――草原に、一人の女性が歩いている。
夕暮れの茜に染まっている草原を、素足で歩いている。
彼女の表情には、何もなかった。
感情を何も表していない訳では無い。
優しい微笑を湛え、そこには負の感情は一切ない。今彼女の髪を揺らす凪が、彼女の心を満たしているのが感じられる。
そして理解する。
彼女の人生は、そんな凪の人生とは違うものだったと。
彼女の生きてきた道は、それほど穏やかなものではなかったと。
それでも、彼女は笑みを浮かべる。まるで、これで良かったんだと言わんばかりの笑みを。
……それを見て、自分は思う。
――□ましいなぁ、と。
◆
「――おい、衛宮。こんな教室で爆睡とは、昨日は寝てなかったの?
それなら、家に帰ってちゃんと寝なさい。いくら何でも、暖房も掛かっていない教室で寝ると風邪をひきかねない」
「……ん、」
ハキハキとしたその声で、少し重たい目蓋を開く。
眼の前にあるのは、自分がいつも授業を受けている教室だ。
灯りは消され、夕闇で薄暗くなっている教室は、一瞬そのように形作られているだけの箱のような印象を持つ。
……ああ、そうだ。自分は帰りがけに、後藤とここで雑談をしていた。
どちらも今は忙しくない身だ。バイトは慎二さんの言葉通り休むにしても、帰るのには早いと思ったのだ。
だから時間をつぶしていたんだが……身を起こすと、腕の下から乾いた音が聞こえる。そこには一枚のノートの切れ端があった。
『気持ちよさそうに寝てるから、先に帰るぞ! 後藤』
……やれやれ、分かっているならば起こしてくれても良いだろうに。
「衛宮は随分、薄情な友人を持ってるね。置手紙で済ませるところは、流石後藤だ」
「これもある意味、アイツの優しさではあるんですが。
ありがとうございます、美綴先生。起こして頂かなければ、夜まで寝ていたかもしれません」
顔をあげると、自分を起こしてくれた教諭……美綴綾子先生に礼を言う。
栗色の短い髪に整った容姿。
ジャージ姿のラフな格好をしているが、それは体育教師故なのだろう。そこにはこだわりがあるらしく、式典でもない限り他の服は着ない。
その容姿と親しみやすい声掛けの影響で、男女ともに人気が高い……というのは、後藤の聞いてもいない報告で知った。
担任ではないものの、自分もお世話になっている人物だ。
「それにしても、ちょっと寝不足過ぎやしない? 今日は随分早く授業も終わっただろうに、こんな夕方まで眠っているなんて。
まさか、アイツに面倒を押し付けられてないだろうね? だとしたら教師として、昔の級友として、お灸をすえる必要があるんだけれど、」
「いえ、そういうわけではありません。
……むしろ、今朝、慎二さんにはこっぴどく怒られたばかりです」
自分の言葉に、美綴先生はおかしそうに顔を綻ばせる。
「ふふっ、そりゃあ、アイツも随分丸くなったもんだ。学生時代は仮面被ってるか、苛ついているかのだったアイツが、人の体を慮って説教とは。
ま、怒っているのは相変わらずだけど」
美綴先生の言葉には、懐かしさも含んだ少々複雑な音が混じっていた。
昔、義父と慎二さん、美綴先生はこの穂群原学園に通っていたOB・OGだ。しかも同じ学年で同じ部活動。過ごしてきた時間も多かったのだろう。
当時の話をする時、慎二さんは苦虫を噛み潰したような表情になる。良い思い出がないのか、それとも恥ずかしいのかは、自分には分からない。
つまり美綴先生とは、少々教師と生徒以外にも共通項があるのだ。
「……なぁ、衛宮。お前とは授業以外で久しぶりに対面で話しているわけだから、ついでに話しておきたい事がある」
「はい、なんでしょう」
「――剣道部、戻ってくる気はない?」
「………………」
すぐに返事をする事が出来なかった。
少し前まで、自分は剣道部に所属していた。体を動かしたかったのもあるが、竹刀を持っている感覚が妙にしっくり来たから、というのもあった。
剣道が好きだった……のだと思う。少なくとも、剣道をしているのが嫌だというわけでも、誰かにやらされていたわけでもない。
竹刀を持っている時には、何故か自分は無心になり、心が動く事もなかった。
