◇◆◆◇
元々の性別が男性だというのに、紆余曲折の結果女性になる。
これも結構なダメージが入るけれど、まだ耐えられる。
私には総合学院薬理学教室教授という立場があり、学問世界において性別というのは、建前上は大した意味を持たないから。
心の中でどう思われていたとしても、それがわかりやすく表に出てくることはない。少なくともこの学院にいる間は、明確に鬱陶しい視線を向けられることもなかったと予想される。
ただ、身長にして144.7cmになってしまったとすると、お話は変わってきてしまう。
何の影響か、身長が小さく顔つきが幼い相手を人類は弱者であり庇護する対象である、と認識する人が多い。
そのせいで、とても苦労している。
例えば飲食店に入れば子供だからとアルコールを出して貰えなかったり、学会の会場では学生どころか学生の妹と間違えられ、講演会では子供が何をしているのかと遠ざけられるという始末だ。
身分証明書を提示しても、偽造だと思われることもあった。他の教授との対面会議では、最初は私を秘書か、あるいは誰かの子供や孫だと思われることもしばしばある。
王国内での移動に使う馬車では、子供料金を提案され、断ると不審に思われることもある。
そして何より厄介なのは、議会での扱い。
議席に着けば、『お嬢さん、お迷いですか?』と聞かれる。私が総合学院薬理学教室教授であると名乗っても、『かわいいお嬢さんね』と頭を撫でられた時には、思わず天を仰ぐ羽目になった。
この前も、王宮からの重要な依頼で作成した研究資料を持参した際、門番に『お嬢ちゃん、遊びに来たのは良いけど、大人の仕事の邪魔をしちゃダメだよ』と言われた。説明しても聞き入れられず、知り合いの門番が来るまで一時間拘束される、などという事件も発生した。
まあいいや。
今日も困ったら、困った時の私がきっと何かしらしてくれる。
「じゃあ私語は控えてね。後半の講義を始めるから」
さて、ユラリアが謎の詮索をしてきたおかげさまで前半の内容の印象が飛んでいるけれど、ここまでで
ついでに、薬剤が
というわけで、後半はもう一歩ほど踏み込もう。
「受容体にくっついて反応を変える。これが薬剤の根本となるわけだけれど……その、くっついた後。どう反応を変えるのかっていうのに、後半は踏み込んでいこう」
要は、アゴニストとアンタゴニストの話を説明していこうというお話。
まあそんなに難しい話をするつもりはない。毎回そう言っているけれど、これはまだ総論部分だから。
「まず、受容体にくっついて普段の反応と同じような反応を起こすものがある。こういう物質を
受容体A、と書かれた模型を作り出す。
そして横にはAと比べると小さい、物質Pと物質Qを作り出す。
「このAは、普段はPがくっつくことで働いている。普段の働きをしている──まあ、魔法陣干渉学で言うならAが
正直なところ、魔法陣っていう概念の開発者は十中八九科学に精通した人物であると思っている。
運だけで、ここまで丁寧に現象が類似しているなんてことは起きないだろうから。
「しかし、ここで困ったことにPが作れない人がいるとしよう。例えば……これは第五級理論魔法『射出機構』の魔法陣をちょっと弄ったものだけれど、この回路の部分が詰まっていることがわかる。で、どうして詰まっているのかを考えたら──こっち。こっちで、
視覚というのは、人類が最も情報源として活用している五感でもあるからね。そこに訴えかける視覚的例示というものの効果を侮ってはいけない。
「こんな風に、人間における
一気に話を進めたからか、リーシャが手をあげていた。
言葉と行動で質問を許可する。
「フルアゴニストについてはわかりました。でも、先程の例だとQじゃなくて、Pをあげればいいのではないですか? わざわざ、違うもの──Qをあげる理由がわかんないです!」
相変わらず良い質問。
それを解説するには次回講義の後のほうが良いんだけれど……いいや、確かに今のほうが都合が良いか。
「もちろん、Pを投与してあげてもいい。ただ、薬がよく効く為には標的の場所まで無事に辿り着かなきゃいけない。例えば、腸にそれが……今回でいう受容体Aがあるとして。Pをそのままあげたとして、胃で溶かされる可能性がある。もしくは、腸の消化液で溶かされる可能性もある。だから、溶けないようなQをあげる必要が出てくる」
「でもでも、じゃあ普段はその腸にある受容体AはどうやってPによって働いているんですか!?」
重ねて良い質問。
総論が終わった後の各論一回目の内容、どうしようかな。
「色々なパターンがあるかな。例えば、近くの細胞がそれを出しているとか。あるいは、血管から供給されるとか。他にも神経から出てくるなんてパターンもある。どれにせよ、胃酸や消化液に晒されることはあんまりない」
