極限の疲労に、視界が霞んでいく。
それでも、精一杯に目を見開いたエドガールは、眼前の出来事を記憶に焼きつけたかった。
他に比肩するはずもない巨大な化け物と、果敢に挑みかかる小柄な人影――それは、古の英雄譚に謳われるような神話の光景だ。
こちらの拘束を跳ね除けてしまった触手が暴れ狂い、頭上で槍を振り翳した隊長に迫っていく。
『うわぁーっ、危ないよ!』
「――っ、……驚かさないでくださいよ」
不意の叫び声に当てられ、思わずと身体を強張らせてしまったエドガールだが、小さくかぶりを振って言葉を続ける。
「……静かに見ていてください、あの方が負けるはずはありません」
小さくも大きな背中に寄せる確かな信頼が、思わずと語気を強めさせた。
そうして、傍らのドライアードと並んで見つめる先――、隊長の振り抜いた槍の穂先が煌めき、触手が左右に分かたれていく。
化け物は断末魔にも似た軋り音を撒き散らしながら落下し、衝撃が土埃を舞い上がらせる。
(……やはり、あの方がいれば人類の希望の灯が消えることはないだろう)
見事に触手を討ち果たした槍を背に担ぎ直し、軽く息を整えている隊長の立ち姿を見遣り、エドガールは静かに拳を握り締めた。
『――や、やったの!? キ、キミたちすごいね。あの触手を倒しちゃうなんて! あの七人組でも封印するのがやっとだったのに……』
ドライアードの素直な驚嘆。
「――ったりめぇよ。まっ、隊長様が居なけりゃ、こうも上手くはいかなかっただろうけどな」
セドランが豪快に笑い、隣のクアイエッセが小さく肩を竦めてみせた。
「隊長は当然ですが、ボーマルシェも初めての遠征任務で立派に役割を果たしましたね」
「え、えぇ……何とか。無事に足止めすることができたので、ほっとしています」
「そうだな、あの化け物の動きを止めたのは誇って良いぜ。偵察がメインのクアイエッセはともかく、その点で俺は何もしてないからな!」
「威張ることではないでしょうに……とは言え、カイレ様を守ることより大切な役割もないですから、セドランもお疲れ様でした」
鈴を転がすようなクアイエッセの声音は、不思議と気持ちを落ち着かせてくれる。
同じく“漆黒聖典”に籍を置いている身ではあっても、神の血を覚醒させた数少ない“神人”の隊長と他の隊員たちとの間に広がる実力差は歴然であり、決して埋めることはできないだろう。
それでも、皆が各々の果たすべき役割を全うすれば、こうして笑顔を交わすことができるのだ。
場の和やかな雰囲気に微笑み、エドガールは一つ小さく息を吐いた。
相当な疲労から思わずと座り込みたい衝動に駆られるが、大きな戦いを終えてこちらに歩み寄ってくれる隊長を前にして、情けない姿は見せたくないと必死に直立の姿勢で堪えている。
「――皆、良くやってくれた。カイレ様もご足労いただき、ありがとうございました」
「いや、年寄りに礼は不要じゃよ。小童どもが随分と頼もしくなりおって……」
矍鑠とした振る舞いでカイレが労いの言葉を口にして、「帰りはもう少し楽な道だとありがたいけどね」と冗談めかせた。
偉大なる六大神が遺した真なる神器を行使することなく、巫女姫に予言された破滅の竜王を対処できたことは僥倖だろう。
とある裏切りから、急遽の欠員補充として部隊に組み込まれたエドガールにしても、“漆黒聖典”の名に恥じない能力を初の遠征任務で示せたことは、今後の活動においても重要であり――、
『いやー、本当に凄かったよ! キミたちがいてくれれば、アイツの本体が目覚めてしまっても、何とかなりそうな気がするよ』
――不意の衝撃発言は、場の空気を読めないことに定評のあるドライアードからだった。
「お、おい……待ってくれ。あの触手が、お前さんの言ってた“魔樹”ザイトルクワエじゃないのか?」
和やかな雰囲気が一瞬にして凍りつき、慌てたセドランが真っ先に問いかける。
『えっ、そうだよ。最初に言わなかったっけ? あの触手は分体というか……魔樹の一部、って感じらしいよ。本体はワタシが生まれる前から眠ってるみたいだから、一度も見たことはないんだけどね』
不思議そうに小首を傾げたドライアードが、やけに気安い口調で言葉を続ける。
『まぁ、アイツの本体が目覚めるのは時間の問題かも知れないけど、あの七人組よりもキミたちの方が強そうだから、それまでは――』
しかし、そのあまりに楽観的に過ぎた台詞は、突然の地響きにより中断を余儀なくされるのだった。
*
世界を滅ぼしかねない“魔樹”ザイトルクワエの復活――何としても阻止するべき危急の事態が、一行の目前で唐突に進行していく。