動揺も。
悲しみも。
辛い事も。
何も感じなくなるあの感覚は、一種の救いでもあったように思う。
……まぁ、そんな自分はちょっと異端だったのかもしれない。
部活で一緒に励んでいた仲間達から、ある日こう言われたのだ。
『衛宮、お前とはもう試合をしたくない。
お前と試合をすると、いつか殺されるかもしれないと思ってしまう』
無論、殺そうと思った事は一度もない。
無心になれるから剣道が好きだったのだ。誰かを害そうどころか、相手の有無すら関係なかった。
けれど、一度誰かがそう言ってしまえば、それは広がっていく。
嫌われてこそいなかったが、腫物のように扱われ、好んで近づこうとする人間は次第にいなくなった。
友人を作りたくて入った訳でもなかったが、皆が自分の所為で練習に集中出来ないという状況は、居心地を悪くした。
だから退部した。
家に道場があるので好きな時に竹刀を振れる環境だったし、部活動の時間をバイトにまわす事も出来た。
悪い話ばかりではなかった。
それでも顧問である美綴先生はそんな自分を気にかけ、時折自分に話しかけに来てくれた。
それが義務感ではなく、同情でもなく、本当にただの気遣いであると理解していたから、それを無下にする気もない。
ただ、自分の答えは決まっていた。
「……先生、お言葉は嬉しいです。
それでも、自分一人の為に他の部員の居心地が悪くなるのは、先生が良かったとしても、自分が許せません」
「あんなの半分お前へのやっかみだよ。そんなものを気にして、お前一人が割を食うのを、顧問として見過ごす訳にはいかない」
「先生の考えは理解できます。
ですが別に自分は、不利益を被っていません。そもそも、大会で記録を残したい訳でも、相手が絶対な必要な訳でもありませんから」
「だが、衛宮、」
「……先生、
「………………」
先生が押し黙る。
どのような理由、どのような考えが先生にあったとしても。それが社会的に、学校の秩序の観点から見て同意出来ないとしても。
異物がいてはいけない。
自分の考え方や言動が人とズレているのは承知していることだ。だからこれはイジメではないし、追放されたわけでもない。
その場にそぐわないと理解したから、自分から勝手に離れただけだ。だから、先生の優しい言葉に、自分は甘えてはいけない。
「……ハァ、なんでそんな所ばかり似ちゃうんだろうね、お前ら親子は」
「恐縮です」
「バカ、皮肉ではないけど、褒め言葉でもないよ……そこまで言われたらしょうがない。生徒の自由意志を縛る訳にもいかないし。
でも、たまには顔を出しな。家で竹刀は振れるって言ったって、手入れやらなにやら、限界はあるだろう?」
「それは、……そうですね、お言葉に甘えます」
拒否しようとして、言葉を飲み込んで頷く。
美綴先生としても、これが妥協点なのだろう。
決めたのならば止めはしないが、それでも世話は焼きたい。この人も義父と同じく、なかなかに厄介な御仁な気がする。
「うん、じゃあそろそろ帰りなさい。最近は物騒だし、早めに帰るようにホームルームでも話があっただろう?」
「ええ。確か、新都の方で行方不明事件が起こっていると言っていましたね」
様々な事件の噂は聞いていたが、行方不明事件はホームルームで初めて聞いた。迷信はさておきとして、あまり時期的に良い頃ではないのだろう。
「ああ、だから、君も気をつけて帰りなさい」
「はい、それでは失礼します」
カバンを持って立ち上がり、廊下に向かって歩き出す。日はゆっくりと暮れ始め、部屋の中の光度も低くなり始めた教室の中、
「ああ、そうだ、衛宮、」
美綴先生の言葉で振り返ると、彼女は笑みを浮かべる。
自分を気遣ってくれる先ほどの笑みとは違う、人を見透かすような笑み。
「お前は衛宮を見習い過ぎないようにね。
あいつみたいに笑わないでいるのは、あまりよろしくないよ」
「……ええ、覚えておきます、先生」
ただそれだけ答えると、自分はそのまま教室を後にした。
明日は20時すぎくらいの更新になります。
読んでくれている方がいるのか少々心配しながらも、頑張っていきたいと思います。