『TS薬を開発したいだけの異世界薬理教師』   作:  

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第五講義『運動と感覚って、何?』

 ◇◆◆◇

 

 

 クラーク数という、ちょっと古い概念がある。

 大雑把に言えば『地球の表面に存在する元素の量ランキング』のこと。

 

 一位から順に酸素、ケイ素、アルミニウム、鉄、カルシウム、ナトリウム、カリウム、マグネシウム、水素、チタン、塩素、マンガン、リン、炭素、硫黄……とランキングは続いていく。

 

 生体について考える時、今あげた十五位までに重要な元素のおおよそが集まっているのは、不自然なことではない。

 

 今回話すつもりでいる話にも、カリウム、ナトリウム、カルシウム──あと、時間があれば塩素が出てくるからね。

 

 ただ、この惑星が地球と同一の組成で構成されている保証はない。なので、もしかしたら体の仕組みも違うかもしれない。

 そんなことを思い立ったのが、初回の講義を始める三週間前。

 

 とはいえ人間を実験体に使うわけにも行かないので、カエルやラットを用いて幾つかの実験をした。

 ワルファリンやバソプレシンに、レセルピン。分子構造を偶然覚えていた薬剤を魔法で作成し──そして、想定通りの反応が起きた時は安心出来たよね。

 

 というわけで。

 

「今日は、前回までとはちょっとだけ別の話をしようと思う。今日の主題は『考えたことが、運動になるのはどうして?』っていう話──その、概論ってところかな」

 

 右手を動かしたいと思えば、右手が動く。

 一見すると当然なこの現象は、落ち着いて考えると意味がわからない。

 どういう経路を通って、どういう仕組みで動かせているのか。

 といっても、今日だけで全部やろうと思ったら前回以上の分量になりかねないから、やらないけれども。

 

「じゃあ、まずは最初。『脳で考えたことが、神経を通って、筋肉に伝わる』──此処は大丈夫?」

 

 大体の人が頷き、おおよそ一名が勢い良く手をあげる。

 

「大丈夫じゃないです!」

 

 なら、その約一名に向けて詳しい話をちょっとだけするとしよう。といっても、私は脳の神経回路について詳しいわけじゃないから、完全な説明は出来ないけれど。

 

「じゃあちょっとだけ詳しく話そう。まず、大脳と呼ばれる部位の一次運動野──M1なんて略されることもある部位で、ここで運動せよっていう指令が統合(・・)される」

 

 まあM1という略し方は様々なものと被るから、使うときは分野とかを気を付けなきゃいけないけれど。

 

「なんで一次運動野がそこに存在するの? っていうのは、こう考えてみればいいかもしれない」

 

 大脳の模型を投射し、その頂点付近を光らせる。

 Brodmannの分類っていう大脳の分類的に見るなら、4野だね。

 

「ここの真下には脊髄があるから、大きく曲がることなく直線的に信号を伝達することが出来るとか。一次体性感覚野──体の感覚が届く部位と近くだから、それの応答(フィードバック)を上手くやりやすいから、とかね」

 

「教授! 一次運動野で統合(・・)するっていうのはどういうことですか? その前が何かあるっていう意味にしか聞こえません!」

 

 今回、無事に予定していたところまで辿り着けない気がしたよね。

 

「さっきあげた一次体性感覚野や、視床っていう部位からの情報を統合しているよ。ちなみに視床は、小脳や大脳基底核っていう部位からの影響を強く受けている──って続くけれど、こういう話をしていると、本日の主題に帰ってこれなくなってしまう。だから、それはそれとして別の講義で紹介するとして」

 

 やらないとは言わないよ。

 詳しく知らないだけで、その数少ない知っている部分を伝え渋る理由もないからね。

 

 例えば。今は一緒くたに視床って表現したけれど、実はその視床って部位にも色々あるとか。

 でも、思っている何倍もここらへんは複雑だっていうのも事実。

 

