あれから4日が経って転移魔法は解けた。1日だけ睡眠休息をとって、朝に霊夢のもとへ飛んだ。
「お望みの品だぜ」
「ありがとう」
2人で曇天の空を飛んで紅魔館に向かう。日常会話は交わしたがどこかぎこちないものだった。紅魔館地下に到着し魔法を起動させる。魔法陣は朧げに光って転移の準備が整った。この1週間の私の努力は、切れかけの豆電球のような光量で終わった。
「行ってくるわ」 と霊夢。
「ああ」
「……任せておいて」
霊夢はどこか逡巡してそう言う。魔法陣の上に立ちその場から消えた。
魔理沙は足を崩しじっと魔法陣を見つめる。1分、3分、5分と刻々と時間が過ぎる。
10分ちょうど。魔理沙は立ち上がり魔法陣に踏み入れた。
転移した先で魔理沙は砂利を踏む。地面は見渡す限りの砂利と種々雑多なドアノブが散らばっている。朝だったはずなのに空には青白い三日月。夜のカムフラージュだろうか。そして正面に厳めしい和風の屋敷が佇む。
門を開き、土足で板敷に上がり込む。左右にそそり立つ土壁。屋敷内に月の光は届かず、橙色の行燈が仄暗く照らすのみ。行燈は奥へ奥へと導くように等間隔に置かれている。先にはふすま。手をかけ、勢いよく開く。
ふすまの先は、四方をふすまに囲まれた畳の部屋だった。畳を踏み荒らして別のふすまを開くが、またふすま。どの方角を開いても繰り返すように同じ間取りの部屋が現れる。
「気がおかしくなりそうだな」
魔理沙は一方向にふすまを開き続け進んだ。
今日の魔理沙は絶好調だ。徹夜続きだった分しっかりと睡眠を取った。朝食も米をたらふく食べ、苦いインスタントコーヒーで頭を覚醒させてきた。新しい魔法もいくつか用意がある。とっておきは、反動対策を施しさらに威力を向上させたマスタースパーク。こいつで吸血鬼の土手っ腹にお見舞いしてやるぜ。ただ身体は重かった。
どこからか声が聞こえてきた。遠くて聞き取りづらいが恐らく男の声。魔理沙は声の聞こえる方向に速足でふすまを開いていく。最後の1枚を開くと、頭を剃り上げた年配の男が部屋の中央で正座していた。
男の正面には豪奢な仏壇がある。男は煌びやかな仏壇に向かって一心に何かを唱えている。まどろむような、大河を流れていくような、独特の調子とリズム。人ならざるものと会話する言葉、お経。魔理沙は首を捻る。
「誰を供養してるんだ?」
「お嬢様よ」
背後から女の声。指先に発熱する魔力を溜める。
銀髪に背が高くしなやかな線。格式高そうなメイド服に、だらしなく腕をぶらぶらさせながら、女が歩いてくる。
「お嬢様、レミリア・スカーレットの供養。人間の僧まで呼んでね」
「へえ」 眉を険しくする魔理沙。 「で? 私は博麗霊夢。尼さんだぜ」
「十六夜咲夜よ。霧雨魔理沙」
咲夜は銀の瞳を向けてきた。まるで擦れてくすんだスプーンのような双眸。
魔理沙は咲夜を観察する。腕を垂らした如何にもやる気なさげな立ち姿。だが手にはしっかりナイフを握っている。油断でも誘ってるつもりか? 舐められたものだな。魔理沙はわざとらしくパッと表情筋を和らげた。
「何しに来たんだメイドさん? お焼香上げに来たか?」
「まさか。宗教は嫌いなの」
「宗教嫌いに碌な奴はいないぜ。誰が呼んだんだ?」
「フランドールよ。こんなお屋敷まで拵えて」
「やっぱ吸血鬼って信心深いんだなあ」
咲夜は柱に背を預ける。スカートのポケットに手を入れ、細長いメッキのケースを取り出した。そしてケースからやたら光沢のあるキセルを手に取る。共にケースに入っていた細切れの葉を不慣れな手つきで火皿に詰め、マッチを擦って炙り始める。葉が内から赤く燃え焦げていく。
「旨いの?」
