救急医学部平部員の看護日誌 作:定時大好き
──ゲヘナ学園。
学園都市キヴォトスに存在する三大マンモス校の一つであり、広大な領域と膨大な生徒数を誇る、最大規模の自治区──ゲヘナ自治区の中枢に位置しております。
理念は「自由と混沌」。
文字にすれば、聞こえの良い抽象的な標語に思われるかもしれませんが、実際にはこの校風が隅々にまで徹底されており、秩序よりも勢いが尊ばれております。
服装も武装も、原則自由。
発言も行動も、基本的には咎められません。
代わりに、すべての責任は自己負担です。
秩序がないわけではございません。
校内の治安維持は、「風紀委員会」という組織が一手に担っております。彼女たちは、混沌の中に最低限の均衡を保つため、常に武装して学内を巡回し、違反者を実力で鎮圧します。
活動は厳しく、任務も過酷であり、常に忙しそうにしておられます。
しかし、それでも校内の騒動は絶えません。
というよりも、止む気配すらございません。
爆発音も銃声も、罵声も悲鳴も、学園内では日常風景の一部として処理されております。
──そしてその結果、負傷者が発生します。
くだらない私闘で怪我をした生徒。
風紀委員会に鎮圧された反抗者。
任務中に傷を負った風紀委員会の皆様。
そのすべてが、例外なく、私たち救急医学部のもとに運び込まれてまいります。
……私は時折、考えるのです。
風紀委員会が取り締まりを担い、私たち救急医学部が治療を担う。
どちらも忙しいことに変わりはありませんが──
一番忙しいのは、最終的に増えた死体を全員受け止める、救急医学部ではございませんか?
誰かを正すでもなく、統率するでもなく、ただひたすらに、処置と看護を繰り返す。
正義も理想も語らず、結果だけを受け入れる。
それが私たちの役割です。
とはいえ、先輩みたいに、私はこの仕事を誇りに思っているわけでも、使命感を抱いているわけでもございません。
ただ、怪我をしている人を見ると、どうしようもなく胃が痛くなるのです。
その感覚から逃れるために、私は今日も包帯を巻き、点滴を繋ぎ、ベッドを整えております。
ここは、ゲヘナ学園。
自由と混沌の果てに、痛みと血と、わずかな静寂が横たわる場所。
その片隅で、私は今日もまた、処置室の灯を消すことなく、生徒たちの回復を見守って──
「部長の到着まで、あと十五分! 病床の空きは?」
「ありません! 退院予定の方はまだ準備中です!」
「授業をサボりたいだけでしょ! 早く叩き出して!」
「了解! セツナちゃん、ベッドメイキング手伝って!」
「……」
「セツナちゃん?」
「……は、はい。分かりました!」
先輩方の声が、私を現実逃避から引き戻してくださいました。
最近、こうしてぼんやりすることが増えてきたように思います。
考え事をしている余裕などないはずだと、分かっておりますのに……。
「セツナちゃん、大丈夫? 顔色、悪いよ」
「大丈夫、です」
「この仕事が終わったら、もう上がっていいよ。まだ慣れていないでしょう?」
「いえ、大丈夫です。また……頑張れますから」
「そう……でも、休憩したいときは、いつでも言ってね」
先輩の優しい声を聞くと、胸の奥に小さな痛みを覚えます。
私は、先輩方のように何でもできるわけではございません。
怪我の応急処置と、ベッドメイク、それと少しばかりの補助作業──それくらいのことしか、まだできておりませんのに。
そんな私が、先輩方よりも先に休んでどうするのですか……
私と先輩は、業務用ワゴンを押しながら、病棟と繋がった病室──いえ、私たち救急医学部の「部室」へと足を踏み入れました。
扉を開けた瞬間、微かに乾いた薬品の匂いと、まだ温もりを残した空気が鼻をかすめます。
室内にはカーテンレールで区切られた簡易的な病床が五つ。清潔に整えられたベッドのリネンと、無機質な医療機器たちが規則的に並ぶ、決して広くはない空間です。
しかし、そのうちの二つのベッドでは──退院予定の患者が、まだ患者衣を着たまま、堂々とゲームに興じておられました。
ひとりは背中を丸め、ベッドの上で胡座をかきながら、携帯端末を両手に構えて画面を真剣な目で睨みつけておりました。
