「――やっちまえ、ペテル!」
手にした合成長弓〈コンポジット・ロングボウ〉を強く握り締めながら、ルクルットは思わずと感嘆の声を上げていた。
跳びかかってきた食屍鬼〈グール〉を擦れ違い様の一撃で屠り、颯爽と駆け出していく戦士の後ろ姿を目で追いかける。
これまでの疲労を感じさせない、痛快な剣捌き。
冒険者チーム“漆黒の剣”のリーダーにして、普段は真面目さばかりが取り柄なペテルの示してくれた頼もしい背中――それは、間断なく押し寄せる不死者〈アンデッド〉の大群に追い詰められた窮地の中で、ようやくと差した一筋の光明だった。
「――この勢いで押し返すぞ!」
無理矢理に気力を振り絞ったルクルットは、仲間たちに向けて鼓舞の声を張り上げる。
城塞都市〈エ・ランテル〉を襲った未曾有の事態に尽力してきたチームの消耗は激しく、自身も既に弓弦を引くことさえ億劫になるほどであった。
多くの援護は望めずに、住民たちが逃げる時間を稼ぐだけの過酷な戦い――そうであればこそ、この勢いに任せるしかないと直感が告げていた。
目の覚めるようなペテルの奮戦に続いて、ダインが豪快に振り抜いたメイスで腐肉漁り〈ガスト〉を打ち砕き、ニニャの唱えた〈マジック・アロー/魔法の矢〉が黄光の屍〈ワイト〉を捉えて弾ける。
それは大勢の中で僅かだとしても、確かに風向きが変わろうとするだけの手応え――遊撃役として、牽制と陽動に大通りを駆け回りながら、ルクルットは胸の内に堪らない昂りを覚えていた。
――この仲間たちと一緒であれば、絶対に窮地を乗り越えられるはずだ。
チーム結成の日に語り合った想いは“漆黒の短剣”に形を変えて、今も大切な絆を結んでいる。
しかし、現実は残酷だった。
高揚するルクルットを嘲笑うかのように、不意の暗がりが喧騒の戦場を閉ざした。
何の前触れもなく建物の陰から現れた巨影――集合する死体の巨人〈ネクロスフォーム・ジャイアント〉が哮り、無数の腐乱死体を繋ぎ合わせた悍ましい異形の大腹を醜悪に震わせる。
周辺の建物を超える高みから、こちらを睥睨する憤怒に燃えた眼差し。
極大の生理的な嫌悪と生命の本能が警鐘する恐怖に襲われ、ルクルットは小さく息を呑んだ。
時間にすれば、僅かに数秒ばかりの逡巡――その刹那の躊躇いが、全てを狂わせてしまった。
「――危ないっ、ニニャ!!」
不意の叫びが耳朶を打ち、遅蒔きながら気付いたときには、最前線で戦っていたはずのペテルが踵を返し、傍らを駆け抜けていく。
慌てて視線を向けた先――後方からの援護に徹していたニニャが、驚愕に目を見開いている。
倒れ込む巨体、投げ捨てられたブロードソード。
「――っ、ペテル!! ニニャ!!」
咄嗟に呼びかけるが、届くはずもない。
ネクロスフォーム・ジャイアントの股下、果敢に飛び込んでいったペテルが、小柄なニニャを突き飛ばし――直後、凄まじい衝撃が大地を揺るがせた。
桁外れの地響きに、否が応とも足が竦む。
それでも、ルクルットは無理矢理に一歩を踏み出して、大通りを駆けた。
――いったい、何が起きているのか。
突然の事態に狼狽えてしまい、混乱するばかりの頭はまともに働いてくれない。
辛うじて理解できたのは、ニニャを庇ったペテルが、目の前で巨大なアンデッドに押し潰されたことと、自身が何もできなかったこと。
横倒しとなっても、まだ向こう側を見通せないほどに分厚い巨躯を回り込む。
路地に蹲っていた小柄な人影――突き飛ばされたままの姿勢で呆然とするニニャの姿を見止めて、焦燥と安堵が同時に込み上げた。
「ニニャ、無事か!?」
「…………え、えっと、何が、起きて」
「動けるなら、早く立て!」
「…………あの、どうして、ペテルが」
「話は後だ。――っ、逃げるぞ!」
一切の状況が飲み込めていないのか、ただ困惑するニニャの手を掴み、強引に立ち上がらせる。
こちらを見上げる戸惑いの視線。
覗き込んだ青い瞳は悲愴な怯えを孕んみ、今にも心が壊れてしまいそうな気配があった。
――何か言葉をかけるべきなのか。
僅かな躊躇いの最中に、間近で巨体が身動いだ。
思わずと顔を強張らせながらも、ルクルットはニニャの手を強く引いて走り出す。
「――くそったれ! ダイン、撤退だ!」
