『TS薬を開発したいだけの異世界薬理教師』   作:  

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第十課題『矛盾の存在証明』

 ◇◆◆◇

 

 提出者:ユラリア・ウィンターフィア

『薬理学理論』レポート課題10

 

 1.序論

 

 本レポートでは、細菌が血液内に侵入した際に組織因子が産生され、その結果として多臓器不全が発生するメカニズムについて考察する。敗血症における病態生理学的変化を止血機構の観点から分析し、全身性炎症反応と凝固異常の関連性について論理的に検討することを目的とする。

 

 2.血液内の細菌と組織因子産生の関係性

 

 細菌が血液内に侵入すると、以下の経路で組織因子の産生が促進される。

 

 2-1.組織因子の発現誘導

 2-1-1.血管内に細菌性が侵入することで内皮細胞や単球表面での組織因子(血液凝固第Ⅲ因子)の発現が誘導される

 2-1-2.通常は血管内腔側には存在しない組織因子が血液に直接暴露されることになる

 

 3.組織因子による凝固カスケードの活性化と多臓器不全の発生機序

 

 3-1.凝固カスケードの過剰活性化

 3-1-1.組織因子(Ⅲ因子)は外因性経路を活性化し、最終的にⅩ因子を活性化し、共通経路を経てトロンビン生成を促進する

 3-1-2.通常は局所的に制御されるべき凝固反応が全身性に起こる

 

 3-2.微小血栓の形成

 3-2-1.過剰に産生されたトロンビンによりフィブリノゲンからフィブリンが形成される

 3-2-2.血小板の活性化と集積が促進される

 3-2-3.全身の微小血管内に微小な血栓が多発的に形成される

 

 3-3.凝固制御機構の破綻

 3-3-1.アンチトロンビンやプロテインC経路など、通常の凝固抑制機構が、微小血栓の融解に消費され、低下する

 3-3-2.組織プラスミノゲン活性化因子抑制物質の増加により線溶系も抑制される

 3-3-3.凝固と抗凝固のバランスが完全に崩れる

 

 3-4.多臓器不全への進展

 3-4-1.微小血栓による臓器微小循環の障害が発生する

 3-4-2.重要臓器(腎臓、肺、肝臓、脳など)への血流が減少し、組織虚血が生じる

 3-4-3.虚血による組織障害が進行し、臓器機能不全へと発展する

 3-4-4.複数の臓器が同時に機能不全を起こす多臓器不全状態に至る

 

 3-5.消費性凝固障害の発生

 3-5-1.過剰な凝固反応により凝固因子や血小板が消費される

 3-5-2.出血傾向と凝固亢進状態が同時に存在する矛盾した病態となる

 3-5-3.臓器障害がさらに進行し、悪循環を形成する

 

 4.結論

 

 細菌が血管に入った場合において、組織因子の産生増加は凝固経路の全身性活性化を引き起こし、微小血栓形成による組織灌流障害と、凝固障害を同時に引き起こす。この機序により、複数臓器の機能が同時に障害される多臓器不全に至ると考えられる。

 


 

 

 提出者:リーシャ

『薬理学理論』レポート課題10

 

《はじめに》

 今回は「細菌が血液中に入ると組織因子が作られて多臓器不全になる理由」について考えていきます! 血液の中に細菌が入るなんて大変なことなのに、なぜそれが全身の臓器に影響を与えるのか、止血の仕組みから探ってみました! 

 

 

《止血システムの暴走!》

 

 講義で学んだように、組織因子は外因性経路の始まりです! ここからどんどん凝固因子が活性化されていきます! 

 

 組織因子が活性化されると、外因性経路に関与するⅦ因子やⅩ因子が活性化し、トロンビン生成が生成されます! 

 で、その結果としてフィブリンが形成され、血栓が出来ます! 

 

 ここで、本来なら通常なら傷口だけで起こるはずの反応が、細菌が血流に乗って全身を流れるので、全身で起きてしまいます! 

 

《微小血栓の形成と臓器障害》

 

 全身の血管で作られた組織因子によって

 

 ・小さな血栓がたくさんできる! 

 →これが血管をふさいでしまう! 

 →臓器に血液が届かなくなる! 

 →酸素や栄養が足りなくなって臓器が機能しなくなる! 

 

 しかも複数の臓器で同時に起きるから「多臓器不全」になるんです! 

 

《止血制御システムの崩壊》

 

 講義で習った止血を調整するシステムも壊れてしまいます! 

 

 ・アンチトロンビンが消費されてしまう! 

 ・プロテインCが十分に働けなくなる! 

 ・血小板やフィブリノゲンなどの凝固因子も使い切ってしまう! 