「まさか、これほどとは……」
破滅の竜王と呼ばれる超常の存在が、如何に規格外の脅威であるのか。
こうして実際に直面していなければ、エドガールが本質的に理解することは難しかっただろう。
『もう本体が目覚めちゃった!? こ、こんなに大きいなんて……ど、どどどどどーしよーっ!?』
一瞬にして慌てふためき、分かりやすく狼狽を見せるドライアードの姿を視界の端に追いやりつつ、小さく呼吸を整える。
「……体高は目測で百メートル以上。先ほどの隊長が倒した触手は、文字通りヤツの腕に過ぎなかったということでしょうか」
「そうみたいだな。ついでに同じような触手が追加で、もう五本ってところか」
クアイエッセが冷静な声音で寸評し、傍らのセドランが溜め息交じりに肩を竦めてみせる。
正しく天を覆わんばかりの巨大な魔樹は、その巨体に見合う長大な触手を縦横無尽に振り回して、周囲の枯れ木を無造作に薙ぎ払っていく。
「――ん? 触手の一つが枯れ木を掴んで……あれは植物を喰らっているのか?」
絡め取るようにして枯れ木を運んだ先――巨大な口と思しき裂け目には不揃いな牙が乱立しており、バリバリと幹や枝を砕くように咀嚼していた。
長年に渡って周辺の大地や樹々からエネルギーを吸い取っていた事実を踏まえても、その生態を理解することはできそうにない。
『冷静に分析してる場合じゃないよね!? すぐにここから離れよう! あれほど凄いなんて、これっぽっちも思ってなかったよ!』
緊迫したドライアードの発言は真っ当であり、極自然な反応だろう。
どれほどに都合良く見積もったとしても、目の前に出現した災厄の権化が、非力な人間の手に負えるような存在だとは思えない。
――それでも、退けない理由があった。
「……各員、戦闘用意を」
感情を悟らせない隊長の声音。
再び槍を携えて進み出ていく小柄な背に続いて、エドガールも無理矢理に気力を振り絞る。
「――っしゃあ、やるか!」
鏡のような対となる大盾を構えたセドランが大仰に意気込み、軽く頷いたクアイエッセは「出ろ」と短く命じて腕を払った。
その背後に浮かび上がる黒い穴――這い出してくるのは、八頭ものギガント・バジリスクである。
英雄級と称されるエドガールをしても、複数体を相手取ることは避けたい魔獣であり、先に召喚していた個体と合わせて、同時に十頭も操ることができる術者は“一人師団”を除いて他にいないだろう。
しかし、それほどに精強な魔獣の群れを擁しながらも、超常の存在たるザイトルクワエを目の前にして、一切の余裕があるはずもない。
『――っ、ちょっと……キ、キミたちも凄かったけど、あんな化け物を相手に何ができるのさ!? 早く逃げないと大変なことになるよ!』
切羽詰まったドライアードの問いかけに、隊長が小さく肩を竦めてみせた。
「お前が逃げるのを止めはしない……だが、逃げたところで何か良い手立てがあるのか?」
『そ、それは……昔みたいにドラゴンの王様たちがアイツを倒しに来てくれれば――』
「――ならば、そう願っていろ」
静かに突き放した言葉は、不退転の覚悟だ。
逼迫した事態に、いつ現れるとも知れない竜王の救援を待つ猶予は残されておらず、それらが人類にとっての“救援”となる保証もない。
たとえば、世界の裁定者を気取ったアークランド評議国の永久評議員といった連中には、六大神の庇護下にあったスレイン法国が敵視されており、何度となく煮え湯を飲まされてきたのだ。
そうであれば、人類の命運を他種族に託すことは罷りならず、自らの手によって道を切り開く――それが“人類の守護者”として果たすべき使命だった。
「――これより、私たちが時間を稼ぎます。当初の手筈通り、後事はお頼みいたします」
穏やかな口調とともに振り返った隊長の視線の先には、真なる神器〈ケイ・セケ・コゥク〉を身に纏うカイレの姿。
ただ一人の使い手として神妙に頷いてみせた老婆は、「承知した」と短く応じて瞑想の姿勢となる。
「――では、参りましょう」
気負いもなく告げ、隊長が口許を綻ばせた。
最弱の種族である人間の立場を受け入れながら、それでも非情な世界の理に抗い続けることが、後世の安寧となることを信じているからこそ、死地に赴くことを厭わないのだ。
(自分の命なら惜しくはない……けれど、隊長だけは生き残ってもらわないといけませんね)
人類の灯火を絶やさないために――小柄な青年の双肩にかかる凄まじい重圧を思い、胸の内に込み上げる感情を抑えつけながら、エドガールは静かに口許を引き結んだ。
考えていたより諸々の描写が長くなってしまったので、時系列を整えて前後編に再構成しました。