もう一人の信頼する仲間に呼びかけつつ、首だけで背後を振り返れば、ネクロスフォーム・ジャイアントは鈍重な動きで起き上がろうとしており――、その醜く膨れた腹の下で、見慣れた帯鎧〈バンデッド・アーマー〉の拉げた様が視界に映った。
直視に堪えないほどの凄惨な光景を目の当たりにすれば、噛み締めた奥歯が悲鳴を上げる。
足下の覚束ないニニャを半ば引き摺るように、ルクルットは腐乱した巨人から距離を取り、ダインの傍らへと駆け寄った。
「これ以上は時間稼ぎも無理そうだな。ダイン……悪いが、ニニャを頼む」
「――っ、了解なのである」
荒い息遣いのままに頷いたダインが、口許に苦渋を滲ませ、物問いたげな視線を向けてくる。
こちらの考えは、既に見抜かれているのだろう。
途轍もないアンデッドの脅威を肌身に覚えて、即時の撤退を決めたにも関わらず、ルクルットは自らの青臭い感情を割り切れない。
置かれた状況を冷静に俯瞰することができれば、こうした考えは無謀でしかないのだろう。
「……ペテルを連れていく。俺たちのリーダー様をほっとけないからな」
それでも、崩れ落ちてしまいそうなニニャの身体をダインに預けながら、ルクルットは戯けるように小さく肩を竦めてみせた。
疲労に霞む視界の端――周辺の建物を鷲掴んで薙ぎ倒さんばかりに、ようやくと立ち上がったネクロスフォーム・ジャイアントの威容を振り仰ぐ。
見上げるほどに醜悪な腐った巨体。
こちらの背丈を遥かに超える、文字通りの化け物を相手にして、銀級〈シルバー〉に過ぎない一介の冒険者は、果たして何ができるというか。
内心の苦笑いを押し隠したルクルットを見遣り、ダインが諦めたように小さな溜め息をこぼす。
「――あのように強大なアンデッドは、初めて目にしたのである。正確な難度も不明……速さはそれほどでもなさそうであるが、さっきの“のしかかり”を受ければ、無事では済まないのである」
「……そうだな。まぁ、何とかしてみせるさ」
努めて気安い口調で言い放ち、ルクルットは自らの頬を両手で強く張りつけた。
そうして、素早く弓に矢を番えながら、大通りの先へと視線を向ける。
突き当たりの共同墓地を囲う市壁からは、相変わらずと数多のアンデッドが溢れ出しているものの、ペテルの奮戦で一度は前線を押し込むことができたので、僅かばかりの余裕はありそうだ。
「倒すのはキツいが、奴らの注意を引ければ――」
「どうするつもりなのであるか?」
「無茶は承知で同士討ちを誘ってみるさ。……俺が騒いでる隙に、ニニャを連れて退がってくれよ」
「――っ、心得たのである」
互いに気心の知れた頷きを交わし、ルクルットとダインは軽く拳を打ち合わせた。
「……お前にだけ良い格好はさせねーぞ、ペテル」
気負いを敢えて口にし、ルクルットは駆け出す。
大通りの向こうから押し寄せてくる骸骨〈スケルトン〉や動死体〈ゾンビ〉の群れ――落ち窪んだ眼窩の奥には、生者を恨む赤い鬼火。
その眼前へと躍り出るや、くるりと踵を返す。
押し寄せるアンデッドの大群に、無防備な背中を晒すことになってしまうものの、襲われるまでには辛うじて距離がある。
「――おいっ、ウスノロ! 俺を捕まえてみろ!」
大声で怒鳴りつけ、対峙するネクロスフォーム・ジャイアントに次々と矢を射かけていく。
無数の腐乱死体によって形作られるのは、嫌悪を催すほどに膨れた奇怪な大腹。
どれだけの矢を射かけてみても、痛撃を負わせられた実感はない。
まともに戦ったのなら、勝てるはずもない強大に過ぎる難敵――だが、確実に反応はあった。
こちらを高みから見下ろす眼光には炯々とした憎悪が宿り、極大の怖気が背筋を劈く。
「――っ、かかってこいよ!」
精一杯の虚勢を張り上げたルクルットは、半身の姿勢を取って身構えた。
鬱陶しい小蠅を払わんとするように、こちらへと向かってくる相手の動きは、やはり緩慢だ。
しかしながら、その巨体故に歩幅は広く、相対的には思わずと脅威を覚えるほどの勢いになる。
本能に根差した恐怖に駆られながらも、ルクルットが首だけで背後を振り返れば、大通りを蹂躙するスケルトンやゾンビの群れも目前に迫っていた。
――今更と怯えている時間はない。
「クソったれーっ!」
半ば無理矢理な奮起の叫びとともに、ルクルットは地面を蹴りつける。