 例えば、視床の中の後腹側核群(nucleus ventralis posterior)は、更にVPM核とVPL核に分類される。

 VPL核は内側毛帯脊髄視床路っていう経路からの入力を受け、VPM核は三叉神経視床路っていう経路からの入力を受けて──みたいな。それこそ、ここらへんで講義を何回か潰せる気がするよね。余裕で。

 

 今回の話に関係ある話で言うなら、視床の非特殊核って呼ばれるグループの中の、正中中心核。ここは一次運動野からの入力(影響)を受けて、大脳基底核って呼ばれる部分に出力(影響)する。

 そして、大脳基底核って呼ばれる部分の機能の多くは抑制(・・)する流れで、この大脳基底核は結局一次運動野に影響を与えているから──みたいな話もある。

 

 要は、とっても複雑ということ。余談として処理出来ない程度には。そしてそういう複雑な経路をしているからこそ、繊細だったりもするわけで。

 

「ともかく。今理解したいのは、一次運動野で『運動したい』っていう指令が統合されて、始まる(・・・)と考えてもらっていい。それの調節機構とかを話すには、ちょっと必要な前提知識が多すぎる。『実践魔法演習A』の初回実習で第一級火炎魔法を使ってみてください、って言われたら困るでしょ?」

 

 昔、そういう準教授がいたらしいけれどね。

 で、その教室の教授とよく方針で喧嘩していたとかなんとか。

 

「さて、ともかく一次運動野──正確には、その中にある巨大錐体(ベッツ)細胞という細胞などから、いよいよ脊髄に向けて『信号』が出力される」

 

 一次運動野……というか、大脳の表面側。大脳皮質って呼ばれる領域は、大体六つの階層構造に分けられている。

 単純に『第Ⅰ層から第Ⅵ層だよ』っていう紹介でもありだけれど、一応名前がついてはいる。

 

 外側(第Ⅰ層)から順に分子層、外顆粒層、外錐体細胞層、内顆粒層、内錐体細胞層、多型細胞層。

 当然名前を分けているっていうことで、それぞれ機能が違うし、それぞれ細胞の形も変わってくる。

 

 そして、同じ大脳の表面側(大脳皮質)でも場所によってどこの層が発達しているかっていうのは違う。

 今回の主軸である一次運動野では、第Ⅴ層──内錐体細胞層が発達しているけれど、感覚野ではあんまりで、その代わりのように第Ⅳ層(内顆粒層)が発達する、とか。

 

 で、星状の細胞が集まる第Ⅳ層(内顆粒層)は視床の特殊核っていう場所からの『信号』を受ける場所であって、特殊核には視覚や聴覚からの入力を受ける場所があったりするから──感覚野で第Ⅳ層(内顆粒層)が発達しているのは納得が行くよね、みたいな。

 

 ちなみに顕微鏡で見ると、この層構造は思ったよりはちゃんとハッキリ分かれてるし、そう聞いた上で見に行くと思ったよりは層の境界がハッキリしていない。

 

 で、話を戻すと一次運動野に存在する巨大錐体(ベッツ)細胞はこの中の第Ⅴ層に存在したりする。内錐体細胞層だね。

 もちろん、じゃあこの細胞以外から出力が出ていないかって言われると、そんなことないんだけれど。

 

「そうして一次運動野から出力された『信号』は、内包と呼ばれる部分を通る。まあ、正確には内包の後脚って呼ばれる部分だね。ちなみにこの内包っていう部位は、結構肉眼でも他の場所と区別出来るよ」

 

 右脳を水平に切断して、上から見ると明確に『く』の形になっている白い部分があるからね。

 写真を完全記憶出来るだけの能力が、私の脳にあったら良かったんだけれど、生憎とそこまで優秀じゃないもので。

 

「内包は前脚、膝、後脚に分けられている。そして、その部位は単純に見た目から付けられただけじゃなくて──きちんと、通っているものが違う。何なら、後脚だけに限っても、今話している『一次運動野からの経路』以外にも色々通っているからね。そして、内包後脚の中でも色々ある」

 

 例えば、皮質赤核線維とか皮質橋線維とか、皮質網様体線維とかも。ちなみにこれは大体『一次運動野からの経路』の調節をしてくれるから、内包にダメージがあると運動系に多大な問題が発生する。そして、ダメージは物理的なものに限らない。