メイドは答えず、キセルを唇で挟み、喫む。じっくりと時間をかけ、まるで抜け殻のような表情をして胸ばかりを膨らませる。煙を喫み切るとキセルから口を放し、また同じ時間を費やして吐いた。煙と一緒に何かが抜け出たようにキセルを吸う前より身体が縮んでいた。
メイドは数珠を鳴らし続ける丸頭を目に捉える。
「経は神に感謝する言葉なんだってね」
「んあー? 何の話だよ」
「どんな罪人でも極楽浄土に掬い取ってくれる神への感謝。そうよね」
「今際の際で宗旨替えしたくなったか?」
「吸血鬼でも掬ってしまうのかしら」
魔理沙は咲夜に耳を向けた。咲夜は口を窄ませキセルの吸い口を包み込む。目を伏せ、肩を膨らむだけ膨らませてから灰を歯の隙間から吹いていく。
魔理沙は目を細める。
「親族の意思は尊重してやらんとなあ」
「そういうのも嫌いなの」
「我儘言っちゃいけないぜ」
「あの人とお嬢様に面識はない。あの人はお嬢様のこと何も知らないわ」
「ぽっと出の親戚が遺産を掻っ攫うみたいな?」
「あの人は495年間地下にいたらしいわ。そこからずっとお嬢様を見ていたって。でも地の底から見上げるだけじゃ、お嬢様の靴底しか認められなかったんじゃないかしら」
「へぇ」
首を斜め上に傾ける。
「じゃあ何で妹君に従ってるんだ? 銭のため?」
「あの人が巫女を殺せるからよ」
「復讐?」
「私は巫女さえ殺せれば後はどうでもいいの。もうどうでもいい」
再び安っぽいキセルを含む。だが煙を喫みすぎたのか苦しそうに噎せた。まるで喘息のように肩を跳ねさせ痰の絡む咳をした。咲夜は涙を拭いながら溜息をつく。
「慣れないわね」
「憐れだな」
「そうね」
「本当に憐れだ」 魔理沙。 「憐れなメイドさん」
「何?」
「行動も意思も他人に預けておいて文句だけは一丁前なんだから」
唇を舐める。
「甘えてるんだろ? メイドって立場に。お前は長いものに巻かれて誤魔化してるんだよ。そんな様じゃ、あれよあれよという間に殺されちまうぜ」
咲夜は目を逸らしキセルを弄んでいる。
言葉を返さないメイドに魔理沙はほくそ笑む。その胸に溢れる嘲笑を、大袈裟な声の抑揚に乗せて吐き出した。
「私はメイドなんて耐えられないな」
出し抜けに咲夜は口角を吊り上げた。
魔理沙は最初、咲夜は反論しようと口を開いたのだと思った。しかし咲夜の顎はぴったりとくっついて、次の言葉が出てくることは無い。笑みを見せつけることが目的というように、痩せこけた頬を存分に引き上げ動かない。生気のない貌で声を立てず微笑む姿は病人のそれだった。
「何笑ってんだ?」
咲夜は返答しない。笑みを浮かべたまま身体を横に向け、キセルを吸う。魔理沙の口の端が攣る。
「メイドは発言するにも許可がいるのか?」
「別に、何でもないわ」
魔理沙はポケットに手を突っ込み八卦炉を掴む。
「口答えできる立場だと思うなよ? メイドはメイドらしくだよ」
「ふふ、いいわ」
咲夜はキセルを吸い切り辺りを見回す。何かを見つけすたすたと歩き、仏壇を背に膝をつく。そして香炉にキセルを叩き付け葉の燃えカスを落とした。
「あんたも私と変わらないってことよ」
「……へえ」
光線を咲夜のナイフが弾き防いだ。光線は逸れ背後のふすまに穴を開ける。メイドは白熱するナイフを興味なさげに見つめる。
「そんなに怒らなくても」
「手癖の悪いメイドだな」 魔理沙は八卦炉を咲夜に向けていた。 「私が性根叩き潰してやるよ」
「私の仕事は虱の掃除。宿主を失った憐れな害虫を殺してあげないと」
咲夜は脚のホルスターから年季の入ったリボルバー式拳銃を取り出した。銃口を魔理沙に向ける。
「恨むなら巫女を恨んでね」
よく観察すると撃鉄は起こされていなかった。魔理沙は腹の内で嘲る。
「死ぬのはお前だよメイドさん。私がメイドも人間もやめさせ――」
認識できないほどの、一瞬。胸に重い痛みが走る。冷たくて、温かくて、痺れる。まるで身体を鉄のミミズが食い破っていくような。