まあ逆に、胃酸環境下じゃないと働かない酵素があったりもするんだけれどね。
「わかりました! ありがとうございます!」
「とまあ、そうやって正常に機能しなくなった場合に使えるのがフルアゴニスト」
まあ、これはとても単純。
何も変なことを言っていないからね。
「次に
今日の
今日はやることはこのアンタゴニストの説明と、
さて、間に合うかな。
「アンタゴニスト。これは、くっついて
黒板にアンタゴニストの分類、と書く。
これがわかっていると、今後薬剤についての解像度が上がる──だけじゃない。
魔法陣学を学ぶ上で極めて有用だからこそ、ちょっと深掘りする。
「受容体の働きを阻害する方法。それにはどんなものがあると思う? ユラリアは」
ユラリアはどう答えるかを悩む素振りを見せてから、ゆっくりと解答する。
「可逆的な阻害と、不可逆的な阻害ですね。前回の講義で教授がお
その通り、としか言い様がない。
もう前提知識だけユラリアに渡して、ユラリアに授業してもらうという形式でも良い気がしてくるよね。まあ、問題は私とユラリアが同年代じゃないこと。
そして、ユラリアが王族でありこんな学院で研究をしている場合ではないということ。
「そう。可逆的なものと不可逆的なものがある──で納得してくれればいいんだけれど、そうは行かない。でしょ? リーシャ」
「はい! どうして可逆的で、どうして不可逆的なのかがわかりません!」
まあ、突き詰めすぎても難しくなるんだけどね。
だから、形式上の分類以外をあんまり話すことは出来ない。
「じゃあ、まずは可逆的な方から。といっても。くっつくものが
名前の知らない金髪の子を指名する。
別に生徒はユラリアとリーシャだけじゃないからね。
「本来くっつくものがくっつく場所と、本来くっつくものがくっつく場所じゃないところですね」
「正解。本来くっつくものがくっつく部位はオルソステリック部位、そして、本来くっつくものがくっつかない部位の内──くっつくことで、
ちゃんと仕分け直すと、
一つ目は、本来くっつく
二つ目は、本来くっつく
そして、最後。くっついても何も起きない場所。
これに名前はないけれどね。一応、綺麗に分類したい以上三つ目の分類としておく。
「さて、じゃあ薬剤が可逆的変化を与える時の話をしよう。これには、二つ可能性がある。ひとつは、オルソステリック部位で、『本来くっつくモノ』と薬剤の座席が奪い合いになっている可能性」
ここで思い出して欲しいのは、今はずっとアンタゴニストの話をしている。つまり、くっついたら
『受容体Aに本来くっつく物質P』と『受容体Aのオルソステリック部位に可逆的結合をするアンタゴニストである薬剤Q』の間には、座席の簒奪戦が発生してしまう。
PがAにくっつけば、生体回路は上手く動く。
QがAにくっつけば、生体回路は動かない。アンタゴニストだから。
で、薬剤Qがオルソステリック部位──即ち、本来の
「そしてこういうのを、競合的阻害と呼ぶ。だから、オルソステリック部位に
まあ文字通り
じゃあ、他は競合していないから……そんな理由で非競合的阻害になるんだけれど。
ここは、正直何とも言えない。
真面目に生化学をやるなら、非競合と不競合阻害と混合阻害と、それぞれの話を考えなきゃいけない。
ただ、薬剤作用を考える上では、それらをまとめて非競合阻害としちゃったほうが、面倒が少ない。
「さて、
直接座席の奪い合いをするのが競合阻害、座席の数を変えようと座席数決定機構に作用するのが非競合的阻害。
そういったイメージ、と言ってもいいけれど。
「じゃあリーシャ。質問。その薬剤はある受容体のオルソステリック部位に不可逆的結合をしました。この場合、阻害形式は競合的か非競合的──どっちでしょう?」
ちなみに答えは非競合的阻害。
競合的阻害というのは座席の奪い合いというイメージでいいと言ったけれど、それはオルソステリック部位での薬剤結合が
つまり、薬剤も『本来くっつくもの』もずっと椅子に座っていたいわけじゃない。ちょっと座ったら満足して離れてしまう。だから座席数全体が変わることはないし、
しかし、これが不可逆的に結合するとなると話が変わってきてしまう。
薬剤が座席数そのものを変えてしまう。だから、競合が発生する余地がなくなってしまう。だからこそ、非競合的阻害になる。分類上はね。
「……競合、ではないと思います。だって、不可逆的に結合して働かせない、ということは
無理心中という表現はあながち間違いじゃない。
薬剤と受容体の間に不可逆的な結合が発生する場合に、その薬剤の方を