その向かい側のベッドには、もうひとりの生徒が長座の姿勢で座り、やや前傾のままゲーム機のスティックを操作しておられます。
二人のベッドは、ちょうど中央の通路を挟んで向かい合うように配置されており、互いに体を前に乗り出すようにして、ベッドの隙間越しにゲームに没頭しておられます。
「……まじで今の? それチートじゃない?」
「チートじゃねえって、これは仕様! 回線のラグも実力のうちだって!」
わずかに興奮を帯びた声が飛び交い、指先は忙しなく画面をタップし続け、効果音とボタン音が室内に反響します。
ベッド脇には夜食の残りと見られる空の紙パック、お菓子の袋、脱ぎっぱなしの靴下まで散らばっており、まるでパーティでもしたかのような有様でした。
患者衣はすでに着崩れており、前合わせは半開き、首元からは私服のTシャツが覗いています。
もう痛みが残っている様子もなく、足をぶらぶらと揺らしたり、時おり仰け反って笑うなど、明らかに「回復済み」のご様子でした。
他のベッドでまだ静かに休んでおられる方がいるにもかかわらず、本人たちはまったく気にする様子もなく、ただ熱心に目の前の勝負に集中しておられます。
先輩がため息混じりに私の肩を軽く叩き、ゆっくりと彼女たちに近づいていかれました。
「ちょっと、お二人さん」
「何よ! 今忙しいんだよ!」
「話しかけんな!」
先輩の呼びかけに対して、二人はゲームから目も離さず、苛立ちのこもった声を返しました。
……そちらが「忙しい」などと、どうして言えるのでしょうか。
「お二人さん、今日退院する予定なので、早く準備してください」
「はぁ?」
「聞いてないし! こっちはまだ怪我してるんだよ!」
「それなら昨日伝えたはずです。すぐに使う人もいるんだから、早く退院の準備をしてください。」
「あー! あー! 痛むわー、爆弾にやられた足が痛むわー!」
「あー! あー! 痛むわー、撃たれた肩が痛むわー!」
……本当に、どうしてこう、余計なことばかりしてくださるのでしょうか。
「先まで元気にゲームをやっていた人が、何を痛むフリしているんですか。バカなことしないで、早く出てください!」
次の入院希望者が、もう直ぐ着きます。次の処置室も、器具の洗浄が間に合っておりません。
それでも、ベッドを明け渡すどころか、今この瞬間も騒音と共に時間を奪っていく──
……正直、心から迷惑です。
どうして、誰も彼も、こちらの状況を考えてくださらないのでしょうか。
この病室は、遊び場でもなければ、怠けるための休憩所でもございません。
痛みを誤魔化して居座ることに、どれほどの価値があるのでしょうか。
気がつけば、顔に力が入っておりました。
頬がわずかに引き攣る感覚と、額にかすかな熱を感じます。
ああ、いけません。考えごとをするとき、どうしても力が入ってしまう癖があるのです。
ふと、何かが止まったような気配を感じて、私は顔を上げました。
ちょうど、ゲームに熱中していた生徒の一人と目が合います。
「ひぃ……」
すると──その子は小さく息を呑んで、びくんと肩を跳ねさせました。
もう一人も、私の視線に気づいたのか、急に手を止めて、お菓子の袋を膝の上に抱え込みます。
「わ、わかったよ。で、出ればいいんだろ!」
二人は互いに顔を見合わせると、まるで悪戯を見つかった小動物のような動きで、そそくさとベッドを降りはじめました。
患者衣の前合わせを急いで直し、足元に転がっていた靴下を拾い上げ、簡易バッグへと荷物を詰め込んでいきます。
……どうなさったのでしょうか。
たまにあるのです。わがままを言っていた方が、いきなり素直になって、こちらの指示に従うようになることが。
その理由は、未だに分かりませんが、とりあえず出ていただけるだけでありがたいとは思います。
そう思いながら、私はそっとため息をひとつ落としました。
その間にも二人はせかせかと荷物をまとめ、「すみませんでしたー」と棒読みの謝罪を口にしながら、部屋を出ていきました。
「ナイスだよ、セツナちゃん!」
そして、なぜか先輩に褒められました。
あ……もしかしてこれは、本当に私を褒めてくださったのではなくて、状況が好転したことに対しての「ナイス」なのでしょうか?
