魔界の空は、今日も壊れていた。
遠くでは赤紫の雲が地平線へ垂れ下がり、そのさらに奥で、空そのものに走った亀裂が淡い光を漏らしている。
重力の向きが数歩ごとに揺らぐ土地もあれば、夜のまま朝を迎えない谷もある。昨日まで道だった場所が翌日には崖へ変わり、地図に記録したはずの距離さえ信用出来なくなる。
第九軌道人類史に残された地上――人々が魔界と呼ぶ場所では、それは特別なことでもなかった。
――だからこそ、その一角だけはひどく目立つ。
荒れた岩肌の間を抜け、ガーデナー用の地上探索路をしばらく進むと、不意に風から砂の匂いが消える。足元の割れた大地は少しずつ土へ変わり、視界の先には、魔界ではほとんど見ることのない澄んだ青が広がっていた。
空が青い。雲が白い。
風は一定の方向から穏やかに吹き、膝ほどの高さまで伸びた草花がそれに合わせて静かに揺れている。
広さは大したものではない。端から端まで歩いたところで、それほど時間は掛からない。神域と呼ぶにはあまりにも小さく、外から見れば、荒れ果てた魔界の中へ誰かが丸く切り抜いた庭を埋め込んだようにしか見えなかった。
けれど、そこでは何も起きない。
空間の捩れも、突然の霊子嵐も、神域生物の侵入もない。外側でどれほど魔界の物理法則が乱れていても、この小さな領域へ一歩踏み込めば、風は風として吹き、水は下へ流れ、放り投げた物は当たり前のように地面へ落ちる。
GARDENの記録上、この場所が最初に発見された時期は明確ではなかった。
ある日、地上探索から戻ったガーデナーが「以前にはなかった安全地帯」を報告し、調査班が派遣された時には、すでに現在とほとんど変わらない姿で存在していたという。
発生の瞬間を見た者はいない。
神域を形成した魔剣も確認されていない。
調査によって判明したのは、領域の中央に一本の折れた魔剣が突き立てられていることと、その周囲では異常なほど安定した環境が維持されているという二点だけだった。
誰かが、あの折れた魔剣を核として神域を作ったのではないか。
そんな仮説もあった。
魔界へ残された何者かが偶然その剣を見つけ、何らかの方法で力を引き出したのではないか。あるいは、折れた魔剣そのものが最後に残った力で、自身を中心とする小さな神域を形成したのではないか。
どちらも証明には至らなかった。
形成に必要な術式の痕跡は見つからず、外部から干渉した形跡も残っていない。中央の魔剣に残された霊子反応も極端に弱く、それだけで神域を維持出来ているとは考えにくかった。
結局、その場所が何なのかについて、GARDENは答えを出せないままだった。
ただひとつ。
安全である。
それだけは、長い観測の中で一度も覆らなかった。
やがて魔界探索に従事するガーデナーたちは、そこを
正式な管理名称よりも、そちらの方が先に定着したらしい。現在では新人ガーデナーが魔界探索の教育を受ける際、地図の読み方や緊急帰還手順と並んで、最初期に教えられる場所のひとつになっている。
探索中に異常を感じた時。
霊子残量が危険域へ入った時。
負傷し、帰還地点まで辿り着ける保証がなくなった時。
とにかく、ここまで来れば一度は息をつける。
その程度の意味で付けられた呼び名だった。
――もっとも、利用にあたってはいくつか妙な決まりがある。
ひとつ。
休憩所へ私物を残してはならない。
食料、装備、記念品。用途を問わず、持ち込んだ物は必ず持ち帰ること。
もうひとつ。
領域中央にある折れた魔剣には、決して触れてはならない。
理由を尋ねても、教官の多くは「規則だから」としか答えない。
危険性が確認されたわけではなかった。実際、中央の魔剣は長いあいだ何の反応も示していない。近づいても熱を持たず、霊圧もほとんど感じられず、ただ地面へ突き立ったまま風雨に晒されている。
それでも、触れてはならない。
持ち出してはならない。
周囲を掘り返すことも禁止されている。
過去にこの規則を破った者がいた、という噂だけはあった。
二人。
名前までは知られていない。
もっとも、その後どうなったのかを詳しく話せる者もおらず、ガーデナーの間では「剣へ触った瞬間、別の神域へ飛ばされた」「GARDENの偉い人に一週間正座させられた」「実は今も地下に埋まっている」など、真偽不明の話ばかりが増えている。
なので結局のところ、誰も確かめようとはしなかった。
危険な魔界でわざわざ安全地帯の規則を破る理由など、普通はない。
休む。
傷を塞ぐ。
食事を取る。
