留年生ビワハヤヒデ   作:daidains

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カイチョー!【ビワハヤヒデ視点】

春の陽気が、私は苦手だ。

 

風はぬるいし、桜は散るし、虫は出る。──今しがた、その“虫”が私の膝に乗ってきた。よりによってカメムシである。しかも、なぜか堂々とした態度で私のリボンの影に鎮座している。

 

読んでいるふりだけなら慣れていた。

 

「近代哲学における自己と認識の構造的変容」──文字の並びすら怪しいが、カバーはそれっぽいし厚みもある。ページを一定間隔でめくり、たまに顎に手を当てて「なるほど……」と呟く。これで天才っぽい演出は完成だ。

 

その矢先に現れたのが、緑色の死神だった。いや、死ぬのは奴のほうなのだが。

 

私は必死に冷静を装い、ページの角を利用して優しく、慎ましく、誠実にカメムシを追い払おうとした。

 

が──

 

バチン。

 

乾いた音が響いた。潰した。やっちまった。私の手が哲学を、いやカメムシを、思考ごと挟み潰してしまった。

 

うわ、なんか変な汁出た。においする。まずい、非常にまずい。

 

私は思わず顔をしかめた。というか、頬筋が引きつって動かない。そう、まさに“苦虫を噛み潰した”顔だ。実際には噛んでいないが、概念的には正しい。

 

そのときだった。

 

「失礼。君が――ビワハヤヒデだね?」

 

聞き覚えのある、低くも威厳を帯びた声。

 

うっっっっっっそだろ!!!

 

私は、ひとつ深呼吸をして、膝の本を開いたまま表紙の下に“遺骸”を隠し、そっと顔を上げる。

そこに立っていたのは、トレセン学園の皇帝、生徒会長・シンボリルドルフだった。

 

嘘だろ!?!?!?!?(二度目)

 

いや、確かに“いずれどこかで関わるかも”とは思っていた。けれど、それはもっと先、もっと安全な場所──たとえば距離100メートル、望遠鏡ごしとか、せめて公式の書類越しとか、そういう位置からだと思っていた。直接来る!? 今!? カメムシ汁が染みたこの瞬間に!?

 

「……はい。貴女は、生徒会長の」

 

声が震えなかったのは、人生最大の奇跡である。私は、深呼吸した。

 

一度目は呼吸の整え。二度目は覚悟のため。三度目は──さっきのカメムシのにおいが、まだ鼻の奥にほんのり残っていたからである。

 

……くっ、地味にしぶとい。

 

視線を上げる。

目の前には、完璧すぎる完璧さで仕立て上げられた“皇帝”が、微笑を浮かべて立っていた。シンボリルドルフ。トレセン学園の生徒会長。誰もが名を知り、誰もが遠くに見る存在。私からすれば、“雲の上”という表現では距離が足りない。

 

そんな彼女が、今このタイミングで、私に声をかけてきた。まさかの展開すぎて、正直、脳が少し遅れてついてきている。

え、あのルドルフ? 本物? いやでも、……あ、目が合った。終わった。いや、まだだ。落ち着け、ビワハヤヒデ。

 

彼女はまだ私に“決めつけ”をしていない。今なら、通じるかもしれない。

 

生徒会長は人格者として有名だ。誰にでも分け隔てなく接し、困っている後輩を見捨てたりしない。しかも、頭もキレるときている。つまり、“それとなく”事情をにおわせれば……きっと察してくれるはずだ。

 

そう、直接「九九の七の段が言えません」と言わなくても、遠回しに、“この子ちょっとアレだな”と気づいてもらえばいいのだ。生徒会長ほどの人物なら、事情を言いふらしたりせず、いい感じに助けの手を差し伸べてくれるだろう。

 

私は、ほんのり湿ったページの角を直しながら、座り直した。ついさっき、本でカメムシを叩き潰したせいで、ページの一部が微妙に波打っている。反射的に動いたとはいえ、なんだってあんな所に座ってくるんだあの虫は。どうせならもっと自然豊かな場所を選べよ。頼むから。

 

頬筋がまだちょっと引きつっている。

 

「突然で申し訳ないが、少し時間をもらえるだろうか。実は以前から、君に興味があってね」

「……私に、ですか?」

 

震えそうになる声を、ぎりぎりで整える。

落ち着け。ここで馬脚を現したら終わりだ。

 

「ジュニア級登録書に、君の名を見つけたとき、目を疑ったよ。“測定不能”と呼ばれたウマ娘が、自ら再びスタートラインに立とうとしている。それを聞いて、私はただの好奇心では済ませられなかった」

 

やばい。これはやばい。“測定不能”とかいう称号、面と向かって言われると恥ずかしすぎるって。なんで会長は笑わずにこんな言い回しできるんです? あれか? 会長のユーモアのセンスは壊滅的らしいって噂を聞いたことがあるけど、言語センスがズレてるって意味だったのか?