個人的には、自殺っていうよりリーシャの言う心中って表現のほうがぴったり来ているけれど。
まあ、これ以上用語を増やしても仕方ない。
「大正解。どうして非競合的阻害になるかわからなかった人は自分で考えてみてね。わからなかったら、全然訊いてもらっても構わないけれど」
ユラリアやリーシャが例外的なだけで、普通は教授に質問をするのは躊躇われる事項な筈だから。
「というわけで、次は薬剤がアロステリック部位に不可逆的結合をする場合。これは当然ながら非競合的阻害になる」
座席数そのものが変化するからね。そんなに難しいことじゃない。むしろ、わかりやすい部類。
ただ、ちょっとここら辺がごちゃごちゃしているのも事実なので。
「じゃあユラリア、逆から見てみよう。非競合的阻害を起こすのは、どういう時?」
「
そして、競合的阻害を起こすのは『可逆的にオルソステリック部位に結合した時』だね。
間違えていない。ここまで私が話した内容については、取りこぼしなく完璧。
ただ、ユラリア本人も気付いているようだけれど──ただの確認なら、わざわざユラリアを指名したりしない。こういう確認とかは、リーシャのほうが適任なはずだから。
「それは本当に? 非競合的阻害を起こすのは、それだけかな?」
「っ…………」
ユラリアはひとしきり悩み、それでもわからなかったのかリーシャの方に視線を向ける。
「はい! 代わりに答えてもいいですか!」
「どうぞ」
「そもそも、
「……完璧。そんな即答されるハズじゃなかったんだけどね」
まあ、言われてみれば簡単な話。
非競合的阻害とは、座席数自体が変動するイメージ。
だから、その座席がある会議室や講堂ごと粉砕しても、それは確かに座席数が変動することになる。
実際、周囲にも
「というわけで、今みたいな
非受容体型アンタゴニストの中にも、化学的アンタゴニストと生理学的アンタゴニストがあったりする。
『本来受容体に結合するもの』にくっついて阻害するのが化学的アンタゴニスト。
その受容体以外の場所を攻撃したり、受容体が引き起こすのとは逆の反応を別の受容体とかを経由して起こすのが生理学的アンタゴニスト。
でもまあ、そこらへんの名前は置いておいても問題ない。概念的な理解のほうが重要だからね。
「これでアンタゴニストにも色々種類があることはわかってくれたと思うけれど……全て、阻害するということは共通している。だから、体内で過剰に反応が起きている時とかに使うわけだね」
例えば、心臓が頑張り過ぎちゃっているときにそれを抑える薬剤をあげるとか
「というわけで、アンタゴニストの話は終わり。じゃあ放置していた
ちなみによくある誤答例は、ちょっと活性化させるっていう解答。
「……教授! この
「そう仮定してもらって構わない」
「なら、受容体の働きは
そう、そう。文句なし。
やっぱり理論を理解すると、リーシャは極めて優秀。それこそ、ユラリアよりも。
だから、
そしてその性質から、
「さて、これで
そして、それを考える上でとりあえず最初に考えるべき概念は二つ。
紛らわしい日本語だから翻訳するなら、『
ちなみにどちらにせよ、日本語訳は無視して考えたほうがわかりやすいと思う。
最大反応はまだしも、親和度とかいう和訳は本当に混乱のもとだから。後から全部振り返る形じゃないと、混乱するだけ。
「というわけで、
『フルアゴニストを大量にいれたら、どれだけの変化が起きるか』が最大反応、つまりEfficacyにあたる。
一方で『半分くらい変化を及ぼすには、どれくらいフルアゴニストが必要なのか』──これがPotencyとなる。
「フルアゴニストを入れたら、どれだけ
要はミカリエス・メンテンの式についての説明になる。
ただ、あれの説明から容量反応曲線を実際に導出するには微分方程式が必要になるし、そんなのは全学年向け講義の二回目でやる内容ではない。
……やっぱり、『数式学基礎』みたいな科目を誰かに担当してもらうべきだと思うんだよね。
別にフーリエ変換とか、そういうレベルまで習得して欲しいなんて高望みはしていない。でも、最低限酵素反応速度論に登場する微分方程式ぐらいは解けるようになって欲しくはある。
まあ、無い物ねだりしても仕方ないんだけれど。
さて、情報が混雑してきたので一回整理しよう。
今、最終的に我々が考えたいのは薬剤存在下において、
落ち着いて考えよう。例えば、筋肉の収縮とかで。
筋肉も勿論、
そして、
これが前提条件として存在する。
というわけで普段、健康な人が指令を送れば筋肉が100だけ収縮するとする。
ただ、そこで筋肉収縮阻害剤を入れたら、その100がどれだけ変わるのかを知りたい。80になるのか、70になるのか。