 

《結果》

 

 →血栓ができやすい状態と出血しやすい状態が同時に存在する怖い状態になる可能性が高いです! 

 

《悪循環の発生!》

 

 そして最悪なことに、悪循環が発生します! 

 

 臓器障害→もっと組織因子が出る→もっと血栓ができる→もっと臓器障害が進む

 

 この悪循環を止められないと、どんどん状態が悪化していきます! 

 

《まとめ》

 

 細菌が血液中に入って組織因子が作られると、全身で止血システムが暴走して、本来傷口を守るはずの仕組みが体を攻撃する状態になります! 微小血栓によって臓器の血流が悪くなり、複数の臓器が同時に機能しなくなる「多臓器不全」に至るんです! 

 細菌そのものだけでなく、この凝固系の異常も命に関わる大きな問題なんですね! 

 

 

 

 


 

 

 

 ◇◆◆◇

 

 深夜。

 学院寮から少しばかり離れたところにある、公園で二人は向かい合う。

 

「個人的には、神様が実在しているかしていないかはどうでもいいと思ってた。ホントに大事なのは、その考え方が、皆の中に共有されているかだけで」

 

 リーシャは目の前にいる法衣を被った人間に対して、堂々と断言する。神の実在・非実在性について興味はなかったと。

 

「だから、私は聖典(・・)の存在は尊敬していた。実在性の証明不能な存在を、なるべく皆に共有するための文章。カタチとしてあるわけじゃないものを、カタチに落とし込んでいるから」

 

 リーシャは、本心から聖典というものの存在を尊敬していた。自分には今のところ出来ていないことを──形而上存在を形而下に変換するということを、実現した偉人がいたのか、と。

 神と聖典の関係をリーシャが初めて知ったとき、抱いた感想はそれ(・・)であった。

 

 むしろ、だからこそ。

 実在非実在問わずに『実在するもの』に落とし込むという暴挙が実現された具体例があるからこそ、リーシャは『権能返却』と『権能読込』という魔法を作成することが出来たとすら思っていた。

 

「一つの『嘘かもしれない話』で、沢山の人の心を助けるのって難しいのは、私だってわかるから。皆で作る大きな舞台みたいなものっていう見方も出来るでしょ?」

 

 リーシャにとって司祭は。教会関係者というのは身近な存在であった。幼少期からたびたび孤児院に遊びに行かされていた──或いは自発的に行っていたリーシャにとって、教会関係者は親しみ深い存在でありながら、謎の存在だと考えていた。

 

 尊敬、疑問。様々なものが同時に存在する不可解なもの。

 リーシャにとって、教会というのはまさしくそういう(・・・・)ものであった。

 

「私からすれば。聖典は実在して、その聖典によって生まれた幸福(・・)も実在する。だから、言い方を変えれば──『神の定めたルール』と『神の与えた幸福』、そして『神を信じる人』は実在する。でも、神の実在性は証明されていない。そう思えるんだけれど」

 

 純粋に、リーシャは疑問を呈する。

 論破したいわけでもない。貶す意図などない。

 ただ、気になり、そして誰も答えてはくれなかった問いへの返答権限を持ち得る人が、存在したから。

 リーシャの質問理由は、それだけだった。

 

「──どうなの? 主席枢機卿さん」

 

 問を受けた主席枢機卿──同時に異端審問会審議長でもある人間は、返答する権限を持ち合わせていた。

 それは、どちらの立場としても。

 

「それに関する解釈があります」

 

 枢機卿は言う。

 リーシャの神性の否定に近しい言葉を聞いても、動揺した表情は見せない。

 教会の歴史は長い。最も歴史の長い集団である王国程とは言わないものの、現存する集団の中で二番目に長い教会という集団は、あらゆる批判と猜疑を受け続けてきた。

 それは時に教会の解釈を揺るがし、時に教会の解釈を補強する材料となってきた。長期間に及ぶ疑義と反駁は、並大抵の発想程度では潰れない強固な土台を形作る要因となっていた。

 

「一つ目は、聖典というのは『神の定めたルール』ではないという解釈です。聖典は、神の行動や言葉を書き留めたものであり、その意味を真に我々人間が汲み取ることが出来ているかは別の問題である──つまり。『聖典』と、『聖典の言葉の意味』は別の存在だという考え方です」

 

 枢機卿は少し考える素振りを見せてから、例え話を始める。

 説法においては、単に聖典の文字を読み起こすだけでは何の意味も持たず、多少の正確性を削ぎ落としてでも多くの人に伝える技能が重要視されていた。そして、主席枢機卿という立場はその技能を最もよく利用する立場でもある。

