花街の影法師   作:ヨシフ書記長

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何とか書けました


壁上の再会

後宮への里帰りから戻って数日。猫猫の日常は、相変わらず壬氏からの無理難題と、命懸けの毒見に費やされていた。

 

 だが、その日の夜は違った。

 

(……里帰りの際、叔父さんは確かに言った。『後で届けてやる』と。まさか、警備厳重な後宮の中にまで直接来るとは思わなかったが…どうやって来る気だ?)

 

叔父から届いた矢文には、日時と方角が指定されていた。

 猫猫は指定された場所――後宮の北東、最も壁が高く、警備の死角となる古びた石積みの上で、一人座っていた。

 夜風が冷たい。こんな場所によじ登るだけでも一苦労だったが、叔父の蘭明はどうやって来るつもりなのか。

 

 ふと、北の暗闇から、不気味な音が聞こえてきた。

 

 ――ブォォォォォン……!

 ――ブォォォォォン……!

 

 重厚な、何かが空気を強引に掻き回すような風切り音。

 猫猫が目を凝らすと、月明かりを背負って、巨大な人影が空を飛んできていた。

 

「……は?」

 

 猫猫の口から、珍しく呆けた声が漏れる。

 飛来していたのは、紛れもなく叔父・蘭明だった。

 彼は愛用の杖を頭上で水平に持ち、常人離れした速度で旋回させている。その回転はもはや肉眼では視認できぬほどの円盤と化し、重力という理を強引に捻じ伏せて揚力を生み出していた。

 

(流刑地の鉱山で、奇妙な武術家から技を学んだとは聞いていたが……まさか、空を飛ぶなんて聞いてない…!)

 

 叔父は壁の真上でピタリと回転を止めると、大きな物が着地したような地響きを立てて、目の前に降り立った。

 

(音…立てるなよ…)

「よう、猫猫。待たせたな」

 

 息一つ乱していない蘭明を見て、猫猫は内心で深い溜息をついた。

 

(叔父さん……まさか空まで飛べるとは……。特殊な呼吸法――本人は『波紋』とか言っていたか――のおかげで、水の上を歩けるというのは知っている。だが、これは次元が違う)

 

 猫猫は、目の前の男を改めて評価し直した。

 

(……つくづく、バケモノだな)

「……叔父さん。いつも思うが、叔父さんほど無茶苦茶な人間はいないな。按摩師なら、もう少し静かに歩いて来れないのか」

 

 猫猫の乾いたツッコミに、蘭明は無精髭をいじりながら「へっ」と鼻を鳴らした。

 

「夜中の後宮の壁なんざ、よじ登ってたら衛兵に見つかるだろうが。上から飛んじまえば、誰の目にも止まらねぇ。一番合理的だろ」

(……止まらないどころか、見えたとしても誰もそれを人間とは思わないだろう。未確認の怪鳥か、さもなくば凶兆の類だ)

 

 蘭明は杖を肩に担ぎ、懐から一つの小袋を取り出した。里帰りの際、緑青館の離れで回収された例の「香の残り」と、羅門が分析した「薬草の粉末」だ。

 

「羅門の旦那と洗った結果だ。例の『紅桐』、あいつが緑青館の香袋に仕込んでたのは、ただの毒じゃねぇ。後宮で流行りかけてる『賄賂の香』……そいつの効能を数倍に跳ね上げる『触媒』だ」

 

 猫猫の目が、薬師のそれに変わる。

 叔父から手渡された袋を鼻に近づけると、甘ったるい、だが脳の奥を直接爪で掻くような不快な刺激臭がした。

 

「これ、里帰りの時に姉ちゃんたちが言っていた……」

「おう。白鈴たちが気づかなきゃ、緑青館の客は今頃、全員が夢現の中で『赤い帯の女』に喉笛を掻っ切られてたところだぜ」

 

 蘭明の言葉には、冗談の欠片もなかった。

 彼は身を乗り出し、猫猫の肩に大きな、ごつごつとした手を置いた。

 

「いいか、猫猫。里帰りでおめぇが持ち帰った情報は、後宮の『内側の腐敗』を示してる。だが、俺が掴んだのは『外からの侵食』だ。その二つが、今この後宮で混ざり合おうとしてやがる」

「……だから、壬氏様の周りに、見慣れない監視が増えていたのか」

「ああ。……『赤い帯』は、ただの暗殺者じゃねぇ。もっと大きな、西の方の影を引きずり込んでやがる。羅門の旦那も、珍しく眉間に皺を寄せてたぜ」

 

