱弱しく槍を握るだけであったその手には、再び力が込められる。

 

 だが、アーチャーは胡乱な表情を返す。

 

 どう考えてもランサーは戦闘を続行できない。既にその存在は希薄になりかかり、足元は光の粒子となって消失しかかっている。

 

 そして、ランサーのその構えをみて、アーチャーの胡乱な表情は困惑を孕む。

 

 その構えは独特を通りすぎたものだ。

 

 高く掲げた槍の穂先は、ランサーを向いている。石突は天を向き、穂先は彼の喉を向いている。

 

 そしてその顔は天を仰ぎ、星空を透かして何かを見ているようだ。

 

 それは、自害のときのそれではないのか。

 

 しかしそれは妙だ。ランサーは宝具を使用するつもりなのだ。自害であるわけがない。

 

「…アーチャーよ、…貴殿も円卓の一人であるなら……この槍を目に焼き付けるがいい。あ、あなた方が求めた聖杯と…肩を並べる遺物であるぞ。」

 

 声も絶え絶えで、もはやランサーが死に体なのは明白だ。明白なのだが…その双眸の炎は未だ消えていない。

 

「―――!?」

 

 アーチャーは目を剥いた。黒く艶を消された槍が、魔力の奔走と共に白く変色していく。

 

 石突から穂先に向けて、一点の曇りもない白に塗り変わっていく。

 

 それはまるで、神の尊さを示すかのような美しい白だ。

 

 穂先までが白く塗り換わる。すると、その穂先からは血が滴り落ちる。

 

 アーチャーの血ではない。槍に付着していた彼の血は、白化の際に完全に浄化された。

 

 ランサーの血ではない。自害の如き構えではあるが、まだあの刃は彼を貫いてはいない。

 

 では、あれは誰の血なのだろうか。

 

「刮目せよ!神の奇跡を目に焼き付けるがよい!」

 

 死に体のどこにこのような力が存在するのだろう。アーチャーの『無駄なし必中の流星(フェイルノート)』をも凌ぐ魔力が白槍に込められる。

 

 それに応えるように槍が仄かに光る。

 

 『無駄なし必中の流星』のような煌びやかな輝きではない。だが、まるで蛍のようなその輝きは、荘厳な空気を纏う。

 

 その光は、人として正常な心を持つ者ならば、見惚れずにはいられまい。

 

「斯くの如くあれ(Amen)!『尊き血を受けし槍(ロンギヌス)』!」

 

 次の刹那、槍の一層の発光と同時に、ランサーは自らの首を刺し穿った。

 

「なっ!?」

 

 アーチャーが驚愕の声をあげる。首を刺し穿った凶行と、その槍の名の両方にだ。

 

 鮮血の花を喉から咲かせ、なおも天を仰ぎ見るランサー。誰が見ても、あの出血量では助からない。

 

 …しかし、崩れ落ちない。

 

どう見ても致命傷であるのに、倒れない。…いや、それどころか、希薄になっていた存在が戻りかけている。

 

消えかかっていた足元は、再び現界して強く地を踏みしめている。

 

「……な、に…?ロンギヌスだと…!?」

 

 風穴は、周囲の肉が盛り上がり、瞬く間に穴を塞ぐ。まず心臓を再生し、血管や骨を再生し、皮で塞ぐ。

 

 穴があき、傷だらけになっていた鎧も、まるで負傷などなかったと主張するかのように再生されている。

 

 ランサーが首から生えている槍を引き抜く。すると、刺し穿った痕など存在しなかった。

 

 実は、槍はランサーをすり抜けていたと言わんばかりだ。

 

 そして槍は、どんな治癒魔術でも成しえない、半ば魔法の所業を行った後にはもとの黒い槍に戻っていった。

 

 いまやランサーは、魔力こそ消費しているものの、体のコンディションは戦闘前のそれに戻っている。

 

 そしてランサーはアーチャーを見据える。アーチャーは、目の前のそれが信じられぬという顔をしている。

 

「…貴方は神の子か?いくら聖杯とはいえ、そんなことが有り得るのか?」

 

「有り得んよ。いくら奇跡を起こす杯といえども、神を召喚することなど出来ない。…私はただの一兵卒にすぎない。人々から聖人だなんてもてはやされたがな。」

 

「…そうか、貴方は聖ロンギヌス。ガイウス・カッシウス殿か…!」

 

「然り。盲目の百卒長、ガイウス・カッシウスだ。」

 

 ガイウス・カッシウス。それがランサーの真名だ。

 

 ロンギヌスの槍を持ちえるのは、神の子の他に彼以外いまい。白内障を患う兵。それがガイウス・カッシウス。またの名を聖ロンギヌスである。

 

 名前から分かるように、『ロンギヌスの槍』というのは、正式な槍の名前ではない。聖ロンギヌスの持ち物、ということだ。

 

 いつしか神の子を象徴するようになったが、本当の持ち主は彼しかいない。

 

「その槍が、聖杯と並ぶ聖遺物…『ロンギヌスの槍』ですか。成程、あの神聖を帯びた光、心を奪われるものでした。」

 

「…私の持つ槍はもともと何の変哲もない官給品だったのだが、神の血を受けたことで神聖の因子をもった。絶命する前であれば、いかなる傷も、呪いも、病も治す。」

 

「…これは私の手落ちでした。貴方の忠告通り、心臓ではなく首を落とすべきでした……。」

 

「いや、落ち込むのは早いのでは?まだ仕切り直されただけだ。よもや、これで終いとは言うまい?」

 

「……そうでした。貴方のような聖人を手にかけるのは忍びないのですが…私も退けないのです。」

 

「気にしなくていい。このような殺し合いに身を投じた時点で、私も罪人だ。」

 

 そう、本来なら彼は聖堂教会側の人間ということになる。異端である魔術師に手を貸しているなど、本来なら言語道断だ。

 

 しかし彼には目的があるのだ。

 

 神の子の受難。あれを無かったことにしたい。

 

 もしも、神の子が処刑されていなければ…もっと多くの人が救われていたのではないか?

 

 もう少しだけ、世界は良い方向に行っていたのではないか?