 

「……じゃあ、聖典の解釈(・・)を間違えている可能性もあるよね。というか、そもそも神の実在・非実在が不明な以上──意味の解釈に正解(・・)があるのかも、わからないよね?」

 

「正解の実在性は、創り手の実在性と同じ問題です。教会にとって最も大事なのは、聖典の存在でも『神』の存在でもありません。大衆の信仰(・・・・・)であり、それによってもたらされる幸福です」

 

 リーシャはその言葉を聞き、ようやくユラリアが教会を警戒視している理由を理解する。

 大衆の信仰こそが、教会の要である。それが意味することは、()や思想がどの方向に向けられているのかを規定することが重要であるということ。

 

 人類の思想の方向性を定めるというのが、世界にどれほどの影響を与え得るのかというのは、リーシャですら理解出来る。だからこそ、統治者であるユラリアは懸念するのだと。

 

「そして、大衆の信仰を得る為には『聖典の正統性(・・・)』こそが肝要になります。誰もがそれを見て、正しいと考えることこそが重要となってきます」

 

 枢機卿には、自らの言葉が少し行き過ぎたものだという自覚は存在していた。本来ならば、教会的には何の役割も背負っていない一人に話すには、少しばかり核心的過ぎる話である。

 聖典の正統性は、聖典の意味解釈が正統であるから成立する。そして同時に、聖典の証拠となる創り手(・・・)が存在するからこそ、担保されるものである。

 簡便にまとめるのならば。『神』が実在しなければ、聖典の正統性は実在しない。故に、大衆に対して『神』が実在すると信じさせ続けなければならない。

 

 故に、本来ならば主席枢機卿という立場から今の発言をすることは許されない。だが、目の前の人間がその誤魔化し(・・・・)に近い論法を見逃してくれる存在ではなさそうなことを、枢機卿自身の経験が感じ取っていた。

 

「じゃあ、教会は『神』が存在するって常に断言しなきゃ──ああ、そういうこと! そのうち、『神』の実在と聖典の実在は混同(・・)される」

 

 枢機卿は目を細める。

 リーシャの鋭い洞察力は噂に違わなかった。確かに教会にとって「神の実在性」と「聖典の正統性」は不可分の関係にあり、多くの場合、一般信徒の意識の中で両者は混同されていく。

 それは避けられない心理的な作用であり、教会はそれを理解した上で意図的に布教を続けてきている。

 

「その通りです。ただし『混同』というより、『同一視』という表現が適切かもしれません。一般の信徒にとって、聖典の存在と神の存在は表裏一体のものです」

 

 リーシャは口元に指を当て、思考を巡らせる。

 

「でも、それって本当に正しいことなの? 嘘をついてまで、人々を信仰へと導くことが」

 

「嘘という表現は少々適切ではないでしょう。むしろ『解釈の一形態』と言うべきです」

 

 枢機卿は穏やかな声で続ける。

 

「例えば、この世界における『魔法』という現象を考えてみましょう。魔法は確かに存在し、我々はその効果を目の当たりにしています。しかし、魔法という現象を支える『魔素』とは何か。それは目に見えず、触れることもできない存在です」

 

 リーシャは少し身を乗り出した。

 

「でも魔素の存在は、実験によって証明されてるよ」

 

 その反論が弱いものであるということは、リーシャにもわかっていた。他ならぬリーシャ自身が実在性を疑っている一人なのだから。

 

「その通りです。しかし、魔素を直接見た人間は一人もいない。その効果から存在を導き出しているだけです。神の存在も同様です。直接見たものはほとんどいませんが、聖典に記された神の言葉と、それによってもたらされる社会の安定や人々の心の平穏は、確かに存在するのです」

 

 リーシャは少し考え込む。彼女の瞳には知的好奇心が宿っていた。ぐるぐると思考が回転し、態度からして楽しんでいることが見て取れるほどになっていた。

 

「それは論理の飛躍だと思う。魔素と神を同列に扱うのは違和感がある。魔素は実験によって検証可能だけど、神はそうじゃない」

 

「検証方法の違いはあれど、どちらも『目に見えない何か』が『目に見える効果』を生んでいるという点では共通しています。教会にとって重要なのは、神の実在証明ではなく、神の教えが人々の生活をより良いものにすることです。貧しい者への施し、争いを避けること、他者を思いやること──これらの教えが社会に安定をもたらしているのは事実です」

 

 リーシャは首を傾げる。

 事実と仮定は区別しなくてはいけない。そして、証明すべき命題は明確にしなくてはならない。それがリーシャなりの世界への向き合い方だったから。

 