 

「内包の後脚──その真ん中付近に栄養を与えている動脈に前脈絡叢動脈って呼ばれる血管がある。そして、内包後脚の真ん中付近は『一次運動野からの経路』の中でも、『一次運動野からの下肢()に向かう経路』が通っている。だから、前脈絡叢動脈が何かの理由で詰まると、足が上手く動かなくなったりする」

 

 まあ、そんなこと知っていても薬剤じゃ治しようがないことが多いんだけれど。

 それに下肢の運動に難が出てくるのは当然ながらこれだけが原因っていうわけでもない。例えば腰あたりの神経が圧迫されていたり、深腓骨神経っていう足の骨近くを通っている神経がダメージを受けたりしても、ちょっと症状は違うけれど『足が動きにくく』はなる。

 

「で、その内包後脚を通ってから大脳脚を通り、延髄って呼ばれる脊髄の上のほうにある部位へと向かう──この、一次運動野からの経路を、『皮質脊髄路』って呼ぶ。名前の由来は大脳皮質から脊髄へ向かうから。わかりやすいね」

 

 ちなみに別名として、錐体路っていうのもある。

 巨大錐体細胞が始まりだから。

 

「教授! どうしてここで名前を登場させたってことは……この後、何か分けられたりするんですか?」

 

 ご名答すぎる。

 このまま素直に全身の筋肉に繋がっているなら、皮質運動路みたいな名前にしておけばいい。でも、このまま素直に真っ直ぐ向かってくれるわけじゃないから。

 

 一方ユラリアは沈黙を貫いている。

 まあここらへんは、リーシャが好きそうな範囲だからね。逆にユラリア視点だと『なるほどね』の連続にしかならない。追加の質問をする余地がないとでも言えばいいのかな。

 

「さて、じゃあ皮質脊髄路はこの後どうなるか。おおよそ80%の皮質脊髄路は錐体交叉っていうところで、左右が交叉している。これが80%なおかげで、左側の脳では右半身の運動を、右側の脳では左半身の運動を制御しているっていう機構になっていて」

 

 一方、と少し食い気味に言う。

 

「20%は錐体交叉で交叉せず、そのまま真っ直ぐに降りてきてくれる。交叉する方の経路を『外側(がいそく)皮質脊髄路』。交叉しないほうの名前を『内側(ないそく)皮質脊髄路』って名前がついている」

 

 ちなみに錐体路の系列でいうなら、順番に錐体外側路と錐体前索路。何なら、内側皮質脊髄路は腹側皮質脊髄路なんて呼ばれてもいる。

 

「外側とか内側の名前は、脊髄の何処を通っているかだね。内側……もとい、お腹側(・・・)を通っているのが内側皮質脊髄路(交叉しないほう)。一方で外側皮質脊髄路(交叉するほう)は外側……まあ、大体端っこにある」

 

 いやまあ、思ったよりは外側じゃないけれども。

 脊髄──正確には脊髄の白質(見た目が白いところ)は、思ったより色々な経路が通っている。

 

 というか、それはちょっと考えてみれば当たり前のことである。今長々と話している皮質脊髄路は、外側にしろ内側にしろ、脳からの運動命令しかしてくれていない。

 

 例えば、全身で感じた感覚は何処を通って脳へと送られるのか。温度の感覚はどうなのか。痛みの感覚はどうなのか。

 

「脊髄にはそれ以外にどんなものが通っているか。その例を出すと、『全身で収集(・・)された感覚(・・)情報が神経を通って脊髄後角って呼ばれる部位に届けられ、それが交叉して反対側へ。で、その後(・・・)脊髄のある部位を通って頭の方向へと向かって、視床のVPL核って部分を通ってから一次体性感覚野に信号が届けられる』経路や、交叉するところまでは同じで、そこから視床の髄板内核って言う部位を通って、大脳の外側(大脳皮質)の色々な場所に信号を届けている経路があったりするよ」

 

