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肺の中の空気を入れ替えるために教室を出たリーシャとユラリアは、近くのベンチに腰を下ろした。
春の柔らかな日差しが窓を通して二人を包み込んでいる。
「はぁ~、やっと休憩」
リーシャは伸びをしながら言った。
「前半の講義、難しかったけど面白かったよね」
ユラリアはかばんから小さな水筒を取り出し、一口だけ手を付ける。
「そうですね。でも正直、途中からついていくのが大変でした。特にTCAサイクルのところは。おそらく、教授もそれをわかっているから、少し雑な切り上げ方をしたのだと思いますけれど」
「わかる! 最初は私も混乱したよ。特に解糖系の名前とか! グルコースからG6P、F6P、FBP……とか、名前が似すぎてて」
リーシャは指を折りながら物質名を数えた。
ペントースリン酸経路に登場した名前を含めれば、似たような名前は多い。
だが、一つの酵素で大きく物質の形を変えるということは難しい。だからこそ、反応を一つずつ眺めれば、自然と類似した物質を扱うことになり──そして、似たような名前の物質を扱うことにもなる。
「でも、全部繋がってるって思うと面白いよね。食べ物がどうやってエネルギーになるのか」
「リーシャさんは本当に理解が早いですね」
ユラリアは感心したように言う。
「私はまだ解糖系とTCAサイクルの関係がはっきり把握できていません。ピルビン酸という中継地点があるのはわかるのですが……その後が少し複雑で」
リーシャは少し考えてから、自分の思考を言語化する。
「えっとね、簡単に言うと解糖系でグルコースがピルビン酸になって、そのピルビン酸がTCAサイクルでさらに分解されるんだよ。ぐるぐるすることで、二酸化炭素に。そして、その過程でATPとかGTPとかのエネルギー源が作られるっていう感じ……だと思う!」
ユラリアはノートを開いて、そこにまとめを書き始めた。
「でも、教授がATPの大元はこれじゃないって言ってましたよね? ペントースリン酸経路の……リボース5リン酸あたりがそうなのでしょうか」
「うーん……あれが解糖系とかみたいに『ADPからATPを作る』反応なのか、それとも元となるADPという物質そのものを作るのかは、言ってなかったよね」
リーシャとユラリアにとって、『薬理学理論』において話される内容というのは検証しようのない理論であった。
実際、自らの体内にGLUTと呼ばれるモノがあるのか。本当にATPというモノによって、細胞は動いているのか。
それらを確かめる術はなかったが──それでも、長年の疑問に対して
そして、ユラリアは王族に許された権限を用いて教授の論文を調べ、それらがきちんと精査された事実
勿論その内容は理解出来なかったが。少なくとも、それに対して論理的である認可を押せる存在が世界には存在するということは確認していた。
「そうそう。それで私、さっき教授に聞いてみたんだけどね。電子伝達系っていう経路があるって。TCAサイクルの後にある最後の経路らしいよ」
リーシャは誇らしげに言う。
砂山から自分だけの宝石を見つけた子供のような笑みを浮かべながら。
ユラリアはゆっくりとノートにその言葉を書き込んだ。後でその言葉で調べるために。
「電子伝達系……そこでは何が起きるんですか?」
「TCAサイクルで作られたNADHとかが色々使われて、酸素が水になるんだって。それで、累計としてグルコース1つから30以上ものATPが作れるらしいよ。だから、効率が良いって話につながるとか?」
「……少し、理解出来た気がします」
ユラリアは慎重に言葉を選ぶ。
リーシャや教授と出会ってから、理解というものにより一層慎重さを求めるようになった。同時に、そのことを自分でも自覚していた。
「うん、だから私たちは酸素が必要なんだよ。その電子伝達系には酸素が必要だから。息を吐くとき二酸化炭素が増えるのはTCAサイクルの影響で、酸素が減るのは電子伝達系のせいなんだ」
二人は少し黙り込んだ。近くで他の学生たちが談笑する声が聞こえる。
それらを聞きながらユラリアは、ふと疑問に思う。