互いに駆け合ったのなら、瞬く間に彼我の距離は縮まり、恐るべき巨体が一層と迫力を増していく。
冒険者を志して故郷の寒村を飛び出し、野伏〈レンジャー〉として鍛えてきた動体視力と身軽さには密かな自信を持っていた。
それでも、大地を揺るがすほどの衝撃に踏み抜かれてしまえば、命はないだろう。
左右のどちらかに逃げて激突を避けてしまいたいものの、突き進むべきは腐れ巨人の股下――死と隣り合わせの僅かな隙間を狙い、強引に身体を滑り込ませ、無我夢中の足捌きで走り抜ける。
一瞬の間隙を縫うように馳せ違えば、ルクルットの視界は広がり、目指すべき道筋が見えた。
「――っ、ペテル!」
大声で呼びかけ、その傍らへと駆け寄る。
放射状に広がった路面の亀裂と赤黒い血溜まりに沈んでいる仲間の横顔。
思わずと目を逸らしたくなる凄惨な光景に息を呑み、それでも唇を噛み締めて堪えた。
強烈に込み上げる感情を振り払い、ルクルットは素早く周囲に視線を巡らせる。
背後では標的であるこちらの姿を見失い、蹈鞴を踏むネクロスフォーム・ジャイアントの後ろ姿。
先ほどのような衝撃で倒れ込んでくれれば、殺到するアンデッドの群れを圧し潰すなり、大通りを塞いでくれるなりと期待もできたのだが、残念ながら都合良くはいかないらしい。
しかし、巨体の足踏みに巻き込まれた連中の勢いは削がれ、僅かでも襲撃までの猶予は稼げた。
そして、ニニャを連れたダインが、反対側の路地へと駆け込んでいく様子を見て取れた。
(……後は、こっちも逃げるだけ)
邪魔になる弓や矢筒を躊躇なく手放し、少しでも身軽になってからペテルを背負い上げる――が、連戦で酷使した膝が震えてしまう。
「――っ、情けねぇ」
疲労と緊張のためか、視界さえも霞んでいた。
それでも、気力を振り絞って立ち上がり、荒い息遣いのままにルクルットは再び駆け出す。
しかしながら、傍目にも明らかなほどに足取りは覚束ず、後ろを振り返る余裕があるはずもない。
あの醜悪なネクロスフォーム・ジャイアントだけでなく、スケルトンやゾンビの群れに追いつかれても、結末は差して変わらないだろう。
死が間近に迫まりくる恐怖に、一層と足が縺れそうになりつつも、ひたすらに前へ――、
『……もう、何で戻ってきちゃうんですか。さっさと逃げてくださいよ』
ふと耳許で囁かれた言葉。
肩口に乗るのは、血の気がない青褪めた顔。
その呆れを孕んだ声音に驚き、思わずと覗き込んでしまうが、ペテルの瞳は閉じられたままだ。
自らの乱れた喘鳴だけが耳朶を震わせ、戸惑いの中でも担いだ熱は徐々に失われていく。
――それは願望が紡いだ幻聴なのかも知れない。
容赦のない地鳴りのような衝撃は、背後から近づいてくる。
生者を憎悪する血に飢えた殺戮の群勢に、どれほどの距離を詰められているのか。
自身では決して抗うことのできない脅威なのだとしても、ここで倒れる訳にはいかなかった。
「バカヤロー、仲間を見捨てて逃げられるかよ! お前は黙って、俺に背負われてろ!」
勢いに任せて思いの丈を叫び、満身創痍の身体に鞭を打ちながらも、ルクルットは懸命に振り絞った意地で一歩を踏み出す。
それでも、押し寄せるアンデッドの黒い波濤が、轟々と燃え盛る赤い業火が、エ・ランテルの街並みを無慈悲に呑み込んでいく。
リ・エスティーゼ王国東端の要衝として栄えた城塞都市の未来は、闇に閉ざされようとしていた。
――が、不意に視界の端を暗い影が過ぎる。
吹きつけた熱風に思わずと顔を顰めれば、ひらりとローブの裾が翻った。
どこからともなく、ルクルットの眼前に舞い降りた小柄な人影――その額に朱色の宝石を嵌め込んだ仮面には見覚えがある。
「やれやれ……まさか、このような異常事態が引き起こされているとはな」
仮面越しのくぐもった声色が湛えるのは、少女とも老婆ともつかない不思議な響き。
この破滅的な状況において、その泰然自若とした立ち姿を見遣れば、ふと張り詰めていた緊張の糸が解れるような気がした。
昼下がりの街道で出会った女性だけで構成される冒険者チーム“蒼の薔薇”の一人、イビルアイ。
王国が誇る最高位“アダマンタイト級”を冠された凄腕の魔法詠唱者は、悠然と周囲を見回すと感情の抑えられた平坦な声音で告げる。
「――後は、私が引き受けよう」