悲鳴に、罵倒に、懇願に――。
真正面から受け止めるには、苦痛に過ぎる感情の波濤が押し寄せる最中、ふと遠く馬の嘶きがロンデスの耳朶を打った。
麦畑に放っていた軍馬が、遠くにでも駆けて行ってしまったのだろうか。
無理矢理にでも意識を切り替えようと、ロンデスは嘶きの聞こえた方へと目を向ける。
沈みゆく太陽を背に巻き上げられる土煙。
荒れた地面を強く蹴りつける馬蹄の音がいくつも重なり合うことで、いつしか地鳴りのような有様となっていた。
「――西方より騎馬の一団が接近! 王国の手の者と思われます!」
歩哨に立っていたはずの兵士が、慌てたように接敵を報せる声を上げた。
良く目を凝らせば、燃え立つ夕陽の中に騎兵らしき影が連なって見える。
これほどの距離まで接近を許すなど見張り役の失態でしかないのだが、このような任務の中で集中力を保てと叱責するのも酷だろう。
「――お、俺の馬を連れてこいっ!」
しかし、突然の金切り声で喚き始めたベリュースには、咄嗟に怒鳴りつけたくなるほどの思いが込み上げてしまう。
部隊の指揮官たる身でありながら、何故に率先して隊員を焦らせるような真似ができるのか。
急な報告ではあったが、敵方の戦力が現れることは想定内……というよりも、辺境の村々を散々と襲撃して回っていたにも関わらず、これまで一切の反撃を受けていなかった事実にこそ驚くべきだろうとロンデスは小さく溜め息をこぼした。
リ・エスティーゼ王国内の情報伝達に難があるのか、或いは異常なほどに上層部の判断が遅いのか。
いずれにせよ、彼我の距離を考えれば迎撃体勢を整えることも、交戦を避けるために撤退することも難しくはないのだ。
部下の手を借りながら騎乗しようともたつく、不格好な尻を蹴り上げたい衝動に駆られる。
そうして、ようやくと馬首に縋りつくようにして起き上がったベリュースが、腰から抜いた煌びやかなロングソードを震えながら掲げてみせた。
「ぜ、全軍……お、俺を守れっ!」
あまりにも情けない号令が下された、不意の間隙に――吹き抜ける一陣の風。
「――っごふぁ!」
いきなり鶏を絞めたような呻き声が上がり、滑り落ちた宝剣が地面を叩けば、ガシャンッと乾いた金属音が辺りに響いた。
「隊長……?」
半ば呆然と馬上を振り仰いだ視線の先、喉元に細い棒を突き立てた不可解なベリュースの姿に、ロンデスの理解は咄嗟に追いつかない。
敵の来襲に慌ただしかった喧騒がかき消え、ふと耳に痛いほどの静寂が訪れる。
撒き散らされた血飛沫が視界を夕焼けよりも赤く染めるに至り、遅まきながら状況を飲み込み始めたロンデスは息を呑んだ。
即ち、土煙の霞む遥かな距離から放たれた一本の矢が、ベリュースの全身鎧――面頬付きの兜と胴鎧の僅かな接ぎ目に突き立ち、いけ好かない男の命をあっさり奪ったという事実だ。
およそ人間業とも思えない卓越した弓の技巧――驚愕とともにロンデスが振り返れば、迫りくる一団の先頭には馬上で弓を構えた偉丈夫の怒りに燃える凶相があった。
「ひぇっ」と素っ頓狂な悲鳴をもらしたのは、果たして自分だったのだろうか。
ふと脳裡を過ぎる一つの異名“周辺国家最強”を謳われる、一人の武人の名が思い起こされた。
悍馬の荒々しい揺れを乗りこなしながら、引き放った弓に次の矢を番える。
「――ガゼフ戦士長、あちらに村人の姿がっ!」
背後に続く部下たちから沸き上がる歓喜の声。
黒煙の立ち昇る開拓村の片隅――後ろ手に縛られた人々の姿を視界の端に捉えつつ、王国戦士長ガゼフ・ストロノーフは騎乗する人影に狙いを定めた。
「……絶対に救うぞ!」
哮りとともに放った矢が、過たずに敵方の騎兵を仕留める。
以前の戦場でも見覚えのある全身鎧は、やはりバハルス帝国製の代物だ。
彫り込まれた紋章を睨みつけながら、ガゼフは両の太腿で一層と強く馬体を締め上げる。
こちらの意を汲んだ愛馬が、ここまでの強行軍を物ともせずに加速してくれるのに任せて、次々と矢を射かけていく。
馬上から転げ落ちる兵士たちの中に、敵の指揮官が含まれていることを願いつつ、ガゼフは背後を振り返って声を張り上げた。
「皆、正念場だ! 俺に命を預けてくれ!」
「もとより、そのつもりです!」
頼もしい部下たちの喊声を背に受け、手にしていた弓を無骨な剣へと持ち換える。
そうして、未だ迎撃の構えも整わない敵兵の脆い箇所に当たりをつけ、大きく息を吸い込んだガゼフは、身体中に滾る激情に任せて大喝した。
