亡き王女の為の讃美歌   作:ヨマオ

12 / 15
第5話 マスタースパーク

 捨食の魔法。捨虫の魔法。人を捨てる魔法。

 夜の虫は透き通った翅を打ち鳴らすのを止め、朝の鳥が明朗で軽躁な声で鳴き始める。霧雨魔理沙は毛布の中の温かい暗闇に包まりそれを聞いていた。魔理沙はそこで何分か何時間かじっとした後、泥のようにベッドから這い落ちた。

 捨食の魔法。捨虫の魔法。人を捨てる魔法。

 のろのろと歩いて冷蔵庫を開き、籠から食パンを取り出す。水分が飛んで石のように硬いパン。もう片方の手で籠の中を漁る。パンは1個もなくてカスばかりが指に張りつく。私の命もこれまでかと、乾いた笑いをした。いや笑ってなどいない。指を擦り合わせカスを籠に落とす。

 食卓につき食事が終わる。机に零れたカスを手で集めてゴミ箱に払い落とす。そして人の熱気の残る使い古したソファに、身を投げ出して毛布に包まった。再び生温かい闇を纏い身体を沈めていく。けたたましく鳴くアブラゼミの合間で、魔理沙を目を開けたまま眠った。

 それからまた何分か何時間かが経った。毛布から目を出す。降りた幕のように舞う埃の先に本棚がある。その一番隅に置いてある1冊の分厚い洋書。魔へと導く本、魔導書。家を囲う木という木から、蝉が忙しなく鳴いている。魔導書を見詰め続ける。

 捨食の魔法。捨虫の魔法。人を捨てる魔法。

 今更じゃないか。私は何でも捨ててきた。家業、家族、姿、名前。これ以上、何を躊躇う必要があるんだ?

「やらなきゃいけないだろ」

 布団を捲る。裸足でフローリングを歩き、本の前まで行く。滲むインクで書かれた「捨食の魔法、捨虫の魔法』というタイトル。泉の水を掬い取るように本を手に取った。革の表紙と黄ばんだページ。折り重なったずっしりとした重みを片手にぶら下げ歩き出す。狭い廊下を散らばる書類を踏まないように縫って書斎に至る。固いクッションの椅子に腰かけ、デスクのランタンに魔法で火を点ける。

 ほとんど暗記した概要と詳細のページを飛ばし、使用方法のページを開いた。数十ページにまたがる章には魔力生成式と詳細な魔法陣が描かれている。

 捨食の魔法。捨虫の魔法。人を捨てる魔法。

 魔法を使うには2つの工程が必要だ。魔力を生成する工程と、魔法陣を描く工程。

 そんなに難しい魔法じゃない。複雑な式は必要ないし、技量も基本的なレベルで良い。準備物も容易に収集できる魔法石のみ。簡単だ。私は簡単に、食べたり寝たり老いたりすることから解放される。不完全な人間を捨てられるんだ。今まで何故これをしなかったのか、不思議なくらいだ。魔理沙は笑った。

 一通りの手順を読み込み、作業を始めた。キャビネットを開き、黒翡翠のような魔法石と彫刻セットを取り出す。格子状に座標が書かれたマットを敷き、中心に石を据える。石が転がらないようつまみながら、彫刻刀で削り、ヤスリをかけ、適当な形に成形していく。石は少しでも欠ければ機能しなくなってしまう。指の先まで神経を尖らせて、時折汗を拭って、彫刻とヤスリ掛けをする。

 成形できた石を握り締める。ここからは石に魔力を流し込む作業。これも少しの調整ミスで魔力が漏出してしまう繊細な作業だ。魔力の多寡がないよう、できるだけ一定に魔力を流し続ける。2時間ほどかかって、石が魔力で満たされた。

 掌中の艶のない漆黒の石。しばらく眺めた後、飲み込む。数分後、体内で魔力の揺らぎを感じ始める。今まで感じたことのない異質な魔力。

 感慨に浸ることもなくマットを脇に片付け、ペンと紙を用意し魔法陣の模写を開始する。ベースの外縁を書き、中心に向かって細かい模様を書き足していく。定規とコンパスで正確に長さを測り、ペン先が震えないよう抑えながら、慎重に線を引く。インクが滲んだ個所は、修正液を毛ほどにつけて太さを統一する。心臓の鼓動に手先を狂わされないよう、力強くゆっくりと描いていく。ただの図形のような、意味のある文字のような、不可解な記号。記号を組み合わせ出来上がっていく、幾何学的な模様。