 

 彼を突き動かすのは、この一念だ。

 

 ランサーは槍を構えなおす。

 

 それを受けて、アーチャーも剣弓を構える。

 

「…分かりました。全身全霊でお相手させて頂きます。円卓の騎士が一人、サー・トリスタン。愛のために…。」

 

「百卒長、ガイウス・カッシウス。…我が主、神の子のために…」

 

 両者は裂帛の闘志で相手を見据える。

 

 奇しくも、アーチャーが軽傷を負っている以外は、最初の邂逅と全く同じ。立ち居地も、構えも同一だ。

 

 そして口上も同一。しかし隠す名がなくなった両者は、先刻の名乗りよりも声に気が入っている。

 

「「参る!」」

 

 両者が同時に踏み込む。

 

 その鋭い刃と刃が触れ合う瞬間―――

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 八海山澪は階段を駆け上っていた。

 

「ハァッ…ハァッ…何だって途中までしかエレベーターが通じていないのよ…ッ」

 

 鉄パイプを右手にもち、運転用のヘルメットを被ったまま階段を二段飛ばしで駆け上がる姿を見咎められたら、即座に通報されそうなものだ。しかし幸いにして今は無人のビルである。

 

 汗を流しながら一心不乱に駆け上がる。目的地は屋上だ。

 

 修練を殆ど積んでいない自分でも分かる。上階から伝わってくる圧力は、非常識なまでの魔力の奔走だ。

 

 間違いない。何か非常識なものが、屋上に存在する。

 

 普通の魔術師が、これほどの魔力を有するわけが無い。個人の魔力(オド)ではなく、大気の魔力(マナ)を用いた大魔術ということも考えられるが…どうやら魔力の発生源は二つあるようだ。

 

 ここまで近づくと、一つに思えた魔力源が二つであったことに気付ける。それが互いにぶつかりあっている。

 

 ―――おそらくは戦闘。

 

 だったら、あの魔女のような存在が最低でも二人以上いるのだ。

 

 それがあの魔女なのか分からないが…それに類するものなのは間違いない。

 

 あの魔女に近い『何か』。私では手も足も出ないかも知れない。

 

 ―――引き返したほうが良いかも知れない。そう思い至ったときにはもう、屋上と内部を隔てるドアの前にいた。

 

 ドア越しでも十分に分かる。この先に存在するのは、災害のような存在。

 

 こちらからはどうしようもなく、しかし向こうからは一方的に傷つけてくるモノだ。

 

 しかし、一度芽生えた復讐の炎が撤退を許さない。

 

 あの魔女…私の父と母を殺した魔女。漆黒のローブを身に纏い、骨の兵を率いる魔女。再び怒りという重油が炎に注ぎ込まれる。

 

 そしてその怒りに身を任せ、ドアノブに手をかけた瞬間。

 

「―――――っ!!??」

 

 目を焼かれそうなほどの閃光と魔力の暴風、そして轟音が飛び込んできた。片方の『何か』が何か魔術の類を発動したらしい。

 

 ドアノブのすぐ傍に設置された採光窓から光が差し込む。四角形に切り抜かれた光は、容赦なく私の目を眩ます。

 

 アルミ製のドアがビリビリと振動し、悲鳴をあげる。ビル全体が揺れているのではないかと思うほどだ。

 

 光はすぐに止んだ。

 

 目の眩みが消えるや否や、続いて圧倒的な魔力を察知する。

 

 もう一方の『何か』からだ。

 

 暴風のような奔走ではないが、すぐそこに非現実的な魔力が渦巻いているのは理解できる。

 

 それも直ぐに消えるが、未だにその発生源は健在だ。

 

 周囲は一応の静寂を取り戻す。足が竦む。

 

 この静寂がとてつもない圧力となって圧し掛かる。

 

 あの驚異的な魔力の奔走…どう逆立ちしても自分に勝ち目はない。

 

 いや、勝ち目がないのは分かっていたことだ。しかし、一太刀ぐらいは浴びせられるだろうと期待していた。

 

 とんでもない思い上がりだ。

 

 すぐさまここから逃げなければならない。私は死ぬわけにはいかない。

 

 ここにいては、巻き添えを食う。

 

一切の抵抗を許されず死ぬ。まだ死にたくない。

 

 既に戦闘中の『何か』に気付かれているだろうか?

 

 あれほどの魔力の奔走だ。魔術を知るものなのは間違いない。となれば…きっと目撃者を消そうとするだろう。

 

 採光窓から様子を伺おうとする。しかし曇り硝子になっているそれでは、外の様子は伺い知れない。

 

 逃げるべきだ。一目散に。

 

 気付かれないようにこの場を立ち去らねば、命が危ない。

 

 心臓は破裂しそうなほどに脈を打つ。

 

 手に汗が滲む。

 

 足音を押し殺して階段を下りようとする。

 

 最初の一段をゆっくり踏む。

 

 次いで、もう一つの足で次のステップを踏む。

 

 亀の歩みのように慎重に、しかし素早く。

 

 背後が気になる。逃走する私に気付いているだろうか。

 

 ゆっくりと視線を後ろに。

 

大丈夫、おそらく気付いていない。

 

 向き直ろうとしたそのときに…汗で手が滑り、鉄パイプを落としてしまった。

 

「――――ッ!!!」

 

 肝が冷える。生きた心地がしない。

 

 宙を舞う鉄パイプを即座に掴もうとするが、その手は虚しくも空を掴む。

 

 鉄製の手すりにぶつかりながら、鉄パイプは階段を転げ落ちる。

 

 鉄と鉄がぶつかるけたたましい音。

 

 静寂を取り戻した夜の空気に、その音は耳に劈く。

 

 狭い階段をこれでもかという程に衝突しながら落下する。

 

 何度も何度も手すりに当たり、その度に私という目撃者が存在したことを主張する。

 

“この大間抜けめ!!”