「――いざっ、突撃!」
*
赤く燃えていた太陽が更に傾こうとする頃――ガゼフは自らの情けなさに反吐が出る思いだった。
「そうか、間に合った訳ではなかったのだな」
貴族の妨害を撥ね除けることもできず、後手に回り続けた結果は罪のない王国民たちの絶望だ。
無惨というほかにない行為の残状から、ガゼフが目を背けることは決して許されないだろう。
先刻、帝国兵の部隊を討ち払ったガゼフたち戦士団を待ち受けていたのは、「なぜ、もっと早くに助けにきてくれなかったのか!」という村人たちからの恨み節だった。
決して安くない税を国家に納めて、度重なる労役にも堪えていた結末は、肝心なときには何もしてくれないという最悪の裏切りだ。
その場では年配の村長が激昂する若者を嗜めてはくれたものの、忸怩たる思いはガゼフの胸を捩じ切らんばかりに締めつける。
村人たちからの怨嗟の視線を半ば避けるようにして、周囲の警戒に向かった。
そうした最中に見つけてしまったのが、更なる暴虐の爪痕だった。
華奢な少女たちの遺骸を部下とともに丁重に抱え上げ、皆を待たせている開拓村の広場へと向かう。
――鼻をつく嫌な臭気。
年端もいかない少女の身体は驚くほどに軽く、その奪われた生命はあまりにも重い。
敬愛する国王ランポッサ三世の剣として、本当に守るべき者たちを守れなかった現実はどこまでも苛酷に過ぎていた。
せめて、埋葬する前には身を清めてやりたいとも思うのだが、この場には自身を含めて無骨な男たちしかいない。
「……何とも儘ならないものだな」
無力感を吐露しながら焼け落ちた家屋の間を抜けてみれば、穏やかな時間が流れていたはずの村の風景は、すっかりと様変わりしていた。
丹念に育てられていたであろう麦畑は踏み荒らされ、焼き払われてしまった家屋の残骸がどす黒く積み上がる。
吹き抜けていった春先の風の冷たさがガゼフの頬を強く打ち据えて、長く伸びた自身の影が蠢めくように揺れている様は、何か得体の知れない怖れを胸の内に騒めかせた。
重い足取りで静まり返った広場に戻ってみれば、悲痛な面持ちが並んでいる。
無言のままに中央へと歩みを進め、ガゼフは抱えていた少女の身体を丁寧に横たえる。
「……済まなかった」
赤黒く腫れた少女の右手を労わるように握りながらも、それ以上の言葉を紡ぐことはできなかった。
少女の傍らに跪き、ただ叶うはずのない許しを乞うだけの情けない存在――それが王国の英雄を謳われたガゼフ・ストロノーフの現状だった。
――不意の靴音。
やおらと目を向けた先から、部下の一人が足早に駆けてくるのが見えた。
広場の端々で膝を抱えた村人たちを気にしてか、ガゼフの隣に屈み込んで小さく耳打ちが行われる。
「……なに、確かなのか?」
「はっ、既に四方を囲まれているようです。申し訳ございません」
告げられた火急の事態に、ガゼフは瞠目する。
これまでは確認されていなかった部隊の出現――それも鎧姿の兵士ではなく、魔法詠唱者と思しき集団が、開拓村の周囲に布陣しているという情報にガゼフは小さく肩を落とした。
それほどに多くの魔法詠唱者を抱えているのは、周辺国家の中においても、南方のスレイン法国くらいのものだろう。
帝国と法国が事前に手を組んでいたということなのか。或いは、戦士団の派遣に難癖をつけていた貴族派閥の連中も絡んでいたのかも知れない。
そうでなければ、この場面で新たな部隊を投入してくる目的が、辺境の開拓村を襲撃することにあるはずもない。
――ならば、狙いは俺の命か。
ふと顔を持ち上げてみれば、悲嘆に暮れる村人たちの生気の抜けた瞳。焼け落ちた家屋からは未だに黒い燻煙が立ち昇っており、夕焼けに染まる村の情景に一層と暗い影を落としていた。
これほどの愚行が、仮にガゼフという個人を害するためだけに企図されていたのだとすれば……沸々とした怒りが喉の奥から込み上げてくる。
救えなかった少女の手を取り、贖罪とも断罪ともつかない思いで胸元に抱かせてもらう。
ガゼフの無骨な手では、すっぽりと覆えてしまうほどに小さな――けれど、働き者の良い手をそっと握り締めた。
そうして、ゆっくりと呼吸を整えたガゼフは、傍らの部下へと向き直って声を張り上げる。
「――早急に戦士団を集めよ! 絶対にこの村の者たちを守り切るのだ!」
夜の帷が迫り、深紅から濃紺へと染まりゆく東の空に小さな星の輝きが瞬いていた。