 そして魔法陣は完成した。1枚の薄紙の中心にそれは描かれている。修正液でボコボコした美しくない円陣。

 指先に石の魔力を集める。血管に沿って指が熱くなっていく。

 この指で魔法陣に触れればすぐに魔法が起動する。数秒で私の身体は変質し、食べたり寝たりする必要がなくなって、老いることすらなくなる。私は人を捨てる。

 簡単なことだったんだ。変なこだわりを持たず、初めからこうしていれば良かったんだ。そうすれば時間を無駄にせずに済んだのに。……過ぎることを考えても仕方ないな。これからのことを考えよう。

 指を魔法陣に近付けていく。

 これで私には膨大な時間ができる。非生産的な営みを押しのけて全ての時間を魔法に捧げられる。おまけに寿命も延びて若い身体のままいられて、一石何鳥か数えられないほどだ。私は魔法使いとして強くなれる。より魔法使いの高みに近付ける。今までを丸ごと捨てて。

 魔法陣に触れても痛みや感覚の変化はないらしい。最初は魔法が成功したのか疑問に思うだろう。ただ数時間経って、空腹と眠気がないことに違和感を覚えるだけだ。

 人を捨てて最初の内は体質に慣れないとも書いていた。癖で、必要もないのに食事をしたり、布団に潜ったり。でも、その習慣もいつかは消える。生理現象がないことが当たり前になって、人間の生活は薄れ、忘れていく。

 これでいいんだ。人を失ったとしても、私は強くなれるんだ。私の望む姿を実現できる。自由になれる。これでいい。これでいいんだ。

 胸の中で魔力が渦巻いている。心臓が飛び出しそうなほど拍動している。魔法陣に近付けていく、人差し指の先。自由。魔法陣に触れかける。

「でも私はさ、魔理沙が」

 声が聞こえて、途切れた。聞き馴染みのある声だった。昔から嫌というほど聞いて、耳に染み込んだ声。

「……霊夢?」

 振り返る。しかし誰もいない。部屋のどこを見回しても他人の痕跡なんかなかった。

 幻聴か? 慣れない魔力のせいで体調が狂ってしまったのだろうか。それとも連日眠りが浅かったから疲れたのだろうか。……気持ち悪いな。早く終わらせてしまおう。

 魔法陣に向き直る。

「あ」

 いつの間にか魔法陣の中心が滲んでいた。乾き切っていないインクと紙に、くしゃりと握ったような小さな皺がある。

 顔全体が燃え上がるように熱くなった。

 魔法陣は繊細だ。一部でも形が崩れれば魔法は起動できなくなる。修正液を、いや、紙が湿っているので難しい。また初めから描くしかないのか。石の効力もじきに切れる。石のヤスリ掛けや魔力の充填もまた振り出し。石のストックもなかった。調達しに行かなければならない。また全てが初めから。

 鼓動が一層早まって、魔理沙は唇を噛み締めた。そもそも何で湿っているんだ。机が濡れていたのか。汗でも落ちたのか。顔を触ってみる。

 頬の辺りに水滴があった。小さな小さな一粒の滴。取るに足らない一滴。

 腹の底から何かが沸き立ち頭が沸騰した。こんなもののために私の時間が失われたのか。こんな汗1つに私の努力が失われたのか。汗なんかに。

 汗、汗なら人を捨てれば抑制できるようになるんじゃないか? 生理現象を管理できるなら汗だって……。もう嫌だ。早く終わらせてしまいたい。早くこんな身体捨ててしまいたい。早く準備して人を――。

 顔に置いたままの手に、また生温かい感触が触れた。それどころか滴は絶えず手を濡らしていく。一体何だっていうんだ。どうして止まらないんだ。どこから流れてくるんだ。源を突き止めようと、指を上にスライドさせた。

 指の腹で濡れた線を辿っていく。顎のラインから、頬肉を押し上げ頬骨を超える。そして滴が溢れる源で指を止めた。眼窩にちょうど引っかかる辺り。柔らかい起伏のある場所。止めた場所は、涙袋だった。