 

 自分に罵声を浴びせる。

 

 確実に気付かれた。そして、あの『何か』は私を消そうとするだろう。

 

 階段を飛び降りるように下る。騒々しい音がするが、もはや気にする意味が無い。

 

 途中で鉄パイプを拾い上げる。恨めしいが、これでも一応は武器だ。徒手よりは遥かにマシだろう。

 

 とにかく遠くへ。

 

 一秒でも早く外へ。

 

 原付までたどり着ければ活路はあるだろうか。

 

 いや、あの『何か』には転移魔術がある。

 

 ならば、早くここを立ち去って身を隠さなければ。

 

 雲隠れしてしまえば、生き延びることもできるだろう。

 

 八海山澪は、一心不乱に階段を駆け下りていった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 その鋭い刃と刃が触れ合う瞬間―――

 

 ガランガランと、耳に劈く音が聞こえた。

 

 両者の刃は、髪の毛一本分の間隙を残してぴたりと止まる。

 

 意識と視線は、音の発生源…階段へ向けられる。

 

「…誰かに見られたらしい。」

 

 アーチャーが忌々しげに呟く。

 

「……私が行こう。」

 

 ランサーが苦虫を噛み潰したかのような顔を作りながら尋ねる。

 

「…いや、貴方のような聖人にこのような汚れた仕事を追わせるわけにはいかない。私だけで十分だ。」

 

 アーチャーがランサーを気遣って答える。

 

 両者とも、本音を言えばこのような殺しをしたくはない。

 

 しかし…魔術師でもない彼らは、目撃者を消すことでしか自らを守れないのだ。

 

 だから、どちらか一方が汚れることで、もう一方を守ろうとしている。

 

 眼前の好敵手(サーヴァント)の誇りを思うからこそ、彼らは自分だけが穢れれば良いと思うのだ。

 

「…忝い。この借りはいずれ。」

 

 ランサーは実体化を解き、霊体となってその場を去った。屋上に残されたのはアーチャーのみだ。

 

 アーチャーはランサーを見送ると、屋上の扉を蹴破り、逃亡者の追走にあたった。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 全身から汗が吹き出る。息が切れる。でも走り続ける。

 

 エレベーターは使えない。自ら袋小路に入るわけにはいかない。

 

 無様な姿だが、気にしている余裕などない。

 

 生き延びたければ、全身全霊で逃げろ。

 

 本能がそう伝える。

 

 私の全身全霊。つまりは魔術を行使するしかない。

 

「―――Einstellung(設定)Perceptual(知覚)Gesamtpreis(拡張)!」

 

 魔術刻印が術の支援をするために起動する。

 

 八海山の魔術的な特性は『送受信』に秀でることだ。あまり戦闘に向くものではない。

 

 得意なのは、念話や遠見の魔術の類。加えて言えば、攻撃用の魔術なんて私は知らない。

 

 ―――しかし、私が編み出した使い方がある。私にしか出来ない使い道がある。

 

Append(追記)Threat(脅威)Reflex(脊髄反射)Vermeiden(回避)Intercept(迎撃)!」

 

 先ず知覚の拡張。

 

 これは『送受信』のうち、『受信』にあたる機能。単なる五感の強化だけに留まらない。

 

 殺気や魔力。いわゆる第六感の強化拡張だ。

 

 背後から気配が一つ。強力な魔力を帯びている。

 

 先ほどの片割れなのは間違いない。

 

 速い。

 

 拙い。このままでは追いつかれる。

 

 それでも階段を下り続ける。

 

 きっと大丈夫。逃げに徹すれば、私は普通の魔術師よりも秀でる。

 

 走る。走る。走る。走る。走る―――

 

「御免!」

 

 遂に追いつかれた。

 

 鎧姿の男が、銀の刃を袈裟に振り下ろす瞬間が見える。

 

 無意識のままに、両手で握った鉄パイプを背後に向かって薙ぐ。

 

 鉄と鉄がぶつかる無機質な音。

 

 しかし弾けない。

 

 刃の切れ味は凄まじく、鋼鉄のパイプの中ほどまで刃が到達している。

 

 顔の数センチ手前で刃が止まる。あと少しでも鉄パイプが脆かったら、足を止めて受けに回らなかったら、首を断たれていたことは間違いない。

 

「…なに?」

 

 刃と融合した鉄パイプは、そのまま男に攫われた。構わない。どうせもう役には立たない。

 

 油断なく男を睨む。じりじりと後退しながら。そしていつでも走り出せるように体勢を整えながら。

 

 男は鉄パイプを引き剥がすと、足元に捨てる。あの得物…弓だ。弓だが、剣のようなものが生えている。

 

 オフィスビルにありふれた、四角形の螺旋状になっている階段に感謝する。そうでなければ、狙撃されて絶命していたかも知れない。

 

 視線を男にゆっくりと移す。端整な顔付き。豹のような四肢。美しい銀色の鎧。

 

 これが自分の命を脅かしている存在でなければ、きっと見惚れるほどの伊達男だろう。

 

 しかし、今はそうは思えない。あの銀の輝きが、死神の鎌の輝きにしか思えない。

 

「…加減したとはいえ私の剣戟を受けるとは、見事な反応です。貴方の名前は?」

 

「……八海山澪。」

 

「ハッカイサン殿。申し訳ないが、私は貴方を殺さねばならない。」

 

「やってみろってのよ…!」

 

 背を向けて階段を下る。飛び降りながら。

 

 あと数回なら避けきってみせる。その自身はある。

 

 ―――脊髄反射へ任意の行動を設定する魔術。それが私の自己流の戦闘方法。

 

 私自身の属性は『風』。特に微弱な電流の操作に秀でる。強力な電流は無理だ。修行不足である。

 

 しかし、微弱な電流の制御には絶対の自信がある。そう、例えば人体を流れる電気信号のような。

 

 外部からの脅威の存在を『受信』し、それに対してあらかじめ設定された運動パターンの電流を各筋肉に『送信』する。

 

 例えるなら、電子機器のようなもの。

 

 予め設定された信号を『受信』すれば、それに対して定められた信号を『送信』する機械を体に埋め込むようなものだ。

 

 特に、脳細胞を仲介しない脊髄反射にそれを予め設定することが肝要だ。

 

 (CPU)を経由せず、その部品が勝手に動作している。私の魔術はそういうものだ。

 

