ジークと人妻(?)がキャッチボールするだけです。それ以下でもそれ以上でもないです。
いつも通りの濁り空を天上に貼り付けた、レベリオの昼下がり。時折、顔見知りの店主に引き留められながらも、賑わいをみせる大通りを歩いていた。いつも抱えている買い出し帰りの紙袋も、今日はない。やらなければいけないことも、行く宛も特になかった。強いて言うなら、暇つぶし、だろうか。
散歩にしても、収容区内の景色は味気ない。家に帰れば、掃除に洗濯とやり残したことがいくらでもある。それにも関わらず、無意味な時間を過ごしているのには、理由があった。
なんでも、今日は叔父さんたちが友人を家に呼ぶらしい。一緒にどうか、とも誘われたのを、それらしい理由を作って断ってきた。ただでさえ相手が面倒なのに、同席したらどうなるのかくらい想像は容易だ。その友人とやらにばったりでくわさないように出てきたので、今頃はお喋りを楽しんでいることだろう。
あたしは目的もなく動かしていた足を止め、適当な路地に寄りかかった。
「なにしよ……」
独り言を溢して、何をするでもなく腕を組んでみる。行き交う人々に目を走らせながら、考えるのは今後のことだ。
念には念をおき、日が落ちたあとに、つい遅くなってしまった風を装って帰宅したい。けれど、それにしたってやることがなく、思いつきもしなかった。あの家に連れてこられてから、まともな一人時間をとれたのは初めてだ。自由だと喜ぼうにも、ここはレベリオ収容区。その名の通り、エルディア人を収容するための壁があるくらいで、面白いものは一つもない。
ライナーは軍に呼び出されて朝からいないし、ポルコも同様だろう。ファルコたちも訓練の真っ最中だろうし、美味しいもので腹を膨らませるにも、財布を置いて出てきてしまった。急いでいたと言え、致命的だ。空っぽの腹を、軽く撫でてみる。
常連となっている店の店主と話すのは、段々と飽きが出てきた。必ずと言っていいほど、ライナーのことも探られるし。訓練兵の時もそうだったが、ほんと、人気者で参ってしまう。まあ、昨晩の姿をみれば、みんな考えを改めるだろうけど。
「あれ、ノエルちゃん?」
「……え」
あるはずのない光景に口角を上げていたら、目の前に影が降りた。その正体は、わざわざ視線を動かさずともわかる。この調子の良い喋り方。幼稚な呼び方をしてくるのは、一人しかいない。
「そんで、俺はキャッチボールする気で行ったんだけどな……」
思いつく限り、最悪の人物と出会ってしまった数分後。あたしは何故か、その人物と道を歩いていた。軽く挨拶をして立ち去るつもりだったのだが、引っ付いて来られれば、振り切ることもできない。その上、「キャッチボールしない?」と大凡の成人男性からはされることのないような勧誘を受け、現在に至っている。
「そいつが、キャッチボールどころじゃなくてさ」
子供でもあるまいし。そんなお誘いは丁重にお断りしたはずなのだが、この男には耳がついていないんだろうか。聞いてもいない事の顛末を喋り終え、ジークが肩を落とした。大柄の男がそうしたところで、これっぽっちも同情は湧かない。痛々しいのでやめたらどうだと言いたいが、指摘もまた別に面倒そうなのでやめておく。
「じゃあ、一人でやればいいんじゃないですか?壁打ちとか」
「俺が一人で壁打ちしてるとこ、知り合いにでも見られたらまずいだろ」
わざわざ別案を提案してやったのに、それでは納得がいかないらしい。視界の隅にいるジークは、不満げに口を尖らせている。舌打ちが溢れそうになるのを飲み込んで、あたしはどうにか笑みをつくった。
「いい年したおじさんがキャッチボールしてるのも変わらないと思いますけど」
「おじさん?ノエルちゃん、今俺のことおじさんって言った?」
汚らしい無精髭に、その歳を自覚していないような仕草。誰がどう見たって、おじさん、のそれだ。ジークが前屈みになってまで問うてくるけれど、答えてやるほど優しくない。無言のまま数歩先に進んで、ジークが嘆いた。
「無視は酷くない?俺が泣いたらどうするの」