これを知ることが出来れば、ちょっと嬉しい。
だから、実験上の問題として──薬剤なしで
これを、薬剤が存在しないときの
で、これが薬剤存在下だとどうなるのかっていうのも気にしたいよね……と進みたいところだけれど。
情報はそれだけじゃ足りない。
病気になった人には、『筋肉を収縮するための
そういう都合上、
フルアゴニストが中途半端にあるとき、どれくらい筋肉は収縮するのか。例えば、普通の人と比べてフルアゴニストが半分くらいしか生成されない人は、筋肉はどれくらい収縮するのか。これが
ちなみに定義は、Efficacyを100%とした時、収縮率が50%となるようなフルアゴニストの濃度。
この値が高いと、フルアゴニストの分量が少量だとしても、健康な人と比べて
逆に言えば、少量でもちゃんと反応してしまうという意味にもなるから、それそのものが異常な反応だった場合は困るけれど。
「さて、ただ我々は『
考える時間を取るために、一度水分補給をする。
体が小さくなったことのメリットのひとつに、必要水分量が減少したことがある。同時に現れるデメリットとして、薬剤の投与量を別枠で考える必要が出てくるというものもあるけれど。
「競合的阻害を考えよう。これは所詮、オルソステリック部位における
難しいけれど、生徒の大半は理解出来ているらしい。
優秀だね。学院に入る人は。
「しかし、一方でフルアゴニストが薄い時は座席争奪戦の影響が露骨に出る。だから、薬剤非存在下のPotencyと比較して──薬剤存在下のPotencyは
ここで減少では? と考えた人は、和訳に引きずられている。
フルアゴニストと受容体の親和度は確かに減少している。それは座席争奪戦の影響で、間違いない。だから、Potencyが減少している──これは、嘘になる。
Potencyは、元々
つまり、さっきまで私が使っていた『親和度』というのは、
こういう考え方が苦手な場合は、大人しく定義や具体例から考えたほうがいいかもしれない。
筋肉の具体例に戻ろう。
競合的阻害機能のある薬剤存在下におけるEfficacyを100%とした時。
つまり、競合的阻害機能を持つ薬剤が存在している状況下における『筋肉の最大
筋肉の収縮率が50%となるようなフルアゴニストの濃度、それこそがPotencyになる。
現在、競合的阻害が働いているから収縮率が50%──それだけ収縮するために、当然『働いている受容体』も、相応に必要になる。
で、その『相応に必要な働いている受容体』を作り出す──つまり、それだけの座席をフルアゴニストが確保するのに必要な濃度は、薬剤非存在下と比べて上昇している。
だから、Potencyは上昇していることになる。定義からね。
親和度ってのは
阻害する薬剤の、受容体結合部位との親和度合いを表しているだけであって、アゴニストと受容体の親和度を表しているわけじゃない。ここがひっかかりポイントとなる。
「じゃあ、次はアンタゴニストによる非競合的阻害の時は
あくまで、フルアゴニスト個人個人の座りやすさについてじゃない。フルアゴニストという種類が、どれだけ座席に座りやすいかを考えたい。
具体例をまたひとつ。
座席がひとつありました。
この座席に座る資格を持っている存在は、人類八十億人と宇宙人一億人です。
これが競合的阻害の場合で、宇宙人がいない場合と比べて宇宙人がいる方が人類の座席に対する座りやすさは下がる。
一方、
宇宙人用座席に宇宙人が座ると、座席自体が消失します。
この状況でも、人類の椅子への
この座席バトルは、何千箇所で同時開催されている。
そして、座席バトルの会場の個数が変わったところで、どのみち人類が人類用に座れるということに変化はない。
これが、非競合的阻害であり──故に、Potencyは変わらない。
「一方で、Efficacyは低下すると考えられる。だって、働ける
ちらり、と時計を見る。
残り時間は僅か。具体的には、もう一分もない。生徒達にも用事が色々もあるだろうから、休憩時間に食い込んでいいね、なんて言い訳は通じない。
幾ら、次が昼休憩だとしても。
「さて、じゃあそろそろ時間だから……今日の
そう区切ってから──主に、ユラリアへと視線を向けてから。
「『受容体型アンタゴニストであるとわかっている薬剤を投与したところ、薬剤非存在下に比べてEfficacyは変わらず、Potencyは増加した。では、本当にこの薬剤は
ちなみに、授業で習った内容だけだと『断言出来る』という解答にしかならない。
加えて、この概念は対応するものが魔法陣学に存在しない。
「──じゃあ、定刻だから。また来週」