 言わずもがな、脳で考えてから行動するより、反射のほうが数倍早く行動できる。

 

 これによって、決められたパターン限定ではあるが、熟練の戦士のような反応速度を持ちえる。

 

 これの恩恵によって、戦闘経験のない私でも剣を受けることができたのだ。

 

 しかも、ここで知覚を拡張強化したことが効く。

 

 仮に視覚で反応できなくても、六感のうちいずれかが脅威の存在を『受信』すれば、反射で回避に入れるのだ。

 

「背中を見せるとは愚策!」

 

 すぐさま距離を詰める。人間とは思えない速度だ。

 

 背後から剣弓による刺突。心臓へ向けた容赦の無い一撃。

 

 しかし、風を切る音を聞いた。殺気を感じた。

 

受信:脅威の急速な接近。

 送信:回避行動に必要な筋肉に対する電気信号。

 

 足の筋肉が反応する。ヘッドスライディングのような飛込み。

 

 眼前は階段だが、死ぬよりましだ。もとより脊髄反射にはそんな事情を斟酌する能力はない。

 

 無様に転げ落ちる。だが、男の突きが裂いたのは私の服の一部だけだ。スカートにスリットが出来たが、気にする余裕はない。

 

 すぐさま立ち上がり、再び駆け下りる。

 

 すばやく階段に掛けられている文字を読み取る。

 

 およそ折り返し地点。この調子でいけば逃げ切れるか…?

 

 

 

 

 

「…すばらしい反応です。」

 

 それは先ほど、アーチャーがランサーの一撃を回避するのとそっくりの反応だった。

 

 突きの速度はランサーよりも数段劣るが、それでも生身の人間が相手なら必殺の一撃だったはずだ。

 

 アーチャーは目の前の標的を冷静に分析する。

 

 反応速度だけ見れば、英霊の域にも手が届くかも知れない。逃げに徹されると、少々厄介だ。

 

 接近してみれば、彼女から魔力も感じる。おそらくは魔術師。肉体の強化とあの反応速度があれば、下手をすれば逃げ果せるかもしれない。

 

 となれば、直線的な攻撃では回避されるだけかも知れない。剣士(セイバー)槍兵(ランサー)の一撃ならともかく、弓兵(アーチャー)たる自分の剣戟では仕留めるのに難儀する。

 

 となれば、回避できない一撃を叩き込むしかあるまい。

 

 宝具まで使う必要はない。アリシア(マスター)からの供給があるといっても、かなり微弱なものだ。

 

 もともと病弱なアリシアからこれ以上、生命力ともいえる魔力を吸い上げれば、どんな弊害があるか知れたものではない。

 

 よって宝具はむやみに使えない。

 

 相手は生身の人間だ。螺旋矢の一撃ならば、回避しても鎌鼬に切り刻まれて命を落とすだろう。それで事足りる。

 

 …できれば、女性は綺麗に死なせてやりたかったが、相手が魔術師となれば致し方ない。

 

 アーチャーは先周りすべく、霊体化して一直線に階下へ向かうのだった。

 

 

 

 

「…!先回りされた!?」

 

 八海山澪は刺突の一撃を回避した地点より、二階分ほど降りていた。

 

 さっきの瞬間までは、確かに頭上に気配を感じていた。

 

 しかし…一直線に、階段を無視して今眼前に現れた。

 

 いや、気配は間違いなく眼前…数メートル先の足元にあるのだが、何も居ない。

 

 と思うや否や、輪郭が生まれ、色彩が現れ、あの男が眼前に立ちはだかっていた。

 

「…あなた、亡霊?いや、物理干渉できる霊など存在するの…?」

 

 物体をすり抜けるあの挙動は霊だとしか思えない。しかし、有り得るのだろうか?物理的な干渉が可能な霊など。

 

「似たようなものだ。死んで長らく経つ。…ハッカイサン殿。申し訳ありません。私の未熟ゆえ、貴方には綺麗な死を与えられそうもない。」

 

「は…詫びるなら、殺すことを詫びろってのよ…!」

 

 まずい。あの男は既に弓を番えて、私を狙っている。

 

 ここは階段だ。左右に退路が無い。一直線に飛来する矢を回避しようと思えば、左右への回避しかないのに、それが出来ない。

 

「そうですね。貴方は良い魔術師になったかも知れませんが…ここで斃れて頂きます。」

 

 目は閉じない。最後まで眼前の(てき)を睨み続ける。

 

 そして銀に煌く死神の矢が放たれた。

 

 風の猛威で、思わず目を閉じてしまった。ああ、最後の瞬間まで敵を睨んでやりたかったのに―――

 

「『熾天覆う七 つの円冠(ロー・アイアス)』!」

 

「え?」

「なに!?」

 

 矢は私に到達していない。決して、狙いを外したのではない。

 

 私の目の前に、それを受け止めている人物がいる。男性だ。

 

 肌は少し黒い。小麦色というのが相応しいだろう。髪はオレンジ色だ。というより赤毛か。察するに若いだろうに、白髪が目立つ。服装はラフなものだ。

 

 この男性が、背後から現れて私を背中で守り、矢を受け止めた。

 

 差し出された右手の先には、花弁のようなものが展開されている。間違いない。魔術だ。しかも破格の。それが銀の男の矢を受け止めている。やがて矢は力を失い、赤毛の男の足元に落ちる。

 

 気付けば、赤毛の男の手には二振りの短剣が握られている。中華風の、黒と白の剣だ。

 

 八海山澪とアーチャーが知る由もないが、間違いなく衛宮士郎である。7年に渡る無茶な魔術行使の反動が現れはじめ、肌と髪は変色しかかっていた。

 

「……何者か?」

 

 銀の男が訝しげに尋ねる。赤毛の男は短剣を交差させるように構える。

 

「ただの通りすがりだよ。」

 

 事実、士郎は通りすがりだった。だが、冬木大橋を渡った直後に、新都センタービルから、何か輝くものが飛翔していくのを見咎めた。

 

 宝具。セイバー(アルトリア)の『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』の輝きと似ているため直ぐに思い当たった。少々毛色が違うが、未来永劫の王(アルトリア)が再召喚された可能性もある。それを確かめるために、ここまで侵入してきたのだ。