「だとしても、それは『社会秩序維持装置』としての教会の役割であって、神の実在とは関係ないんじゃない? ユラリアが教会を警戒しているのは、その社会秩序維持の力があまりにも大きいからなんだろうけれど」

 

 リーシャからすれば、そんなもの(・・・・・)に興味はなかった。社会秩序が維持されようと、人類が幸福になろうと、それは『神の実在性証明』には関与しない。

 

 枢機卿は感心したように頷いた。

 そして、敢えて後半の問いを拾いあげる。

 

「確かに王権と教権は歴史的に対立してきました。しかし、それはどちらが優れているかという問題ではなく、両者がどう協力して社会を支えるかという問題のはずです」

 

 枢機卿には理想論を語っている自覚があった。

 それらが現実に叶っているかといえば、そんなことはない。王宮でも教会でも魑魅魍魎による血塗れの権力争いは実在する。だが、かたり(・・・)続けなければならない。

 

「教会の役割は単なる『社会秩序維持装置』を超えています。我々は『意味』を提供しているのです。なぜ生きるのか。なぜ善行を為すべきなのか。死とは何か。これらの問いに対する答えを探る手助けをしているのです」

 

 リーシャは少し考え込んだ後、再び質問する。

 

「でも、その『意味』を提供するために、実在するかわからない神の存在を前提にするのは、論理的に弱いと思う。絶対にそれだけじゃない、もっと別の基盤や構造があるはず」

 

「実は教会内部でも、神学者たちの間でも、そのような議論は常に行われています。神の存在を前提としない倫理観や社会規範について──」

 

「それって、教会内部でも神の存在に懐疑的な人がいるってこと?」

 

 リーシャは瞳を輝かせた。

 返ってきたものが予想外に面白い返答であったから。

 誤魔化されていない。そうリーシャが感じ取れていたから。

 

「懐疑的というよりは、信仰の形態や解釈の多様性を認めているということです」

 

 枢機卿は慎重に言葉を選ぶ。

 

「教会は一枚岩ではありません。様々な考えが交わり、議論され、時に対立することもあります」

 

 夜風が二人の間を吹き抜ける。公園の外には人通りがなく、閑散としていた。

 枢機卿は少し間を置いてから続ける。

 

「私から質問させていただいてもよろしいでしょうか。リーシャさんは、どうして『神の存在』に関心を持たれているのですか?」

 

 枢機卿の質問は、単純でありながら本質を突いていた。リーシャは少し考え込んでから答える。

 

「興味があるのは神じゃなくて、その『構造』なのかも。聖典があって、解釈があって、信仰があって、そして社会がある。その連鎖がどう成立しているのか知りたいだけ」

 

 リーシャの瞳には純粋な知的好奇心が宿っていた。彼女は何かを批判するためではなく、理解するために質問していた。

 

「なるほど。構造に興味をお持ちなのですね」

 

 枢機卿は満足げに頷いた。

 

「では別の視点からお話ししましょう。教会という組織の存在意義は、神の実在証明ではありません。むしろ『人間の内面における秩序』を提供することにあります」

 

 リーシャは首を傾げる。

 

「人間の内面における秩序?」

 

「そうです。我々人間は、自分自身の内側に生じる様々な感情や欲望と常に向き合っています。怒り、嫉妬、悲しみ、喜び、欲望──これらは時に混沌として理解し難いものです」

 

 枢機卿は夜空を見上げた。

 星々が輝き、人類文明を見下ろしている。

 

「そのような内面の混沌に対して、一つの解釈の枠組みを提供するのが教会の役割です。なぜ私たちは苦しむのか、なぜ他者を傷つけてはならないのか、死とは何か──これらの問いに対して、一つの筋の通った答えを示すことで、人々は自分自身の内側に秩序を見出すことができるのです」

 

 リーシャは興味深そうに聞いていた。

 それでも、理解出来ないことはある。言葉の切れ端に宿る論理の飛躍や瑕疵。それが思考に入り込んでくる。

 

「でもそれって、別に神の存在を前提にしなくても成立するよね?」

 

「その通りです」

 

 枢機卿はあっさりと認めた。これにリーシャは驚いた表情を見せる。まさか、主席枢機卿という立場がその発言をきちんと認めるとは思っていなかった。

 

「教会の本質的な役割は、『人間とは何か』という問いを絶えず問い続け、その上で人々が自分自身の人生に意味を見出す手助けをすることにあります。神という概念は、その過程を助ける象徴的な存在と捉えることもできるでしょう」

 

「象徴的な存在……」

 

 リーシャは言葉を反芻する。

 そして、浮かんできた疑問をそのまま口に出す。

 