 

でも失礼過ぎるので口に出さない。うなずくだけ。

 

「……光栄なことです、生徒会長にそう言っていただけるなんて」

「君が沈黙を選んだ一年に、私はいくつものレースを見てきた。勝者も、敗者も。鼻は良い方だと思うんだがね――」

 

ぴくっ。

思わず、体が一瞬跳ねた。

 

“鼻は良い方だ”……? いや、まさか。この距離でさっきのカメムシの残り香が……? もしかして? ああもうやだ、絶対バレてないよね!? ごまかせてるよね!?

 

(いや、大丈夫。彼女の目はあくまで真剣だ。たぶん“空気の違和感”とかそういう意味で“鼻”がいいって言ってるんだ。そう解釈しよう、お願い)

 

「君はこの一年、“沈黙”の中で何を掴んだのかな?」

 

思考が白紙のまま、質問だけがはっきり聞こえた。なぜなら、脳内のメモリはさっきの“カメムシ殺害事故”で全消去されたからである。

質問の意味はわかる。わかるけど、それに値する答えが、ない。なぜならこの一年、私は――

……何もしていないのだ。

 

いや、正確には、“しようとした”ことならある。新聞を読もうとした。実存主義の入門書を開いてみた。だけど、新聞は漢字が多すぎて敗退し、入門書はいくら門を叩いても開いてくれなかった。序文の時点で追い返された。頑丈な門番つきである。諦めて寝っ転がりながらポテチ食ってテレビ見てた。

 

でも、今この雰囲気の中で、それも生徒会長の前で、そんなことを正直に言えるか?

無理だ。断じて無理だ。

そんなこと言おうものなら――

 

『そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな』

 

みたいなことを言われて、グシャッと潰される未来しか見えない。カメムシのように。いや、あの話で潰したのは蝶だったっけ?

 

私は、喉の奥で静かに唾を飲み込み、少しだけ眉をひそめた。

そして、わずかに首をかしげる。

 

「ある種、そうとも言えるでしょう。何もせず、ただ考えていた。あるいは、何も考えずに、考える“ふり”をしていた……のかもしれない

 

……言ってから思った。ちょっと、何言ってるかよくわからない。

これは、正直に言おうとした気持ちと、“いい感じにぼかして察してもらおう”という魂胆と、それに加えて長年の「それっぽい言い回し癖」が、三位一体となって噴出した結果だった。

我らが会長が少し目を細めるのが見えた。言葉を吟味しているような、そんな顔。

 

(うわ……やばい。どう聞かれた? 賢そうに聞こえすぎた?)

 

と、思っていたら──

 

「だが君は、再び走ろうとしている。ならばその先、どこを目指す?」

 

新たな問いが来た。

また難しい。というか、これは答えようがない。

“目指す場所”なんて、そんな立派なものは、私にはまだ見えていない。

この一年、私は何もしてこなかった。今も、まだ自信はない。走れるかどうかも、正直あやしい。

でも、それでも――

 

「勝ち負けなど、もう眼中にありません。ただ、自分の走りをするだけです」

 

……そう答えたのは、少しでも取り繕おうとか、気取って見せようとか、そういう意図じゃなかった。

いまの私には“勝敗”を考える資格すらない、だからまずは、自分の歩幅で、自分なりに前に出ることから始めたい――そんな、ぼんやりとした正直さだった。

どこまで通じるかはわからないけど、それでもこの言葉は、私の本音だった。

……だが。

 

「……勝敗などではない境地、ということか」

 

その返答が来た瞬間、私は頭の中で「?」を百個くらい浮かべていた。

 

(え? 境地?)

 

相変わらず意味はよくわからないけれど、でもなんとなく、悪くは受け取られていない気がする。

あの“勝敗を超えた”とか言ってるあたり、たぶん、「勝ち負けじゃないところで物事を見てる」って意味なのかも?

 

(……あれ? ってことは、もしかして──)

 

ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなった。

 

(私が“勝ち負けの話ですらない段階”にいるってことを……生徒会長なりに、察してくれた?)