 

 だが、エレベーターを使っていたせいで、戦闘中と思わしき地点を通り過ぎてしまった。急いで階段をくだり、咄嗟に八海山澪を助けた次第である。

 

「では、何故ただの通りすがりが邪魔立てする?」

 

アーチャーの表情には、警戒と怒りが混合している。

 

「ちょっと聞きたいことがあったんだ。…オマエは、アーチャーのサーヴァントだな?」

 

「……」

「…アーチャー……サーヴァント?」

 

 この赤毛の男は何者だろう?知り合いなのか?いや、そんなそぶりはない。

 

 銀の男…アーチャーというのか。けったいな名前だ。

 

 アーチャーは警戒の色をさらに濃くし、沈黙を守っている。それは肯定を意味していた。

 

「そして…アンタは、マスターなのか?」

 

 構えはそのままに、首と視線を動かして尋ねる。

 

「え?マスター?」

 

 正直なところが、全く意味が分からない。

 

 その疑問符だけで十分だったのだろう。それ以上追求するでもなく、説明するでもなく、ただ視線をアーチャーに戻した。

 

「…この通り、この子は一般人だ。見逃してやってくれ。ついでに俺もマスターじゃない。見逃してくれると有難いんだけど。」

 

「出来ない。…貴方も聖杯戦争を知る者なのだろう?ならば、目撃者はどうなるか、どう処理すべきか、知っている筈だ。」

「…俺と同じか……」

 

 その呟きは小さいものだったが、八海山澪には聞き取れた。

 

 同じとはどういうことだろうか?だが、その疑問を今口にするべきではないことぐらいは理解できる。

 

「じゃあ、実力でどうにかするしかないのか…。アンタ、走れるか?」

 

 再び小言。私にしか聞こえないような声だ。

 

「…え、ええ…」

 

「じゃあ俺がアレを抑える。アンタはその間に逃げてくれ」

 

「…え、あ、はい。」

 

 言うや否や、赤毛の男はアーチャーに斬りかかった。

 

 右手から薙ぐ一閃。

 

 アーチャーの剣弓に防がれる。接触した瞬間に火花が散る。短剣を止めつつ、対の刃での横薙ぎ。

 

 それを左手の短剣で受け止める。

 

 鍔迫り合いの形となるが、アーチャーのほうが膂力はある。赤毛の男がじわじわと押される。

 

「行け!」

 

 全速力でその脇をすり抜ける。その時、赤毛の男の顔が見えた。

 

 私と同じくらいの年齢ではないだろうか。おそらく、僅かに男の方が年上だろうとは思う。

 

 だが、そんなことを気にしている場合ではない。正体は知れないが、あの男がいなければ私は確実に死んでいた。ならば、私は彼に借りを返さなければならない。

 

 それは何か。今は逃げることだ。私がいつまでもここにいては男が逃げられない。だから、一刻も早くここを立ち去るのが、彼への恩返しになる。

 

 息を切らしながら階段を下る。追跡者のいない逃走は、思いのほか素早いものだった。あと少しで、地上へ逃げられる。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 戦場は、長い階段からオフィスに移動していた。彼らの激しい攻防によって生じた旋風によって、フロア中を書類が飛び交う。

 

 いや、正確には旋風を起こしているのはアーチャーだけだ。士郎はそれに耐えているだけである。

 

 既に10合は打ち合った。士郎は始めてみる剣弓に惑わされながらも、双剣を巧みに操り防ぐ。

 

 アーチャーは、ランサーとは違う衛宮士郎の剣裁きに、素直に感心していた。

 

 決して才覚溢れる剣戟ではない。だが、切磋琢磨によって磨かれたその剣は、一種の機能美すら感じられる。数多の戦場で鍛えられた剣なのは間違いなかった。

 

 そしてアーチャーは、感心すると同時に、焦りと困惑も感じていた。

 

 アーチャーの袈裟へ切り下ろす一撃。士郎はとっさに干将で防ぐ。だが、干将はその手から弾かれてしまう。

 

 そこへ追撃の一撃。しかしその手には、何事もなかったかのように干将が握られている。

 

 すでに7本目だ。アーチャーがその業に困惑を隠しきれない。警戒したのか、大きく後ろへ飛び退く。

 

「…一体何本の剣を隠し持っているのやら……。貴方の名は?」

 

「……衛宮士郎だ。」

 

「エミヤ殿…。」

 

 その名を噛み締めるように反芻する。

 

「…エミヤ殿。貴方のような人を殺すのは惜しいが…これも聖杯戦争の定め。確かに貴方はマスターではないようだが、だからと言って見逃すわけにはいきません。」

 

「はは、そう何度も死んでたまるかってんだ…!」

 

 士郎が一気に距離を詰める。

 

「―――投影開始(レース・オン)。」

 

 干将・莫耶は既に手中になく、徒手空拳。しかし、その構えはまるで剣を持っているかのように構えられている。

 

「『害為す焔の杖(レーヴァテイン)』!」

 

 手には燃え盛る炎の剣。七世界を繋ぐ世界樹を灰燼にし、そのまま世界を燃やし尽くす運命を担った剣。それを下段に構え、逆袈裟に切り上げる。炎は、その剣の軌道を焦がしながら敵に襲い掛かる。

 

「宝具だと!?」

 

 アーチャーは剣を剣弓で受け止めたが…後続のそれは不可避だった。

 

 受け止められた瞬間に、『害為す焔の杖(レーヴァテイン)』は纏っている炎を膨らませ、アーチャーを火達磨にしようと襲い掛かる。

 

 鼻先を焦がし、肺を焼く炎。

 

「くっ!」

 

 慌てて飛び退く。その際に誰かのデスクが転倒し、書類が木の葉のように舞う。

 

 そのうちの一枚に、レーヴァテインの炎が移る。そして炎は次々にその触手を伸ばし、延焼させていく。

 

 だがそんなことも意中にないのか、二人とも炎の中で対峙し続ける。アーチャーは胡乱な顔を作っている。

 

「…レーヴァテインだと?…どういうことだ。生身の人間が何故、宝具を持っている?何故北欧の神の剣を持っているのだ?」

 