「つまり、神が実在するかどうかより、私たちがどう生きるかを考えるための『思考の道具』として、神や聖典を捉えるということ?」

 

「そのような解釈も可能です。ただし、多くの信徒にとっては神は実在する存在であり、私はその信仰を否定するつもりはありません。むしろ、強く肯定します。ただ、信仰の形態は多様であるべきだとも考えているだけです」

 

 枢機卿は慎重に言葉を選びながら続ける。

 主席枢機卿は。異端審問会審議長は、異端認定(・・・・)というものがどれほど苛烈なものなのかを知っている。その組織の長として、今まで壊滅させられてきた様々な『野蛮な集団』の末路を知っているからこそ。

 

「教会が提供しているのは、単なる神への信仰だけではなく、『世界を解釈する言語』でもあるのです。人は言語によって思考します。教会の言語体系を持つことで、人々は自分自身の経験や感情に一定の意味を与えることができるのです」

 

 リーシャの表情が急に明るくなる。

 

「あっ、それは面白い視点だね! 言語としての聖典と教会の教え──」

 

 リーシャは熱心に指を動かしながら考え続ける。

 脳内のシナプスが発火し、点と点が線として繋がっていく。

 

「でも、その言語体系って、必ずしも現実と一致するかわからないよね? 言葉と実態が違っちゃう可能性は?」

 

「その通りです。それこそが教会内部での神学的議論の中心でもあります」

 

 枢機卿は少し身を乗り出す。

 それが効果的なものであり、相手に対して親しみを与えるということを枢機卿は知っていた。

 

「聖典の言葉と現実がどのように関係しているのか──これは極めて複雑な問題です。ある意味で、学院が行っていることと似ているかもしれません。学院も自然現象を説明するための言語体系を構築していますが、その言語体系が完全に現実と一致しているかどうかは別問題なのです」

 

 リーシャは急に身を乗り出した。

 

「それって、学院も教会も『見えないものを言葉で説明しよう』としている点では同じってこと? でも、方法論が全く違うよね」

 

「その通りです。学院は実験と観察によって検証可能な理論を構築しようとします。一方、教会は人間の内面や社会関係、道徳や倫理といった実験的検証が難しい領域に焦点を当てています」

 

 枢機卿は静かに続ける。

 リーシャが自分の発言に理解は出来ているが、納得は出来ていないということに気付きながら。

 

「学院が『世界はどのように機能しているのか』を問うのに対し、教会は『その機能する世界の中で、私たちはどう生きるべきか』を問うているのです」

 

 リーシャは考え込む。

 

「でも、それなら私は『教会は宗教を必要としない』って結論になっちゃうんだけど。道徳や倫理って、別に宗教や神様がなくても成立すると思うから」

 

「その考え方も一つの立場として尊重できます。しかし、歴史的に見ると、多くの道徳や倫理的価値観は宗教的文脈の中で育まれ、維持されてきました。それは単なる偶然ではなく、人間の心理や社会的性質に根ざしたものかもしれません」

 

 枢機卿はリーシャの意見に歩み寄りつつも、明確な線引きをする。

 

「例えば、『なぜ善行をなすべきか』という問いに対して、宗教的枠組みなしに完全に満足のいく答えを出すのは意外と難しいのです」

 

「それは違うと思う。善行をなすべき理由は、利益を貰えるからとか、社会での信用を得るためとか、色々な立場から説明できるよ。宗教的前提がなくても」

 

「その通りです。しかし、それらの哲学的立場も、多くの人々にとっては抽象的すぎて日常生活の指針になりにくい面があります。あまりにも、生活と離れて(・・・)いますから。教会の強みは、そうした抽象的な思想を具体的な物語や象徴、儀式などを通じて人々の生活に根付かせることにあるのです」

 

 リーシャは考え込む。

 

「確かに……物語として伝えられる方が、人は理解しやすいし、記憶にも残りやすいよね」

 

「そうです。人間は論理だけでなく、物語によって世界を理解する生き物でもあります。教会は数千年かけて、人間の心に届く物語と象徴の体系を構築してきました」

 

 枢機卿は夜空を見上げながら続ける。

 

「それは神の実在証明とは別の次元の話です。むしろ、人間の心理や社会の構造と深く関わるものなのです」

 

 リーシャは少し黙って考えた後、鋭い質問を投げかける。

 

「でも、そこにはある種の『騙し』はあるよね。物語と現実は違うのに、物語を通じて人々を導こうとするのは」

 

 枢機卿は穏やかな笑みを浮かべる。

 主席枢機卿ですら、『神』の実在を完全には証明出来ていない。無論、反証も。だからこそ、その点に限っての明瞭な証明は不可能であった。

 

