――夢を見ている。
それだけは分かる。
明晰夢とは少し違う。
磨り硝子から垣間見える程度の真実と、粘りつく現実味のなさ。
眼の前では少女が、木に登っている。
そういう季節なのだろう。紅葉によって金色に染まっている草原の中にぽつんと生えた大木を、一人の少女が登っている。
何故登っているのかは、分からない。
木に登る理由なんて、果実を取る為か、目的のものを探す為に遠くのものを見渡す時にしかしない。
木には果実など無く、草原は彼女が登らなくとも、十分見晴らしが良かった。
周囲には幾人もの人間が、不安げに周囲を彷徨いている。少女が落ちないかと、気が気ではないのだろう。
そんなに心配されてまでする事とは、到底思えなかった。
だが、それでも少女は登っていた。
実に楽しそうに、実に嬉しそうに。
一つ一つ、一掛け二掛けと手で掴み、足を掛けていく。
足元でそれを見守っていた女性が叫んだ。
『お嬢様、何故じっとしていられないのですか?』と。
実に真っ当な質問だった。
必要でない事は、しなくても良い事の筈なのに。
少女はその言葉に答える為か、それとも丁度一息入れようとしていたからなのか。
頂上でないにしろ、かなりの高さにある幹に座ると、女性に向かって笑いかける。
『あら、そんなの決まってるわ――じっとしているのは退屈で、動いている方が楽しいから。
――だって、人間は楽しい事をする為に生きているんだものっ』
――ああ、なんて享楽的で傲慢で堂々とした自分勝手なんだろう。
羨ましいなぁ。
◆
冷たく張り詰めた空気が漂う道場で、自分はゆっくりと深呼吸をする。
身体の熱が入った外気で冷やされ、冷気もまたその熱でゆっくりと失われていく。
――集中が大事だと、昔義父に教えられた。
これはまだ、見習いがやる程度、初歩の初歩なんだそうだ。
自身の内側を解析し、同時に肉体にある非常識を現実に変換する、一種の瞑想法。
大した工房も持ち合わせていない、家系としての歴史があるわけでもない義父や自分にとって、自身を魔術使いに切り替える重要な規則動作。
「――『
世界を周った義父から教わった。確か仏教用語だったと思う。
諸法無我。
成り立ちや存在は自己で成り立ち続ける力はなく、周囲の影響なくして構成されない。
個という概念は自身が認識するが故に存在し、絶対に揺らがない個は存在しない。
子供心に意味は理解できなかったが、それでもその言葉に妙な共感を覚えている。
だから、自分の魔術回路を起動する為の
言葉は体に染み込み、体に籠もった熱が指向性を持って動き始める。
イメージは〝渦〟。
融解した金属が定められた溝を流れるように、自分の体の中にある魔力が渦を形成していく。
これが自分、衛宮藤汰の魔術回路。
これが自分、衛宮藤汰の魔術の発端。
――魔術師として特殊なのかと言えば、そうでもない。
自分が心得ているのは強化魔術くらいで、それ以外に出来る魔術はない。義父から色々教わったが、結局自分に出来るのはこれくらいだった。
義父も同じだったが、あの人には投影魔術……というより、もっと大きな魔術があった。
自分にはそれすら無いのだから、笑い話にもならない。
故に今自分がやっているのは、強化魔術をより素早く、そして奥底にまで定着させる訓練だ。
魔術の訓練は、武術の鍛錬に通ずるところがあるような気がする。
反復する事によって魔術の発動は早くなり、より自然になる。
そうなれば魔術で強化された身体能力や処理能力とのギャップを限りなく最小にする事が出来るし、物品の強化も素早くなる。
……したところで、何に使うという話ではないんだが。
「『神秘は秘匿されるべきモノ』、流石のアイツもお前に教えてるだろう?」
魔術の制御に集中していたからなのか、ふとした声に、ようやく自分は自分の鍛錬を見守っていた第三者の存在に気づく。
「何故秘匿しなきゃいけないか、お前には説明してたっけか?」
「……神秘とは、人の目に触れれば触れるほどその神秘の格を落とし続ける。
故に魔術師は神秘が一般人に漏洩するのを恐れ、対象の記憶処理や抹殺を行う……でしたっけ?」
「不安がるなよ。まぁ、大まかに言ってしまえばそうだな。神秘ってのは、その存在が知られていないからこそ神秘であり続けられる。
外殻を知るくらいなら、伝承を知るくらいならば良い。むしろそれは、神秘をより神秘たらしめる〝信仰〟の補強になる。
だが実際に〝在る〟と知られれば、神秘は現実に成り下がる……だから、普通は結界も何もないこんな道場で錬なんかしないんだよ、バカか」
魔術回路を停止させながら目を開けると、道場の入り口で自分を睨みつける慎二さんが見えた。
怒っているのはいつも通りだが、普段怒っている時よりももっと複雑な様相だ。