「…7年前に色々あってな。」

 

「7年…。貴方は前回の聖杯戦争の関係者か。…なるほど、それなら妙に詳しいことにも合点がいく。」

 

 灼熱は既に小火ではすまない規模になっている。火災警報器が作動し、天井からスプリンクラーで水が撒かれる。しかし火勢は衰えない。世界をも焼く炎は、ただの水での鎮火は困難だ。この炎は下手を踏めば世界を焼き尽くしてしまう。

 

「…じきにここに人がくる。今日はここで退いてくれないか?」

 

 すでに消防に連絡が届いているのは間違いない。あと10分もすれば、ここは消防と野次馬で溢れるのは間違いないだろう。

 

「出来ない。数分で片付ければ良いだけのこと。」

 

 火勢はますます強くなる。もはやフロアは一面が火の海だ。しかし、士郎がレーヴァテインの力を抑えていなければ、既にビルそのものが焼け落ちている。

 

 二人との丁度中間に位置していた机から一層大きな火柱を上げる。缶でも炸裂したらしい。一瞬だが、互いの姿を炎が隠す。

 

 士郎は思い出していた。17年前の大惨事を。自分の原初の光景を。

 

 火柱が霧散すると、アーチャーが弓を番えていた。螺旋矢は寸分の狙いも違わずに士郎の心臓へと向いている。

 

 それを受けて、士郎はロー・アイアスの設計図を脳内で引く。すぐに展開できるようにする。

 

 アーチャーの判断がすぐれていたのは、宝具を使用しなかったこと。投擲に対して絶対の防御を誇る守りの名を先ほど聞いていたため、それを使用しなかった。

 

 フェイルノートは因果逆転によって絶対の命中を運命付けられている。Aランク相当の防御でも貫くほどだ。しかし、投擲に対する加護に対してはその猛威を発揮できない。

 

 アイアスの盾…考えうる限り、最悪の相性だ。

 

「螺旋矢を受けよ!」

 

 矢を放つ。まるでモーゼが海を割るように鎌鼬によって炎を退けながら、一直線に士郎を穿とうと襲い掛かる。

 

「『熾天覆う七 つの円冠(ロー・アイアス)』!」

 

 しかし回転しながら猛進する矢は、七つの花弁によって受け止められる。高周波の音を立てながら拮抗する。矢の切っ先が削られ、火花を散らす。

 

 しかしアーチャーはこれを予期していた。

 

「遠慮はいらない。腹いっぱい食らうが良い!」

 

 新たに矢を番える。矢を引く手には数本の矢を握り、連射をかける腹だ。

 

 次々と矢を放つ。全てあわせて7本。一つの花弁に一つの矢が打ち込まれる。

 

 士郎は歯を食いしばって耐える。少しでも「貫かれる」と考えた瞬間に花弁は力をなくす。イメージしろ、勝利する己の姿を。この高周波の音に惑わされるな。

 

 螺旋矢は、次第に力を失っていく。一本、また一本と地にひれ伏す。

 

 そして最後の一本が平伏しようとした瞬間。

 

「―――ッ!!?」

 

 横合いからアーチャーが突進してくる。螺旋矢を受けきることに気をとられすぎて、周り込まれたことに気付けなかった。

 

 剣弓による刺突。慌ててレーヴァテインで弾くが、胴ががら空きだ。

 

その隙を見逃すわけもなく、アーチャーは突進の勢いそのままに膝を叩き込む。

 

「がッ!!」

 

 まるでボールのように空を飛ぶ。咄嗟にレーヴァテインの腹で受け止めようとしたが、無残にも砕け散った。

 

 投影が甘かったか。基本骨子の解明が不十分だったか。狼狽でイメージに綻びが生じたか。だが砕け散ったおかげで威力が緩和された。内臓も無事だ。

 

 しかしこの落下の衝撃では死亡するだろう。士郎は、勢いを殺せずに硝子を突き破り、高層ビルから夜の街へ投げ出されていた。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「ハァ…!ハァ…!」

 

 八海山澪はどうにか地上まで逃げ果せていた。全身は汗に濡れ、足は乳酸で棒のようになっている。まるで夢遊病者のような足取りだ。

 

原付は律儀にも、駐輪場に駐車している。ビルの出入り口より少し離れたそこへ移動。キーを回したところで、上階の火事に気付いた。気付かないほうがおかしい。明らかに以上な明るさだ。

 

 見上げれば、フロアがまるまる一つ灼熱に覆われている。

 

 彼女もまた、17年前の火災を思い出していた。彼女は直接体験しているわけではないが、トラウマに近い記憶である。

 

 あの赤毛の男は大丈夫だろうか?あの破格の存在と、本当に渡り合えるのだろうか?

 

 と士郎のことを心配した矢先、その本人が燃え盛るフロアから飛び出してきた。いや、投げ出されたというべきかも知れない。

 

 頭から落下するその所業は、自殺でもない限り、自発的なものではないだろう。

 

「―――っ!!」

 

 澪は右手を捻り、原付を疾走させる。あの人を死なせてはいけない。私が助かって、正義の味方のようなあの人を死なせてはいけない。

 

 どこにこんな体力が残っていたのか。落下地点間際で原付を捨てる。棒になっていた足が動く。限界を超えて筋肉を酷使する。

 

 地面まであと10メートルもない。

 

 大丈夫、間に合う。既に落下地点に到達している。

 

 魔術刻印を総動員し、滅多に使わない術を行使する。

 

「―――Unsere einzige Waffe ist Yuki(我は己のみを武器とする)!」

 

 僅かな時間のみ、全身を強化する魔術。腕、背中、腰、足。全ての筋肉が一瞬のみに限定して爆発的強化される。

 

 まず腕で抱きかかえる。衝撃を殺すように、足を曲げながら受け止める。彼の体重に負けないように、背筋と腰でしっかりと支える。

 

 強化したといっても、元がひ弱だ。歯を食いしばって耐える。

 

 ―――間に合った。成功した。気を失っているが、ちゃんと呼吸をしている。硝子を突き破ったときに引っかいたのだろうか、生傷が痛々しい。

 