「『騙し』ではなく、『象徴』や『比喩』と考えるべきでしょう。例えば、あなたが学院で学ぶ魔法理論の教科書にある図や式は、魔素の実態そのものではありませんが、魔素を理解し操作するための有用な道具です。教会の教えも同様に、人間の内面や社会関係の複雑さを理解し、より良く生きるための道具と考えることができます」

 

 リーシャは指先で唇に触れながら、思考を巡らせる。

 

「確かに、魔法陣は魔素そのものではないけれど、魔素を操るための道具だし……」

 

 しばらく考えて、リーシャは再び質問する。

 

「でも、それだと教会の存在意義って、結局は『心の安定装置』ってことにならない? それって、私が最初に言った『社会秩序維持装置』とそんなに変わらないような。だから、結局のところそれだけ(・・・・)?」

 

 枢機卿は首を横に振る。

 

「『心の安定装置』という表現は適切ではないかもしれません。むしろ『意味の探求の場』と言えるかもしれません。人間は単に安定や平穏だけを求めているわけではありません。自分の存在に意味を見出したい、何か大きなものとつながっていたいという欲求も持っています」

 

「意味の探求……」

 

 リーシャは言葉を反芻する。

 

「確かに、人は安定よりも意味を求める存在かもしれない。だから、どんなに学院や王宮が発達しても宗教や神話が消えないのかな」

 

「その通りです。学院や王宮はいくら発達しても、『なぜ私はここに存在するのか』『私の人生にはどんな意味があるのか』といった問いに完全な答えを与えることはできません。それは欠点ではなく、それらの営みの本質的な限界なのです」

 

 枢機卿はそう言って、言葉を締める。

 対するリーシャは脳内で思考を巡らせる。

 思い出すのは、第一級理論魔法『条件座標』の開発時のこと。

 座標系を定義するには、比較することが必要である。だからこそ、原点(・・)とでも言える点を魔法陣に組み込み、そこからの差異で以て世界の座標を定義する必要があった。

 

 そして、リーシャはその原点(・・)を定義した。

 その際。ユラリアにも話していないが、リーシャはとある魔法を応用して『原点』を策定しようとしていた。

 

 第二級風空魔法『視覚移動』──魔法陣学の教科書に掲載されていた、視点(・・)を移動する魔法。

 それを『汎路調整盤』に組み込み、出力を大幅に強化することで視点の移動距離を大幅に上昇させ──そして、雲の遥か上から惑星を見下ろした。

 

 この惑星が球形であることは、何度も様々な手法で証明されていた。それは魔法を用いたものもあるが、多くは分析的手法を用いたものも様々に。

 また、証明以下のものとして第五級虚空魔法『俯瞰鳥像』によるものがあるが──使用者はその詳細な絵図を残さずに、翌月に自害したことが有名であった。

 

 実際。『視覚移動』を『汎路調整盤』に乗せることでそれが球形だとリーシャは実感し、同時に強い違和感(・・・)を抱いた。

 

 どうして、こんなにも()が大きいのだろうかと。

 惑星の大きさに対して、陸地があまりにも狭すぎる。

 否、その表現は正確ではない。陸地があまりにも()過ぎる。

 

 直径にして五百キロメートル以上にすらなるだろう、陸地の破壊痕や、点在する残骸のような島々。

 それは今、自分達が存在する地域以外の陸地も元々は存在していたのに、何者かによって破壊されたとしか考えられなかった。

 

 そしてリーシャはそれこそが聖典に載る『神の怒り』の出典(元ネタ)ではないか、と考えていた。

 故に。だからこそ、教会の枢機卿ならば他にも『神の実在』を証明する証拠を持っているのかもしれない、と考えていた。

 

「じゃあ『神の怒り』。あれは、神の実在証明の証拠にはならないの?」

 

「あれは──」

 

 枢機卿は言葉に詰まる。

『人類の愚かさに神が激怒した証』『傲慢な人類が滅亡した残骸』『元々は神々(・・)だったが、それが神になった時の副産物』──様々な解釈が教会内でも出ていた。そして、明確な答えは出されていない。

 

「──あの地形変化については、様々な解釈が教会内にもあります。聖典では『神の怒り』として記述されていますが、その事象が何を意味するかについては、複数の神学的解釈が存在します。一つの解釈では、確かにそれは神の直接的な介入の証とされています。しかし、別の解釈では、古代文明の崩壊の痕跡、あるいは自然災害の連鎖反応として説明されることもあります」

 

 リーシャは少し身を乗り出した。

 