「ふっ……」
変な丸眼鏡を通した両目から、ポロポロと大粒の涙を流している大柄な男。あまりに滑稽な様子が脳裏に過ぎり、鼻で笑ってしまった。慌てて手で押さえるも、「お」この髭面は見逃さなかったらしい。愉しげに吊り上がっている目元を、誰かどうにかしてやってくれないだろうか。物理で。
「ノエルちゃんの笑った顔、初めてだな。その方が可愛いよ」
「……それは、どうも」
褒め言葉のはずなのに、ここまで嬉しくないのは初めてかもしれない。いや、ライナーにエプロン姿が様になっていると言われた時以来か。どちらにせよ、謎の悪寒で震え上がりそうになるのを耐えて、どうにか返事を絞り出した。
「で、どこが面白いって?」
「忘れました」
「そりゃないだろ、ノエルちゃん」
「はい、ないです」
諦めずに探ってくる髭面へ、わかりやすく惚けてみせる。というか、あまりのしつこさに沸々としたものが腹の底に湧いてきた。
そもそも、ライナーの妻として周囲に認識されてしまっている現状で、戦士長と名の知れているジークと並ぶのは非常に不味いのだ。あらぬ噂でも立てられでもしたら、堪ったもんじゃない。順風満帆な余暇を過ごすつもりだったのに、頭が痛くなってきたし。
「なあ、教えてくれないのかよ」
恨みがましい視線を送っても、この髭はピッタリと付いてくる。絶対に気づいている癖して、素知らぬ顔だ。嫌がらせがしたいのか、と肩を掴んで揺さぶってやりたい。長い髭を引っこ抜いてやりたいが、ここは人前だ。ついでに、あたしの懸念通り、行き交う人々から注目を浴びている。
どうして、こういう時ばかりこの髭が非番なのか。これなら、叔父さんの友人とやらの相手をしていた方が数倍マシだった。やりきれない後悔が頭を駆け巡り、現実逃避しそうになるのを引き留める。いつまでも早足で歩いていたって、振り切れそうにもない。こうなったら。
「ジークさん」
「あ、思い出した?」
覚悟を決めて、あたしは髭へと呼びかけた。すぅ、と大きく息を吸ってから、続ける。
「キャッチボール、やってあげますよ」
「え?冗談じゃないよね?」
「はい」
「よっしゃ。ダメ元でも誘ってみるもんなんだな、意外と」
誘っておいて。白々しい態度に、眉がピクリと動く。そうだ。これは、さっさと相手を終わらせるためであって。溜まった鬱憤を直接ぶつけてやりたくなったんじゃない。本当に。
その後のジークは、はしゃぐ子供のようだった。分かってる。髭まで生やしている立派な成人男性に、そんな言葉は似つかわしくないことくらい。けれど、良い場所がある、とか言ってあたしを収容区から連れ出したジークを、はしゃいでいる以外になんて言い表せばいいか分からなかった。
エルディア人は中々手にできないはずの外出許可証。それをただの紙クズみたいに受け取ったあたしは、見たことのある建物にいた。
ライナーたちがいるであろう本部の裏で、堂々とキャッチボール。もし見つかりでもしたら、どうするつもりなのか。問いただすあたしに対して、ジークは楽観的だった。ライナーを迎えに来たって言えば大丈夫でしょ、と無責任に放り出され、手を出さなかったあたしは褒められていい。万が一、その言い訳を採用するとして。ライナーは、本部まで迎えに来た健気な恋人に喜ぶだろう。問題はその後だ。一度つけ上がらせたら、何気なく次を期待してくるに違いない。その対応をしないといけないのは、間違いなく未来のあたしで。
「おーい、ノエルちゃん」
いつまで経っても投げ返さないあたしに、痺れを切らしたらしい。ジークが遠くから声を投げかけてくる。
どうであれ、面倒なことに巻き込まれたのは確実だ。なら。とりあえずは、元凶に不満をぶつけるのが先か。
「おっ」
一挙一動に反応してくるジークは、かなり鬱陶しい。握り潰すつもりでボールを掴み、地面を踏み締める。真似をするのは、いつかに見たアニの投球フォームだ。渡された一球に全てを込め、振りかぶる。狙い通りの勢いで放たれた球は、パシ、とジークの手に収まった。