 澪はそのまま士郎を抱きかかえ、原付にまたがる。膝の上に座らせ、腕と体で上半身を支えるスタイルの二人乗り。気絶している人間を運ぼうとしたら、この体勢でないと無理だ。少々狭いが、運転に支障はない。

 

 アクセルを一気に限界まで捻る。喧しい排気音を撒き散らしながら、原付は一心不乱にその場から立ち去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 レーヴァテインが砕けたことによって神聖を失った炎は、スプリンクラーによってその火勢を衰えさせていた。

 

「…遠距離攻撃に対して強い耐性を持つから突き落としたというのに、悪運が強いのですね、エミヤ殿。」

 

 割れた硝子からアーチャーがそれを見送る。体には紅い布が巻きつけられている。一見するとただの布だが、アーチャーは未だその戒めから抜け出せずにいた。

 

 ―――マグダラの聖骸布。男に対して、絶対的な拘束力をもつ拘束用の宝具。外に投げ出された士郎が、咄嗟に放ったものだ。

 

 だが、慌てて投影したからだろうか、その組成は甘い。いや、そもそも士郎が投影したそれでは十全の効果を発揮できない。現に完全にアーチャーを封じることができず、ぎちぎちと聖骸布は悲鳴をあげている。

 

「ぬん!」

 

 アーチャーが渾身の力を込めると、聖骸布は無残にも裂かれてしまった。ただの魔力に戻ったそれは輪郭をなくして霧散する。

 

“…見失ったか?”

 

 既に、澪と士郎はビルの群れに溶け込み、死角へと逃げていた。

 

 

 

 

 60キロメートル程しか出せない原付に、澪は心底いらついていた。近いうちに、大型二輪の免許を取ってやろうと決心したほどである。

 

 しかも、明らかな重量オーバーで60キロメートルも出せない。一刻も早くここから立ち去るべきなのに、まるで亀の歩みのようだ。

 

 右左折を繰り返し、なるべく入り組んだ道を走り抜ける。暗い風景をどんどん背後に送る。

 

「……ぐ…。」

 

 意識が戻ったのだろうか。苦しげに呻いている。程なく目を開き、周囲を見回した。

 

 自分が女の子の腕に抱かれているという状況は理解できたらしい。一瞬で赤面した。

 

「ご、ごめん!」

 

「暴れないで!」

 

 飛びのこうとした士郎を澪が押し止める。だが、堪らずブレーキを握ってしまった。急ブレーキによってアスファルトの地面に黒い轍を残しながら、ドリフトをするように停止する。

 

 ちょうど良い。ここは裏路地だ。すぐには見つかるまい。一度ここでこの男を休めるべきかも知れない。

 

 澪はそう考え、キーを回してエンジンを切る。

 

「立てる?」

 

「あ、ああ…なんとか。」

 

 腕から開放されて、よろよろと地面に降り立つ。だがその足取りは、泥酔した人よりも覚束ない。

 

 膝の力が抜け、崩れ落ちそうになる。慌てて肩に手を回して支え、そこに座らせる。

 

「……良く聞いてくれ。とりあえず、姿は隠せたかも知れないけれど、すぐに見つかる。…俺がどうにか食い止めるから、アンタは逃げてくれ。」

 

 手早く脈を測る。異常はなさそうだ。だが体温が高い。

 

「その死に体でどうするつもりなのよ…!いいから大人しくしていて。アンタが落ち着いたら、原付で逃げるわよ。」

 

「そんな物じゃ、逃げ切れない。…ぐぅ……。」

 

 よほど苦しいのだろう。嫌な汗で濡れ、肩で息をしている。どこかの骨が折れているのかも知れない。目に見える部位では異常はなさそうだ。

 

 服の下に負傷があるのかもと思い、服を脱がせようと手をかけたそのときだ。

 

「いたっ…!?」

 

 右手の甲に鋭い痛み。どこかで切ったのだろうか。蚯蚓腫れのようなものが浮き出て、そこから僅かに血が流れている。

 

「……え?」

 

 だが、怪我をした本人よりも、この男の方が驚いている。信じられない、という風だ。

 

「ア、 アンタ魔術師か…?!」

 

 掴み掛かる勢いで問いただされ、泡を食う。だが、その表情が真剣なのは間違いない。

 

「え、あ、うん。二流だけど」

 

 僅かな逡巡。だが、意を決したようだ。

 

「…すまない。アンタ、生き延びたかったら巻き込まれてくれないか?アンタがマスターになるんだ。」

 

「え、マスター…?」

 

「さっきのヤツみたいなのを使役して、さっきのヤツを倒せってことだ…!」

 

 戸惑い。うまく理解ができない。だが、決して冗談ではないように思う。

 

「……アンタも私も、両方が生き延びようと思ったら、それしかないの?」

 

「多分、それしか無い。……命を危機にさらす事になる。暫くの間ずっとだ。断わってくれて構わない。」

 

「何言っているの!…やってやるわよ、どうせアンタが死んだら私もすぐに殺されるんだから!女は度胸よ、やってやるってのよ!」

 

 半ばヤケクソだ。日常からかけ離れた出来事に、こうも遭遇して、もうどうにでもなりやがれという心境に至っている。

 

「…すまない。じゃあ俺の言うとおりに、地面に魔方陣を刻んでくれ。」

 

 いつの間にか、手には一本の短剣。丈夫そうだが、特に変哲もない剣だ。

 

「まず、円の中に二重の六芒星を描き…」

 

 

 

 

 

 

 アーチャーは二人の姿を探していた。二輪の乗り物が走り去った方向、その死角をくまなく探索している。

 

 そう遠くには逃げられはしまい。鷹の目を持つアーチャーにとって、そう難しいことではない。じきに見つかる。

 

 ―――本当なら、見逃してやりたい。しかしそれは出来ない。何故なら、二人ともマスター候補だ。確かに今はマスターではないが、二人とも優秀だ。将来の障害になる可能性が高い。ここで倒さなければ、厄介なことになる。

 

 ―――いた。

 