痛みの元を見る。身体に小さな穴が開いていた。そこから栓を外したように、とくとくと黒ずむ血が流れ出ていた。
「かっ」
声にならない声。足がもつれる。蹲ってしまう前に魔理沙は魔法を薙ぎ払った。宙返りして避ける咲夜。飛び散る仏壇の破片。魔理沙は箒に飛翔魔法の全エネルギーを注ぎ、ふすまを突き破って逃げた。
「うっ、くっ」
魔理沙は逃げた先で柱に背を預ける。一体何が起こった。撃たれたのか? 引き金なんか引いてなかった。銃声も聞こえなかった。何で。
口の中で血の味がする。悪寒が止まらない。ゆっくりとした足音が聞こえてくる。まずい、まずい。ぐずぐずしていると殺される。早く体勢を立て直さないと。
血が止まらない。どんどん血が失われていく。私の血。私が生きるための血。冷たい汗が噴き出す。ち、血を止めるんだ。早く治療するんだ。早く魔法で傷口を塞いで……。いや待て。銃弾を取り除かなきゃいけないんじゃないか? あんなものが身体に残ってて良いはずがない。絶対に悪影響がある。銃弾を取り出すには、物を動かす魔法で……。
荒い息。瞳孔が揺れ動いて、手首が震える。怖い。失敗すると余計に傷付くし、体内を掻き分けて異物を取り出すだなんて、絶対に痛い。怖い、怖い。そもそも取り出す必要なんてないんじゃないか? 駄目だ。残った銃弾が体内を傷付けるかもしれない。隣の部屋まで迫る足音。早く、早くしろ。取り出せ。取り出して止血魔法を施せば大丈夫。まだ戦える。傷口を抑える。すぐ後ろまで近付く足音。早く取り出すんだ。取り出して止血するんだ。早くしろ。早く、早く、早く……。
魔理沙は止血魔法を使った。銃弾を体内に残したまま。変色した傷口はみるみる塞がり血が止まる。
「念仏は聞こえる?」
視界の端に入る咲夜。向けられる銃口。銃口はこの上なく暗く深くて、永遠に落ちていきそうで。
魔理沙は我武者羅に魔法を放った。光線は咲夜の銃を粉々に壊す。再び飛翔魔法に全力を注ぎ距離を取った。少しでも発見を遅らせるよう滅茶苦茶な方向に飛んで逃げていく。
クソ。精度も考えず魔法を使ってしまった。こんなペースで魔法を使っていたらガス欠になる。対処法を考えるんだ。
まだ胸が痛んでいる。残った銃弾が、私を蝕んでいく。
「……殺す!」
状況の整理だ。あいつは引き金も引かず銃を撃った。そして私は撃たれた瞬間も認識できなかった。十中八九魔法だろう。でもどうやったらそんな芸当ができる? もっと状況を思い出せ。
……そういえば撃たれた直後、銃口から煙が上がっていた。まるで撃ってから数秒経った後のような。認識を遅らせる魔法? それも時を止めて行動を終えた後に再開したように。でも認識を遅らせるにしても私の脳に魔法をかける必要がある。魔法をかけられれば必ず痕跡は残る。まさか本当に時を止めて。
後方から飛んでくるナイフ。魔理沙は全力で箒を捻って避ける。
確かに魔法陣を生成すれば実際に時を止める魔法も可能だろう。だがそんな魔法使うとしたら式は複雑で瞬時の起動なんかできない。そもそもあいつが陣を生成する素振りはなかった。どうやって瞬時に時を止めた。解き明かせ。
「逃げるの?」
地の底からするようにどこまでも鳴り渡る咲夜の声。
「逃がしてやるよ駄犬が」
魔理沙はふすまを破って着地する。目の前に銀の影。手にナイフ。
「は?」
ナイフが振り下ろされた。しかし魔理沙に届く前にナイフは弾き返された。魔理沙は正面にバリアを張っていたのだ。咲夜は咄嗟に蹴りを放つ。脚がバリアを掻い潜り内臓にめり込む。
「ッ!」
魔理沙は蹴り飛ばされてふすまに激突した。急いで身を起こし八卦炉を構える。不規則な呼吸と内臓に残る鈍痛。湧き出す吐き気に必死に耐える。
咲夜はナイフを弾かれた手を庇い歯を食い縛っている。