 雑にまとめれば、感覚を伝える経路だね。

 

「ちなみに、これらを脊髄視床路と呼ぶ。注意ポイントは、交叉(・・)している場所。この脊髄視床路は交叉してから、脊髄を上行するってところだね」

 

 一方で今回の主題である皮質脊髄路は、脊髄を上行して錐体交叉っていう部位に辿り着いてから、交叉する。

 

 じゃあこれがどういう現象を生み出すのかっていうと──傷付いた部位によって何が出来なくなるのかっていうのが変化する。

 

「例えば、どこかの脊髄の右側(・・)──仮に、『C6神経(首の骨の間から出る上から六番目の神経)を出している脊髄の右側』にダメージが発生して寸断されたとする」

 

 そうすると、当然ながらそこらへんの脊髄から伸びている神経に支配されている領域は何も出来なくなる。

 まあ、これは良いとしよう。当然だねって感じ。

 

 同時に、C6神経を出している脊髄の右側だけしか寸断を受けていないんだから、左側のC6神経によって支配されている部位には、何の不自由もない。運動も感覚も何もかも自由自在。これもまだ良い。

 

 じゃあ、問題はここから。

 

「この時、『C6神経を出している脊髄の右側』が寸断されているとすると、これより下に信号が伝わらないし、ここを通る経路にして関してはここより上にも情報が行かない。これはわかる?」

 

 要は、『C6神経を出している脊髄の右側』を通る経路は脳に行くものも全身に行くものもダメになるってこと。

 注意点は、ここでダメになるって言っているのは『C6神経によって支配されている部位』じゃなくて『C6神経を出している脊髄の右側を通る経路』全般ということ。

 

「例えば、C6神経のひとつ下。C7神経によって支配されている領域はどうなっているかを考えよう。まずは、右側から」

 

 ちなみに、大体の場合『C6から出ている神経』はC6って省略される場合が多い。まあ最初からそれやると情報量の洪水になるけれど。

 

 さて、状況を整理しよう。

 右側のC7神経で収集された情報は、その高さにある脊髄で交叉する。

 つまり、右側で集められた情報は脊髄左側に。左側で集められた情報は脊髄右側に届けられる。

 そして、その左右を維持したまま脳の方向へと進んでいこうとする。

 

「今回の場合、問題が発生しているのは『C6神経を出している脊髄の右側』。だから、右側を通って情報を伝えようとしている方──つまり、今の具体例だと左側(・・)のC7神経によって集められた情報が、脳へと向かえなくなる。それをそれ以下でも同様に行えばわかるとおり、症状には『左側のC7神経以下の感覚(・・)麻痺』がある」

 

 簡単にまとめると、脊髄の右側に寸断が発生するとそれ以下の脊髄左側で支配されているところの感覚が減弱(・・)する。

 どうして喪失じゃなくて減弱って呼ぶかというと、この脊髄視床路以外にも感覚を伝える経路があるから。

 

 脊髄視床路が伝えるものを厳密に言うならば──粗大な(・・・)皮膚感覚や温痛覚。

 粗大なっていうのは文字通り、大雑把なって意味。

 

 だから、その他経路があるから喪失までは行かない。

 何なら、その他の経路が識別的(・・・)皮膚感覚……つまり、細かい感覚を伝えてくれるから、皮膚感覚に影響が出たと感じない場合すらある。

 

 更に細かいことを言うなら、粗大な皮膚感覚は外側脊髄視床路っていうところを通っていて、温痛覚は前脊髄視床路って部分を通ってる。つまり、脊髄視床路にも種類があるってこと。

 

 一説には、この粗大な皮膚感覚っていうのは情動系と結び付いているとも言われていたはず。だから、『母親に撫でられると落ち着く』みたいなのは、ここが影響しているよ、みたいなものも提唱されていた。

 

「で、次に。脳から降りてくる皮質脊髄路(運動指令の経路)は錐体交叉っていう脊髄の(あたま)のほうにある部位で交叉している。だから、『C6神経を出している脊髄の右側』に寸断が入ると、そのままそれ以下の右側全てに運動麻痺が発生する──みたいなことになる」

