峻険なアゼルリシア山脈の南端に、鬱蒼としたトブの大森林が広がっている。
亜人種や魔獣、数多の危険なモンスターが棲まう原初の森は、脆弱な人間の侵入を拒むかのように過酷な環境ではあるが、その直中を北へと進む数人ばかりの人影があった。
「――カイレ様、ここらで休まないでも大丈夫ですかい?」
生い茂る枝葉を掻き分けながら先頭を歩いていた巨漢の男――第八席次のセドランが首だけで振り返り、痩せぎすの老婆に軽い調子で問いかける。
「……私を年寄り扱いするんじゃないよ。アンタは周りを警戒してな」
矍鑠とした口調で言い返したカイレではあったものの、深い皺の刻まれた額には大粒の汗が滲み、既に疲労の色が濃く見えた。
真なる神器の装備を許された唯一の人物ながらも見た目通りの老齢であるため、人の手がはいっていない獣道を進むのは堪えるのだろう。
それでも、当然ながら任務中に泣き言を吐くつもりはないらしい。
小さく肩を竦めてみせた巨漢は、少しだけ歩みを止めて笑いかけた。
「そいつはクアイエッセの領分ですよ、なぁ?」
「えぇ、探知能力に長けたクリムゾンオウルを周囲に配置して、警戒に当たらせています。ご安心ください、カイレ様」
セドランの気安い呼びかけに応えて、傍らの優男がさらりと金髪をかき上げる。
ビーストテイマーとしての才能に秀でる第五席次のクアイエッセは、筋骨隆々とした戦闘職のセドランとは異なり、文机で書類整理をしている姿の似合いそうな容貌ではあるが、未開の奥地を進みながらも涼しい表情を崩すことはない。
スレイン法国の特殊部隊“漆黒聖典”に名を連ねる者たちが、人類の守護者たるために生半可な鍛え方をしているはずはないのだ。
たとえば一行の中では新参である第九席次のエドガールであっても、諸国では英雄級と称されるほどの確かな実力を持ち合わせている。
そして、最後尾から部隊の様子を眺めている年若い男――槍を背に担いだ第一席次である隊長は、偉大なる六大神の血を覚醒させた数少ない“神人”と畏敬される存在だった。
「……巫女姫様の予言された地が近付いています。あまり気を抜かないように」
外見よりもやや幼い声で言い差し、隊長はわざとらしく溜め息をこぼしてみせた。
「――へへっ、分かってますよ。まさか、破滅の竜王〈カタストロフ・ドラゴンロード〉を復活させる訳にはいかないっすからね。ちゃんと気合いを入れてやりますよ!」
心得ているとばかりに口許を持ち上げたセドランが、前方へと向き直って歩き始める。
「……よろしく頼みます」
こうした軽口による小休憩を挟みつつ、後続が歩きやすいようにと地面を丁寧に踏み固めていく気遣いが、セドランの人柄なのだろう。
ふと少しだけ頬を緩ませた隊長を横目に見遣り、先ほどまでは黙っていたエドガールがやや不安そうに口を開く。
「……実際のところ、予言された破滅の竜王とはどれほどの強さなのでしようか?」
「わかりません……ですが、我々では到底敵わないことも想定した上で、カイレ様にわざわざご足労をいただいています」
半ば伝説と化してしまった存在ではあるが、巫女姫によって復活を予言された破滅の竜王は“世界に災厄をもたらす”とされている。
真偽のほどは不明ながらも、トブの大森林の奥地に封印されたとの伝承が残っており、今回の遠征部隊を派遣する運びとなったのだ。
漆黒聖典の能力だけで対処できる相手なのであれば、それに越したことはない。
しかし、破滅の竜王復活の阻止が難しいと判断された場合には、慈悲深き神の御力を拝借する他に考えられる手立てはなかった。
――即ち、人類の救世主にして偉大なる六大神が遺した真なる神器〈ケイ・セケ・コゥク〉を使用した破滅の竜王の洗脳である。
国外へと赴ける最高戦力“漆黒聖典”のメンバーを揃えてまで臨むのは、そのための時間稼ぎでしかない――それが非情な世界において、最弱の種族である人間が置かれている立場であった。
思わずとこぼれそうになる自嘲めいた笑みを仮面の下に押し隠しながら、隊長はエドガールへと向き直って静かに言葉を続ける。
「ニグン隊長の率いる陽光聖典は、無事に任務を果たされました。……既に賽は投げられています」
人間という種を存続させるために、手段を選んでいる余裕はないのだ。