装備を確認する。
そして、また外へ出る。
それだけでいい。
ただ、この場所を訪れるのはガーデナーだけではなかった。
時折、騎士がいる。
任務中ではない。かと言って、休憩している様子もない。
領域の中央に立ち、折れた魔剣を眺めている。
あるガーデナーは、全身を黒い装甲で包んだ騎士を見たという。随分と長い時間、魔剣の前から動かず、声を掛けようか迷っているうちに、いつの間にかいなくなっていたらしい。
また別の日には、人類側唯一の魔剣使い――皇帝陛下が、一人でそこへ立っているところを見た者もいる。
ただ、その二人よりも目撃例の多い騎士がいた。
シスターだった。
黒紺色の修道服に、同じ色のヴェール。薄桃色の髪を風に揺らしながら、決まって一人で訪れる。
何をしているのかは分からない。
折れた魔剣の近くへ座り込んでいる日もあれば、ただ隣に立って空を眺めている日もある。ひどく長く居座ることもあれば、数分ほどで帰っていくこともあった。
彼女へ直接理由を尋ねた者は、ほとんどいない。
何となく、聞いてはいけない気がするのだという。
ただ、ガーデナーたちの間ではひとつだけ、妙な噂があった。
そのシスターが休憩所へ来る日は、少しだけ風が強くなる。
もちろん、気象記録上は誤差の範囲でしかない。神域そのものの異常も観測されていない。
それでも、彼女が中央へ向かって歩いていく頃になると、草花が揺れ、地面を覆う花弁がふわりと舞い上がる。
青い空へ。白い雲へ。
折れた魔剣の周囲を、色とりどりの花がゆっくり巡っていく。
それを見られた日は運がいい。
そんな話まで、いつからか囁かれるようになった。
折れた魔剣は、今日も何も答えない。
誰がこの場所を作ったのかも。
なぜここだけが安全なのかも。
何を待つために一本の剣がここへ残されているのかも、誰にも分からない。
ただ、風が吹く。
花が揺れる。
魔界の片隅に生まれた小さな休憩所は、今日も変わらず、帰ってくる者たちのために開かれていた。
――花の根は、誰にも見えないところで絡み合っていた。
休憩所を覆う草花は季節を選ばず咲き続けている。散った花弁は土へ落ち、乾き、ほどなく新しい芽の下へ埋もれていく。その繰り返しがどれほど続いてきたのか、ここを利用するガーデナーたちの誰も知らない。
地表から少し深い場所まで降りれば、景色はまるで違っていた。
細い根が無数に土を抱き、その隙間を淡い霊子が流れている。一本一本は微かなものでしかない。けれど、それらは休憩所の中央へ近づくほど密度を増し、やがて地面へ突き立てられた折れた魔剣の下で、ひとつの大きな網のように重なっていた。
その中に、灰があった。
白い灰だった。
魔界の砂とも、この土地の土とも異なる。指先で触れれば崩れてしまいそうなほど細かく、霊圧もほとんど残していない。調査機器を通したとしても、古い神域由来の残留物としか判断出来なかっただろう。
それでも灰は、ほんの少しずつ動いていた。
風は届かない。
水も流れていない。
土中を這う生物が運んでいるわけでもなかった。
数日で見れば何も変わらない。数月でも、おそらく気づく者はいない。それほど緩慢な速度で、散らばっていた灰の粒が折れた魔剣の方角へ寄っていく。
ひとつ。
またひとつ。
かつて白い肉を持ち、終わることさえ出来なかった者たちの残滓。
主核も、翼を持つ個体も、無数に増えた同胞も、すでにここにはいない。同期する声も、経文めいた合唱も、互いの傷を引き受ける構造も失われて久しい。
それでも、最後まで残ったものがあった。
記憶と呼ぶには薄すぎて、意志と呼ぶには形がない。
ただ、自分たちを終わらせたものへ向かう性質だけが、灰の中に焼き付いたまま残っていた。
灰は魔剣へ触れる。
そこで止まらない。
折れた刃の表面に残った細い亀裂へ入り込み、その奥に残る霊子へ溶けていく。ひとつが入れば、またひとつ。長い時間を掛け、ほとんど何も残っていなかった剣の内部へ、白い残滓が静かに積み重なっていった。
それが何をしているのかを知る者はいなかった。
修復なのか。
保存なのか。
あるいは、終われなかったものが最後にもう一度だけ何かを繋ごうとしているだけなのか。
折れた魔剣自身も、答えなかった。
けれど、変化はあった。
最初に変わったのは、温度だった。
土中で冷えきっていた剣の根元に、ごく僅かな熱が生まれた。それは人肌と呼ぶにはまだ遠く、一時的な霊子反応と区別することすら難しかった。
次に、根が集まった。
花の根が、折れた剣の周囲へ絡む。