 

 つまり、大雑把にまとめると。

 

 C6神経を出している脊髄の右側を損傷したとすると、損傷した場所──『C6神経を出している脊髄の右側』に支配されている部分は、何も出来なくなる。

『C6神経を出している脊髄の左側』に支配されている部分には何の問題も発生しない。

 

 そして『C6神経より下(・・・)から出ている、右側(ダメージある側)の神経』によって支配されている部分は、運動麻痺が発生する。

 そして『C6神経より下(・・・)から出ている、左側(ダメージない側)の神経』によって支配されている部分は、粗大な皮膚感覚及び温痛覚麻痺が発生する。

 

「このように損傷箇所によって症状が結構変動してしまう。だから神経回路なんて知ったところでね、となられると困っちゃうことが出てくる」

 

 要は、こういう可能性があり得るってこと。

 

 左半身は温度を感じなくて、右半身は動けない。

 こういう状態の人が存在するっていうこと。この場合、一番上の脊髄神経あたりの右側を損傷しているんだなって、ここまでが理解出来ていれば判別出来る。

 

「この症状を抱えた人を目の前にした時に、第二級治癒魔法『感覚増強』を使ったところで、意味がない。あれが強化するのは、身体の情報収集(・・・・)であって、脊髄での経路じゃないからね」

 

 第二級治癒魔法『感覚増強』はまあ、地球の人類が待望していた感度増強魔法みたいなものだよね。

 ただあれの機構を調べていると、痛覚や……熱さを感じる感覚も増強されているから、思ったようには使えないと思うけれど。

 

 何なら、ちゃんと昔の戦争で拷問用に使われていた経歴が残っている。嫌な歴史ばっかり増えていくねって感じではある。

 

 一拍、時間を置く。

 そしてリーシャを含めて特に質問が出ないことを確認してから、少しだけ余談をする。

 

「そういえば、この間出した第四回課題の小テスト。予想よりも結構な割合の人が解いて提出までしてくれる、ということが起きて、ちょっと驚いたよ」

 

 具体的には、ここに来ている人の90%くらい。

 それを言うと、出していない人へのプレッシャーになっちゃうから言わないけれども。

 別に私は解いてくれって言ってるわけじゃないからね。気が向いたらどうぞってスタンスは崩さない。

 

 やる気があるなら歓迎するよっていうだけで。

 

「問一がひとつ六点で五問。問二がひとつ八点で五問。問三がひとつ十五点で二問。累計百点を上限として、採点してみたら、平均点が大体八十点代後半。こんなに良いとは思わなかったよね」

 

 範囲としては、解糖系及びグリコーゲン分解概論と受容体の阻害様式、そしてアゴニストやアンタゴニストとGPCR経由のシグナル伝達経路。

 

 異常に難しくしたつもりもないけれど、そんなに簡単にしたつもりもない。ちゃんと理論が追えているなら百点を取れる難易度。

 

 ただ、それは知っている人目線の話で生徒視点ではそうじゃない。だから、素直にすごいねっていう話。

 

「さて、じゃあ皮質脊髄路(運動指令を出す経路)に話を戻そうか──ああいや、もうちょっと付け加えておこうかな。さっきの話の続きで」

 

 本来なら、今回は神経細胞における活動電位の発生とかの話をしたかったんだけれど、時間的に無理そうなことはもう明確だから。

 今日は、皮質脊髄路をはじめとした脊髄関連の話で終わりにするとしよう。

 

「さっきみたいに、脊髄の片側に寸断なんかのダメージが発生して、症状が起きている状態をBrown(ブラウン)Séquard(セカール)症候群って呼んだりする。余力があれば、覚えておいてもいいかもね」

 

 症候群っていうのは、ある病気や状況によって引き起こされる症状の名前のことである。

 だから、病名は別になるっていうことには注意。

 

「さて、ここまでの話──主にブラウン・セカール症候群の話を理解出来た人は、ひとつ疑問を持っていてもおかしくない。ヒントは『ダメージを受けた脊髄の高さの、反対側の神経に支配されている領域には問題がない』ということ」