「あーもう、読み違えたわ。さっきので殺すつもりだったのに」
逆の手でナイフを拾おうとする。
顔がさっと冷たくなった。まずい。また時を止められる。防ぐ、防ぐには。
魔理沙は自分の周りに飴細工のようなバリアを張った。咲夜はバリアにナイフを突き立てる。だが突き刺さらず、ガラスが擦れるような音と共に面を滑った。
「は、はは。ざまあみろ」
咲夜は不快そうに顔を歪める。そして突き刺さらないにもかかわらず何度もナイフを振り下ろした。目一杯腕を振り上げて、勢いに任せて下す。何度も何度も何度も。先端が魔理沙の目と鼻の先まで届いて、跳ね返される。
「巫女はどうしてると思う?」
咲夜はナイフを振るい続ける。
「あの人と1対1よ。ここは私たちのテリトリー、殺せるわ。博麗の巫女はここで死ぬ」
「何が言いたいんだ」
「あんたもどっちみち死ぬの。無駄な労力を使わせないで?」
ナイフを突き立てた瞬間、魔理沙はバリアを解いた。バランスを崩す咲夜。八卦炉を咲夜の腹に当て、光弾を放ち吹っ飛ばした。
「私もお前がどうでもいいんだよ。あ?」
咲夜が消えた。時止め。魔理沙は飛翔魔法を使い飛び立った。あいつは飛翔に対応できなかった。恐らく飛び回るのが最善。
あいつの言った通りここは吸血鬼のテリトリー。霊夢は大丈夫だろうが、何が仕掛けられているか分からない。
飛翔の速度が落ちている。内と外の痛みに、一瞬だけ視界がぼやけた。早く……早く決着をつけないと。これ以上ダメージを受けると動けなくなるかもしれない。仕掛けが使われるのもまずい。早くあいつを殺さなければ。……仕掛け?
魔理沙の眉間に一筋の光が差し込んだ。限りなく加速する中で、身体が電気になっていく。
そうだ仕掛けだ。事前に用意された魔法陣があるんだ。あいつはそれを利用して時を止めたんだ。でも魔法陣なんてどこにも見当たらない。一体どうやって。
……そういえば出発した時は朝だったのに、屋敷に転移したら月が出ていた。おかしいじゃないか。体感時間は数秒なのに夜になるなんて。まるで時を進められたか、夜まで時を止められたようじゃないか。そして私が転移までに受けた魔法は紅魔館地下の転移魔法のみ。
転移魔法陣に仕掛けがあったんだ。詳細な仕組みは分らないが、転移魔法陣に時を止める細工が施されてあったんだ。きっと同じような魔法陣でメイドも時を止めている。転移魔法の起動条件は陣に触れていること。メイドに時止めされた時、私が触れていたのは。
魔理沙は魔法を使う。ミニ八卦炉に、急速に限界まで魔力を溜める魔法。過剰な魔力が集まり八卦炉が鈍く振動する。
魔理沙は飛翔したまま停止する。目の前に咲夜が飛んできてナイフを向けられた。八卦炉は強烈に発光していて、2人の影法師が襖に映し出される。
「天国はきっと温かいでしょう」
「涼しい夜になりそうだな」
魔理沙は八卦炉を下に向けた。照準は床に。目を皿にする咲夜。
溢れ出しそうな魔力がただ一点に収束する。滾る八卦炉で手が火傷しそうになっている。魔力の収束する突風のような音が魔理沙を包み込む。激しく揺らめく行燈。音を立てて震えるふすま。後ろに飛び退く咲夜。
魔理沙は五指に力を込め、深く息を吸い込む。砕けそうなほど歯を食い縛って、口角をこれでもかというほど引き上げて笑った。そして瞬く星。
「マスタースパーク!!」
刹那、音が消し飛ばされた。視界を光が覆い尽くした。まるで時が止まったかのように。
そして爆発の轟音と凄まじい風圧が巻き起こった。畳がひしゃげ襖が吹き飛んでいく。魔理沙は飛ばされないよう必死に堪える。
笑う、笑う魔理沙。声を上げて笑った。自由。徐に身体を回転させマスタースパークを薙ぎ払い、輪の形に畳を削っていく。魔理沙は1回転しスパークを撃ち切った。
