――子どもが泣いている。
慎二さんと話して数時間ほどしてから、自分が通学路を歩いていると、そのような光景が目に入った。
景色だけ見るならば、ただそれだけの光景だった。
朝の通学路というのは、人通りが多く見えるようでそうでもない。
今もこの道には昨日と同じように、自分と同じ穂群原学園の生徒や通勤途中のサラリーマンなどが行き来しているものの、その人影は多くはない。
だから、なのかもしれない。
小学生らしき子どもが一人、アスファルトの上に座り込んで泣いている姿を見ても、誰も声をかけようとしなかった。
当然、と言えば当然なのかもしれない。
このような場所で声をかければ、変質者として疑られる可能性もある。
世知辛いと言ってしまえばそれまでだが、親切心等で声をかけようとして悪者扱いとは、ままならないものだ。
「――何かあったのか?」
もっとも、自分はあまりその辺を気にする必要性はなかった。警察が来たところで、事情や自分の身分を偽る必要性がないのだから。
自分に声をかけられて、少し動揺した様子だったが、小さな少年は泣くのをやめて、おずおずと返事をする。
「ころん、じゃったの……」
なるほど、非常に端的な説明だった。
視線を下にやると、確かに少年の膝からは擦り切れてしまったのか、血が滲んでいる。
自分からすれば大した怪我ではないと思うが、それはあくまで自分の主観だ。
「少し待て」
自分はそれだけ言うと、すぐ近くにあった公園に足を踏み入れる。
公園には、決まって水道などがある。自分はそれで少し手に持っているハンカチを濡らすと、今一度少年の元に駆け寄った。
「しみるだろうが、堪えろ」
「――っ」
そのまま少年の傷に濡らしたハンカチを当てると、少年は強く目を瞑る。我慢しているのが見て取れた。
ハンカチは少し血が染み込み赤くなるが、それもすぐに収まった。ランドセルを背負っているとはいえ、少年の体はそう大きくはない。
転んだ場所がアスファルトだったとしても、怪我はそう酷いものではないだろうという判断は、正解だったようだ。
「頭は打っていないか? 他に負傷個所は?」
「え、ううん、ない……とおもう」
自分の言葉に、少年は不安そうに答える。
? 顔見知りであるわけではないというのは重々承知しているが、にしても警戒心がありすぎる。
何か、不審な行動をとっただろうか、自分は。
「――どうしたんですか? 衛宮君」
そんな事を頭の中で巡らせていると、空から声が降ってきた。
顔を上げてみると、そこには桜小路が、きょとんとした顔で立っていた。
「おはよう、桜小路。いや、この子が転んでいるようなので、手当をしていたんだ。今は、他の怪我の有無を確認しているところだ」
「ああ、なるほど、そういう事ですか」
納得気に頷くと、桜小路はその場にしゃがみ込んだ。コートの裾が、雪解けで湿っている地面に着くのもお構いなしに、少年と視線を合わせた。
「えっと、ごめんね、びっくりしたよね。
お兄さんは、君が他に怪我をしていないか、心配しているだけみたいなの。どこか、痛い所はないかな?」
桜小路の言葉に、少年は今度こそ安堵の表情を浮かべる。
――自分が声をかけた時よりも、随分安心したような表情だった。
「う、うん、だいじょうぶ。どこもいたくないよ」
「そう、良かった……衛宮君、差し出がましいとは思うんだけど、絆創膏とか持ってないですか? 私、そういうの持ち合わせが無くて」
「ああ、少し待ってくれ」
自分はそう言うと、カバンの小さなポケットの中から絆創膏を取り出す。細かい作業の時に切ってしまった時用に、常備しているものだ。
自分はハンカチをポケットに仕舞い、絆創膏の封を切って少年の傷に充てた。
幸い、傷の大きさに対して絆創膏が小さいという事もなく、しっかりと傷を覆い隠した。
「これで問題ないだろうが、何か他に不調があれば、すぐ他の大人に言え」
「う、うん、ありがとうおにいちゃん! それに、おねえちゃんも!」
少年はそう言うと、すぐに立ち上がって駆けだした。
足運びを見るに、骨にも異常はないようだ。また走って転びでもしたらと思わなくもないが、それは自分が言う事ではない。
「朝から大変でしたね、衛宮君。でも、また意外な一面が見れて、私は嬉しいです」
「大変というのは否定しないが、しかしまた意外な一面か?」
自分の言葉に、桜小路はクスクスと笑う。随分、楽しそうな事だ。
「ええ、意外です。あんな仏頂面で、転んでいる子の面倒を見ているというのは……でも、衛宮君。失礼だとは思いますけど、一つアドバイスしても良いでしょうか?」
「ん? ああ、聞こう」
桜小路はその言葉で、一つ小さな咳払いをすると、自分の方に向き直った。
やや真剣味を帯びた、それこそ柔らかい表情が売りの彼女らしからぬものだ。
「衛宮君。気遣うならば、最後まで相手を気遣わなきゃダメだと思いますよ。
あんな詰問口調で、相手の立場になって考えないような訊き方、あの子がちょっと怖がるのも、当然だと思います。」
――そうだったか?
改めて、自分の発言や行動を振り返ってみる。確かに、どこかそのような部分があったような気がする。
子どもというのは、自分が思っているよりも警戒心が強いのかもしれない。
だが、
「なぁ、桜小路――それは、必要な事なのか?」
――一瞬、空気が静止する。
何かおかしいのかと思いながらも、自分は言葉を続けた。
「彼は怪我を負っていたし、他にもどこか怪我をしていたかもしれない。それを訊く事が、悪い事なのか?」
「……いいえ。もうちょっと優しく聞いてあげても良かったかな、と思います」
「それは、必要なのか? だって、知らない子だろう、あの子は」
丁寧に話すのが優しさなのか? ああ、優しさなのだろう。
だがあの場で必要なのは怪我の処置で、
「……それは、ちょっと違うかな。
優しいって、別に必要性があるとか、ないとかだけじゃないと思うの。
衛宮君が、転んだ男の子に優しくしたのだって、それを言ったら必要ないでしょ? それを言い出したら、きっときりがなくなっちゃうよ」
それは……確かにそうだな。
ようは最初に桜小路が言った言葉通り。やるなら、最後までやり切れと言う話なのだろう。
「そうだったか……済まない、桜小路。自分は、表情や言葉が硬いようでな」
「いいえ、別に構いませんよ。それじゃあ、私は先に学校に行っていますで」
桜小路はそれだけ言うと、学校に向かって歩き始めた。
自分はそれを見送る。同じ教室なのだし一緒に行けばいいのかもしれないが、お互いそういう気分でもなかったのだろう。
「しかし、相手の立場に立って考える、か」
桜小路に言われた言葉を、改めて反芻する。
かなり、難しい事を言われたような気がする。
高校生である自分が、小学生である少年の立場になるというのは、甚だ難解だ。
それに、
「そもそも、あの子はなんで、泣いていたんだ?」
自分はそう言いながら、自然と小首を傾げていた。
ここから連日投稿から、3日に1回の更新に切り替えます。
次回の更新は、5月12日の18時になります。