 

 少し、時間を置く。

 するとユラリアが手をあげる。どうぞ、と指名。

 

「脊髄視床路──感覚を伝える経路は脊髄に入ってすぐ交叉する……つまり、反対側へと向かう筈です。ならば、『損傷が発生した脊髄と同じ高さから出ていて、損傷が発生していない側の脊髄から出ている神経からの情報』は、その時点で寸断されている側に入ってしまうのではないでしょうか」

 

 その通り。

 さっきの具体例をもう一度登用するとしよう。

『C6神経を出している脊髄の右側』の寸断が状況であり、『C6神経を出している脊髄の左側から出ている神経』によって支配されている領域について、改めて考えてみたい。

 

 

 少し前に、私は『C6神経を出している脊髄の右側だけしか寸断を受けていないんだから、左側のC6神経によって支配されている部位には、何の不自由もない。運動も感覚も何もかも自由自在。これもまだ良い』という説明をした。でも、これは落ち着いて考えてみると()だってことがわかると思う。

 

『C6神経を出している脊髄の左側から出ている神経』によって支配されている領域、から収集された温痛覚や感覚情報は、その神経を通って脊髄に入る。

 通る経路は、温痛覚と感覚だから脊髄視床路と考えていい。

 

 なので、脊髄に入ってすぐに交叉する。反対側に行く。

 その時点で、寸断側(・・・)を通っているように見える。つまり、温痛覚や粗大皮膚感覚は減弱していてもおかしくはないということになるけれど──これは、どういうことなのか。

 

 そんなことを、ユラリアは問うている。

 

「良い疑問だね。暗記じゃなくて、きちんと理論で症状を追えている証拠。感覚情報を伝える神経線維は、脊髄内で交叉する。ただ、じゃあ何処で交叉するかっていうと、同じ高さとは限らない。脊髄に入った神経線維は枝分かれ(・・・・)をする。それも、結構様々に」

 

 そして、これが大事な機能を果たしている。

 ほら。脊髄反射(・・・・)とか聞くけれど、あれってどういうこと? みたいな。

 

 ここまでに話したことだけだと、毎回毎回律儀に脊髄視床路とかを通って脳まで信号を送って、統合して一次運動野で統合されて、皮質脊髄路経由で神経に──そして、神経から筋肉に伝わるという、長い経路を通らなくてはいけない。

 

 だから、全部が全部こんな経路を通っているわけじゃない。

 

「その枝分かれしているものの行き先は色々ある。『普段は脳からの運動指令を伝導している神経』を興奮させるものもあれば、交叉する前にちょっとだけ上に行くものもある。もちろん、そのちょっと上(・・・・・)で交叉するんだけれどね。そして、他にも色々枝分かれがあって、複雑なんだよね」

 

 

 ただ、上に行くものとかは錐体交叉まで交叉せずっていうのはない。その前にちゃんと交叉する。

 

 ああ嘘嘘。本当に少しだけ、延髄っていう錐体交叉よりちょっと上まで行く神経線維(えだわかれ)もある。生物って例外ばかりで嫌になってくるね。

 でも、これは(・・・)そんなに気にする事項じゃないので、一回パス。

 

「だから、その『ちょっと上で交叉する』枝分かれがあるからそこまで問題にならない。そっち経由だと、ちゃんと脳まで届いてくれるから」

 

 というわけで、これにてBrown(ブラウン)Séquard(セカール)症候群のお話は九割ぐらいは終わりかな。

 

「で、今言った枝分かれのひとつ。『脳からの運動指令を普段は伝導している神経』を興奮させるものがあるから、我々人類は脊髄反射という行動が可能になる。つまり、火炎魔法の事故で高熱のものが腕に降りかかった時に、素早く筋肉を動かしているのは、この経路が活性化されている」

 

 熱い鍋を持った時に、手を引っ込める反応と言ってもいいけれどね。こういうのは、熱さ(・・)の情報を収集した後に、脊髄の中で枝分かれが発生し、『脳からの運動指令を普段は伝導している神経』を興奮させて、手の筋肉が動く。