「おおっ!結構いい球投げるじゃん、ノエルちゃん」
謎の不審者にはなりたくないと訴えて、グローブは外させた。さっきからジークは素手で受け止めているのだが、手を痛ませるまではいかないらしい。そう上手くいくとは思っていなかったけれど、弾むような調子のジークに、胸中で悪態を吐く。
「どっかで習ってた?小さい頃やってたとか」
「これでも、兵士だったので」
「ええ?ノエルちゃん。兵士やってたのかよ」
ジークから投げ返される球は、緩やかなものだった。手加減のつもりか知らないが、随分と舐めてくれているらしい。ささやかな気遣いでさえ、ジークを通せばこの有様だ。晴れようのない苛立ちに身を焦がしつつも、球の投げ合いを繰り返す。
「ああでも、ライナーたちと同期だったんなら……そうか」
ボールを投げずに手で弄んでいたジークは、思い出すように言った。同時にボールが投げ返され、空を舞う。一歩前へと踏み出せば、ストンと手のひらに着地した。
「それにしたって……兵士か。主婦の方が似合ってるよ」
「……そうですか」
一喜一憂する気さえしなくて、適当な相槌をする。不意をつくつもりで、すぐさま投げ返すも、簡単に受け止められてしまった。趣味がキャッチボールなだけあって、ちょっとやそっとじゃ動揺してくれない。ギリ、と隠れて奥歯を噛み締めていたら、ジークが再び口を開いた。
「じゃあ、本当に運が良かったんだな」
「なんのことですか」
宙に浮かんだボールを目にしたまま、あたしはそう聞き返した。予測通りの場所に落ちてきた影を掴んで、顔をあげる。ボールが手に馴染むより先に手放すも、ジークは焦りも見せずにキャッチした。
「ライナーたちと同じ組織にいたんだろ?調査兵団は、俺が壊滅させちゃったからな」
「え……」
意味を理解した体が凍りつく。取ろうとしていたボールが地面にぶつかり、転がって足先へあたった。「ノエルちゃん?」異常を察知したのだろう。世間話のようにとんでもないことを言い出した張本人が、こちらを窺ってくる。
「壊滅、したんですか?調査兵団が?」
場違いなくらい怪訝そうな顔に向かって、あたしは乾き切った喉を動かした。本気かどうかなんて、確認するまでもない。例の惨劇を引き起こし、殺人を救いなどと宣う人間だ。身の丈に合わない言動で、あの異質さを忘れかけるところだった。
「あー……ごめんごめん。仮にも同じ組織にいたんなら気まずいよな」
薄れかけていた警戒心を取り戻すあたしに、ジークは頭を掻きながら答える。あれほどの組織を壊滅にまで追い込んだことは軽々言う癖して、同情する心持ちはあるらしい。益々よく分からない男だ。分かりたくもないけれど。
「ノエルちゃんはこういうの気にしないと思ってたんだけど」
「……あたしのこと、なんだと思ってるんです?」
「いや、褒めてるつもりだよ。俺は」
額に垂れていた汗をこそりと拭い、放置していたボールを拾いあげる。何度も使われているからだろう。薄汚れた縫い目を指先でなぞって、真上に投げた。
「……まあ、否定はしません」
「ノエルちゃんなら、そう言うと思った」
全部訳知り顔のジークが気に障るけれど、反論はしない。我ながらの薄情さに、自分で笑ってしまいそうだったから。
訓練兵の頃、あれだけ志望していた調査兵団が。みんなが死んでしまったかもしれないと言うのに、喉のつっかえが取れるのは早かった。いっときは連続して刻まれていた心臓の鼓動も、今は平坦なものへと落ち着いている。現実逃避というより、本当にどうでもいい時のそれだった。
「やっぱり気が合うよな、俺たち。今からでも付き合ってみる?」
「ごめんなさい」
「はやっ」
「あれ、ジークさん?」
気色悪い提案を切り捨てたところで、ジークとは違う声がした。あたしが声の主を辿る間もなく、「ああ、コルト」とジークが聞き覚えのある名前を呼んだ。
「今日は非番ですよね?それに、なんでノエルさんが……」