周囲に焦げた匂いが充満し、気温が上がっている。立ち込める煙が晴れていって、見えた畳の下には削れた魔法陣が描かれていた。これが時止めの正体だ。
「やった……!」
魔理沙はにやけを抑えられなかった。肺が開き自然と声量が大きくなる。
「さあ小細工を封じてやったぜ犬野郎! 怖気付かずにかかってこいよ! 掃除が仕事なんだろ? あぁ?」
首に何かが触れた。首の前、丁度喉仏の辺り。冷たく硬い感触がする。まるで冷や水を浴びせられたように。
後ろを見ると、スプーンの瞳と目が合った。銀の瞳は静止してじっと私を見詰めている。咲夜がぴったりと私の背中に張り付いている。
「しまりました。でもあの人がこんなもの持たせたんですからね? ……ちゃんと働きますよ」
「あ? 何やってんだ」
「動いちゃ駄目よ。え? やっぱり死体は集めなきゃですか? はあ」
何の話をしてるんだ。何が動いちゃ駄目よ、だ。さっきのマスタースパークの威力を見たろう。お前は今から私の魔法で胸に穴を開けられて死ぬんだ。
振り向こうと身をよじる。だがよじると首の感触が一層強くなった。糸のように細いが確かにそこにある現実。これ以上それを身体に刻み付けてはいけない気がして身動きを止めた。
一体何だっていうんだ。魔法陣は破壊した。時を止めるほどの複雑で繊細な魔法、一部でも壊せば機能しなくなるはずだ。魔法は封じたんだ。私の知略が勝ったんだ。
前髪を直す咲夜。
「この手をちょっと引いたらね、あんたの頸動脈がプツッて蚊ほどの音を立てて畳を汚すの。でも畳の掃除って面倒そうじゃない? イ草とイ草の間を縫って、層の深くまで汚れが染み込んでさ。染み抜きは層を1本1本解かないといけないのかしら。それとも表面だけ掃除すれば誤魔化せるのかしら。こうやって懊悩を膨らませるのも疲れるしさ、汚れてもいい場所に移動したいの。分かる?」
咲夜がちょっとだけ手首を捻る。寒空の下で枝が掠ったような感覚。
一体何を言ってるんだ?
「い、一体、何を……」
喉が押し潰されて声が出なかった。
「何をって? 歩くのよ。空を飛ぶのも走るのも許さないわ。ひたすら真っ直ぐ歩いて、その先が目的地」
響き渡る鼓動。血が全身を駆け巡って、体温が上がっていく。
「早く?」
喫茶の店員にかけるような声音。
魔理沙の足は動き出した。膝を上げない摺り足のような歩み。咲夜は依然として背中にぴったりとついている。
行く先のふすまは全て吹き飛んでいて遠くまでよく見えた。先には正方形に組み合わされた畳が、ずっと遠くまで暗い灯火で浮かび上がっている。畳がいくつあるのか、どこに続いているのか、まるで検討がつかない。私はどことも知れない場所を一歩一歩揺れる膝で進んでいる。
魔理沙は何も考えることが出来なかった。これから行く先も、この後自分がされることも。考えることを拒否していた。ただただ言われるがまま、流れに身を委せ畳の道を歩んでいる。そう、何も考えずただ進むことしかできなくて――。
香の香りが鼻を抜けた。厳かな鐘が打ち鳴らされる。魔理沙は目だけを動かし、音のした方向を見る。
目の先では、あの僧侶がまだお経を唱えていた。僧の周りの畳は魔法を薙ぎ払ったせいで荒れていて、行燈が倒れて燃えている。それでも僧は取り憑かれたように盛んに数珠を擦り合わせる。頭を経机にぶつけそうなほど低くして繰り返しお辞儀する。
頭を下げる先には仏壇がある。壇には、金で象られた仏像が鎮座している。
蓮華に座したご本尊が、柔和な表情で目を瞑り静かに手を合わせていた。金で象られているとは思えないほど柔らかな肌から、長い歳月を経て深まった味わいを輝かせている。仏は、欠けた仏壇や荒れ果てた畳、燃え盛る炎など意に介さず、堂々とそこに在った。