 

よくわからない言葉ではあったけれど、私は、うなずいた。

そう、私はレースで勝ち負けを考える以前の状態なのだ。自信は無いわ頭は悪いわ引きこもってて体力落ちてるわ……自分で言っててなんだけどひっでえな、私。

 

――とたん、会話の糸がぷつりと切れた。

 

沈黙。

 

長い。いや、まだ数秒しか経ってないはずなんだけど、ルドルフの視線が正面から刺さってくるせいで、体感時間が100倍増しになっている。

このまま沈黙が続いたら、また何か高尚なことを尋ねられるに違いない。

“この一年で掴んだもの”やら、“目指す場所”やら、もうカードは全部切った。次に何を聞かれても、私は詰む。

 

そこで脳裏に浮かんだのは、さっき自分で使った比喩―― “三位一体” だった。

正直に言おうとした気持ち、ぼかして察してもらおうという魂胆、それっぽい言い回し癖――あの三つが合体した“産物”だ。ならば、あれを膨らませれば場がもつかもしれない。

もう一つ、大事な理由もある。

 

(まずい……この場の主導権、絶対に渡せない)

 

ルドルフのオーラに押し込まれたまま沈黙していると、主導権がそっちに流れてしまう。深掘り質問を食らったら即沈没だ。ここは私からボールを投げるしかない。

 

「……そういえば、昔 誰かが言っていました。『三位一体』、と」

「三位一体?」

 

ルドルフが眉を上げて問い返した。

 

自分でも唐突だと思う。でも言ってしまったからには突き進むしかない。私は指を三本立てた。

 

「走りを構成する三つの要素です。“速さ”“運”そして“強さ”。どれか一つでも欠ければ、ウマ娘は本質的に走りを失う。私は、そう思っているだけです」

 

“だけです”――語尾の弱気は、自覚的なブレーキだ。深掘りされたくないという祈りが詰まっている。

彼女は私の三本指と顔とを交互に見つめ、「速さ、運、強さ……」と静かに反芻した。

 

(え? いや、そこをそんなに噛みしめなくても……)

 

「なるほど……三位一体、か」

 

私はただ、追及をかわすように頷いた。内心は「もうこれ以上は勘弁してください!」の合図だったのだが、彼女には別のシグナルに見えたらしい。

 

ルドルフが口を開いた。

 

「速さ・運・強さ。君はそれを三位一体と見なし、走りの本質を一つに結ぶつもりなのだな。なるほど、その視座には敬意を払わねばならない。私も同感だ」

 

(視座? 敬意? 同感!?)

 

耳に飛び込む言葉の重みがどんどん増していく。私は反射的に首をほんのわずか傾けた。返事を考える時間稼ぎ……のつもりが、どうやらルドルフには「深く思慮している」に見えたようだ。

 

「理想とは、遠いものだ。だからこそ、誰かが歩いて見せねばならない。私が目指した頂は、誰かが登れると信じさせるためのもの。道を作るのが私の役目なら、歩むのは君たち自身だ。君がその“歩み”をもって、理想の三冠を形にするというのなら、私は迷わずその背を支えよう」

 

三冠? 理想? 支える? 

 

――ナンノハナシデスカ??????

 

だがここで動揺をさらけ出すわけにはいかない。私は声を震わせないように、喉の奥で空気を整え、

 

「……ありがとうございます」

 

やっと、それだけ絞り出した。自分でも情けないほど淡い声。だが彼女には「謙遜」に映ったらしい。誤解が誤解を呼んで韋駄天コースを爆走している。

 

「不撓不屈。夢に仕える者にとって、困難は“従者”に過ぎない。どうか迷わず進むといい。学園の未来は、君の脚にも懸かっている」

 

壮大すぎる結びの言葉とともに、ルドルフは風のように立ち去った。

残された私は、まだ頬に張り付くような緊張を引きずったまま、その背を見送るだけ。

 

(……乗り切った。の、か?)

 

だが足元には、潰したカメムシの――いや、緑色の何かの匂いが、まだわずかに漂っていた。

 

 

 

 

 

 

夕方。人気の減った廊下で、たまたま掲示板に目をやる。新しい紙が一枚、目立つ場所に貼られている。

 

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【速報】

ビワハヤヒデ、三冠路線始動か!?

生徒会長ルドルフが“速さ・運・強さ”を評価し激励

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「三冠って……なに……?」

 

呟きは廊下に吸い込まれ、誰にも届かない。

頬をかすめる春風が、紙を揺らし、私の髪も揺らした。

私はただ、その場に立ち尽くすしかなかった。




こういうコメディチックなウマ娘二次創作の作風が気に入っていただけた方は、よろしければこちらの拙作もどうぞ。シリアス多めな世界観・シリーズですが、この話に限ってはコメディです。設定の都合上オペラオーが生徒会長になっていることだけ理解していただければ、この話単体でも楽しめる……はず

https://syosetu.org/novel/338010/21.html

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