 それとは別の枝分かれが脳に向かう脊髄視床路を通り、脳へと伝わる。そして、『熱っ!』という思考(・・)になる。

 

 ちなみに余談だけれど、刺激(・・)がとても強い──例えば画鋲を足で踏みつけた、とかだと交叉性反射(・・・・・)という名前の反射が起きたりする。

 右足で画鋲を踏んだとしたら、右足は縮むし、左足が伸びる(・・・・・・)みたいな。

 これに関係する神経関連のお話は、どこが時間があるタイミングで。

 

「これで、ブラウン・セカール症候群とその周辺に関する大体の話題は終わったかな。ということで、今日の課題は今話した、大体以外(・・・・)の部分。『ブラウン・セカール症候群の人は、損傷した脊髄部位の少し上で、感覚が過敏になるという訴えをすることがあるが、これは何故だと考えられるか』──今回の話だけだと説明がつかないはずだから、自由に考えてみて欲しい」

 

 ちなみに、大雑把な答えはこう。

 

 脊髄に入った感覚神経は、枝分かれをする。

『ちょっと上に行ってから交叉するものがある』はらば、『ちょっと下に行ってから交叉するものがある』ことは、極めて異常ってわけじゃない。

 

 で、今回の問題はその下に行く枝分かれ。

 これはちょっと下で交叉してから脊髄視床路を通るわけだけれど、交叉した後に脊髄視床路につながるところが断線している、というのが損傷。

 

 で、この途切れた切れ端(・・・)が、切断神経腫(amputation neuroma)と呼ばれるものになる。

 この切断神経腫というのは、何があるわけでもないのに、自発的に信号を脳に送ろうとする電気信号を発してしまう。

 だから、刺激がなくても痛みを感じたりもする。

 

 というか、確か幻肢痛──無い筈の四肢が痛むっていう症状の原因のひとつに、これがあった筈。

 

「さて、じゃあ最後に皮質脊髄路(脳からの運動指令経路)の話をちょっとだけして終わりにしよう。ここまで、一次運動野、内包後脚、大脳脚と来て──外側皮質脊髄路は錐体交叉で交叉。内側皮質脊髄路はそのまま下りて、それぞれの経路で脊髄を下ってくる。で、それぞれの神経から出ているという話はしたけれど……」

 

 ここまでが今回の覚えておきたいポイント。

 

 追加して覚えるなら、皮質脊髄路のうち80%が外側皮質脊髄路(交叉するほう)で、20%が内側皮質脊髄路(交叉しないほう)だっていうこととか。

 

「実のところ外側皮質脊髄路は主に手足の先のほうに繋がっていて、内側皮質脊髄路は主に体幹や手足の根元のほうに繋がっていてる、っていうお話があったりもする」

 

 これにも、ちょっと面白い考え方があったりする。

 外側皮質脊髄路のほうが生物の進化の歴史的に新しい経路である。だから、手足の先──つまり複雑な動き(・・・・・)が出来るのかもしれない、なんて考え方。

 

 そういえば、外側皮質脊髄路に名前が似ている存在として錐体外路っていうのがある。こっちは大脳基底核って部位から脊髄に下りていく経路のことなので、きっちり別物。

 

「──じゃあ、定刻だから。また来週」

 

 

 

 ちなみに今回の話と2ミリメートルくらい関連する話で、現在進行形で私が困っている話がTS薬作成関連であったりする。

 

 男女っていうのは、単純な見た目や臓器の話だけの区別じゃない。例えば男性系の性行動は視床下部っていうところの、内側視索前野という部位に強く影響を受けていて、一方で女性系は腹内側核や弓状核に強く影響を受けている。

 

 で、現在女性に変わっているわけだけれど──明らかにその優位バランスは変化している。だというのに、記憶や思考回路はそこまで変化していない。

 言い換えよう。脳のある部位は明らかに変化しているけれど、ある部位は変化していないっていうことが推測される。

 

 これ、『TS薬』ってどうやったら作れるんだろうね。本当に。

 

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