阿弥陀如来。どんな数の人間も、どんなに罪深い人間も、救済の誓いのもとに掬い取ってしまう、最も徳の高い如来。
下瞼が熱くなって、腫れたように膨らんだ。そして限界まで膨らんで、何かが溢れた。生温くてじっとりした感触が頬を伝う。顎から零れて畳に落ち、跡も残さず浸透する。瞼が痙攣してどんどん溢れ出す。止まらない。どうしようもなく止められない。
「れ……」
震える唇がひとりでに動き出す。
「れ、れい……」
地響きがした。
突然、猛烈な風が魔理沙たちを襲った。魔理沙と咲夜は堪え切れず全身を打ち付けながら転がった。魔理沙は柱に当たって止まる。
仄かな風が頬を撫でる。魔理沙は咳き込みながら恐る恐る目を開けた。
黒髪に結ばれた赤いリボンと、紅白の巫女装束。巫女が魔理沙に背を向けて佇んでいる。巫女の目線の先から吸血鬼が歩いてくる。
吸血鬼は手を前に向ける。掌に描かれる魔法陣。光が増し魔法陣から濁流が流れ出した。粘り気と凝灰岩を含んだ白熱するうねり。マグマ。巫女と魔理沙の周りに結界が張られマグマは真っ二つに割かれた。さながらモーセが紅海を割ったように。畳に炎が上がり燃やし尽くされる。岩が結界にぶつかって粉々に砕ける。触れられるほどの距離を溶岩が流れているのに、まるで熱を感じない。
マグマが収まった。炭化した吸血鬼の腕はすぐさま柔らかい肌に治っていく。
「ああ霧雨魔理沙。咲夜はし損なったか」
吸血鬼は朽ちた枝に宝石を実らせたような骨だけの翼をはためかせる。ブロンドヘアに10歳ほどの幼い端正な容姿。そして幼さに似つかわしくない、マネキンのような無表情をしていた。
「でさ、博麗霊夢。人間を庇いながら私と戦うわけ?」
「ええ」
「咲夜はどこに行ったの?」
無言。
「霧雨魔理沙、あんたに聞いてるのよ」
「え?」
「最期くらい仕事をあげる」
いつの間にか巫女はナイフを掴み取っていた。背後を見ると咲夜が結界の中にいた。咲夜はこれでもかというほど眉間に皺を寄せ、視線を巫女に突き付けている。
「あの日から時が止まったようだったわ」
何本ものナイフが巫女に投げられた。そして全てが最小限の大きさの結界に弾かれる。咲夜の後方に円を成したナイフが何十本も浮遊する。
「殺人ドール」
切っ先が巫女に向き一斉に放たれた。巫女は飛んだ。布のように身を捻ってナイフの間隙を突いていく。そしてメイドの傍まで迫り首筋に手刀を打ち込む。咲夜の身体は海藻のように緩み、倒れて気絶した。
「殺さないんだ」 と吸血鬼。 「殺すほどでもない? それとも今更罪悪感?」
巫女は何も言わない。
「上手に舞ってみてよ。お姉様も手を叩いて喜ぶわ」
宙に魔法陣が描かれる。陣から背丈の十数倍もの腕が生成され、結界を潰さんと押さえつける。
「魔理沙」 巫女が振り返る。 「逃げるわよ」
「逃げる……?」 へたり込んだままの魔理沙。 「どうやって?」
「抱えてくわ。それなら守りやすい」
「できるの?」
「掴まって」
手が差し伸べられる。魔理沙は言われるがまま巫女の手を掴む。
魔法陣の腕が結界の硬度に負け砕け散る。その瞬間結界が消え巫女は飛び出した。
吸血鬼は後方に跳んだ。そのまま襖を突き破りながら飛んで巫女と距離を保つ。手に出現する宝石のついた矛。巫女は無数の針を放つが矛で弾かれる。
向けられる矛先の魔法陣。土砂。襖も柱も薙ぎ倒しながら、山をひっくり返したような土石が屋内を埋め尽くした。巫女は顔色1つ変えず結界を張り、土石流の中を進撃する。
土砂が開けた眼界で腕を前に伸ばす吸血鬼。結界に向け膨大な白いガスが放たれる。ガスは場の温度が急速に奪い取り、そこら中に霜が張り巡った。そして青い火柱が結界に放射された。射線上の霜は瞬時に融解し、結界に張り付いた氷も一切が蒸発する。しかし結界には傷1つない。巫女は肌を指す寒暖差をも気にせず猛進し陰陽玉を構える。ポーカーフェイスの吸血鬼に肉薄して――。
