救急医学部平部員の看護日誌 作:定時大好き
プロローグ
──それでも、起きていなければならない夜でした。
深夜二時三十二分。
病室の天井灯はすでに落としてあります。今この空間を照らしているのは、ナースデスクの端に立てたポータブルランタン一つだけで、ぼんやりとした琥珀色の光が私の視界を曖昧に染めておりました。
眠っている患者の皆さんの寝息が、静かに、規則的に続いています。その音が、やけに耳に残ります。ひとつのベッドから次のベッドへと歩を進めるたびに、私の足音が床に吸い込まれていくような感覚がいたします。
「……異常は、ありません。点滴の滴下速度も、設定どおりで、問題、ありません」
記録用端末に情報を入力しながら、私はポケットから簡易型の赤外線体温計を取り出し、死体……患者さんの額に向けて静かにかざしました。ピッという短い音とともに表示された数値は、平熱の範囲内です。
大丈夫です。たぶん、ですが。
……いえ、大丈夫です。
右手が少しだけ震えておりました。
あれ、これは寒さでしょうか。エアコンの設定温度は──
「……ええと、何度にしていたのでしたっけ」
思わず口から出てしまったその声は、思っていたよりも掠れておりました。咳をする気力もなく、私は次の患者さんの元へ歩を進めます。
ベッドの柵に手を添え、身を屈めて顔を確認いたします。
殴打痕と肋骨のヒビ、止血済み。内出血も経過観察中。
この方は昨日、学食前で発生した銃撃戦に巻き込まれた生徒さんです。意識は戻っておりませんが、回復に向かっております。
何が原因で、誰が始めて、どうして巻き込まれたのか──
そういったことを考える余裕は、今の私にはございません。
……これが、ゲヘナ学園という場所の「日常」であるという、それだけの話です。
「昨日の記録によれば……あれ?」
端末を見ながら、私の視界が急にふっと霞みました。数字が、一瞬だけ、溶けるように歪んで見えました。
瞬きをしたら元に戻りましたので、問題はありません。ほんの少し、疲れているだけです。あと三人の患者さんを確認すれば、椅子に座る時間くらいはとれる……かもしれません。
ナースカーテンの隙間から、風が流れ込みました。制服の裾がふわりと揺れて、私は肩の力が抜けていることに気づきました。……いえ、正確には、力を入れる余力が残っていないのかもしれません。
「……次に参ります」
小さく声に出して、自分を無理やり動かします。床に落ちた私の影が、ランタンの光でふらふらと揺れました。
ゲヘナ自治区に生まれ、なにも考えずゲヘナ学園に入学しました。
他人に治療したい優しさも、救いたい正義感もございません。
ただ、怪我をしている人を見ると、胃の奥がひどく痛むのです。
それが嫌で、ここにおります。
血の匂いにも、叫び声にも、もう慣れてしまいました。
けれど、本当は──慣れてはいけないのだと、思います。
……そう思っていた気が、するのですが。
今の私は、その「気がする」という感覚すら、うまく掴めなくなっております。