分厚い雲が立ち込める、月明かりのない暗い夜の出来事だった。
都市間を結ぶ街道を外れた深い藪の向こう――、鈍痛のように響いていた少女のすすり泣く声は、いつしか抑えた嬌声に変わっていた。
自己を保つためなのか、或いは保つことができなくなったためなのか、現実から逃避する道を選んだのかも知れない。
耳を塞いでも聞こえてくるのは、好き勝手に囃し立てる粗暴な男たちの歓声。
それが、ザックには酷く耳障りだった。
強欲な貴族ばかりが肥え太り、重税に苦しむ平民は痩せ細って死を待つしかない時世だ。
奴隷商人に売られた寒村の若い娘が、望まない形で純潔を散らされる話などは枚挙に暇がない。
下種な買い手の檻へと歩かされる道中で、もっと悪辣な盗賊同然の傭兵団の襲撃を受け、一時の慰みものにされたところで、それすら世に腐るほどのありふれた悲劇の一つに過ぎないのだろう。
――それが現実であれば、いけ好かない金持ちの娘が乗り込んだ馬車を手引きし、飢えた獣の群れが待ち構える罠へと誘導しただけの行為に、何ら特別な意味があるはずもない。
後ろ手に縛られて轡を噛まされた従者の目前で、華やかな衣装を引き裂かれた少女が可愛いらしい顔を苦痛に歪ませていたとしても、ザックの懐に放り込まれた“銀貨一枚分”が精々という、駄賃程度の価値でしかないのだ。
必死の形相で身を捩り、抵抗を続けている従者の無様を嘲りながら、傍らに立った禿頭の男が何度となく、その脇腹や顔面を蹴り上げていく。
散々に痛めつけられる従者の口唇からは、苦鳴とともに少女の股座と同じ赤色が滲んでいた。
生まれの貴賤を問わずとも、傷を負えば血が流れる――別に可笑しなことではないはずだった。
周囲の人間が騒ぎ始めるのか、或いは見向きもされないのか……違いは、その程度の差でしかない。
くだらない、と悪態を吐き捨てたザックの視界の端では、盛りのついた犬のように腰を振っていた顎髭の男が小汚く身震いし、背後から抱えていた少女を無造作に投げ出した。
支えもなく頭から地面に落ちてしまい、突っ伏したままで小刻みに痙攣する少女を取り囲い、男たちの野卑た揶揄いの声が酷く煩わしい。
揚々と歩み寄った年嵩の男が蔑むように鼻を鳴らし、その華奢な肢体を靴底で転がせる。
仰向けにされた少女の顔は涙と汚泥に濡れ、輝きの褪せた色のない瞳が、星のない夜空を虚ろに見上げるばかり。
乱れたおさげ髪の根元を引っ掴んで無理矢理に持ち上げ、容赦なく口腔の蹂躙を再開した男が意地の悪い笑みを浮かべ、ふと首だけで振り返った。
「――後で、お前にも回してやるよ」
そうした言葉を向けられたとき、自分の口許が卑屈に持ち上がったのは何故だったのだろう。
殆ど抵抗をされることなく、年端もいかない薄い身体を組み敷いたとき、自らの胸中を満たしていた感情はどのようなものだったのだろうか。
売女のようにだらしなく股を開いていた少女が、縋るようにこぼした“兄に助けを求める”言葉に不意の苛立ちを覚えたのかも知れない。
気力の萎えた細い足の間に膝を割り入れて、ただ強引にザックは腰を前後へと動かし続けた。
猛りに身を任せて熱を吐き出し終えたとき、言い知れぬ感情のままに拳を振るったのは、果たして本当に自分だったのだろうか。
「それは身代金用だ。勝手に壊すな」と詰められ、乱暴に引き剥がされると仲間であるはずの男たちからは次々に殴られた。
土下座と謝罪を繰り返し、蹴り転がされるほどに胃の中はすっかりと空っぽになっていく。
涎と鼻水と涙にまみれながら赤い鼻を啜り、必死で許しを乞うことしかできなかった。
ようやくと暴力の輪から弾き出されたとき、ザックは摺り下げていたズボンの端を引っ掴み、その場を無様に這い蹲って逃げた。
「何だ、あのダッセー野郎は!」
背を刺すように、嘲笑の言葉が浴びせられる。
それでも、手荒な男たちの視線から隠れながら離れてしまえば、藪を抜けた薄暗い森の中に、ぽっかりと開けた空間があった。
ふと目に止まったのは、抱えられないほどの幹周りを誇る大きな切り株。
そうして、雲間から僅かに差し込む月光に照らされ、精悍な一人の男の姿が闇夜に浮かび上がる。
――ザックの持つ少ない語彙で形容するのであれば、“孤高の戦士”だろうか。
傭兵たちの乱痴気騒ぎには少しも構う素振りを見せることなく、ただ静かに自らの武器の手入れに没頭している若い男は確か、ブレイン・アングラウスと名乗っていたはずだった。
王都〈リ・エスティーゼ〉で催された御前試合に準優勝という稀有な肩書きを引っ提げ、細身の剣だけを手に現れた傭兵団の新参者――己の強さを鼻にかけた気に食わない男だが、剣の腕一つで誰からも認められている存在だ。
飄々とした態度を崩さず、他の傭兵たちとも馴れ合わないのに、ザックが押し付けられるような雑事の一切を無視しても咎められることはない。