最高神官長を筆頭としたスレイン法国上層部は、肥沃な土地に胡座をかいて内部から腐敗してしまったリ・エスティーゼ王国に見切りをつけ、新進気鋭の皇帝が統治するバハルス帝国の支援を決断した。
その苦渋の選択によって犠牲となる者たちの存在を無為とせず、懸念される事項はまとめて払拭してしまう必要があった。
自らの手を汚しても、子や孫の安寧のために――そうした悲壮な覚悟とともにある信念だけが、スレイン法国の掲げる“正義”を支えているのだ。
「……愚問でした。私も死力を尽くします」
「いえ、構いませんよ。期待しています」
殊勝に頷いてみせたエドガールに労いの声をかけつつ、隊長は小さく肩を竦めて周囲を見回した。
漆黒聖典の一員であるためには、本来の身分を偽りながら生活することが求められる。
更に秘匿されていた世界情勢――過酷な人類の窮状を知らされ、常に死と隣り合わせな任務に従事することになれば、誰しもが不安を抱えてしまうことは避けられないだろう。
しかし、それこそが“人類の守護者”たるために課された使命のはずだった。
逸れかけた思考に内心で苦笑いを覚えながら、無理矢理に意識を切り替える。
「……それにしても、今日は静かだな」
以前にモンスターや亜人種を間引く目的で訪れたときとは森の様相が異なり、奥地へと分け入るほどに生命の気配が薄れていくような印象があった。
支配下のモンスターを用いた広範囲の探知や索敵に長けるクアイエッセからも、接近する危険に警戒を促すような報告は挙がっていない。
「……やはり、何かしらの異変が起きているということなのだろうか?」
何気なく呟いて頭上を仰ぎ見れば、折り重なるように生い茂った緑の天蓋から差し込む木漏れ日がやけに眩しい――と、
『あのー、キミたちは人間だよね? そこから先に進むのは危ないよ』
不意の呼びかけは背後からだった。
驚愕に思わずと目が見開かれ、一瞬にして跳ね上がる警戒――それでも、焦りは噯気にも出すことなく槍を抜き放つ。
そうして、素早く振り返りながら身構えた槍の穂先に、ふわりと姿を見せた一つの人影。
一見すれば、それは可愛らしい女性の姿をしており――しかし、樹皮の色艶をした素肌と芽吹いた若葉の新緑のような髪が、人ならざる者であることを主張していた。
――何故、これほどまでに接近を許してしまったのだろうか。
些事に気を取られていた自身の迂闊さを恥じながらも、思考は冷静に状況を分析していく。
他の隊員たちが遅れて戦闘体勢を取る気配を背に庇いつつ、先に仕掛けるべきかと僅かな逡巡。
『――わっ、待ってよ!』
こちらの様子に察したのか、慌てたように顔の前で両手を振ってみせた小柄な人影が、『ごめんね、驚かせるつもりはなかったんだ。敵意はないから落ち着いてくれないかな』と早口で捲し立てた。
焦れる気持ちを抑えながら座学で叩き込んだ記憶を探り、その正体に当たりをつけて問いかける。
「……っ、森精霊〈ドライアード〉か?」
『うん、そうだよ!」
長年を経た古木に宿るとされる精霊の一柱が、大きな葉を縫い合わせたような衣装の胸を張って軽やかに答えてみせた。
相手が精霊であれば、こちらの警戒を抜けて接近を許してしまったのではなく、この場に“出現”したと考えるのが妥当だろう。
「……各員、武器を下ろせ」
差し当たりの危険はないと判断しつつも、警戒を完全に解くことはできない。
しかし、こちらが敵意を見せ続けることも得策ではないだろう。
何より、このドライアードは先ほど気になる台詞を口走っていた。
「……この先に進むのが危ないとは、どういうことでしょうか?」
『そうそう! そっちには世界を滅ぼす魔樹が眠っているから、あんまり近付かないほうが良いよ」
そうして、不測の事態を飲み込めないままに告げられた不穏な言葉――目指していた北の方角を指差す精霊の姿に、漆黒聖典の面々は思わずと顔を見合わせるのだった。
この物語では“破滅の竜王=ザイトルクワエ”と解釈して進めていきます。
法国関係は不明なことも多いので、性格や口調等の違和感は独自設定としてご了承ください。
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