「え」

 唐突に、氾濫する唾液の甘さを、詰まる耳の閉塞を、鼻の奥に溜まる涙の匂いを、潤んで霞む視界を、感じた。あらゆる身体の感覚が、堰を切ったように一気に蘇った。

 反対の頬にも触れてみる。湿っている。それどころか、今も絶え間なく滴が溢れている。

「何で……」

 顔中の筋肉が弛緩して、腕がだらりと垂れ下がった。まるで詰め込めるだけ詰め込んだヘリウムガスが抜け出していくように、全身の力が抜けていく。

「私……泣いてる場合じゃ……」

 背筋を保てなくなって腰が曲がっていき、腕の中に突っ伏した。交差した腕で反響する、鼻を啜る音、乱れた呼吸、嗚咽。1人だけの暗闇で、ただただそれを聞いていた。

 

 家の外では朝の晴れとは打って変わって、重々しい雲が立ち込め雨が殴りつけていた。壁の薄いこの家では中まで雨音が鮮明に聞こえ雨の匂いが漂ってくる。魔理沙は廊下の壁に背を預け、毛布を肩にかけてぼんやりとしていた。格好は朝から着替えていない寝間着で化粧はしておらず髪さえ結んでいない。

 魔理沙の視線の先には、見つけたばかりの小さな天井の染みがある。染みを眺めながら、掃除しなきゃだとか他にも染みがないか探そうだとか、そんな建設的なことは考えていない。単に、ああ染みがあるなと受け止めているだけ。思考は全く発展しなかった。

 机に目を移す。何時間もかけて書いた魔法陣の紙がそのまま置いてある。今の魔理沙には、魔法陣を描き直す気力も、森へ魔法石を調達しに行く身体もなかった。力も精力も抜け切ってしまって立ち上がる気も起きなかった。涙と共にいろいろと流れ出てしまったのだろうか。

 人を捨てることに興味を失ったわけではない。むしろ自由のためには最善の手段だと確信している。だから早く行動に移さなければならない。自由になるため身体に鞭を打って動かなければならない。でも動けない自分に対して不思議と悪い気はしなかった。むしろ心が洗われたような澄んだ心持だった。そして、その心に嫌悪感を抱いていた。

 頭と心が正反対を向いていた。それでいて綱引きなどしていない。夢に捲し立てられることも夢を捨て去れと諭されることもなく、どこにも進めない私を許容していた。もうどうしたらいのか、分からなかった。

 再び天井を仰ぐ。何で私は泣いたのだろうか。涙を認識する直前、霊夢の声が聞こえた気がした。「でも私はさ、魔理沙が」。甘味処で掛けられた言葉だ。私はあの言葉に何を感じたのだろうか。はっきりとは覚えていないし、向き合おうともしなかった。あの時私は霊夢の話を遮って席を立って……。

 霊夢はあの時、「ごめんなさい」と言った。立ち去る私の背に、ごめんなさいと声を掛けた。森でもそうだ。食われた死体を前に膝をついて謝っていた。屋敷で私の手を引いて逃げた時も謝った。霊夢は何度も謝っていた。何度も、何度も。

 木の玄関がノックされた。玄関の方を振り返る。

「霊夢?」

 肩から布団が落ちる。魔理沙は床に手をついて立ち上がった。足に溜まった血が一気に流れ出して軽い立ち眩みを起こす。壁に寄りかかって眩暈が収まるのを待った後、ふらふらとした足取りで廊下を進む。

 催促のノックはなく、扉の外の訪問者は静かに魔理沙を待っている。魔理沙は廊下を通り抜け、鍵を外し、銀のドアノブを押して玄関を開いた。

「こんばんは、ミセス魔理沙」

 意識の外れから声が聞こえた。霊夢の声ではない。いやに落ち着きのある、幼い声。首を下に落とす。目に飛び込んできたのは、レースがあしらわれた雨傘、ナイトキャップと紅いリボン、艶やかなブロンドヘア、紅いドレス、カラフルな宝石の付いた骨の翼。

「今宵は生憎な夜ね」

 フランは見た目相応の子供らしくにっこりして、異形の羽根を揺らした。降り頻る雨の中、宝石が擦れて軽い音を立てた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。