……慎二さんは魔術師ではない。
だが、魔術と深い関係を持っている。
そういう意味でも、魔術師家系でも何でもない自分が魔術を行使している姿にきっと心境的に納得していないのだろう。
「屋敷全体に探知の結界が張ってあります。チャイムも鳴らさず入ってくるのは慎二さんくらいで、慎二さんに見られても問題はありません」
「そういう事じゃない、危機感の問題だって言ってるんだよ。ったく、こんな無頓着な所まで似なくて良いんだよ、本当に」
「無頓着なのは否定しませんが。
にしても、慎二さんが魔術に詳しいのは知っていましたが、そんな風に講義めいた話が出来るとは知りませんでした」
用意していたタオルで顔を拭くと、汗ばんでいた事に気づく。
魔術に慣れていないのもあるが、強化魔術程度でこの体力の消耗具合は、自分の才能の無さに嫌気が差す。
その様子を見ながら、慎二さんはゆっくりと道場に足を踏み入れた。
「事情を知っているのに理屈を知らないなんて、中途半端な状態だったからな。
多少は知っておいた方が良いって、時計塔の知り合いが講義をしてくれたのさ」
「時計塔というと、確かロンドンにある魔術組織、でしたっけ?」
複数の霊地と学部を擁する魔術社会屈指の管理組織にして、最高学府だ。
という程度の認識しかないが、魔術という異質な技術を伝える学び舎だ。途方もない組織かというのは想像に難くない。
「てっきり、そんな縁から離れているのかと、」
「ふん、ところがそんな僕に興味を示した変人教師がいたのさ。曰く『魔術に認められず、しかしそれを求める姿は正しく魔術師』なんだと。
そんな事はどうでも良い。こんな事に時間を使うくらいだったら、勉学に励めよ」
言葉と見下ろすような姿勢、鋭い目つき
それらの所為でこちらを蔑んでいるようにしか見えないが、純粋に慎二さんが心配してくれているのは嫌でも分かった。
この人は自分が何か厄介事に首を突っ込むのではないかと、気が気ではないのだ。
そんなに自分は危うく見えるのだろうか?
……見えるのだろう。もしかしたら、そういう部分も義父に似てしまっているのかもしれない。
「心配して頂いて有難いのですが、自分から喜んで何かするつもりはありません。単純に、習慣になってしまっているだけです」
「真顔で言われたって、全く信じられないけど……ったく、立てるか?」
そのままの姿勢で、自分に手を差し伸べてくれる。
消耗しているのが目に見えて分かるらしい。自分も修行が足りない。少し自嘲するような気持ちになりながらも自分はその手をとって、
――何故かそのまま関節技を極められた。
「グッ、慎二さん、流石に、いくら何でも、関節は逆方向には曲がりませんッ」
悲鳴を上げる関節が、このままあらぬ方向にいかないよう抗いながら、視線を合わせず声を上げる。
合わせずにというか、合わせられない。
格好としては丁度、慎二さんの手を掴んだ右手の平側に、手首を極められているような状態なのだから。
そんな状態も自分の言葉も気にせず、慎二さんは自身の視線上に自分の手の甲を持っていく。
視覚的には見えないのだが、力の入り方的にそのようにしているはずだ。痛みで分かる。
「……なあ、藤汰。お前、どっかで手ぶつけるような事したか?」
関節を極めながら質問するような事ではない。
なんだったら今、ぶつけるよりも大きな怪我をしそうだ。
「い、いえ、特に覚えはありませんけど、」
「……ふぅん、あっそ」
痛めつけているにしては随分と気の抜けた声とともに力が緩み、自分は慌てて、これ以上痛めないように姿勢を正す。
手首や肩を回してみる。多少の痛みがあるものの動きに支障はない事が分かると、ほうっと安堵の溜息を吐いた。
――目に入ったのは、手の甲にある大きな痣だ。
昨晩までは確かになかったし、ぶつけるような事をした覚えもない。
いつの間にか痣が出来るなんていう歳でもなし、慎二さんが奇妙がるのも頷ける。
……関節技を使ってまで確認しようとは思わないが。
「おい、藤汰。お前今日、何か予定はなかったよな?」
「ええ、バイトも慎二さんに連絡していただきましたし、部活は辞めましたからこれといって用事はありませんけど、」
「なら、学校が終わった後、真っ直ぐこの家に帰ってこい」
「? それは構いませんが、なんで、」
「理由はいらない、質問もいらない。
お前はこの家にまっすぐ帰ってくれば良いんだ。寄り道もせず、真っ直ぐだ」
――まただ。
昨日と同じく、珍しい慎二さんの命令口調。
それに自分は、黙って頷く以外の選択肢はない。
「え、ええ、分かりました」
その受け答えに満足したのだろう。慎二さんは鼻を鳴らすと、自分よりも先に、荒い足取りで道場を出ていった。
――なんだったんだ? あれは。
次話は、明日の21時頃になります。