「――ハァ、」
彼女の溜息は、深く吐き出され、そっと冷たい風に靄になって消えた。
先程までの気丈な表情はどこかに消え去り、まだ冬の冷たさが残る気温の中で、額に汗を流している。
これが冷や汗出ない事は、アーチャーも理解していた。
戦闘。
緊張のある追跡。
そして、慣れない腹芸。
このような状況で、魔術師とはいえそのようなモノを経験してこなかった十代の少女が、疲れない訳がないのだ。
「――マスター、今後の方針を確認したいんだが、良いかな?」
マスターである桜小路凪子は、自分に頼ってくる事はしなかった。という事は、そのような部分で弱みを見せたくないのだろう。
それをわざわざ指摘する程、アーチャーは無粋ではなかった。
「……そうね、このまま衛宮君を教会に届け、最後まで状況を確認するわ。彼の決断如何では、色々今後の事で相談しなきゃいけないかもしれないけど」
「マスターは、彼がこのまま聖杯戦争に参加すると、思っているのかい?」
「いいえ、そこは分からないわ」
彼女は袖口で汗をそっと握ると、虚空を睨み付けながら言葉を続ける。
「正直動揺しているように見えないのよ、彼。案外、こういうにに慣れてるのかも。
だとしたら、降りる気にはなってくれないかもしれない……そうなれば、あのセイバーの情報は必要になってくるし、警戒はした方が良いかも」
――
その言葉は何気ない言葉でありながら――いいや、だからこそ言外に、あのセイバーのマスターに戦ってほしくないと思っているという事だ。
優しい子だ。
そして同時に、孤独な少女だ。
例え彼が自分の選択で戦いに挑み敗れたとしても、彼女は眉一つ動かさないだろう。「これでライバルが一人減ったわ」くらいの軽口は言うかもしれない。
それでも心の中で、彼をこの戦いに巻き込んでしまったという僅かな罪悪感を抱えるのだろう。
彼女の所為ではないのに。
そして仮初の学園生活。それを彼女がひそかに楽しんでいる事にも、アーチャーは気付いていた。
気の置けない学友との、何てことのない会話が、彼女にとってほんの少しの癒しになっている事も。
――どこか考え方が歪な青年に、自分を重ねて、安心感を抱いていた事も。
それで手心を加える事はないにしろ、何の気兼ねも無く話せていた人間を失った事に、酷く落胆している。
「あのセイバー、ちょっと厄介かも。能力どうこうって事より、考え方や観察眼っていうのかな。何か、一筋縄じゃいかない気配を感じる。アーチャーはどう?」
「――ああ、そうだね。アレは恐らく、強者というより智者といった感じだ。
自分が賢い事を悟らせずに、相手を討つ……騙すのが得意というよりも、上手く相手の視線を逸らすのが得意なのだろう。現世風に言うなら、手品師といった所か」
益体もない事に思考を巡らせていたのを悟られないように、自然とした口調で返事をする。
アーチャーの様子を気にする風でもない――いいや、気に出来る程余裕がないのだろう――桜小路は、今度は小さな溜息を吐く。
「手品師ねぇ……ますます、最優のクラス、なんて言われているセイバーには似合わない表現よね。
どっちかって言えばそういうのって、アサシンやキャスターの十八番でしょ」
「そうとも限らないよ、マスター。
クラスなんていうのは、あくまでサーヴァントに器を与えてるものに過ぎない。必ずしも、通説通りの人物とは限らない」
型に嵌らないからこその、英雄な。
どれほど現世の魔術師が策を弄しようとも、彼らの人格を変化させ得るほどではない。せいぜい、別側面を見せる程度だ。
セイバーだから策を弄さない。
キャスターだから正面から戦わない。
そのような固定概念を持って接していれば、危険な状況もあり得る。
「実際、今回の聖杯戦争は特殊だ。学園でランサーと争っていた鉄仮面の集団然り、新都で暴れ回っているサーヴァント然り。
あまりクラスがどうと考えない方が良いかもしれないね」
「……それもそうね、ごめんなさい。ちょっと疲れちゃってるみたい、私」
自分の思考を振り払うように頭を振る。
――アーチャーは戦士だ。だがそれだけではない。
生前は様々な立場に立ち、時には誰かを支え導いた経験が、なかったわけではない。
それを考えると――彼女の背中は、酷く脆いものに見えた。
魔術師としてはかなり優秀な部類だろう。頭も切れるし、策略だって未熟ではあるが、アーチャーが一言伝えればすぐに修正してくる程だ。
ポテンシャルで言えば、彼女はこの聖杯戦争中の一、二を争う優秀なマスターだ。
しかし、それと少女であるという点において、彼女が精神面で弱いという事は矛盾しない。
彼女は少女なのだ。
少なくとも、他人を冷徹に切り捨て、素知らぬ顔が出来ない程に。
「………………」
思わず、手を差し伸べる。凪子の後ろ姿に向かって
この手で彼女の頭を撫でてやれるならば、優しくしてやれるならばそれほど良いのだろう。
聖杯戦争などという闘争に、婦女子がわざわざ身を置く必要性はないと良い、自分が守っているだけで良いのであれば、自分もどれほど気楽だろう。
――だが、彼女はそれを望んでいない。
彼女は気丈に振舞う事を選択した。
アーチャーには一切告げずにそうしたのだ。その覚悟を、アーチャーは無碍には出来ない。
……しばらくその姿勢でいると、アーチャーは手をゆっくりと下ろした。
「……どちらにしろ、敵対している者は多い。ここは今の状況を利用して、一時的な同盟を組んでも良いかもしれないね」
「同盟ねぇ……正直、あまり気乗りはしないわ。
だって衛宮君、動揺はしてなかったし頭も悪くないけれど、的外れな人なんだもの。ああいうのに背中を預けられないわ」
「フッ、それはそうかもしれないね」
笑みを浮かべながら、アーチャーは凪子の隣に立つ。
今はとりあえず、これで良い。
この戦争に勝利すれば、彼女の目的が叶う……それは同時に、この何かを背負っている少女の肩の荷が一つ減るという事だろう。
ただそれだけの事でも、彼がこの聖杯戦争に死力を尽くす、充分な理由となるのだから。
次話は、7/6(日)の17時に更新します。
楽しんで読んでいただければ幸いです。