巫女はふっと速度を抜き身を反らす。畳を突き破って伸びた槍が巫女の前髪を切り裂いた。その隙に吸血鬼は再び距離を離す。靡いて落ちる黒の前髪。額から流れる血が巫女の目にかかる。
「随分奥手になったね? その人間のせい?」
矛先から膨大な水が天井の梁を巻き込みながら巫女に迫った。再び結界に囲まれ津波から守られる。
津波で天井は崩壊し三日月が3者を照らした。吸血鬼は月を背に浮上する。吸血鬼の掌に魔法陣が何十層も描かれ、重ねられる。そして魔法陣が閃き、魔力の球が形成された。目が焼けつくほどの激しく白い光を放つ魔球。もう片方の手にも同じ白球。吸血鬼は2つの球を躊躇なく近付けていく。
「我は死なり、世界の破壊者なり」
吸血鬼は球を融合させた。瞬間、視界が暗転した。音が聞こえなくなって、空気の巡りも止まった。あらゆる外部の情報がシャットアウトしてしまった。
「結界よ。そこにいて」
落ち着いた声が聞こえる。魔理沙はどうしようもできず、そこに座り込むしかなかった。ただ結界内の巫女の気配と、誰かの乱れた息遣いだけを感じ取っている。
結界が解かれ五感を取り戻す。開けた目には、荒野が映った。2人の足場だけを残し黒炭の更地が漠々と広がっている。まるで魔理沙がいた屋敷は初めから存在しなかったかのように。
熱を纏った旋風が吹き荒れ身体を焼かれた。遠目には天に昇るほどの大火災が見える。火災から舞い降る雪のような灰燼。空を見上げる。空一面を覆う巨大な暗雲。地表から細い柄が伸び、目に収まらないほど大きな傘広がる。まるで、キノコの形をした雲。魔理沙は言葉を失った。
黒煙の中に人影がある。焼き爛れ垂れ下がった胴体の皮膚と、ケロイドに覆われた手足と顔を携えて、無表情の吸血鬼が佇んでいる。吸血鬼は溶けて流れ出た眼球を片手で受け止める。
「最大効果域、ある程度指向性を持たせたんだけど。放射能が出てたらどうするつもりだった?」
平然と吸血鬼は話した。巫女は吸血鬼を見据えている。後ろからは表情を窺えない。
「因みに幻想郷に一切被害はないよ。この場所は特別に拵えた空間。召使いたちも避難済み」
灰を踏み締め、近付いてくる吸血鬼。
「どうするのって聞いてるのよ。博麗の巫女」
巫女はじっと立っている。熱風で吹き上がる黒髪と紅白の装束。手元を見ると、青筋が浮き出ていた。巫女は僅かに口を開く。
「こんなものを人に使うのか」
フランは目を見開いた。見開いたまま、ビデオテープが途切れたように動かなくなる。しばらくして、瞼が伏せられていった。皺が寄せられる眉。広がる鼻の穴。せり上がる下瞼。上へと吊られる口の端。フランはケロイドの塗れの顔で、笑っているとは到底思えない目つきで、焦げた白い歯を見せた。
天を割る落雷を結界が防いだ。空気を震わす轟音に魔理沙は思わず耳を塞いだ。
稲妻の光を受ける中、巫女は魔理沙を顧みる。その眼には跪いた魔理沙が映る。
巫女が消えた。そして吸血鬼の前で陰陽玉を振りかぶっている。吸血鬼は一拍遅れて魔法陣を描くも間に合わず、陰陽玉に身体を両断された。
瞬時に魔理沙の前に現れる巫女。魔理沙の手を再び掴み、飛んだ。日が暮れるように速く真っ直ぐ、吸血鬼に背を向けて、動けない魔理沙の手を掴んで飛んだ。
魔理沙は切れた凧のように身体を揺らめかせる。黒煙の中を突っ切っていたが口元に結界が張られたおかげで吸わずに済んでいた。そんな魔理沙の頭の中ではあることだけを考えている。私は逃がされている。巫女に手を引っ張られ、逃がされているんだ。
黒煙で金髪が煤だらけになる。魔理沙は何も話せなくなった。
「許して」
巫女は前を見ながら独り言のように呟いた。
巫女の勘が導いたのか出口の魔法陣が見えてくる。