 蘭明は再び鉄杖を手に取ると、夜の闇を見据えた。

 

「俺ぁ、花街の『裏』を継いでんだ。これ以上、俺の家族を荒らす奴は、一人残らず骨まで粉砕してやる。……おめぇは、その鼻と頭を使って、中のネズミを炙り出せ」

「……わかったよ、叔父さん」

 

 猫猫が頷くのを見届けると、蘭明は再び杖を頭上に掲げた。

 

「おい、叔父さん。帰りもそれで……」

「これ以外にねぇだろうが…あたりめぇだろぅ?」

 

 ――シュォォォォォン!!

 

 猛烈な風が猫猫の髪を乱し、次の瞬間、蘭明の巨体は再び夜空へと舞い上がった。その姿は、闇に溶ける巨大な影法師のように、音もなく遠ざかっていく。

 

 猫猫は、叔父が残していった「毒の証拠」をぎゅっと握りしめた。

 

 (常識外れの叔父の力を見せつけられた後では、後宮のドロドロした陰謀すら、少しだけ現実に即したものに思えてくるから不思議だ)

 

 呆れと覚悟を混ぜたような溜息をつき、猫猫が手慣れた様子で塀をおりて地面に着地した、その時だった。

 

「おい、薬屋……!」

 

 背後からかかった、あまりに聞き慣れた、そして今は一番聞きたくない美声に、猫猫の肩がびくりと跳ねた。

 振り返れば、そこには外套を羽織り、怪訝そうに眉をひそめた壬氏が立っていた。その後ろには、いつものように困り顔の高順も控えている。

 

「壬氏様……。こんな夜更けに何のご用で」

「それはこちらの台詞だ。今、変な音がしなかったか? 何か、巨大な鳥が羽ばたいているような、あるいは空気が悲鳴を上げているような……」

 

 壬氏は不審げに夜空を見上げるが、そこには既に雲に隠れた月があるばかりだ。

 

「さ、さぁ? 一体なんのことだか。空耳ではないでしょうか」

「嘘をつけ。現に風が吹いて、お前の髪が酷いことになっているぞ」

 

 壬氏の指摘通り、蘭明の「離陸」による猛烈な風圧で、猫猫の髪は鳥の巣のように乱れていた。猫猫は平然を装いながら、手櫛でぐいぐいと髪を整える。

 

「それにしてもお前、なんでこんなところにいるんだ? 玉葉妃の宮からも遠いぞ」

「そ、それは……少し寝れなくて散歩を。夜風に当たれば、少しは頭が冷えるかと思いまして」

 

 猫猫の「ナマコを見るような目」ではなく、泳ぐような視線に、壬氏はじりじりと距離を詰めてきた。

 

「ほう…。散歩、ねぇ…散歩でわざわざ後宮の端の…こんな壁のそばまで来るのか?」

「健康のためには、歩数を稼ぐのが一番でございます」

 

 あからさまな嘘をつく猫猫に、壬氏はため息をついた。だが、それ以上は追及せず、ただ鋭い眼差しで彼女の懐――叔父から渡された「小袋」が隠されている場所――をチラリと見た。

 

「……まぁいい。風邪を引く前に戻れ。お前に倒れられては、私の毒見がいなくなる」

「承知いたしました」

 

 猫猫は深く頭を下げると、逃げるようにその場を去った。

 

 背後に残った壬氏が、「高順、やはり今の音は……」「巨大な風車のようでしたね」と囁き合っているのが聞こえたが、聞こえないふりをした。

 

 後宮と花街。

 二つの場所を繋ぐ「紅い毒」の正体。それを解き明かすための、本当の戦いが始まろうとしていた。




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民明書房刊『人間の夢 空を飛ぶにはどうすればいいか:人体力学と風の秘密』より抜粋――

旋風高竹(せんぷうこうちく)

古代中国、漢の時代。高い山岳地帯での移動を余儀なくされた高僧達が編み出したとされる驚異の移動術。
特殊な呼吸法により腕力を極限まで高め、頭上で杖を高速回転させることで、局所的に「真空の壁」を作り出し、上昇気流を発生させる。その姿は後の世に伝わる竹製の玩具「竹とんぼ」の原型になったとも言われているが、真偽のほどは定かではない。
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