どうしましょう。外国語の成績があまり良くないので、そういったニュアンスには本当に弱いのです……どっちの意味なのか、急に分からなくなりました。
「ナ、ナイスですぅ……」
とりあえず同じ言葉で返してみたのですが──
「なんなのその返事。」
……適当に返したら笑われました。
ですが、まぁ、先輩が少しでも笑ってくださったのなら、それはそれでいいことかもしれません。
とりあえず今は、空いた病床を一刻も早く整えることを優先しなければ。
私はワゴンから新しいシーツと防水パッド、枕カバーを取り出し、手際よくベッドのリネンを剥がしていきます。まだ温もりの残る使用済みの寝具を、畳むことなく専用の袋へ押し込み、続けてシーツを広げて──角を合わせるようにして一気にかけ替えます。
薄く汗のしみ込んだマットレスに直接触れないよう注意しながら、四隅をしっかりと折り込み、枕も交換。ぺたんと潰れていた中身は別のものへ。手際だけは鍛えたつもりです。
感染防止のための処置が必要な道具は別ワゴンに積み直し、必要な薬品もストックを確認。
次の入院者がすぐに来る予定とあって、少しでも早く、少しでも綺麗に整えなければ──
そんな時、先輩の携帯端末に通知音が鳴りました。
確認した先輩は、画面を見てほんの少し目を細めると、私の方へ小さく振り返りました。
「セツナちゃん、ここ任してもいい?増援が必要だって」
「分かりました。こちらが終わったら私も──」
「いえ、セツナちゃんは休んで。ずっと働いたんでしょう?」
その言葉に、思わず反論が口から出そうになります。
「それなら先輩たちも……!」
「私たちはいいの。こういうの慣れてるから。ここ終わったら絶対休むように。分かった?」
その声音は穏やかなのに、不思議と逆らえない力があります。
私は小さく息を吸い、頭を下げました。
「は、はい……!」
先輩は私の返事を聞くと、ほんの少しだけ微笑んで──それから、何も持たずにくるりと向きを変え、てくてくとカーテンの向こうへと歩いて行かれました。
その足取りに迷いはなく、背筋はまっすぐで……私はただ、その背中を信頼と共に見送ります。
……大丈夫です。先輩なら、きっとすべてをうまく処理してくださいます。
一人になりましたが──これくらいの仕事は、一人でこなせなければ救急医学部では役に立てません。
これからも、もっと頑張って、少しでも先輩方のお力にならないといけないのです。
そう思いながら、手を止めることなく淡々と作業を進め、時間ぎりぎりまでかけて、なんとか最後の病床まで準備を終えました。
「あと、は……ッ」
ワゴンをリネン担当の先輩に引き渡さなければ、と──いつも通りの独り言を口にしようとしたのですが。
喉から漏れたのは、声とは呼べない、掠れた息のようなものでした。
次の瞬間、心臓が唐突に騒ぎ出したかのように、胸の奥で鼓動が暴れます。
深呼吸をすれば落ち着くかと思ったのに、まるで咽せたように咳が止まらなくなってしまいました。
いけません。
負傷者様のいらっしゃる病室でこんな咳をしては……いけませんのに。
咄嗟に出ていこうと、足に力を込めた、そのときでした。
視界が、ぐにゃりと歪んだのです。
どうして──どうして地面が、顔のすぐそこにあるのですか?
歩こうとしたはずなのに、踏み出すべき床が、もう目の前に迫っておりました。
鼻の奥がひどく熱く、どくりとした温かさが唇を伝って流れていく感覚がございました。
それなのに、身体の芯は冷え切っていて、背中からぞくぞくと寒気が這い上がってまいります。
これは、エアコンの設定ミスかもしれません……いえ、中央管理が故障しているのでしょうか。
このような冷えた病室に、負傷者様をお通しするわけにはいきません……早急に病室の交換申請を……
……あれ? なにを、申請……?
──おかしいです。考えが、まとまらなくなってまいりました。
言葉が、頭の中で次第に、滲んで、ほどけていきます。
目の端で、床に散らばった白い洗濯物が、まるで雪のように見えました。
静かに、静かに──私の意識が、そこに溶けていきました。