「酸素が呼吸に必要らしい、ということは昔からわかっていました。ですから、第二級風空魔法『酸素廃絶』が戦闘用の魔法としてあるわけですが……」
禁忌魔法という区分が出来たのは、比較的最近の話である。
その区分が明確に定められたのは、大戦によって数多の非人道的魔法が開発され、無益かつ凄惨なだけの殺人が横行してからのことである。
故に、大戦以前に開発された階級魔法の一部には、現在ならば禁忌魔法に分類されるものが実在していた。
そのうちの一例が、第二級風空魔法『酸素廃絶』である。
「それの対抗策として、第四級風空魔法『呼吸源創造』の開発が行われました」
第四級風空魔法『呼吸源創造』は、第二級風空魔法『酸素廃絶』とは対称的に酸素を空間に補充する魔法である。
緻密かつ、洗練された魔法陣により構成されているその魔法陣は、第二級風空魔法『酸素廃絶』よりもよっぽど消費が少なかった。
故に、大戦において『酸素廃絶』が使われることは少なくなった──のだが。
「しかし、その開発史にこう書いてありました。『酸素補給の効果は強ければ強いほど良い。そう思い、魔法陣の変換効率を理論上最大のものにしたが、実験してみたところ皆死亡する。むしろ、『酸素廃絶』をかけることで生還する例さえあった。故に、変換効率を意図的に低減させたものを、『呼吸源創造』とした』と」
それが示すことは、酸素というのは多ければ多いほど良いというわけではないこと。
それどころか、酸素は毒にすらなりうるということ。
「なら……何か別の理由があるのかもね。酸素があると困る理由、みたいなものが。例えば、そういう経路があったり?」
疑問は立ててみたものの、二人にはその疑問を解消する手立てがなかった。
それでも、この時間を二人は楽しむことが出来ていた。
「……こうやってエネルギー代謝の話を聞くと、自分の体の中でも今まさに解糖系とかが動いてるんだなって思うよね」
ユラリアはノートに書いたことを思い出すようにしながら、返答する。
「そうですね。私、朝食べたパンも今グルコースになって、GLUTを通って細胞に取り込まれているんですね」
リーシャは軽く笑う。
「正確にはSGLTもあるらしいけれどね。GLUTってかわいい名前だよね。グルットって。この講義、こういう細かいところにも面白さがいっぱいじゃない!? 食べ物と化学反応が全部繋がってるっていう──例えば、このGLUTを塞いじゃえば……太らなくなったり?」
ころころと表情と声色を変えながら。それでも、全てに対して本気で向かいあっているリーシャを見て、ユラリアは思わず笑みをこぼす。
「そういう単純な話ではないと思いますよ」
「でも体の仕組みを理解して……それを応用できたらもっといいよね」
「応用……魔法に、ということですか?」
リーシャは少し興奮した様子を見せる。
「そう! 例えば、解糖系を活性化する魔法とか考えられないかなって。でも教授に言ったら『危険だからやめて』って言われちゃった」
大袈裟に肩をすくめる。
「エネルギーが出来るので、ダメなことはあんまりないように思えますが……どうして、危険なのでしょうか」
「ほら、魔法陣って基本的に出力が一定じゃん? だから、細かい調節が必要な反応とかに使ったら危なそう……みたいな話だと思う。でもでもっ、理論的には可能なはず。マグネシウムを操作する魔法とかもね」
「マグネシウム……そういえば教授が解糖系の酵素にはマグネシウムが必要だって言ってましたね。不足すると解糖系が回らなくなるとか」
リーシャは指をぴんと立てる。
「そう! だから偏食はダメなんだってね! 魚介類や海藻、豆類、穀物……いろんなものからマグネシウムを取らないといけないんだよね」
「私は後半のGPCRの話も気になります。G蛋白質共役型受容体……長い名前ですね。どんな風にお話が展開されるのでしょうか」
リーシャは、むむむと唸って見せてから笑顔を顔一体に浮かべる。
「きっと、
休憩時間の終了が近づいていることに気付いた二人は、話を切り上げて座席へと戻る。
「じゃあ私語は控えてね。後半の講義を始めるから」
教授の声が、響く。
集中するぞ、とリーシャは一度深呼吸をして……この間にもTCA回路と電子伝達系が動いているんだろうな、と考えた。