 路地裏の一角。何やら地面に陣を敷いているようだ。恐らくは治癒用の魔法陣。エミヤという少年の負傷が酷いのだろうか。

 

 アーチャーは思案する。このまま狙撃した方がいいだろうか。いや、彼には遠距離攻撃に対して強い防御を持っている。フェイルノートでも貫けるか怪しい。しきりに周囲を警戒している。不意打ちの狙撃は成功しまい。ならば、このまま近づいて、剣弓で仕留めたほうが良いだろう。

 

 アーチャーは不可視の霊体となって、彼らにゆっくりと近づいていった。

 

 

 

 

 

 

「…そろそろ見つかる頃合だ。急いでくれ。」

 

「煩いわね!これでも最高に急いでいるわよ!」

 

 思ったよりも煩雑な魔法陣ではなかったようだ。二流の私でも敷ける。今は、大きな円で全ての陣を囲んでいる。これが最後の工程だ。

 

 がりがりとアスファルトを削る。そして円の始点まで溝が到達し、完璧な円が完成した。

 

「出来たわよ。…どこかに問題ある?」

 

 男が魔法陣を観察する。どこかに綻びがあれば、術者だけでなく周囲をも巻き込む恐れがある。

 

 男が大きく頷く。どうやら問題ないようだ。

 

「よし、それじゃあ呪文を教えるから、一度で覚えてくれ。」

 

 聞き漏らすまいと口元に耳を持っていく。息も絶え絶えで、こうしないと聞き間違えそうだ。

 

 受信:頭上から殺気。風切りの音。強力な魔力。脅威と認定。

 送信:回避行動。

 

 咄嗟に男の肩を掴み、押し倒すように飛びのく。ヘッドスライディングのような回避。

 

 刹那の前まで頭があった位置を、銀の刃が通過する。もしも魔術の設定を初期化していたら、間違いなく死んでいた。

 

 私の肩を刃が掠める。浅いが出血。魔法陣が血で濡れる。

 

 銀の刃はアスファルトを貫く。少し遅れてアーチャーが地に足を下ろす。

 

 まずい。まだ儀式は終わっていない。ここでこいつに見つかるなんて!

 

「―――呼べ!」

 

 汗だくの男が叫ぶ。アーチャーが地面の魔法陣を見咎め、目を剥く。

 

「――――っ!!」

 

「呼べ!呪文なんか無くても、サーヴァントは現れる!」

 

「き、来て!」

 

 ―――何でもいいから助けて!

 

 魔法陣が、紅く輝く。旋風が巻き起こる。

 

 アーチャーが剣弓を引きぬき、振り上げる。銀の煌きしか残さぬ唐竹割り。

 

 ―――お願い、助けて!私とこの男を!

 

 鉄がぶつかる激しい音。銀の煌きは、別の煌きによって弾かれる。

 

 そう、彼女の願いは叶った。彼女は助けられた。

 

 眼前に突如現れたのは、甲冑を着込んだ後姿。察するに男。甲冑の上からでも、鍛え上げたのであろう肉体が伺える。しかし、決して巨漢というわけではなく、機能美をも感じさせる肉体。ウェーブのかかったその髪は、まるで砂金を零したかのような色だ。

 

左手には盾をもち、右手には片手剣。柄は仄かに輝く金だ。刀身は、アーチャーの剣弓にも負けない程に磨かれた鋼鉄。その意匠は、決して豪奢ではないが、その威光を誇るかのようだ。

 

 がちゃりと甲冑が音をたて、私に振り向く。

 

 端正というわけではないが、優しげに整った顔つき。そして金の瞳が私を射抜く。強張っていた顔が緩み、無邪気な表情を作る。

 

「セイバーのサーヴァント、ここに!貴方を助けるべく、英霊の座より参った次第!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

【クラス】ランサー

【マスター】スカリエッティ・ラザフ・コンチネンツァ

【真名】ガイウス・カッシウス

【性別】男性

【身長・体重】182cm 80kg

【属性】中庸・善

【筋力】 B  【魔力】 B

【耐久】 A  【幸運】 E

【敏捷】 A  【宝具】 EX

 

【クラス別能力】

 

対魔力:C

第二節以下の魔術は無効化する。大魔術や儀式呪法などを防ぐことはできない。

 

 

【保有スキル】

 

聖眼:A

神の血を目に受けたときに得たスキル。魔眼とは異なる。外界からの視覚に対する干渉をほぼ無効化する力をもつ。

視覚によって外界へ干渉する魔眼とは対極にあるといえる。魔眼に対しても強い耐性を発揮する。

 

 

戦闘続行:A

往生際が悪く、瀕死の状態でも戦闘を続行するスキル。

彼の宝具によって、もたらされたスキルである。

 

 

 

【宝具】

神の血を受けし槍(ロンギヌス):EX

対人宝具・レンジ1~2・最大捕捉人数1

 

絶対の回復能力をもつ槍。彼の自己治癒も、この宝具による副産物である。

持ち主に「世界を制する力を与える」という伝承があり、ランサーはこれによって全体的な補正がかかっている。もともとの彼はさほど戦闘能力は高くない。

非開放時には、持ち主の傷を自動的に癒す力(リジェレネーション)しか持ち得ない。

開放時には、致命傷であっても瞬時に回復する力をもつ。これは外傷に限らず、病や呪いの類すらも退ける力がある。また、使用する対象は自分に限らず、開放時の槍で刺したならば例え敵であっても癒すことができる。

 

 

 

 

 

 

【衛宮士郎】

害なす焔の杖(レーヴァテイン)

北欧神話に登場する魔剣。士郎のそれは伝承等から得たイメージより作り出した完全な贋作である。投影魔術は本物を一度目にすることが望ましいことは言うまでも無いことだが、イメージさえ確固たるものならばその限りではない。本来、レーヴァテインは「害なす魔の杖」という意味だが、偽者という意味を込めて士郎はこう呼ぶ。

伝承から作り出した剣であるため士郎のイメージが弱く、本物よりも数段劣る。

本物は「レーギャルン」という箱の中に封印されており、シンマラとその番犬によって守られている。

もしも本物が世にでていたら、抑止の守護者であっても世界の崩壊を止められないだろう。


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