さっさと退散する暇は、残されていなかった。奥から歩いてきたコルトが、不可解そうに言葉を濁らせている。ファルコの面影を宿した顔つきは、間違いなくあたしを映していて、もう誤魔化しようがない。どう事態を収集するべきか。頬を引き攣らせながら、考えを巡らせているあたしより早く、ジークが言った。
「いやさ。一人寂しくキャッチボールしようとしてた俺を哀れんで、ノエルちゃんが付き合ってくれたんだよ」
「は、はあ……?」
ジークは事実を伝えているだけなのだが、内容が突拍子もなさすぎる。この異常な状況に、コルトも理解が追いついていないようだ。目を白黒させたのちに、歯切れの悪く首を傾げている。
「な、ノエルちゃん」
「あの、離れてください。人前なんで」
ジークの言葉を補足しようとして、長い足がすぐそばまで来ていた。本能があたしを退かせるより先に、肩へ手を置かれる。ジークには、遠慮の二文字が存在しないのだろうか。ぞわりと粟立つ背筋に抗えず、胸を押し返す。ついでに触れて来た手首もひっぺがして、すかさず距離を取る。ライナーのような下心はないだろうが、それにしたって不愉快だ。
「ああ……変な勘違いするなよ、コルト」
見てわかるくらい強引に拒絶したつもりなのだが、ジークはまるで気にしていなさそうだった。行き場のなくなった手のひらを仰いで、手持ち無沙汰に自分の髭を触っている。
「勘違い、ですか?」
「そう。俺たちはただの知り合い」
困惑を隠せていないコルトに、ジークは大きく頷いてみせた。誤解を招かないようにする配慮はありがたいけれど、元はと言えばジークが子供染みた要求をしてきたせいだ。
「だろ?ノエルちゃんは、ライナーのことが大好きだもんな……っうお」
奇妙な丸眼鏡に目掛けて放ったボールが、寸前で止められてしまう。あと数秒早ければ、顔面からひっくり返るジークの無様な姿を望めたかもしれないのに。残念がるほどの労力をかけるのすら煩わしい。
「ジークさん。楽しいキャッチボールありがとうございました。さようなら」
ついに、我慢の限界というやつだ。思ってもないことを口にして、冷え切った体を動かした。いつの間にやら、空は赤く染まっていて。暇つぶしにはなったが、あまりにも疲弊しすぎている。「ノエルさん、もう行くんですか?ブラウン副長は……」スタスタと歩き始めたところで、背後から声がした。あたしは早歩きだった足を止め、軽く振り返る。
「コルトさん。ファルコによろしくお願いします」
「え、あ。はい、伝えておきます」
「ノエルちゃん、またやろうなー」
以前のように愛想良くする余裕がないので、挨拶だけに留めておく。戸惑いつつも了承してくれたコルトの後ろで、手を振っているジークが嫌でも目に入ってきた。あたしを散々振り回してくれたにしては、なんとも軽々しい別れだ。深いため息を必死に押し殺して、あたしはやっと帰路に着いた。
「ノエル?」
「ら。ライナー……」
呼びかけられ、その姿を目に映さずとも誰だかわかった。出くわさなければいいけれど、と心配していた自分が馬鹿らしくなるほどのばったりだ。ライナーは、早朝に見送った時と変わらずだった。まさか出会うとは思ってもみなかったのだろう。僅かに見開かれた瞳が、あたしを見下ろしてくる。
「どうしてここにいるんだ」
「あ、いや。その……」
どうしよう。目を泳がせ、良さげな言い訳を探りかけて「もしかして」と、ライナーは自分で言い出した。
「俺を迎えに来たのか……?」
「……ウン。暇、だったから」
「ノエル……」
その言い分に乗ってやれば、ライナーが目元を蕩けさせる。誤魔化しは効くだろうけど、そのあとは。あたしの悪い予感が、残念ながら的中してしまっていた。歩き出したはいいものの、物言いたげな視線が突き刺さってくる。「待っている間、何もされなかったか?」おずおずと尋ねてくるライナーに、「平気だったよ」首を縦に振っておいた。
気晴らしにするつもりだったのに、これじゃあ骨折り損だ。あれやこれやの発端が脳裏に浮かび、苦々しいものが口内に広がってく。
あの髭面、次会ったら絶対に無視してやろう。あたしはそう固く誓って、物足りなさげに揺れ動いていたライナーの手を取った。