その強さは圧倒的であり、無意識に抱いてしまった羨望は不相応な嫉妬心ばかりを駆り立てる。
目指したはずの理想を前にして、呆けたように見つめること暫らく――、
「……クソがっ」
鬱屈とした感情を吐き捨てたザックは、身を屈めるようにして藪の暗がりへと這い戻った。
急に飛び出してきたザックの姿に、ブレインほどの強者が気付かないはずもない。
それでも、こちらを一顧だにされることのなかった現実が全てだった。
一切の歯牙にもかけられない、その惨めさだけが胸の内で燻り続けていた。
*
地面を蹴りつけ、苛立たしそうに去っていく男の後ろ姿を一瞥し、ブレインは小さく鼻を鳴らした。
「……雑魚には興味ねーよ」
手軽な剣とは異なり、南方から流れてきた“刀”は日頃からの手入れが欠かせない。
馬車の護衛三人を切り捨てた血糊を放置すれば、あっという間に使い物にならなくなるだろう。
多少の手間はかかるが、自身の技を最も発揮できる愛刀を気に入っていた。
「――待ってろよ、ガゼフ・ストロノーフ」
言い聞かせるように呟いたブレインが刀を掲げ持てば、磨き上げた刀身に月光が差し込む。
夜闇の中、冴えた刃紋に浮かぶ自身の姿。
ざんばら髪と粗い無精髭、頬が削げ落ちて炯々とした瞳だけが鈍く光るような様は、なかなかの悪人面になってきただろうか。
――強くならなければいけない。
初めて敗北の味を知った日から、その一心だけを胸に秘めて雌伏のときを過ごしている。
片田舎の農村に生まれて、特に何を思うでもなく畑を耕すことで生きてきたブレインは、とある誘いから王都での御前試合に参加した。
きっかけは領主の代理として故郷に訪れた徴税吏たちが、モンスターに襲われている場面に遭遇した一件だった。
手を貸したのは、人助けのためではない――村の人間が徴税吏を殺したなどと、あらぬ疑いをかけられるのが面倒だっただけのことだ。
日頃から村周辺に出没したモンスターを相手にする機会はあったので、特別なことではなかった。
そうして、苦労することもなく撃退に成功したブレインは、思いがけない賞賛を受ける。
腕を買われて領主の館へと招かれ、税の一部免除を引き換えとして御前試合に参加する運びとなるのは、それから間もなくのことだった。
――このとき、ブレインは少しばかり調子に乗っていたのだろう。
生まれてから村内の喧嘩で負けたことはなく、領主が腕試しの相手として差配した専従の兵士たちすら、一蹴してしまえる己の力を自覚したからだ。
その漲り始めた自信は、初めて訪れた王都での御前試合を一回戦、二回戦と勝ち上がるほどに膨れ上がっていく。
どこかで感じていた畑を耕すだけの日々への不満が、戦いに挑むブレインを一層と熱くさせた。
自領から推薦した人間が活躍をすれば箔がつく、などという地方領主の浅はかな思惑は最早どうでも良いことだった。
そうして、ブレインは順調に決勝へと駒を進めていき、対峙したガゼフに敗北を喫する。
――手にした準優勝の肩書きに意味はなかった。
割れんばかりの歓声は遠く、未知の武技に打ち据えられた全身の痛みが、敗者となった事実をブレインに突きつける。
絶対に勝てないほどの差ではなかったはずだ。
それでも、互いの健闘を讃えて差し伸べられたガゼフの手を払い、無言で踵を返していた。
領主からの労いや士官の誘いも一切を無視して、その足でブレインは出奔を決めた。
――強くならなければいけない。
そうして、打ち砕かれた自信は埋伏の毒となり、やがて剣士の心を無意識下に蝕んでいく。
彼我を比較したとき、何よりも不足していたのは実戦の経験だった。
長年を傭兵として慣らしたガゼフと単なる農民でしかなかったブレインでは、潜り抜けてきた修羅場の数が違った。
そうした差を補うべく、腕が良いと評判を聞きつけた相手に片っ端から勝負を挑み、多くの戦場へと赴く傭兵団にも身を置いた。
手頃なモンスターを討伐するばかりでは意味がなく、対人戦における経験が必要だと考えたのだ。
剣の腕を磨く目的の前には、悪逆の道へと踏み込むことも厭わなかった。
必要な道具と必要な相手を用意してくれる傭兵団長には、僅かながら恩義も覚えるほどだった。
全ては、ガゼフに雪辱を果たし、“最強”の称号を手にする――そのためだけに、ブレインは剣の腕を磨き続けている。
六方向からの斬撃を放つ秘技に対抗し、新たな武技を編み出して独自の研鑽も重ねてきた。
数々の経験を積んだ現在の実力を持ってすれば、御前試合時のガゼフを一方的に打ち倒すことも容易いだろう。
――しかし、まだ足りない。
かつて、一抹の憧れさえ抱いてしまった好敵手と再戦し、完全なる勝利を飾るためには、もう一段の成長が求められるだろう。
「……待ってろよ、ガゼフ・ストロノーフ」
そうして、先ほどと同じ台詞を繰り返したブレインは、再び静かに愛刀の手入れへと没頭していく。