栄養を吸い取るための動きとは少し違っていた。根の先は剣を避けることなく亀裂へ入り、そこへ霊子を渡し、その代わりに何かを受け取るように再び土へ伸びていく。
その循環が始まってから、休憩所の花は以前より少しだけ増えた。
誰も関連付けなかった。
この場所では元々、花はよく咲く。
その程度の変化だった。
さらに時間が流れた。
折れた刃の周囲に集まっていた灰が減っていくにつれて、地下へ伸びていた剣の輪郭も少しずつ曖昧になった。
鉄が腐食したわけではない。
砕けたわけでもない。
硬い刃だったものが、別の形を思い出そうとしているように境界を失っていった。
土の中へ、細い線が伸びる。
骨のような白。
その周囲へ、霊子が薄い膜を作る。
花の根がそこを通り、その度に線は少しずつ太くなった。
誰にも見つからない場所で、長い時間をかけて。
灰が集まり。
欠片が寄り。
失われていた輪郭が、ひとつずつ戻っていく。
――それは奇跡と呼ぶには、あまりにも遅かった。
何か強大な力が一夜で死者を蘇らせたわけでもなければ、世界が慈悲を与えたと示す光が降ったわけでもない。ただ、そこに残っていたものが、長い長い時間を掛けて、足りないところへ少しずつ収まっていった。
幾年目かのある日。
折れた魔剣は、なくなった。
正確には、地面へ突き立てられていた形を失った。
代わりに花の中へ横たわっていたのは、一人の人間だった。
細い身体。
長く伸びた髪。
閉じられた瞼。
土に汚れることもなく、まるでそこへ最初から寝かされていたように、花の間へ静かに身体を預けている。
息は、まだ分からない。
胸元も動かない。
それでも頬からは、剣には存在しなかった柔らかな熱が、ほんの僅かに土と空気へ伝わっていた。
その変化に、誰も気づかなかった。
休憩所へ訪れるガーデナーが途切れた、短い時間の出来事だった。
やがて、いつもの風が吹いた。
草が同じ方向へ傾き、花弁が何枚か青空へ持ち上がる。
その向こうから聞こえてきた足音は急いでもおらず、道を探す迷いもなかった。荒れた魔界から休憩所へ入り、空気の匂いが変わる境界を越えても歩調は変わらない。何度も、何度もここまで歩いてきた者の足取りだった。
黒紺色の修道服の裾が草の先を撫でる。白い裏地を覗かせたヴェールが風を受け、薄桃色の髪に混じる一筋の金色が陽を拾って、細く瞬いた。
トロイは空を見上げた。
今日も青い。
「んー……」
小さく伸びをしながら、いつもの場所へ向かう。
今日は何を話そうか。
そんなことを考えていた。
別に、毎回大した話をしているわけではない。任務で妙な相手に会ったとか、運命がまた無茶をしたとか、騎士寮で誰と誰が喧嘩をしたとか、食堂の新しいメニューが思っていたものと違ったとか。
本当にどうでもいい話をして、それから少し黙って、風が強くなれば花が散るのを眺めて帰る。
向こうから返事が来ることはない。
だから話題が尽きれば、勝手に自分で続きを考える。
あの子ならこう言うかなー、と口にして、一人で違うかもーと笑って終わる日もあった。
今日は最近の運命のことでも話そうか。あるいは、また一人で仕事を抱え込まされた闇虹が鉉覇を追い回した話でもいい。少しくらい自分の話をしてもいいかもしれない。
そういえば、この間新しく入ったガーデナーが、ここで花が舞うのを見ると幸運らしいと言っていた。誰が言い始めたのだろう。トロイさんのせいじゃないよー、と、どうせ答えない相手へ弁明してみるのも悪くない。
そんな取り留めのないことを考えながら、中央へ続く草を踏む。
あと少し歩けば、見慣れた剣が見えるはずだった。
いつもと同じ場所。地面へ突き立ち、何も言わず、何も返さず、それでもそこにあり続ける折れた魔剣。その前へ座って、今日もまた取り留めのない話をして帰る。何度も繰り返した、いつもの時間になるはずだった。
けれど、中央へ続く花の向こうを見た瞬間、トロイの足が止まった。
風だけが彼女の横を抜けていく。舞い上がった花びらが肩を越え、そのまま休憩所の中央へ流れていった。
そこに、剣がなかった。
視線が僅かに左右へ動く。場所を間違えるはずがない。外縁から何歩進み、どの花の群れを越えれば中央へ着くのかまで、もう意識しなくても身体が覚えている。
折れた魔剣があった場所には、花が咲いていた。
その中に、一人の青年が横たわっている。
「……あー……」
いつも通りの声を出したつもりだった。