「でも、自然災害にしては規模が大きすぎるよ。私は『視覚移動』を強化して上から見たことがあるけど、あの破壊痕はまるで意図的に作られたように見えた」

 

 枢機卿の目が僅かに見開かれる。

 学院生がそこまでの実験を成功させていたことは驚きだった。通常、そのような高度な魔法実験は厳重に管理され、記録されるはずだから。

 

「あなたは──地表を観測されたのですか?」

 

「うん。『汎路調整盤』に『視覚移動』を載せて実験してみたの。私もびっくりしたけど、陸地の形状があまりにも不自然だった。まるで誰かが怒りに任せて破壊したような」

 

 枢機卿は沈黙し、言葉を選びながら答えた。

 

「その観測結果は非常に興味深いものです。教会の古文書にも、『神の怒り』の以前、世界はより広大な陸地を持っていたという記述があります。しかし、それが神の直接的な介入の証拠になるかどうかは難しい問題です」

 

「でも、自然災害にしては規模が大きすぎるし、形状にも一貫した特徴があるように見えた。これが『神の怒り』の物理的証拠じゃないなら、一体何なの?」

 

 深く。深く、息が吸われ、それが緩やかに吐き出された。

 誇張(・・)だ、とリーシャは判断する。

 同時に、虚偽でないのだろうとも。

 

「実を言いますと、教会内部でも『神の怒り』の解釈には複数の立場があります。一部の神学者は、それを古代の高度な魔法文明の崩壊と考えています。魔法の暴走、あるいは意図的な破壊行為の結果として」

 

「じゃあ、教会も『神の怒り』が本当に神による行為かどうか確信していないってこと?」

 

「確信とは別の問題です」

 

 枢機卿は諭すように、リーシャに告げる。

 対してリーシャは、枢機卿の続く言葉を待つ。

 その瞳を強く見つめながら。

 

「教会としての公式見解は『神の怒り』ですが、その解釈には多様性があります。ある意味で、これこそが先ほど私が申し上げた『聖典の言葉』と『聖典の解釈』の違いの一例です」

 

 リーシャは納得いかない表情を見せる。

 

「でも、これって本当に大事なことじゃない? もし『神の怒り』が実は超古代文明の崩壊だったなら、それは神の実在性の証明にはならないし、教会の根幹にかかわる問題になるよね」

 

「確かにその通りです。しかし、ここで重要なのは、仮に『神の怒り』が古代文明の崩壊だったとしても、それが『神』の存在を否定することにはならないという点です」

 

 枢機卿は静かに続ける。

 その情報の真理がわかったとしても、神の実在の証明可能性が上がることはあっても、神の非実在性が上がることはないということしかわからない。そして、その事こそが重要なのだと。

 

「例えば、古代文明が崩壊したのは神の意図によるものかもしれませんし、あるいは神が許したからこそ起きた事象かもしれません。あるいは、そもそも『神』とは古代文明そのものであったという解釈さえ可能です。あくまで解釈上の『喩え』ではありますが」

 

 リーシャは眉をひそめる。

 

「それじゃあ、何でも神の行為として説明できることになるよね。証明不可能だし、反証も不可能」

 

「その通りです。それが信仰の本質でもあります。証明が出来ず、反証も出来ない。だからこそ、万人に受け入れられる可能性が生まれます。『真理』の正しい姿が誰にもわからないからこそ」

 

 枢機卿は穏やかに微笑む。

 

「実証科学と異なり、信仰は完全な証明や反証を必要としません。むしろ、証明も反証もできない領域にこそ、信仰の意義があるのです」

 

 夜空の星々が二人を見下ろしている。風が少し強くなり、木々がざわめいた。

 

「それって──結局、神の存在は証明できないってこと?」

 

 リーシャの声には少しだけ失望が混じっていた。

 それは枢機卿への失望でも、教会への失望でもない。

 もっと、大きな(・・・)ものへの。

 

「証明できないからこそ、『信じる』という行為に意味があるのです」

 

 枢機卿の言い分は理解出来た。

 そして、納得もすることが出来た。教会が如何に重要であり、如何に人類史に影響を与えてきたのか、そして如何に幸福(・・)をもらたす原材料になってきたのか──それらを、リーシャは理解した。

 

 勿論、『信じる』という行為の重要性も。

 そこまでの内容をリーシャが読み取るだろう、という枢機卿の推測は正しかった。そして、ここまで話さないと納得しないだろうという推測も。

 

 だが、主席枢機卿は根本を見落としていた。

 読み(・・)が抜けていた。

 それは、リーシャ自身の価値観。そして思想。

 

「つまり。これは最初から最後まで終わった(・・・・)──議論の余地のない話ってこと?」

 