少し間延びした、何でもないものを見る時の声を。それなのに音は喉の途中で引っ掛かり、最後の母音だけが頼りなく震えた。
トロイはしばらく動かなかった。
「……うんうん。びっくりー……」
今度は笑おうとした。
けれど、口元が作った形に声が追いついてこない。
視線だけが、花の中に眠る身体をゆっくりと辿った。
長い髪は黒に近い緑色をしている。重なり合ったところでは墨を落としたように深く、そこへ休憩所の陽光が触れると、一本一本が翡翠の底を覗き込んだような色へ変わった。風が吹くたびに髪が花の上を滑り、その下から見慣れた耳や頬の輪郭が覗く。
肩。腕。力の抜けた指先。
閉じられた瞼。
どこにも、あの日最後に残っていた損壊はない。砕けていった輪郭も、欠け落ちた部分も見当たらず、ただ一人の青年の身体が、そこへ最初から寝かされていたように花の間へ横たわっている。
トロイは、ようやく歩き始めた。
一歩進むごとに、見間違いだったと逃げる余地がなくなっていく。
何度も見てきた顔だった。少しずつ背が伸び、輪郭から子供らしさが消えて、自分よりもずっと大きくなって。それでも眠っている時だけは、どういうわけか昔の面影が戻ってくる。
その身体のすぐ傍まで来て、トロイは膝を折った。
手は伸ばさない。
ただ、見る。
まず胸元へ視線を落とした。
長く見ていると、布地がほんの僅かに持ち上がった。
ゆっくりと落ちる。
しばらくして、また同じように膨らむ。
風に押されただけと言われれば見落としてしまいそうなほど浅い動きだった。それでも、次を待てば同じ間隔でもう一度ある。
呼吸している。
その事実に辿り着いた瞬間、トロイの唇が僅かに開いた。
声は出なかった。
一度息を吸おうとして、喉の奥でつかえる。飲み込んだあとも胸の奥に引っ掛かったものが取れず、呼吸だけが少し乱れた。
次に見るのは、肌だった。
死者の色ではない。頬には薄く血が巡り、風に髪が動くたび、その下へ落ちる影までゆっくりと移っている。
霊子反応もあった。
強くはない。かつて彼の内側にあった異質な圧力には遠く、騎士たちのような膨大なものでもない。
それでも完全に消えてはいなかった。火が落ちた炉の底に残る熾火のような小さな反応が、身体の奥で一定の間隔を保っている。
トロイは何度も視線を往復させた。見落としがあれば、最初からやり直す。どこかに偽物である証拠がないかと探しているようでいて、その実、目の前にある答えを一つずつ確かめ直していた。
何度見ても、変わらない。
――生きている。
あの日、自分の腕の中で呼吸が途切れた相手が、今はまた、浅く空気を吸っている。
トロイはしばらくその胸元を見つめたまま動かなかった。
また一度、胸郭が上下する。
もう一度。
そこでようやく、詰まっていた息が細く吐き出された。
「……もー」
いつもの調子へ戻そうとした声は、まだ少し掠れていた。
「こういうのはさー、前もって連絡してくれないと困るんだけどなー」
返事はない。
眠った顔も変わらない。
「サプライズにも限度ってものがあるよねー。草を通り越して――」
そこまで言って、声が切れた。
トロイは俯き、口元を手で覆うこともせず、そのまま一度だけ深く息を吸った。肺へ入った空気をゆっくり吐き出し、もう一度顔を上げる。
リンデンの胸は、また小さく持ち上がっていた。
それを見て、紫色の瞳が細くなる。
しばらく、何もしなかった。
青い空の下で、ただ呼吸を数えるように見つめ続ける。
風が吹くたび、黒緑の髪が花の上を滑った。陽にさらされた一房が深い翡翠色へ変わり、舞い上がった花びらがその上を越えていく。
やがて、トロイの手が動いた。
ゆっくりと伸びていく。
けれど、その指先は頬へ届く直前で止まった。
ほんの数センチ。
そこまで近づけば、肌から伝わる熱さえ感じられそうだった。
あの日、最後まで撫でていた頬。
小さな花丸を描いた場所。
トロイは、眠った彼を見つめたまま、ほんの僅かに笑った。
「……リンデンちゃん、おはよー」
そう言って、そっと彼の頬に触れる。
その指先から、ほんの一瞬。
あの頃と同じ、あたたかさが返ってきた気がした。
アンケート置きました、お好みで投票していただければと思います。
まさか自分の誕生日に推しの告知来るなんてサプライズにも程があったので先打ちします。
あと某アプリ会社の某社長にこの小説を認識されました……。
アフターの展開どうしましょう。
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