「そうです。神の実在性については証明不能で──」

 

 違う。それは、証明放棄(・・)でしかない。

 リーシャは喉の奥から溢れ出てきそうな言葉を抑える。

 

「なら、どうして私のところに来たの? だって、神がいるかが関係ないなら。異端を弾圧する必要も、私たちを付け狙う必要もないでしょ? だって、もう『教会の正統性』は皆が認めているものだよ?」

 

 リーシャの脳内に浮かんだ思考がそのまま、空気中の音として発現していく。声の波が次々と空気を揺らす。

 

「今この惑星で、主席枢機卿さん達と大きく異なる『聖典』を信じている人はいないよ。誰もが認める唯一の『聖典』で、誰もが認める正統性(・・・)を持っている。これ以上、必要なの?」

 

「人間というのは流動的なものです。いつ異端の萌芽が起きるとも限りません。どんな病も、どんな腐敗も最初は小さな(・・・)ものでしかありませんから」

 

「じゃあ、わざわざ主席枢機卿(・・・・・)さんが来てくれたのは? 直々に来る必要はなかったと思うんだけれど」

 

「最近はお仕事が少ないですから。それに、ぞろぞろと引き連れてくるのも良くないですから」

 

 枢機卿は今回の『会話』を失敗したと捉えていた。

 教授の時とは異なる、明確な失敗。或いは決裂。

 最上はリーシャが教会に帰依してくれることだが、最初からそんな高望みはしていない。従って、当初の目標は納得であり中立であり、理解であった。

 

 だが、それが達成されているとは枢機卿には考えられなかった。

 同時に、何処で間違えたのかもわからなかった。

 故に、次回の為に間違いの原因を探ろうと、枢機卿は考えていた。

 

「要は、怖い(・・)んでしょ? 私達が矛盾に突き当たって、神が非実在であるということを証明するのが。だから、わざわざ主席枢機卿さんがやってきた。でも、私は別に教会を否定しようとしているわけじゃない。追い求めているのは、論理(・・)だけ」

 

 リーシャは、自分が怒っていることに初めて気付く。

 失望が、怒りに転換されていることに気付く。

 未知は希望であり、恐怖の対象ではない。

 暗闇は人類を守る殻であり、人類を脅かす敵ではない。

 

「私がイヤだって思ったのは、あれだけ『信じる』ことを推進していたのに、偉い人たちが一番『疑っている』こと。『信じる為に疑っている』とかじゃない。ただ、怖がってるだけにしか見えない。『実は存在しないと思っているのに、そう思ってるのがバレないようにしたい』って考えてるようにしか思えない」

 

 そう言いながらも、リーシャは自分自身が何故それをイヤ(・・)だと思っているかの説明が出来ないとも感じていた。すなわち、その言葉と行動はただただ、感情のままに流されていた。

 

 一方でリーシャの指摘に、主席枢機卿は反論する術を持たない。

 無論、リーシャのような主張は歴史に存在していた。『神を信仰する者が、神を疑うのは何故か』という問いかけは何度もなされてきた。

 従ってリーシャの問いかけは、単なる未熟で若さ故のものであった。

 

 ──目の前で、魔法陣が展開されていなければ。

 

「私は『神は実在する』と思っているよ。聖典は事実として『神』が創り、『神』が与えた幸福は存在すると強く思っている」

 

 展開された魔法陣は『権能読込』。

 枢機卿からすれば、知らない魔法陣である。

 だが、直感的にその存在の異様さは理解出来た。

 

「だから、教会があることにも納得出来る。主席枢機卿さんたちがやらなきゃいけないことも、理解出来る。

 でも、主席枢機卿さんですら信じられない(・・・・・・)なら、変革が必要だよ。神をもっと信じなきゃ(・・・・・)

 

 リーシャが『権能読込』を発動させる。

 魔法の存在しない空間に、魔法を復活させる魔法。

 それを『魔法が存在する空間』で放てばどうなるのか。

 

「──だって、実在するんだからね」

 

 魔法陣の回転が徐々に滞留していく。

 遅く、遅く回転するよう速度が下がっていく。

 流動的な動きが離散的な──カクカクとした動きになる。

 そして。

 

 夜空に輝く星々の煌めき。

 その全てが、一瞬だけ潰える。

 光が失くなる。視界が閉ざされる。

 誰の目からも、世界は観測不能になる。

 

 

 

 

 

 そして。

 次の瞬間、世界は星々の灯りに包まれる。

 通常へと回帰する。

 

「ね? ナニカ(・・・)、あるでしょ?」

 

 

 

 

 

 

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